深刻な問題を川柳の風儀で解いてみると

 明窓・安全保障もサステイナブルに 15年くらい前だったと思う。健康と環境配慮型の生活を志向するライフスタイル「ロハス」が注目された頃、「サステイナブル」(持続可能)という言葉がよく使われた。環境や資源問題を論じる際のキーワードで、今のSDGs(持続可能な開発目標)と似たような感じだった▼少子高齢化と人口減少が続く日本では、この持続可能性が一番のポイントのはずなのに、政治に長期的な視点がないのが気掛かりだ。明るくない未来は見たくないし、それでは票にならないからだろうか▼国立社会保障・人口問題研究所が参考として公表している2066~2115年の推計によると今世紀末、つまり78年後の日本の人口は出生、死亡とも中位で推移した場合でも約6千万人に半減。高齢化率は38%台。15~64歳の人口は6割減の約3千万人になる▼そんな未来が来るのなら、発想を変えた施策が必要になる。近隣国の脅威を理由に防衛力の強化が進む安全保障も例外ではない。生産年齢人口の6割減が見込まれる中で将来、装備をどう維持・更新していくか。さらに要員をどう確保していくかも課題だ▼国民負担を増やしたり、社会保障費を削ったりすることはできても、要員として外国人を頼むことはできまい。このまま防衛力の強化一辺倒で進んでいいのかどうか。勇ましさを演出するのではなく、22世紀を見据えた安全保障の在り方を考えてほしい。(己)(山陰中央新報・2021/02/21)

総務省の人口動態調査(2020年1月1日時点)(同年8月5日発表)による。(⇧・⇩)

 今から五十年後とか百年後に、この島の状況がどうなっているか、数字や統計でいろいろと予測を立てることは可能であっても、自分の生活の視野に入れて考えることは相当に困難である、という以上に、それはあまりにも「現実離れしている」と、殆んどのものは考えると思われます。国立研究所の予測では、七十八年後の総人口は、今日の半分以下になるとされている。ぼくも、この問題に関しては、昔からいろいろな資料によって考えようとはしてきましたが、自分の視野には、じゅうぶんに入れることはできなかった。少子高齢化が言われだし、すでに五十年以上が経過します。  

 この長い時間の経過の中で、それに対するさまざまな政策や提言がなされてきましたが、何一つ有効な手立ては実行されなかったと言うべきでしょう。その理由は何か。いくつも挙げられるでしょうが、もっとも単純かつ強力なものは、「自分の生きているうちの問題」にはならなかったからです。自分が死んだ後のことをとやかく言っても始まらないという、一種の「刹那主義」でしょうか。あるいは現実第一という人生観からでしょうか。

 さらに言えば、本来なら、このような長いスパンで考えるべき課題や政策を立てるべき任に与るとされる「政治」「行政」が、まことに残念ですが、もっとも「刹那主義」に罹患しているということでしょう。しばしば、ぼくは「教育は国家百年の計」だと言ってきましたが、そんな「歴史の検証」に耐えうる計画や政策が立てられたこともなければ、もちろん計画が実施に移されたこともありません。土台、それはあり得ないことだからと言ってしまえば、それで終わりで、身も蓋もない話になります。「健康で、長生きを」、それが多くの人間の願いであり、人生の喜びの、一つの到達点でもあるでしょう。そのささやかな願いが実現しそうだという、その前に経済的な保障もなければ、社会保障や医療制度の耐用年数の短さが、案に相違して、「不健康で、長生き」という嬉しくも楽しくもない「人生行路」、いや「暗夜行路」を、多くの人たちに歩ませるという悲惨な結果につながっているのです。

 政治に限らず、何事においても「お題目主義」が幅を利かせてきたのが実際でした。その典型は「無謀な戦争」(すべからく、「戦争」とは無謀なもの)でありました。古くは「臥薪嘗胆」から、「鬼畜米英」に至るまで、内側の問題から目をそらそうとばかり、批判や非難の矢が自らに向かわないためにも、つねに「敵国」を捏造し、人民の関心を「外敵」に向ける、それが政治家の常套手段だった。理由も根拠もよく明らかにされないままで「敵基地攻撃能力」を連呼し、「防衛力増強」を弁ずるという、政策以前の愚策を大声で喚くのが政治家の「本領」だと錯覚している、頓珍漢が多すぎはしないか。そんな政治家が陸続として「叢生」するという、ここにもまた、選挙の機能不全(といいたいですね、選挙民の意識の低さが根っこにあります)がこれまでも続いたし、これからも続くのでしょうか。

 この人口減少や高齢化の問題は、この島社会に独特の問題ではなく、多くの先進国に共通してみられる現象です。高齢化が進行し、少子化がそれに重なると、当然のように「人口減少」が生じます。加えて、医療や社会保障の、以前に比しての制度的充実は、この人口減少傾向を促進させることになるのは当然です。先にも少し触れましたが、三十年以上も前に、国連の統計(推計)で、日本が二千八十年だったかに「人口六千万人」と出ていたことに驚愕した記憶があります。半世紀前から、人口動態の帰趨は判明していたと言えます。しかし、その間、具体的に有効な政策を立てなかったのは、「政治の貧困」「将来世代への無責任」といったことが起因しており、「自分の生きている間は」という、言ってみれば「将来世代」に対する無責任の横行が、かかる事態を生んでしまっているのです。

 現実には大きな課題や難問に逢着しているにもかかわらず、相変わらず、目先の利害や、当面する問題に忙殺された振りをして、なすべき政治行政を執行しなかったというほかありません。「わが身一人の人生」ではないと言いますが、それはこんなところにも明らかな形で生じています。しばしば「孫子のために」「後世の人々のために」と言われてきましたが、いまではそんな遠見をする余裕も責任も欠けてしまっているのでしょう。しかも、すでに問題の現実化は進行しているのです。

  世界の四大文明が衰退し、滅んでしまった理由は何だったか。いくつもの理由が挙げられますが、ぼくは「都市化」が第一だったと考えています。特定の都市に人口が集中すると、どのような問題が生まれるか。それはこの島社会の、ここ半世紀の現実を見ればわかろうというもの。一極か二極か知りませんが、ある地域に異常に人口が集中することで、さまざま問題が引きおこされます。いわば社会生活の「生態系」の崩壊過程が始まってしまうのです。詳しくは述べませんが、この社会の現状は、いろいろな観点からも「危険水域」に達していることは、さまざまな指標の明示するところです。

 現状は決して楽観できない事態であることは、誰しもが認めるところです。この問題の解決には大方の関心が集まって初めて事態への対処すべき方向が見えるのかもしれません。一人にとっても、一国にとっても、あまりにも大きすぎる問題ですが、それに目を奪われないで、また極めて深刻な事態の進行でもありますが、それにも腰を引かないで、言ってみれば、「川柳の精神」(柳に風、つまりは「風流」に)で、足元の課題から、ゆっくりとていねいに、やれる範囲で見すえていきたいと念じているのです。

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 「器用と不器用のない交ぜ」が人間

 あらゆる職業(仕事)には、適不適があります。ある人が、どんな「職業」に向いているかを決める、その判断(基準)はどこでなされるのでしょうか。「適正」をいかにして見つけるか、どうも、それは、その職業について経験を得るより方法はなさそうにも思うのですが、いかがでしょうか。こんな埒(らち)もないことを、延々と愚考してきました。結論があるわけではないでしょうし、結論があったとしても、必ずしも結論通りにいくとは限りません。その職に長くいると、また異なった「基準」が生まれてくるに違いないからです。教職というけれど、学校という組織で出世しなければ、何事も始まらないとかなんとか。だから、これはあくまでもぼく自身の勝手な雑談でしかないのです。雑談ではありますが、ぼくはそれを一つのよりどころにして、教育や教師、つまりは「教職」を考えてきた人間です。

