あらゆる職業(仕事)には、適不適があります。ある人が、どんな「職業」に向いているかを決める、その判断(基準)はどこでなされるのでしょうか。「適正」をいかにして見つけるか、どうも、それは、その職業について経験を得るより方法はなさそうにも思うのですが、いかがでしょうか。こんな埒(らち)もないことを、延々と愚考してきました。結論があるわけではないでしょうし、結論があったとしても、必ずしも結論通りにいくとは限りません。その職に長くいると、また異なった「基準」が生まれてくるに違いないからです。教職というけれど、学校という組織で出世しなければ、何事も始まらないとかなんとか。だから、これはあくまでもぼく自身の勝手な雑談でしかないのです。雑談ではありますが、ぼくはそれを一つのよりどころにして、教育や教師、つまりは「教職」を考えてきた人間です。
教職に向いているかどうか、その判断基準の一つが「器用と不器用」だと言いたい気がします。一口に「器用」「不器用」といっても、実はそんなに単純ではないから、面白いというか、困ることになるともいえるのです。「あの人は器用だ」とか、「あんな不器用な人間は見たことがない」とか、いろいろと世間では言いますが、どっこい、「器用のなかに不器用」があり、「不器用の人間にも器用な部分」があるのが現実で、いったい、人は他人の「どこを見るか」、その「見方」「見どころ」、あるいは「目のつけどころ」といいますか、それはそれで、一つの才能といってもいいし、愛情といってもいいでしょう。特に教師の立場に立つと、どんな目で子どもを見るか、それは決定的に大事な姿勢ではないですか。何事も真二つには割り切れないところに、妙味もあり、長短あわせ持つのが人間で、長所が短所でもあるというように、一筋縄ではいかないところを納得できるかどうか。
だから、これは一般的にはそういわれているという域を出ない話です。紆余も曲折もある割には、結論は陳腐であるに決まっていると、初めに断っておきます。いったい、教師になる人はどんな人間か。これもさまざまで、「子ども大好き」人間は当然であるとして、中にはびっくりするような(ことでもないか)教師がいました。ぼくの高校時代の物理の男性教師は、授業中に質問すると怒っていた。質問するなというのです。変わった教師でした。彼は自分でも「子どもは嫌いだ」とはっきりと言っていた。「物理」を熱心に学ばなかったから、彼の行状は深くは知らなかったが、友人の話によると、教師の許に「質問」に行くと、驚くほど丁寧に話してくれたというのです。これにはなにかの事情もあるのでしょうが、教師の側(すべての教師がそう考えるとは信じられないが)からすると、質問しなくてもいいようなものを訊く、これがいやだったのだと、ぼくは友人の話を聞いて理解していました。
冬
ながいこと考えこんで
きれいに諦あきらめてしまって外へ出たら
夕方ちかい樺色かばいろの空が
つめたくはりつめた
雲の間あいだに見えてほんとにうれしかった(八木重吉)(第二詩集『貧しき信徒』所収、以下同じ)
だから、その意味では「物理」の教師は「不器用」だったともいえます。何において「不器用」だったのか、人(生徒)との付き合いにおいて、でした。果たしてこんな人が「教師」に向いているのか、いないのか。大事な問題ではないでしょうか。「子どもが好き」であるということと、「児童・生徒が好き」とはちがう。学校の中に入ると、子どもだって変容します(させられます)から、子どもらしい部分を隠してしまうこともある。ぼくにはなかなかわからないので、単なる想像ですが、「学校優等生」というのは、自分自身を見せていないんじゃないですか。自分の姿を隠している、いわば「猫をかぶっている」、そんな気がします。これは猫にとっては「濡れ衣」で、断じてそんなことはないと言いたいところですが、殆んどの辞書は「本性を隠していて、うわべは大人しそうに振る舞う」とあります。これは「猫」ではなく、人間の事でしょ。だから、正確には「人間をかぶる」と言い直すべきです、と猫のために「雪冤」「雪辱」をここでしておいて。さて、「優等生」です。
