〈旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり〉

 ある地域の歴史が長く続くと、さまざまな出来事が地層のように重なってくる。実際に事件や事故、事変や戦争、自然災害などに遭遇した人はもちろん、その周りの人々も、それに関心を持つ人も「出来事」の記憶を自らの胸中にとどめておこうとするでしょう。やがて、時間はさらに過ぎて、実際に当事者として「出来事を経験した」人がいなくなると、初めて当の出来事は「歴史」になるのかもしれません。その「出来事=歴史」をいかにして、後世の人間が自らのものにしうるか、それこそが、語り継がれたり(伝承・伝達)、教えられたり(教育)する「歴史の継承作業」だということもできます。事件や事故を歴史の淵に沈めないために、このことを風化させない、そのための努力がさまざまな方法でおこなわれてきました。それが、後世に生きる人間の役割であるのだともいえます。ぼく流のつたない表現でいえば、「歴史を生きる」ということです。

(事件発生時の軍人会館前 ©文藝春秋)(https://bunshun.jp/articles/-/16267?page=3)

 八十六年前の「今日」、いわゆる「二・二六事件」が、首都東京で勃発しました。詳細は事典に譲りますが、この「クーデター事件」の記憶を、実際に経験したものとして、胸中にとどめている人も、たくさん存命されています。しかし、大半は、この事件のことを「学校教育」で学んだということになるのでしょう。いかなる「歴史」も、時間の経過とともに、「学校で習う」という学び方が圧倒的になります。その割に学校の役割のこの方面での重要さが、いとも軽々しく扱われていることを、ぼくはつねに感じてきました。さらに言えば、その当の「歴史事実」の記憶のされ方も、多くは「試験に出るから覚える」式のものに堕しているのではないでしょうか。試験に出なければ、覚えない、あるいは忘れてしまう、このようにして「出来事の実在」は、世上から徐々に消えて行ってしまうものです。これを押しとどめることはできないのではないかということも言えそうです。

 何かと御託を並べていますが、本日は「(一九三六年の)二・二六事件」のあった日です。もちろん、ぼくはこの段階では、まだ誕生以前、「虫けら」でさえありませんでした。よく使う言葉でいえば「父母未生以前」ですが、この事件当時、ぼくの両親は存命していましたから、ちょっと昔というくらいのところです。それだから、この事件の内容は学校教育を通して切れ切れに学んだのであり、それをすっかり忘却した、記憶から排除した後になって、自らの興味や関心の基づいて学びなおしたものです。ぼくが得たと言える「歴史事実」のほとんどすべては、そのように、自分から、自己流に学んだものです。ことの当否ではなく、事実そのままを言うとそうなります。もちろん、引用した二つの「コラム」に書かれているように、事件の関係者の末裔は、それぞれの仕方で「歴史事実」の記憶を持ち続けて来たでしょう。時には、同じ事件を左と右、上と下というように、相反する側の目で見るということも生じます。この事件は、当初から名称に幾度か変更を加えられてきました。「〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉」という名称の変転は、あるいは、歴史の改竄とか修正という以上に、もっと深い意味が込められているのかもしれません。

 昭和戦前期とされる時期、「昭和維新」ということが盛んに叫ばれていた時代でもあったのです。すでに大陸では「満州事変」が継続されていました。国内改造という名目で、後に謳われる「アジアの盟主」への踏み石の一歩であったともいえます。明治は「御一新」で始まり、「明治維新」となり、やがて「王政復古」へと歴史の駒は進められてきました。今もなお「維新」を唱道する政治団体がありますが、この語は「…この元号(「明治」)は1868年9月7日の夜,天皇睦仁(むつひと)が宮中の賢所で,儒者の選定したいくつかの元号候補からくじで〈明治〉を選び,翌8日の一世一元の詔で睦仁治世の元号と決まった。〈維新〉は《詩経》の〈周は旧邦と雖も(いえども),其命維(こ)れ新たなり〉や,《書経》の〈旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり〉などから用いられ,百事一新を意味する。そして,この〈明治〉と〈維新〉とは,1870年(明治3)1月3日の大教宣布の詔書で,〈百度維新,宜しく治教を明らかにし,以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし〉と述べ,神道イデオロギーによって巧みに接合された。…」(世界大百科事典)とあるように、「其命維(こ)れ新たなり」「旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり」で、すべてを刷新するというのが趣旨で使われてきました。「明治維新」「昭和維新」「平成維新」「令和維新」「大阪維新」「日本維新」(紛らわしい「維新」もあります)などと、御旗は立てられてきましたし、今も立てられているのです。いつの時代でも「百度維新」「維れ新たなり」の必要であるのは確かですが、「クーデター」まがいを以って、「維新」しよう、「以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし」というのは、かえすがえすも語るに落ちた話ではあります。しかし今もなお、地に落ちた話を盲信する人々も絶えません。