 教職に向いているかどうか、その判断基準の一つが「器用と不器用」だと言いたい気がします。一口に「器用」「不器用」といっても、実はそんなに単純ではないから、面白いというか、困ることになるともいえるのです。「あの人は器用だ」とか、「あんな不器用な人間は見たことがない」とか、いろいろと世間では言いますが、どっこい、「器用のなかに不器用」があり、「不器用の人間にも器用な部分」があるのが現実で、いったい、人は他人の「どこを見るか」、その「見方」「見どころ」、あるいは「目のつけどころ」といいますか、それはそれで、一つの才能といってもいいし、愛情といってもいいでしょう。特に教師の立場に立つと、どんな目で子どもを見るか、それは決定的に大事な姿勢ではないですか。何事も真二つには割り切れないところに、妙味もあり、長短あわせ持つのが人間で、長所が短所でもあるというように、一筋縄ではいかないところを納得できるかどうか。

 だから、これは一般的にはそういわれているという域を出ない話です。紆余も曲折もある割には、結論は陳腐であるに決まっていると、初めに断っておきます。いったい、教師になる人はどんな人間か。これもさまざまで、「子ども大好き」人間は当然であるとして、中にはびっくりするような(ことでもないか)教師がいました。ぼくの高校時代の物理の男性教師は、授業中に質問すると怒っていた。質問するなというのです。変わった教師でした。彼は自分でも「子どもは嫌いだ」とはっきりと言っていた。「物理」を熱心に学ばなかったから、彼の行状は深くは知らなかったが、友人の話によると、教師の許に「質問」に行くと、驚くほど丁寧に話してくれたというのです。これにはなにかの事情もあるのでしょうが、教師の側(すべての教師がそう考えるとは信じられないが)からすると、質問しなくてもいいようなものを訊く、これがいやだったのだと、ぼくは友人の話を聞いて理解していました。

冬
ながいこと考えこんで
きれいに諦あきらめてしまって外へ出たら
夕方ちかい樺色かばいろの空が
つめたくはりつめた
雲の間あいだに見えてほんとにうれしかった(八木重吉)(第二詩集『貧しき信徒』所収、以下同じ)

 だから、その意味では「物理」の教師は「不器用」だったともいえます。何において「不器用」だったのか、人(生徒)との付き合いにおいて、でした。果たしてこんな人が「教師」に向いているのか、いないのか。大事な問題ではないでしょうか。「子どもが好き」であるということと、「児童・生徒が好き」とはちがう。学校の中に入ると、子どもだって変容します(させられます)から、子どもらしい部分を隠してしまうこともある。ぼくにはなかなかわからないので、単なる想像ですが、「学校優等生」というのは、自分自身を見せていないんじゃないですか。自分の姿を隠している、いわば「猫をかぶっている」、そんな気がします。これは猫にとっては「濡れ衣」で、断じてそんなことはないと言いたいところですが、殆んどの辞書は「本性を隠していて、うわべは大人しそうに振る舞う」とあります。これは「猫」ではなく、人間の事でしょ。だから、正確には「人間をかぶる」と言い直すべきです、と猫のために「雪冤」「雪辱」をここでしておいて。さて、「優等生」です。

 「優等生は何をかぶって」いるのですかと、ぼくは聞いてみたい。何かかぶっているつもりが、それがだんだんと「本性」なってしまう。本当(本性)は反抗的である、あるいは獰猛であるにもかかわらず、表面上は取り繕って「おとなしい」振りをしている、そうしているうちに、それが本性になる、(そんなことはありえないよ、という声がします)一面において、学校教育は人間を変えてしまうこともある、まさに、学校が行っている「矯正(強制)教育」の面や要素を否定することはできないから、かぶっているうちに、かぶりものが取れなくなる、それが本性になるということもあるのでしょうね。ぼくは、実際に「学校優等生」から、こんな話を何度も聞きました。教師をだます、たぶらかすのは手もないことだ、と。いい子ぶっていればいいんだから。本当はいい子じゃないのにいい子ぶる、それが「優等生」なんだと、ぼくは直観しましたね。(いつだって、「いい子ぶる」それが優等生なんでしょうか)「権威」に弱いということかもしれないし、教師が有している「評価権」に、膝を屈してしまうんですね。そんな人は驚くほどたくさん存在しているに違いありません。そんなところではなく、もっと違った(大事な)ものに対して「膝を屈して」ほしいね。

 ぼくにはそれはできなかったから、「優等生」でなかったし「優等生」は好きではなかった。器用であることが求められるときには器用になれるということですね。切り替えができる、つまりは「要領がいい」ということになる。あるいは、一時期はやった言い方では「空気を読む」ことが上手な人、それが優等生かもしれない。ここで質問すると、教師は喜ぶ、そういう瞬間を見逃さない人は「器用」だし、優等生候補かもしれない。猫をかぶっているか否かはともかく、「学校優等生」が教師になったら、教員優等生になるでしょうね、きっと。だんだん教職が長くなると「昇進」するタイプかもしれない。管理職になることはいけないことではなく、誰かがならなければ、職場が成り立たないわけですね。だから、なりたいから、ならせたいから「管理職に」、それは大いにありうることです。あるいは、それと同時に、授業に、もっといえば、子どもに興味や関心を失ってしまうのかもしれない。

 なかなか本題に入らないで、自分でもイライラしています。「本題」とは?どこから話しますか。学校というのは、一つの「現場」でもあります。特に教室はその典型です。ここでいう「現場」とは、文字通りの「フロント」で、実際に「教育が行われている場」を指します。現場に対して、仕事を管理する部門があります。管理と実務という便宜的な区分を使えば、教師の行う仕事は「現場仕事」でしょう。教師の仕事にとって、とても大事なのは「不器用」であることだと、あえて言いたいんです。異論が出ることは百も承知で、なおそう言いたい。器用と不器用は、あるいは「要領がいい」と「要領が悪い」と言い換えることもできます。そして、言うまでもなく「現場」でも、器用であり要領のいい「人材」が求められるのでしょう。

 一人の卒業生について書いてみます。もう卒業して何年になるでしょう。いただいた年賀状には「長男、十八歳」とありましたから、少なくとも二十数年が経過したはずです。今では三人の子どもさんの「母ちゃん」で、文字通り、「子どもが子どもを産んだ」と言えるような、そんな卒業生でした。「子どもから親が生まれる」のであって、「親から子どもが生まれるのではない」という意味です。(子どもができて、初めて「母」になるということ)この連想でいえば、「子ども(児童・生徒)から教師が生まれる」のではないですか。最初から教師である人はいないという道理です。その卒業生は女性で、仮にOさんと呼びますが、愛称は「アッキー」ですね。何人かの「アッキー」が周りにいますが、彼女は、今は遠く離れた山梨に住んでおられます。在学中からなかなかの「武勇伝」というのか「蛮勇伝」というのか、そんな逸話をふんだんに残されています。卒業後、「現場」である中学校に入ります。長野は更科地方でした。ここでも就任早々から「武勇」を残されています。(この部分については、わずかですが、どこかで触れています。「参勤交代」で、薩摩から徒歩で江戸にやってきたと授業で話し、すかざす「どうして船を使わなかったんですか」と子どもから訊かれ、「まだ舟が発達していなかったから」と発言。ナイーブであり、度胸もあったね。その廉で「校長室」に呼び出された、という話)

お化け
冬は
夜になると
うっすらした気持になる
お化けでも出そうな気がしてくる(八木重吉)