「優等生は何をかぶって」いるのですかと、ぼくは聞いてみたい。何かかぶっているつもりが、それがだんだんと「本性」なってしまう。本当(本性)は反抗的である、あるいは獰猛であるにもかかわらず、表面上は取り繕って「おとなしい」振りをしている、そうしているうちに、それが本性になる、(そんなことはありえないよ、という声がします)一面において、学校教育は人間を変えてしまうこともある、まさに、学校が行っている「矯正(強制)教育」の面や要素を否定することはできないから、かぶっているうちに、かぶりものが取れなくなる、それが本性になるということもあるのでしょうね。ぼくは、実際に「学校優等生」から、こんな話を何度も聞きました。教師をだます、たぶらかすのは手もないことだ、と。いい子ぶっていればいいんだから。本当はいい子じゃないのにいい子ぶる、それが「優等生」なんだと、ぼくは直観しましたね。(いつだって、「いい子ぶる」それが優等生なんでしょうか)「権威」に弱いということかもしれないし、教師が有している「評価権」に、膝を屈してしまうんですね。そんな人は驚くほどたくさん存在しているに違いありません。そんなところではなく、もっと違った(大事な)ものに対して「膝を屈して」ほしいね。
ぼくにはそれはできなかったから、「優等生」でなかったし「優等生」は好きではなかった。器用であることが求められるときには器用になれるということですね。切り替えができる、つまりは「要領がいい」ということになる。あるいは、一時期はやった言い方では「空気を読む」ことが上手な人、それが優等生かもしれない。ここで質問すると、教師は喜ぶ、そういう瞬間を見逃さない人は「器用」だし、優等生候補かもしれない。猫をかぶっているか否かはともかく、「学校優等生」が教師になったら、教員優等生になるでしょうね、きっと。だんだん教職が長くなると「昇進」するタイプかもしれない。管理職になることはいけないことではなく、誰かがならなければ、職場が成り立たないわけですね。だから、なりたいから、ならせたいから「管理職に」、それは大いにありうることです。あるいは、それと同時に、授業に、もっといえば、子どもに興味や関心を失ってしまうのかもしれない。
なかなか本題に入らないで、自分でもイライラしています。「本題」とは?どこから話しますか。学校というのは、一つの「現場」でもあります。特に教室はその典型です。ここでいう「現場」とは、文字通りの「フロント」で、実際に「教育が行われている場」を指します。現場に対して、仕事を管理する部門があります。管理と実務という便宜的な区分を使えば、教師の行う仕事は「現場仕事」でしょう。教師の仕事にとって、とても大事なのは「不器用」であることだと、あえて言いたいんです。異論が出ることは百も承知で、なおそう言いたい。器用と不器用は、あるいは「要領がいい」と「要領が悪い」と言い換えることもできます。そして、言うまでもなく「現場」でも、器用であり要領のいい「人材」が求められるのでしょう。
一人の卒業生について書いてみます。もう卒業して何年になるでしょう。いただいた年賀状には「長男、十八歳」とありましたから、少なくとも二十数年が経過したはずです。今では三人の子どもさんの「母ちゃん」で、文字通り、「子どもが子どもを産んだ」と言えるような、そんな卒業生でした。「子どもから親が生まれる」のであって、「親から子どもが生まれるのではない」という意味です。(子どもができて、初めて「母」になるということ)この連想でいえば、「子ども(児童・生徒)から教師が生まれる」のではないですか。最初から教師である人はいないという道理です。その卒業生は女性で、仮にOさんと呼びますが、愛称は「アッキー」ですね。何人かの「アッキー」が周りにいますが、彼女は、今は遠く離れた山梨に住んでおられます。在学中からなかなかの「武勇伝」というのか「蛮勇伝」というのか、そんな逸話をふんだんに残されています。卒業後、「現場」である中学校に入ります。長野は更科地方でした。ここでも就任早々から「武勇」を残されています。(この部分については、わずかですが、どこかで触れています。「参勤交代」で、薩摩から徒歩で江戸にやってきたと授業で話し、すかざす「どうして船を使わなかったんですか」と子どもから訊かれ、「まだ舟が発達していなかったから」と発言。ナイーブであり、度胸もあったね。その廉で「校長室」に呼び出された、という話)
お化け
冬は
夜になると
うっすらした気持になる