【三山春秋】 ▼〈雪は降り積んだままである。少林山の雪景は白と黒の二色だ。ところが東京ではこれに赤が加わって、黒、白、赤の三色となった、青年将校達が、大臣や軍部の高官を暗殺したのである〉。建築家ブルーノ・タウトは日記にこう記している▼1936年2月26日、陸軍の青年将校らが約1400人の部隊を率いて首相官邸などを襲った。後に軍部の台頭を招いた二・二六事件である▼事件は多くの人に強烈な記憶を残した。五代目柳家小さんは、わけの分からないまま反乱軍に属していた。立てこもりの最中、下士官の命令で落語「子ほめ」をやったが、始めから終わりまで誰一人笑わなかった▼カトリック修道女で教育者の渡辺和子さんは当時9歳。軍人の父錠太郎が撃たれる一部始終をわずか1メートル離れた座卓の陰から見ていた▼50年後、銃殺刑に処された青年将校らの法要に請われ参列した。墓参りして階段を下りていくと、男性2人が涙を流しながら立っていた。父の寝室に入ってきた反乱兵の弟だという。2人は「これで私たちの二・二六が終わりました。私たちがまずお父さまのお墓参りをすべきだった」と謝罪、手紙を交わす間柄になったという▼海軍一等機関兵のわが祖父は反乱軍鎮圧のため回航を命じられた戦艦長門に乗り、東京湾で待機していた。それ以上のことは分からないが、意外にも筆者の近くにまで伸びていた事件の影である。(上毛新聞・2022/02/26)
<卓上四季>二・二六の人事
 陸軍皇道派青年将校による二・二六事件には人事の伏線があった。それは陸軍次官に就任した柳川平助が腹心の小藤恵大佐を人事権を握る補任課長に任じたところから始まったと、元陸軍少将田中隆吉の「日本軍閥暗闘史」にある▼小藤は職権を利用して、人事異動のたびに皇道派中の最も熱狂的な尉官を東京の近衛師団に集めた。永田鉄山軍務局長が暗殺された相沢事件のころにはすでに20人超に達しており、クーデターへの決心を強固なものとしたという見立てだ▼事件の動揺が全国に広がる中、田中が参謀を務めていた関東軍では注意を要する青年将校を一斉に拘束。直ちに事態を掌握した。人事が組織の行方を左右することは時代を問わない▼二・二六事件後、統制派が力を増す中、田中が「その欲するままに国政を左右することができた」と批判した人物がいる。永田に代わり台頭し日米開戦に突き進んだ東条英機だ▼派閥の暗闘がもたらした戦争遂行への道。「田中から見れば、青年将校も踊らされた存在だった」と作家保阪正康さんは「帝国軍人の弁明」(筑摩選書)に書いている▼極東国際軍事裁判で検察側証人となったことから、裏切り者扱いされた田中が残した教訓がある。偏狭な優越感は他民族の反感を買い、百害あって一益ももたらさぬ。戦後日本は平和の先駆者たれと願った田中。派閥争いの愚を知る者の重い言葉である。(北海道新聞・2022/02/26)

◎ 二・二六事件【ににろくじけん】=1936年2月26日未明,皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデタ事件。皇道派青年将校は北一輝に接近,昭和維新の実現をはかり,武力による国家改造を計画,真崎甚三郎教育総監罷免,相沢事件など統制派の台頭に反発し皇道派の拠点であった第1師団の満州派遣を機に蜂起(ほうき)を決意。斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監を射殺し,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ,陸軍省,参謀本部,国会,首相官邸などを占拠,陸軍首脳に国家改造の断行を要請した。陸軍首脳は戒厳令をしいたが,海軍,財界がクーデタに反対であるのをみて弾圧に転換,反乱軍の規定も〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉と四転。29日反乱軍を鎮圧。首謀者や理論的指導者の北一輝らを死刑,皇道派関係者を大量に処分,統制派が実権を掌握。岡田啓介内閣倒れ,軍の政治的発言権が強化された。(マイペディア)(右上は東京新聞「雪降る中、日比谷公園付近を行進する鎮圧部隊 =1936(昭和11)年2月26日から29日までの間のいずれか」)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/88199)