 彼女は「素晴らしい教師になる」可能性を持っていました。教師になるといいなと考えてはいましたが、如何せん「教科の能力の欠如」が著しかった。それを危惧はしていましたが、採用され、教員としてデビューしました。そばにいたかったですね。怖いもの知らず、知らぬが仏、さらには「無知ほど強いものはない」、そんな場面を次々に作り出しては、「校長室」への呼び出しを食らいます。現場に何年かいて、確か結婚のために退職し、東南アジアのある国に連れ合いさんと赴任されます。そこに数年おられて、帰国した。おそらく「子育て」に奮闘されていたと思います。この間も、毎年、新年の挨拶状はいただいていました。早く「現場」に戻るといいなあ、と遠くからそっと見ていました。

 今年の賀状には「今、中学校で働いている」とありましたので、よかったなと安心しました。今でも「校長室通い」をしているかどうかわかりませんが、現場にいるのが何よりだと安心(変な話、なんでぼくが安心するのか)。彼女は決して優等生ではなかったし、今だってそうでしょう。本人が認めると思う。また同じように「要領は悪かった」部類です。何かに一所懸命になるのですが、「何か」を選ばないところがありました。学生時代、たくさんお酒を飲んで泥酔、気が付いたら、まったく知らないマンションのエレベーターの床で寝ていたという。こんな「要領の悪い」レベルを通り越したことを四六時中起こしていたようです。そんな彼女に、ぼくは大いに期待をしたのには理由があります。優等生ではないことと要領が悪いこと、つまりは不器用の代表のような人間だったから、教師になったら、時間をかけて、「大化け」するなと確信していたのです。このような「教師期待論」を、ぼくに抱かせた人(卒業生)は、ほかに数人いました。(どこかで書くかもしれません)まだ、「大化け」まではいっていないようですが。

 器用とか要領がいいという基準、あるいは「価値観」は、学校でもとても大事にされています。学校は時間で物事を進めていますから、要領の悪いものは「排除」されかねない。試験時間が決められているので、その中で「解答する」ことを求められます。それでも、ぼくは不器用や不得要領の(要領を得ない)教師や子どもたちに大きな期待を持つのです。与えられた課題を隙なくこなす、それは大事でしょうが、そこから生まれる「解答」は面白くない、安全パイみたいなもので、独創性も固有性も生まれないでしょう。時間がかかっても自分なりに何かを生み出そうとする、それは真に大切な資質でしょう。でも、ともすれば学校はそれを認めないどころか、劣ったものというレッテルを張るのです。ぼくは、間違いなく「劣等生」でしたから、この「事情」はよくよく分かる。「アッキー」には、子どもに負けない「不器用さ」があった(何年も会っていませんから、今はどうでしょう、変わっていないという確信があるのですが)。彼女が器用になったら、もう終わりですね。教頭や校長にはなれるかもしれないけれど、「要領の悪い教師」「不器用な教師」でなくなると、ある傾向の子どもたちは途方に暮れるのではないですか。

 「一を聞いて十を知る」と言いますが、その「十」の中身は何でしょうか。ここに、次のような「言葉」が出て来ました。「一をきいて十を知る勉強に踏み出しましょう。一を聞いて十を知る、それも自由学園の皆がもっている大きないの一つです」[羽仁もと子「教育三十年」1950)つまり、現場では「一を聞いて十を知る」、そんな子どもを育てたいというのですね。果たしてどうでしょう。つまりは「聡明」「利発」が重く評価されているということです。ぼくは、その反対ですね。一を聞いて一がわかる、あるいは、かろうじて二がわかりかける、これで十分であって、先回りしてテープを切るような、それは「ウサギを起こさないで、こっそりと先にゴールインした亀」のような、抜け駆けの功名を得るような人間を作る教育ではないですか。そんな子ども育ては、ぼくに言わせれば、不可能です。「わかってほしい」と期待するのはわかりますが、それが教室で(あるいはそれ以外のところで)出来るということがあり得るでしょうか。「一を聞いて一を知る」という、一の中身こそが問題にされる必要があります。「一を聞いて、一がわかる」、そんな力が子どもの中に育つだけもすごいこと。

 これは論語の言葉ですが、孔子が言いたかったのは、「いち【一】 を 聞(き)いて=十(じゅう)を[=万(ばん)を]=知(し)る[=悟(さと)る](「論語‐公冶長」の「回也、聞一以知十。賜也、聞一以知二」による) 非常に賢くて理解がはやいことの形容。少しのことを聞いて、他のすべてのことがわかる。(精選版日本国語大辞典)顔回という図抜けた才能の持ち主に比して、「わし(孔子)だってかなわん」と、その秀逸さを言っただけで、それをまねよとは言わなかったと、ぼくは考える。

冬日(ふゆび)
冬の日はうすいけれど
明るく
涙も出なくなってしまった私をいたわってくれる(八木重吉)

 話がそれました。「要領が悪い」というのは、「じっくりやる」「ていねいにする」ということで、決して非難されるべきではありません。教師自身が要領が悪いといって、よそから文句を言われそうですが、要領のいい悪いの内容を吟味していくと、じつは要領がいいというのは、表面だけを取り繕っていることがほとんどです。もっと言えば、こうすれば「褒められる」から、そうする要領を知っているということです。ぼくはよく「草取り」の例を出します。庭の草を取ってくれと言われ、一人は早々と終って、しかも実にきれいに草を刈った。ところが要領の悪い子は、まだ草をむしり取っている、物置か何かの陰になっているところまで、実にていねいに草を除いているのです。人が見るところ、見えるところだけではなく、草のあるところに神経を使っているのでした。この例でいうなら、断然「要領の悪い子」を、ぼくは支持します。こういう「手を抜かない」「見えを狙わない」、そんな姿勢が人間を正直にするんじゃないですか。

 教室という「現場」でも同じことが求められるといいたい。教師自身が器用であり、要領がいいと、他からの評価が高くなりそうなところに関心が向くような気がします。同じ教室で「できる子」と「できない子」が生まれるというところに、現場をあずかる人間とおしての責任を感じなければ、それは教育(現場仕事)ではなく、事務(管理)だな、ぼくはそんなことばかりを言い続けてきました。「アッキー」がどんな「現場」に立っているか(坐っているかも)、近々、会ってみようかという気になるのです。「器用」という言葉を否定はしません。でも、その言葉にはほとんどの場合に「貧乏」という語が付加されているのではないでしょうか。そうです、「器用貧乏」。ぼくは自分が、一面では「器用」であるとは思いますが、他面では「器用貧乏」であることを、生涯の憾みとしてきましたから、こんな余計なことを言うのです。教科書を理解し、教師の話をよく飲みこんで、器用に試験で「高い得点をとる」のは悪くはありませんが、もしそれが「(別の)現場」であったら、どうでしょう。仮に一人の大工さんが、建築の本を読み、先輩の話を聞いて、その結果、国家試験には合格するかもしれませんが、果たして、人が安心して住める「家が建つ」かどうか。

 禍福は糾(あざな)える縄の如し、といいます。「禍」ばかりでもないし、「福」ばかりでもない、言うならば、それらは交互にやってくる、それが人生なんだというのでしょう。それと同様に、器用と不器用は、一人の人間の中に併存してあるんですね。器用一点張り、あるいは不器用そのもの、そんな人間は存在しません。しかし気を付けたいのは「器用がいのち取り」になるかもしれないし、「不器用だからこその、器用の意味」をいつだって考え続けたいということです。人間には長所も短所もある。それは、しかし別のものではなく、出方(現れ方)によっては、長所は短所に、短所は長所になるということであって、そこに「教育の妙味」があるんじゃないですか。長所を伸ばし、短所を抑えるというけど、考え違いをしないといいですね。子どものどこを見るか。