お化けでも出そうな気がしてくる(八木重吉)
彼女は「素晴らしい教師になる」可能性を持っていました。教師になるといいなと考えてはいましたが、如何せん「教科の能力の欠如」が著しかった。それを危惧はしていましたが、採用され、教員としてデビューしました。そばにいたかったですね。怖いもの知らず、知らぬが仏、さらには「無知ほど強いものはない」、そんな場面を次々に作り出しては、「校長室」への呼び出しを食らいます。現場に何年かいて、確か結婚のために退職し、東南アジアのある国に連れ合いさんと赴任されます。そこに数年おられて、帰国した。おそらく「子育て」に奮闘されていたと思います。この間も、毎年、新年の挨拶状はいただいていました。早く「現場」に戻るといいなあ、と遠くからそっと見ていました。
今年の賀状には「今、中学校で働いている」とありましたので、よかったなと安心しました。今でも「校長室通い」をしているかどうかわかりませんが、現場にいるのが何よりだと安心(変な話、なんでぼくが安心するのか)。彼女は決して優等生ではなかったし、今だってそうでしょう。本人が認めると思う。また同じように「要領は悪かった」部類です。何かに一所懸命になるのですが、「何か」を選ばないところがありました。学生時代、たくさんお酒を飲んで泥酔、気が付いたら、まったく知らないマンションのエレベーターの床で寝ていたという。こんな「要領の悪い」レベルを通り越したことを四六時中起こしていたようです。そんな彼女に、ぼくは大いに期待をしたのには理由があります。優等生ではないことと要領が悪いこと、つまりは不器用の代表のような人間だったから、教師になったら、時間をかけて、「大化け」するなと確信していたのです。このような「教師期待論」を、ぼくに抱かせた人(卒業生)は、ほかに数人いました。(どこかで書くかもしれません)まだ、「大化け」まではいっていないようですが。
器用とか要領がいいという基準、あるいは「価値観」は、学校でもとても大事にされています。学校は時間で物事を進めていますから、要領の悪いものは「排除」されかねない。試験時間が決められているので、その中で「解答する」ことを求められます。それでも、ぼくは不器用や不得要領の(要領を得ない)教師や子どもたちに大きな期待を持つのです。与えられた課題を隙なくこなす、それは大事でしょうが、そこから生まれる「解答」は面白くない、安全パイみたいなもので、独創性も固有性も生まれないでしょう。時間がかかっても自分なりに何かを生み出そうとする、それは真に大切な資質でしょう。でも、ともすれば学校はそれを認めないどころか、劣ったものというレッテルを張るのです。ぼくは、間違いなく「劣等生」でしたから、この「事情」はよくよく分かる。「アッキー」には、子どもに負けない「不器用さ」があった(何年も会っていませんから、今はどうでしょう、変わっていないという確信があるのですが)。彼女が器用になったら、もう終わりですね。教頭や校長にはなれるかもしれないけれど、「要領の悪い教師」「不器用な教師」でなくなると、ある傾向の子どもたちは途方に暮れるのではないですか。
「一を聞いて十を知る」と言いますが、その「十」の中身は何でしょうか。ここに、次のような「言葉」が出て来ました。「一をきいて十を知る勉強に踏み出しましょう。一を聞いて十を知る、それも自由学園の皆がもっている大きな希 いの一つです」[羽仁もと子「教育三十年」1950)つまり、現場では「一を聞いて十を知る」、そんな子どもを育てたいというのですね。果たしてどうでしょう。つまりは「聡明」「利発」が重く評価されているということです。ぼくは、その反対ですね。一を聞いて一がわかる、あるいは、かろうじて二がわかりかける、これで十分であって、先回りしてテープを切るような、それは「ウサギを起こさないで、こっそりと先にゴールインした亀」のような、抜け駆けの功名を得るような人間を作る教育ではないですか。そんな子ども育ては、ぼくに言わせれば、不可能です。「わかってほしい」と期待するのはわかりますが、それが教室で(あるいはそれ以外のところで)出来るということがあり得るでしょうか。「一を聞いて一を知る」という、一の中身こそが問題にされる必要があります。「一を聞いて、一がわかる」、そんな力が子どもの中に育つだけもすごいこと。