 教育は、いったいどんな仕事なのか、教職は「現場」でどんなことをする職業なんですか。こんな問題を考え続けることが、ぼくには生涯の課題のようになりました。ああ!なんと不器用な。(下手に「器用」な面もあるから、困るんだ。器用に考えようとするんですよ。)

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 しょせんこの世は しょせんこの世は一人なり 

 河北抄:豆腐の職人さんの話を本で読んだらこう書いてある。「豆腐の一番うまい時季ですか。新豆が上がってきて乾燥も安定した寒のころから3月ごろ。そのころは水も一番おいしいんですよ」▼そうすると、夏の冷ややっこはもちろんいいけれど、今ごろが本当は豆腐の味そのものがうまい季節らしい。小菅桂子さんの『味の職人こだわり辞典』に出ている頑固そうな職人さんの意見だ。▼先日、ちょっと遠くのスーパーに出掛けたら、よさそうな豆腐が売り場に。たぶん豆腐店のおやじさんだろう、作りたての豆腐を運び込んでいる。うまそうだと思って、試しに2パック買った。▼「はい、どうぞ。まず、そのまま食べてみて。それから塩かしょうゆ。オリーブオイルをかけてもうまい」。おやじさんがそう言うので、そうやって食べてみたら、大豆の味と香りが濃厚だ。▼原材料の表示を見ると、原料は宮城県の大豆・ミヤギシロメ。それから天然のにがり。うまい豆腐の発見は、豆腐好きにはこの上ない喜びだ。たまには遠くのスーパー巡りもいいものだと実感した。(河北新報・2022年02月19日)(ヘッダーは「冨嶽三十六景 礫川雪の且」葛飾北斎。東京富士美術館所蔵。今日の文京区後楽園ドーム近くの「茶屋」からの眺めだとされる)

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 「柳多留」に「禁酒して見れば興なし雪月花」という秀句があります。今までよく飲んでいた人間が、何かの都合で禁酒に及んだ。そんな時に友に誘われて「雪見と洒落ようじゃないか」と出かけてみたが、素面(しらふ)ではさっぱりでしたという場面でしょう。さすれば、雪月花を愛でるときの「酒」の効用とは何なのでしょうか。また、酒を飲んだことのない人に「雪月花」のよさがわからないとでも、酒飲みは言うのですか、まさか。このような「愚問」が二つ出てきました。それに加えて、コラム氏の「豆腐」を道具立てにすると、どんなことになるのか。

 さらに興覚めがするのですが、国内おける「大豆」の状況は、年々すごいことになっています。醤油や納豆や豆腐という、大豆を使う製品の大半は輸入に頼ることになっているし、その輸入先は、米国からがほとんどだとしたら、いったい豆製品はどんな塩梅になって食卓にあがってくるのでしょうか、そんな悲惨とも喜劇ともいうような時代にぼくたちは、お酒や湯豆腐を嗜(たしな)み、語ろうとしているのでしょう。ぼく自身、もう湯豆腐はおろか、豆腐や納豆が「うまくない」と、食べなくなってどれくらいになるか。

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HHHHHHHHHHHHHH

 酒を飲まなくなったし、豆腐も納豆もめったに口にしなくなった理由は、いくつかありますが、酒に関しては、いい歳をして酒で躓(つまず)くー 病気やけが、その他で他人に迷惑や世話をかけることがとんでもないことだと、身に染みて感じられるようになったので、それは、自分としては恥かしい(受け入れられない)と、さっぱりやめた。大豆製品がまずくなったというのは、かなり前から舌が嫌がっていたが、酒の勢いでごまかしていた。でも、酒が胃に入らなくなると、舌も素面になるので、とても受け付けなくなったのです。外国産がどうだこうだというのではなく、まず味が悪い、それはすぐにわかります。次いで、臭いです。じつは、ぼくは牛肉はそれほど好きではないのですが、食べるなら国産派で、どうして外国産がいけないか、それは消毒液や防腐剤、その他の薬品の臭いが強烈すぎるからで、あれは食べ物に伴っていい臭味ではないと、ぼくの感覚が拒絶するのです。それはともかく、そこには輸入にかかわり、食品衛生法やその他、もろもろの「柵」が絡んでいて、国民(消費者)の健康第一などは論外にして、貿易取引国の言いなりになっている国策が、この島の食糧事情を著しく阻害し、かつ国民の健康を危殆に瀕する状態に遭遇させているのです。

 これは無粋な話ですが、まず状況・事情をお断りした上うえで、ぼくの愛する「湯豆腐」の句を何首か。これらは、まだまだ国産の大豆が、著しく健在・健康であった時代の作品です(多分、例外はないと思います。後ほど、もう少し調べておきます)。ということは、少なくとも、食料に関してだけでも、まだ政治的にはそれなりの判断力を持った政治家や官僚がいたという証明にもなります。俳句が生命を保ち得るか否か、随分と離れているように見えますが、政治家や官僚のセンスや政治力によるところが大であるという、ばかばかしい話になりますね。それぞれの句について、駄評は止めておきます。どうぞ、ご随意に。

OOOHHH

・湯豆腐やいとぐち何もなかりけり 石原八束 ・・・これは男二人の、粋でない待ち合わせの図でしょうね。

 ◎石原八束 (いしはら-やつか)(1919-1998)=昭和後期-平成時代の俳人。大正8年11月20日生まれ。石原舟月の長男。飯田蛇笏(だこつ),三好達治にまなぶ。「内観造型論」をとなえて新境地をひらき,昭和36年俳誌「秋」を創刊,のち主宰。51年「黒凍(くろし)みの道」で芸術選奨。平成10年7月16日死去。78歳。山梨県出身。中央大卒。本名は登。著作に「駱駝(らくだ)の瘤(こぶ)にまたがって―三好達治伝」「飯田蛇笏」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

・湯豆腐の湯気に心の帯がとけ 金原亭馬生(十代目)・・・志ん生さんの長男、志ん朝さんの兄だった。

 ◎ 金原亭馬生(10代) (きんげんてい-ばしょう)1928-1982 昭和時代の落語家
昭和3年1月5日生まれ。5代古今亭志ん生の長男。昭和18年父のもとに入門。むかし家今,古今亭志ん朝をへて志ん橋で真打となり,24年10代を襲名。「大坂屋花鳥」「お富与三郎」などの人情噺を得意とした。戦前派戦後派の橋渡し的存在で,落語協会副会長をつとめた。昭和57年9月13日死去。54歳。東京出身。本名は美濃部清。(同上)

・湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事 小沢昭一 ・・・俳号は「変哲」でした。かたい塩せんべいが大好物だったとか。

 ◎ 小沢昭一(おざわ-しょういち)(1929-2012)=昭和後期-平成時代の俳優。
昭和4年4月6日生まれ。早大在学中から演劇活動をおこない,昭和26年俳優座の「椎茸(しいたけ)と雄弁」で初舞台。28年「広場の孤独」で映画デビュー。以後今村昌平監督の「にあんちゃん」「人類学入門」など多数の映画に出演。放浪芸の採集でも知られ,「日本の放浪芸」などをあらわした。平成16年森繁久弥のあとをつぎ,博物館明治村の3代目村長。18年朝日賞。19年菊池寛賞。昭和48年にはじまったラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は1万回をこえて放送された。平成24年12月10日死去。83歳。東京出身。(同上)

・湯豆腐のまだ煮えてこぬはなしかな 久保田万太郎 ・・・浅草生まれの粋人で、荷風の少し年下の文人。

◎ 久保田万太郎(くぼた-まんたろう)(1889-1963)=大正-昭和時代の小説家,劇作家,俳人。明治22年11月7日生まれ。「三田文学」から出発。大正6年小説「末枯(うらがれ)」でみとめられる。昭和12年文学座創立に参加。戦後俳句誌「春灯」を主宰。32年文化勲章。下町情緒と市井の人々の哀歓をえがいた。昭和38年5月6日死去。73歳。東京出身。慶大卒。俳号は傘雨。作品に小説「春泥」,戯曲「大寺学校」など。【格言など】湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(妻の死後によんだ句)(同上)

・しょせんこの世は しょせんこの世は一人なり  ・湯豆腐やいのちのはてのうすあかり           (二句とも、万太郎さんです)

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 湯豆腐の湯気あつあつとほのじろく(無骨)  万太郎さんには、どこかしら懐かしい感じをぼくは持っています。とても難しい人のようでしたが、それはそれ。猫が好きな方でした。生涯の最後の方は、たった一人で、「しょせんこの世は一人なり」と、時を刻んでおられたんですね。 

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 人に勝れりと思へる人は、内心に若干の咎有り

  一道(いちどう)に携(たずさ)はる人、あらぬ道の筵(むしろ)に臨(のぞ)みて、「あはれ、我が道ならましかば、かく余所に見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常の事なれど、よにわろく覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな、羨まし。などか、習はざりけん」と言ひて有りなん。我が智をとり出でて、人に争ふは、角(つの)ある物の、角を傾(かたぶ)け、牙ある物の、牙を噛み出だす類(たぐひ)なり。

 人としては、善に誇らず、物と争はざるを、徳とす。他(た)に勝(まさ)ることの有るは、大きなる失(しつ)なり。品(しな)の高さにても、才芸の勝れたるにても、先祖の誉(ほま)れにても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心に若干(そこばく)の咎(とが)有り。慎みて、これを忘るべし。烏滸(おこ)にも見え、人にも言ひ消(け)たれ、禍(わざわ)ひをも招くは、ただ、この慢心なり。               

 「一道にも、真(まこと)に長じぬる人は、自(みづか)ら、明らかに、その非を知る故に、志 常に満たずして、終(つい)に物に誇るる事なし。(「徒然草 第一六七段」)(参考文献・島内既出)

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 ここで、兼好さんは、深遠な哲学を述べているのでもなければ、仏教の悟道にかかわるような面倒で無味乾燥に過ぎない説教をしてるのではありません。なんでもない、きわめて当たり前の生活の過ごし方であり、生きる姿勢について、思うところ(もちろん、彼自身の経験に基づいて)語っているにすぎないのです。しかし、それこそがもっとも難しい生き方なのだとは、言外のこころでしょう。

 一つの仕事についている人が、それとは別個の仕事人のところで、「これが、自分の仕事なら、黙って外から見てはいないのに」という、あるいは心に思うだろう。だが、それは間違いであって、よくないことおびただしい。自分の知らない仕事を羨ましく思うなら、「羨ましい、どうして自分はこれを学ばなかったのか」というだけでいい。自分(の知識)をひけらかして他人と競うのは、角や牙を持った獣が、それを武器に争うようなもの。これはいつの世の、誰のことを言っているのか、それがわからなければ、兼好さんは読まないほうがいいでしょう。いつの世にも「兼好」という人は存在していると気づけば、「古の兼好さん」にしてみれば、書いて(言って)おいた甲斐があろうというもの。

 人間として「善行を誇らない」「他人と言い争いをしない」それはそれで立派なふるまい。次の指摘は驚きではないですか。「他に勝ることの有るは、大きなる失なり」この言葉を、まっすぐに受け入れられるなら、まさしく、兼好さん的であり、心身ともに立派(健康)だといえるという。「人品(身分)」の高さ、「才芸の優秀さ」、「先祖(家柄)の名誉」などなど、他人よりも優れているとして、自分を誇ろうとする人間は、それを自慢げに口外しないにしても、心の内は汚れているんだというのですよ。才能を測る尺度は何ですか。家柄を誇る基準は何ですか。身分の高低はなにが決めるのか。そんなものは、束の間の、あるいは仮初(かりそめ)の「仕来(しきた)り」や「慣習」に過ぎないのではないか。歴史を知れば、だれにでもそれがわかります。その仮初で束の間の「価値観」に身を委ねるというのは、人生を粗略・粗末にしている言いたいのです。生きる道(方法)は、そんなところには開かれていないからです。

 謙虚(謙遜)というのは、どういうことか。「心にわだかまりのないこと。ひかえめで、つつましやかなこと。へりくだって、つつましやかにすること。また、そのさま」(精選版日本国語大辞典)ぼくに一番欠けているところだから、いやになるほど、死にたいほどにわかるんです。自分が他人に誇れるもの、それが家柄や身分だというのか、偏差値が高いことがそんなに自慢すべきことか。それよりも、「謙虚・謙遜」であることが、どれほど人間として美しいか、それを兼好さんは言うのですね。彼が「謙虚・謙遜」であったかどうか、大いに怪しいと、ぼくは想う。でも次に彼が言うように、そんなこと(他に、自己を誇ろうとすること)は取るに足りない。身を慎んで忘れてしまえ、と。

  「俺が!俺が!」という、まるで「オレオレ詐欺」のような自己宣伝・自己主張は「バカ丸出し」だし、他人からも批判・非難されるのがせいぜいだという。「禍(わざわ)ひをも招くは、ただ、この慢心なり」と、今この時代に兼好さんが生きていれば、喉を涸らして言い続けるでしょうか。いいや、「バカは死ななきゃ治らない」というでしょうか。しかし、それにしても、八百年の昔、彼の生きた時代に、兼好は自らの体験そのものを、自他に向かって語っているのです。さすれば、この八百年は、人間精神の「向上」や「成長」にとっては、どんな時間だったのかと愚考します。どんな人間も、(間違いや失敗も含めて)「一」から始めるんですね。

 「一道にも、真(まこと)に長じぬる人は、自(みづか)ら、明らかに、その非を知る故に、志 常に満たずして、終(つい)に物に誇るる事なし」ーー兼好さんの「面目躍如」というべきでしょうか。これは兼好自身の「告白」だと、ぼくは読んできました。じゃあ、何において「一道に長じたか」というのではないのです。彼がいいたいのは「どんな仕事でも、その道に長じ(通じ)ようとする人」であって、「長じた人」ではないのです。道を究めようとする人は、どんな人も「自分の欠点・短所」を知っているから、他人がいくら誉めそやしても、自分をごまかさないのです。「常に満たずして」、まだ足りない、まだ欠けている、そんな心がけを持ち続けてるからこそ、いつだって「俺が!俺が!」という慢心の入り込むすきのない人、それが「長じぬる人」であると言う。そうありたいと念じつつ生きていた人にして、この言あり、その態度あり。それをさして、ぼくは、兼好という人の「面目躍如」だと言いたいのです。もっと言うなら、「世に受け入れられなかった人」だったからこその表現だと受け止めたいです。「受け入れられたら、一巻の終わり」、それを知り抜いていた人でしたね。(ゆっくりと、お茶を飲みながら「自問自答」しています)

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 水をもれなく瓶から瓶へ移すようなものです

 ぼくの二十代は一九六十年代後半頃からでした。それからの三十年ほどはレコードに、それこそ現(うつつ)を抜かして過ごしました。まずはバッハからと、小曲大曲、なんでもござれの気分で、最後には教会音楽にはまり込んだのでした。そこから脱け出ることをするのかと思いきや、さらに教会音楽をさかのぼり、ついにはグレゴリアンチャントにまで行きつきました。それで何を得たか、そう聞かれて、ぼくは答えに窮するんですね。何も得ていないはずはないんですが、さりとて、具体的な成果は何も実感できないからです。音楽家になるのでもなく、音楽評論とかいう仕事につこうなどとも考えたわけではなかった。要するに、ただの音楽好き、愛好家でしたし、それに徹し切ろうとしていたのでした。