これは論語の言葉ですが、孔子が言いたかったのは、「いち【一】 を 聞(き) いて=十(じゅう) を[=万(ばん) を]=知(し) る[=悟(さと) る](「論語‐公冶長」の「回也、聞レ 一以知レ 十。賜也、聞レ 一以知レ 二」による) 非常に賢くて理解がはやいことの形容 。少しのことを聞いて、他のすべてのことがわかる。(精選版日本国語大辞典)顔回という図抜けた才能の持ち主に比して、「わし(孔子)だってかなわん」と、その秀逸さを言っただけで、それをまねよとは言わなかったと、ぼくは考える。
冬日(ふゆび)
冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなってしまった私をいたわってくれる(八木重吉)
話がそれました。「要領が悪い」というのは、「じっくりやる」「ていねいにする」ということで、決して非難されるべきではありません。教師自身が要領が悪いといって、よそから文句を言われそうですが、要領のいい悪いの内容を吟味していくと、じつは要領がいいというのは、表面だけを取り繕っていることがほとんどです。もっと言えば、こうすれば「褒められる」から、そうする要領を知っているということです。ぼくはよく「草取り」の例を出します。庭の草を取ってくれと言われ、一人は早々と終って、しかも実にきれいに草を刈った。ところが要領の悪い子は、まだ草をむしり取っている、物置か何かの陰になっているところまで、実にていねいに草を除いているのです。人が見るところ、見えるところだけではなく、草のあるところに神経を使っているのでした。この例でいうなら、断然「要領の悪い子」を、ぼくは支持します。こういう「手を抜かない」「見えを狙わない」、そんな姿勢が人間を正直にするんじゃないですか。
教室という「現場」でも同じことが求められるといいたい。教師自身が器用であり、要領がいいと、他からの評価が高くなりそうなところに関心が向くような気がします。同じ教室で「できる子」と「できない子」が生まれるというところに、現場をあずかる人間とおしての責任を感じなければ、それは教育(現場仕事)ではなく、事務(管理)だな、ぼくはそんなことばかりを言い続けてきました。「アッキー」がどんな「現場」に立っているか(坐っているかも)、近々、会ってみようかという気になるのです。「器用」という言葉を否定はしません。でも、その言葉にはほとんどの場合に「貧乏」という語が付加されているのではないでしょうか。そうです、「器用貧乏」。ぼくは自分が、一面では「器用」であるとは思いますが、他面では「器用貧乏」であることを、生涯の憾みとしてきましたから、こんな余計なことを言うのです。教科書を理解し、教師の話をよく飲みこんで、器用に試験で「高い得点をとる」のは悪くはありませんが、もしそれが「(別の)現場」であったら、どうでしょう。仮に一人の大工さんが、建築の本を読み、先輩の話を聞いて、その結果、国家試験には合格するかもしれませんが、果たして、人が安心して住める「家が建つ」かどうか。
禍福は糾(あざな)える縄の如し、といいます。「禍」ばかりでもないし、「福」ばかりでもない、言うならば、それらは交互にやってくる、それが人生なんだというのでしょう。それと同様に、器用と不器用は、一人の人間の中に併存してあるんですね。器用一点張り、あるいは不器用そのもの、そんな人間は存在しません。しかし気を付けたいのは「器用がいのち取り」になるかもしれないし、「不器用だからこその、器用の意味」をいつだって考え続けたいということです。人間には長所も短所もある。それは、しかし別のものではなく、出方(現れ方)によっては、長所は短所に、短所は長所になるということであって、そこに「教育の妙味」があるんじゃないですか。長所を伸ばし、短所を抑えるというけど、考え違いをしないといいですね。子どものどこを見るか。
教育は、いったいどんな仕事なのか、教職は「現場」でどんなことをする職業なんですか。こんな問題を考え続けることが、ぼくには生涯の課題のようになりました。ああ!なんと不器用な。(下手に「器用」な面もあるから、困るんだ。器用に考えようとするんですよ。)
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