 よく自分でも思ったものです。こんなに音楽を聴くことが好きになるとは、思いもよらないことだった、と。ひたすらレコードを買い、それを飽きもしないで聴き続けたのです。物持ちはいいほうだと言われますが、手に入れた品物は、とにかく手元に置くという、一種の悪癖がありますから、本でもレコードでも溜まる一方でした。当時はLP(Long Play)盤が主流で、およそ一時間の録音が可能だった。新盤一枚は二千円ほど。ぼくは所帯持ちではなかったので、とにかくレコードを集めました。長く聴いていると、だれの何がいいとか悪いとか、いっぱしの音楽通のようなふりをしたくなるのですが、ぼくは、ただ一人で聴き続けた。これはどこかで触れましたが、ぼくには音楽鑑賞・音楽愛好の「先生」がいました。本業は耳鼻科の医師でしたが、とにかくよく聴いておられた。音響機器も素晴らしいものを備えていた。ぼくはそれこそ四六時中、この先生とレコードや演奏家についての談議に時間を忘れたほどでした。

 音楽鑑賞六十年、今ではあまりうるさいことは言わなくなりました。音が聞こえれば、何でもいいとは言いませんが、それでも目を覚ましている間は、何かしら音楽は流れています。リズムがいいんですね、ぼくには。うるさいのはダメ。この、一見無駄だったようなレコード鑑賞時代にも、ぼくはいろいろなことを考えていました。そのもっとも典型的なのは、日本の演奏家の問題でした。六十年といいましたが、この間、ぼくは日本人の演奏家を、ほとんど真面目に聴こうとはしなかった。もちろん作曲家についても同様でした。かなり「努力」はしたが、ついになじめなかったのはどうしてだろうと自問したものです。そこから明らかな結論が出たのではありませんでしたが、おおよその見当は尽きました。

 今でも見受けられますが、キリスト教の信仰を持っている人を紹介する際、「この人は敬虔なクリスチャン』などといいます。嘘つきで意地悪で、どうしようもないような人でも「敬虔なクリスチャン」です。ぼくの個人的な経験からいって、キリスト教徒ではあっても「敬虔な」とは、とても言えない人をたくさん知っていた。それと同じではないにしても、日本人の演奏家(大半はそう)は欧米に留学します。いわば「箔をつける」ためでしょうか。それは構わないのですが、演奏家を紹介する時、必ず「◎✖音楽大学を首席で卒業」と書かれたり、話されたりします。結婚式の「新郎新婦紹介のスピーチ」のようです。「主席」であろうが「優秀な」であろうが、その人の「演奏」が問題になるのであって、それは「付録」みたいなもの、しかし付録が「本たい」なんですね。、誰彼なくこうです。聴く前に、「先入観」を植え付けようという魂胆ですかね。

 これは実際に、ぼくが欧米の演奏家から聞いた話です(だから、相当前のこと、今もそうかどうかわかりません。そうでないことを願っている。これはけっして音楽の分野に限らないことです)。「日本人の留学生は優等生です。成績は上等、演奏は下等」というのは言い過ぎでしょうが、学校の成績が優れていると、音楽の演奏も優れているとはならないのは、だれも承知しています。「首席」を狙うのであって、「個性的な演奏」を狙うのではないという指摘には、ぼくは首肯しました。その通り、先生の言われたとおりに弾く、吹く、叩く、歌うことは上手だが、「自分流」がなかなか出てこないと。優等生の演奏は実につまらない。音大では大変な権威を持っていた教授だった、女性のピアニストの演奏を聴いたことがありました。Y.K.さん、その人の指から出てくる音の「平凡極まりないこと」(それ自体は、あるいは「非凡」なのかもしれない)に、ぼくは驚愕したのでした。ヴァイオリニストでもそうでした。こんなことを話せば終わりませんから、ここで止めます。ぼくが言いたいのは、「音楽教育の貧弱・貧困」が、「演奏の貧困」につながっているということ。(左はグレンー・グールド)

 これもまた、音楽教育に限定されないことでしょう。すべからく教育は、(そう言うと語弊がありますが、でもそうではないかとぼくは言いたいんですね)「寫瓶(しゃびょう)」なのではないか、ということです。その意図するところは、辞書にある如くです。だから、ある人のピアノ演奏を聴けば、だれに教わったかがわかるというものです。お弟子が弾いて、師を髣髴させるというのは、茶道や華道では不思議でもないのでしょうが、音楽はどうですか。お金を払ってまで、師のそっくりさんを聴こうという気が知れないと、ぼくは感じているんですね。身振り手振り、声色まで先生のそっくりさん(瀉瓶の弟子)を作ることが「教育の極意」となると、勘弁してくれませんかと、いいたくなります。

 自分の足で歩くというのは、たとえばなしです。しかしいつだって付き添いに支えられていると、ついには支えがないと歩けない。教えられることに慣れてしまうと、いつでも誰かに訊けば、教えてもらえると信じ込んでしまい、自分で考えることをしなくなるのです。三歳や五歳ならまだしも、三十や五十になっても「教えてもらえる」というのは、どうでしょうか。ぼくは、この島の状況の一端がここにも出ているようにも見えるんですね。あらゆることが「猶㵼瓶の如し」と言ったら、語弊があると言われますか。

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◎ しゃ‐びょう ‥ビャウ【瀉瓶・写瓶】=〘名〙 (「びょう」は「瓶」の呉音。一つのつぼから他のつぼへ水をそそぎうつすから) 語。師から弟子へ仏の教えの奥義(おうぎ)をあますところなく伝授すること。また、その弟子。しゃへい。※梁塵秘抄口伝集(12C後)一〇「其(その)かみこれかれを聴きとりて謡ひ集めたりし歌どもをも、〈〉遺る事なく瀉瓶し畢はりにき」(精選版日本国語大辞典)

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 ジレッタントとして、長い年月、飽きもしないで音楽を聴いてきて、ぼくが得た成果・効果はその程度でした。「自分流に」、あるいは「個性的に」、そんな演奏スタイルはこの島では御法度でしたね、何かにつけて。そのような島の学校教育の風潮に大きな風穴を開けてくれたのが、外国の演奏家の音楽鑑賞の経験でした。どんなものでも自分流というのではない。しかし、何であれ、「自分流」が当たり前だと思うのですが、そうではないから、教育は抑圧的であり、偏向している、実に作為・人工的であると言いたくなるのです。歩き方やものの言い方まで、放っておけば、その人らしさが出るのは不思議ではありません。しかし「これが正しい歩き方」「こう話すのが正しい」という教育を徹底して受ければ、教える側の影響を蒙るのは避けられないし、自己流・自力でやってみようとなると、自分の足で歩けなくなるんですね。「◎✖音楽大学を首席で卒業」と書かなくなれば、少しは演奏にも個性が出るのかどうか。(ぼくの音楽鑑賞は、決して「舶来趣味」ではなく、「邦人演奏家忌避」ではなかったつもりです。その証拠に、少数ではありますが、個性的すぎるような邦人演奏家(音楽家)もよく聴きます。(右はカール・リヒター)

 以下の【北斗星】の内容に刺激されて、余計なことを書いてしまいました。ぼくのところには、レコードが約五百枚(一番多かった時の四分の一程度)が残されています。その一枚一枚に、購入時やレコード針を下したときの感触(記憶)がこびりついています。大げさではなく、はっきりと思い出すことができます。その理由は何か。演奏家との「交流」とでも言いたい結びつき(「絆」なんかではありません)が刻印されているからです。ある人と深く交わると、その人のことを忘れることはないだろうという、そんな関係があったという証拠になるのでしょう。これは本を読んで生じる、作者との結びつきにも言えることです。ぼくは嫌なレコードは買わないし、聴かないことにしてきました。それと同じように本についても言えます。だから、一冊の本は、独りの作者・著者との結びつきを可能にしたかけがえのない証拠(機会)なんですね。(こんなことを書いていると、延々と、際限なくつづきそうです。深く付き合い、そこから多くのものを学んだ人について、いろんなことが次々に思いだされてきわまりない)

 かくも長い期間、音楽鑑賞の「泥沼」に、世間を知らなかったぼくを引きずり込んだのは、第一にカール・リヒター、第二にグレン・グールドです。一と二は、聴き始めた順番であって、引きずり込まれ方の強弱ではありません。どちらもバッハに深く関心を持っていたのは偶然だったか、それだけバッハには「音楽の心」があったということになるのでしょうか。この二人の演奏したレコードは、今でも、ほとんど所有しています。それを聴く機会がなお残されているかどうか、いささか不明ですが、実際に聴かなくても、ぼくの衰え切った記憶細胞の切れ切れに、かろうじて、彼らの「生みだした音の香り」がしみ込んでいるのが感じられてきます。ぼくにとっての「死」というのは、バッハが、それもグールドやリヒターの演奏で聴けなくなることだと断言してもいいことです。

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 【北斗星】「ちょっと前のものは古い。もっと前になると新しくなる」。県芸術文化協会の前会長、青木隆吉さん(84)の言葉だ。商業デザインに長年取り組んでいる。その経験から、はやり廃りは繰り返すと確信を込めて語る▼55年前には「大いなる秋田」(石井歓作曲)のレコードジャケットの制作を担当。8日付本紙「時代を語る」で、そのレコードを紛失してしまったと明かしたところ、秋田市や大館市、由利本荘市の読者から「譲りたい」と申し出があった▼そのうちの一人の男性はかつて吹奏楽部に所属し、家には他にも多くのレコードが眠っていると話した。既にプレーヤーは処分したものの、レコードには音楽と思い出が詰まっており、捨てられないでいるという▼この男性は家族に自分が元気なうちは処分しないようにと伝えている。ただ今回はジャケットをデザインした人に譲渡するのは意義があると考えたという。聴かなくなったレコードを捨てられずに持っている人は他にもいるだろう▼レコードは絶滅寸前だと思っていたら、人気が再燃しつつある。CD市場が縮小する一方で、売り上げを伸ばしている。購入者は聴くための手間やふくよかな音質、大きなジャケットのデザインを楽しんでいるようだ▼レコードに針を落とし、音が鳴り出すまでの間もいい。湯沢市内の工場ではレコード針が生産されており、かつてレコードに親しんだ世代としては何だかうれしい。久しぶりにレコードをかけたくなった。(秋田魁新報・2022/02/17)

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 火打石で火をつける、それは何を示すのですか?

 一日をどのように使うか、それで悩んでいる人がいる。そんなことに悩むなんてというのは、「人生の深層」に下りて行った経験のないものの「言い草」ではないかという気もしてきます。ぼくなどは、その意味では実に「ノーテンキ(能天気)」で生きて来たし、今でもそのままの天候状態が続いています。「のう‐てんき【能天気/能転気】=[名・形動]軽薄でむこうみずであること。のんきでばかげていること。また、そのさまや、そのような人。「—な人物」[補説]「脳天気」とも書く」(デジタル大辞泉)と解説されている、そのままの人間として、ぼくはここまでやってきました。「軽薄でむこうみず」「のんきでばかげていること」といわれると、まさしく「図星」とい感心するばかり、自分を言い当てられたという想いがします。

 ほぼ毎日、夜の十時に寝て、朝は五時前後に起きる。この辺鄙な場所に来てからは、その時間に、ほぼ狂いはありません。別に堅固な考えがあるのではなく、自分の体調・精神状態にあっていると愚考しているからです。残りの十五、六時間は何をしているか。これも特に決まりを持って過ごしているのではありませんから、日々、同じような「極単調」な明け暮れに終始しています。それで面白いかというと、人生は面白いものではないというほかありません。それを面白くすることにも疲れるだろうし、喜怒哀楽というか、悲観楽観がないまぜになって生まれたり消えたりするのが、どんなに平凡だと思われる生活にも起こってくるのです。それに応接するだけで疲れるし、だから、適度の睡眠時間、質のいい睡眠が、ぼくには必要であるというだけのこと。これは特技というのではないでしょうが、ぼくは不眠症になったことがない。寝むれないということがなかったんですね。それはさいわいなことでした。ぐっすり寝られれば、目が覚めている間も、なんとかつまずいたり転んだりしない過ごせそうですから。

 テレビも新聞もない状態で暮らしています。だから時間はゆったりと流れていきますね。まったくテレビは見ない(受信料は払っている、かみさんがテレビをよく観るから。新聞は購読していない。こんな時代ですから、ネットでニュースは溢れています。それもあまり見ない。たしかに、真偽定かでないものですが、それなりにえり分けていけば、なんとか、時代の流れや世相というものに置いて行かれることはないと思うし、置かれて行っても何の痛痒も感じませんね)。その代わりと言えますが、ネットで youtube をよく観ます。クラシックの音楽はよく聴く(観る)ほうです。これを聴いていると、何もできませんが、いい演奏会やリサイタルなどに出会うと、何時間でも堪能しながら時間を過ごします。また、落語も、故人になった人のものばかりですが、飽きもしないで聴き続けています。風格というもの絵になりますね。

 この三年ほど、時間を取ってみる機会が、とくに増えたのがyoutubeによる「小屋づくり」番組というのでしょうか。ログハウスやダッグアウト(掘っ立て小屋)の類を、独りで、あるいは親子や夫婦で作る、それをカメラで流すというものです。これ世界のいたるところで行われているのではないでしょうか。建築基準や建物制限などお構いなしの深い森の中や、人があまりは入り込まないような場所が多くみられます。それで永住するとか定住するのではなく、時間を見つけては都会から逃げ出して、泊りがけで「小屋づくり」を、それこそを楽しむ、(カメラで撮影するというのですから、今はだれかに見せたいために、そんな人がほとんどなのかもしれない)時代や社会が、規則や組織一点張りになれば、それだけ、そこから「逸脱したくなる」ということでもあるでしょう。

 ぼくはほぼ毎日見ています。それを見ていると、それを作っている「人間の姿」がそっくり映し出されているというように見えます。人間は、誰だって「モノづくり」に集中したいのでしょうね。大工さんではなく、素人が作る家は、それなりの設計図があるのでしょう。ぼくもほんとに小さい頃、山で枯れ木や枝を集めて、雨を凌ぐだけの覆いを作り、そこに食べ物を持ち込んで何時間か過ごしたことはよくありました。そんな仕草が、どんな映像からも見えてくるんですね。(上と左はカナダトロントの証券マンを辞めて、たった一人で森に入って家を作っているショウン・ジェームスさん、上は一軒目の家。それを手放し、二軒目を建築中、それが左。この録画はもっとも視聴者の多いもののひとつで、ぼくはほとんど最初から、すべてを見てきました。いまもなお、普請中です)

 小屋を作っている土地は誰のものか、などうるさいことを言えばきりがありませんが、他人の森や林の中で、枯れ木や枯れ枝を使ってしばしの「小屋掛け」生活を楽しむ、そんなところではないでしょうか。みんながそれぞれに楽しんでいるのがありありとうかがえるのが面白いんですね。物騒な大男が「トマトを刻む」「卵焼きを作る」「食器を洗う」、きっと家ではあまりしないようなことも、それなりに楽しんでやっている。森や林の中では、新鮮な酸素が「人間を素直に。自分で何事もする」、そんな人間に変えてしまうのでしょう。(下の写真は「Life in the Wild: bushcraft and outdoors)(この方の小屋づくりも、ほぼすべてを見ています)

 手間暇かけて⛺(キャンプ)を張る人もたくさんいます。熊や猪などの野生動物が暮らしている環境で、独りキャンプをしたい人間が、世界にはごまんといるんですね。中には、たった一人、女性だけで適地を探して雪の降る中をキャンプしているものもありました。それはどうでもいいんですが、ぼくが不思議というか、奇妙なことだと思うのは、テントの中に、寝袋にくるまって寝いる瞬間までをカメラで映してそれを他人に見せるという、その趣味(あるいは悪趣味)です。それを見せる人たちが(男女を問わず)ずいぶんたくさんいるんですね。それから男に負けじと小屋や家を作る女性がいても不思議ではありませんが、どうして水着みたいなものを着てカメラに収まるのか、見せたいというのか、見たいという男がいると確信しているからか。ぼくには興味がないので、何とも言わすに、見ないだけ。

 いわゆる「ユーチューバー」というのでしょうか、あからさまに、スポンサーがついている番組もたくさんあります。それには、ぼくは興味が湧かないですね。多種多様ですから、それぞれの関心に基づいてみればいいだけですが、そうしていくと、観たい番組は極めて少なくなってしまう。当然ではありますが、こんなyoutube の番組作りを、もう何年も行っている人々が、驚くほどいるということを発見しただけでも、見た甲斐はあったと言っておきます。

 毎日のように、そんな映像を見ていると、ぼくは鴨長明さん(1155??ー1216??」を想い出します。「方上記」の作者で、文字通り「方丈四方」の掘っ立て小屋(実は、それはプレハブでした)を自作し、引越しする際には、それをたたんで、リヤカーで運んだと言います。いまなら、さしずめキャンピングカーといったところか。 一丈(約三・〇三メートル)四方で、畳四畳半の広さがあったとされます。そこにはいろいろな家具や調度が備えられ、仏壇まで用意されたと言います。一千年近く前の「長明」さんは、いまでは、世界のいたるところに生息しているんですね。

 現代の「長明」は、目の色も髪の色も、多種多彩であり、それぞれの文化や伝統も「方丈庵」には十分に認められます。長明もそうでしたが、今風の「方丈記」を著そうとしている人々も、それが「終の棲家」というのではなく、何時間か何日間か、街中の喧騒を離れ、独り静かに、あるいはあわただしく「いのちの選択」をしているようにもぼくには見えます。電気もガスも水道もない、そんな環境を求めているというのも、時代に逆行していますが、なに、時代が追い付いて、今風顔負けの「電化生活」を謳歌することもできるんですね。時代が変わったという実感があります。

 太陽光パネルは、どんなところにも電気を利用可能にしてくれる、都会と変わらない生活がおくれるのです。それではいったい何のための「不便な暮らし」志向なのか分からなくなりますが。とにかく瞬時でいいから、都会を離れ、人事の柵(しがらみ)を断ち切り、いやな絆(きずな)」からも解放される、自分一人の、疑似孤独生活を求めて、いずこの世界も回転しているということでしょうか。(左は、京都河合社(ただすのやしろ)の「方丈庵」の復元です)(もとをただせば、誰だって自力で住まいを作っていたんです。その「自力」を奪われたのはどうしてだったか、だれが奪ったのか、家づくりに限らず、「自力喪失」の「自力」回復は、ぼくたちにとっては喫緊の課題でもあるのでしょうね

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小社会】キャンプブーム 東京から高知に移住した知人がソロキャンプにはまっている。軽の四輪駆動車を手に入れ、少しずつキャンプ用品を買いそろえ、暇を見つけては野外に繰り出す。この寒空に何を好きこのんでと思うが、当人は喜々として楽しそうだ。▼筆者の了見が狭いことを、元日の本紙が教えてくれた。キャンプは今や1990年代の第1次ブームを上回る盛況。かつての家族単位から、最近は友人や女性同士、知人のような単独行まで多様化が著しいという。▼高級車でオートキャンプ場に乗り付け、ブランド品でそろえた道具のご開陳に及ぶ一流志向もおれば、質実剛健を旨とする本格派、ひたすら料理に凝るキャンプ飯派とスタイルはさまざまだ。▼ソロキャンプで有名なのがお笑い芸人のヒロシさん。独りぼっちの「ぼっちキャンプ」がBSの人気番組になり、酒場探訪における吉田類さん的地位を確立した。コロナ禍にあって、密とは無縁のレジャーが好感されている。▼さてこのブーム、視点を変えれば、いずれ南海トラフ地震に直面する本県にとって歓迎すべきではないか。震災後の避難生活の難儀は先災地に明らかだが、いざその時、苦境を生き抜くサバイバル術をキャンプで楽しみながら身に付けた人がおればどんなに心強いだろう。▼知人は火打ち石を手に入れ、ほぐした麻ひもに火をつけるすべを学んだという。芸は身を助くというが、ひょっとして人を助くかもしれない。(高知新聞・2022/02/16)

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 仏教には「他力宗」と「自力宗」がよく知られていますが、それと同様に、庶民の生活にも自力と他力が混在しているのがあたり前でした。一種のブームといわれる「田舎暮らし」「農業への挑戦」など、これまでも都会志向便利至上主義への異議申し立てが各地でしょうじていました。昔も今も、都会から離れ、自らの足で立って生きることを求め、それを実践してきた人々がいました。今日の「野蛮思考・志向・嗜好」現象が何かの予兆であるというものではなく、一時の気まぐれと商業主義が合致しただけのことなのかもしれない。そういう目に見えやすい現象の深部では、微細な変化が人類全体の極小部分で起こっているようにも思われます。アメリカのある地域に「アーミッシュ」という極めて頑なな文明拒否生活集団があります。キリスト教の一派ですが、そのアーミッシュの生活も、今日では崩壊の度が深くなっているとも指摘されています。文明の波が勢いよく押し寄せているというのです。流行と不易というなら、不易の側にこそ焦点を当てて、ぼくたちの行く末を見やる必要があるのでしょう。(この集団についても、どこかで触れています)

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◎ アーミッシュ(あーみっしゅ)Amish=16世紀のオランダ、スイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れをくむプロテスタント一派であるメノナイトから、1639年に分裂した一派。ヤコブ・アマンJacob Ammanを指導者として始まったためアーミッシュとよばれる。イエスやアマンの時代の生活を実践しようとする復古主義を特徴とする。メノナイトと同様、ルターやツウィングリの国教会制度を拒否(教会と国家の分離を主張)、国民性やイデオロギーの違いで人を殺すより、牢獄へ行った方がよいとする平和主義を貫く。映画『刑事ジョン・ブック――目撃者』(1985)で広く知られるようになった。現代文明を拒否して電気や車を使わず、馬車を用いて、おもに農業を営む。地味な服装は信仰の表れである。アメリカ合衆国では、義務教育や兵役拒否で国家と争うが弾圧は受けなかった。権威や偶像を認めず、自然とともに暮らすアーミッシュの質素な生き方から何かを学ぼうとする現代人もいる。アーミッシュ単独の実数はつかみにくいが、メノナイト系全体では、1990年現在、北アメリカに約38万人、世界に約85万6000人といわれている。(ニッポニカ)

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