◎ 昭和維新(しょうわいしん)=1930年代前半の日本の右翼運動が主張した国家の革新、国内の改造をよぶことば。1928年(昭和3)藤井斉(ひとし)らの海軍青年将校が組織した王師会の綱領に「明治維新ヲ完成シ」という主張がみえるが、昭和維新という呼び方が広がったのは五・一五事件(1932)からである。同事件の檄文(げきぶん)が「維新日本ヲ建設セヨ」をうたい、同事件の被告三上卓(みかみたかし)海軍中尉が獄中で作詩したという「青年日本の歌」が「昭和維新の歌」として広がったことで、昭和維新は二・二六事件(1936)に至る国内改造運動の合いことばとなった。それは「皇道維新」と称されることもある。しかし内容は政党財閥を批判して天皇親政を主張するスローガンにとどまり、具体的な改革の目標やプランを意味することばではなかった。(ニッポニカ)

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 もう半世紀近く、ぼくはこの日になると、一人の友人を思い浮かべます。その人は「政治学者」であり、職場の同僚でもありました。ある時期に、彼は「学校行政」「教育政治」に大いなる興味を抱き、所属学部長を務め、さらに大学理事に就任、付属学校の理事長・校長などを歴任していました。そして二度、三度と、「総長(学長・理事長)」になるべく選挙を戦った方でした。その都度、ぼくはなにかと相談を受けたのですが、管理職に就こうという気が、ぼくには皆無でしたから、彼にとってはあまり役には立たなかったと、いまにして相済まないという気もしています。それはともかく、彼とは一貫して交流を重ねてきた。本年の年賀状には「すべって転んで、骨折して」と書かれていたので、少し心配はしています。一別以来、もう十年近くになりますか。(左は、現「九段会館」、事件当時は「軍人会館」)

 「二・二六」とその人の関係はというと、実はその日が「誕生日」だった。実に記憶しやすい日付でした。まだ三十前からの付き合いでしたから、ぼくにとっても、この「二・二六」は、また歴史的記念日とは異なった意味合いを持っているのです。もちろん彼は昭和十一年生まれではありません。それよりずっと後の生まれでした。ぼくの二歳年上。「未完の昭和維新」ではなく、Wさんのことについて少し続けます。一つの職場で、彼の一挙手一投足を見る機会に恵まれていたし、機会を見つけては、理由をつけては連日飲み歩いたほうでしたから、彼はどのような性格の人物であり、何を考えているのかも、手に取るようにわかりました。人物は好感が持てたし、能力もある人でしたから、人望よく、その人を、多くの人は大学行政の任につかせたのでした。しかし、人間がよすぎた(変な言い方ですが)ために、望み(総長就任)を達することはできなかったように思います。どんな組織でもトップに上り詰めるには、それなりの時期や人望など、幾多の要素が求められるのでしょうが、Wさんは、それらは備えていたと思う。ただ一つ欠けていたとするなら、「政治力・政治性」でした。政治学者である彼に、その「政治力」が欠けていたというのは逆説(皮肉)のようでもあり、またそうであろうと、ぼくには納得できないものでもないのです。ぼくに言わせれば、彼は育ちが好かった、いや好すぎたから、「政治力」などを持たないで大人になったんだろう思われます。企業でも学校でも、よほどの「時運」に恵まれないと、政治力抜きでは首座に上り詰めることはできないのではないでしょうか。

 ここで「時宜を得る」という言葉を使いたいのです。「タイムリー」というものです。なんでこんな奴が「トップなの?」ということは、しばしば生じますが、これは「時宜を得た」というほかないのです。その証拠に、時宜を得て「トップ」になった人間の仕事ぶりには、見るべきもの、取るべきものはまずありません。それでも長く続くことはありますが、それもまた「時宜を得た」というだけのこと、その「無能者」が時宜を得続けている間に「組織」は回復不能の打撃受けていることが多くみられます。それでも続くのは、「組織」そのものをどうするかということよりも、自らの地位や利益に、取り巻きの多くが関心を持つので、それがまた無能人間を支えるからです。この社会の現状を見ると、このような事態が各地各所で生じていることが手に取るように見えてきます。無能者のための時宜が続きますね。これも、時の運ですな。

 Wさんが時宜を得なかったのは、人が好すぎたからです。変な言い方ですが、なににおいても「トップ」に立つには、善人ではだめで、悪人に限ります。この場合の「善人・悪人」は親鸞や法然のいうところとは違います。政治力を指して、その力をどれだけ持っているかが、善人と悪人の別れ目です。その点で、Wさんは「善人」でした、今も。誰もが安心して、彼と付き合えます。彼は政治学をもっぱらにしていましたから、「政治力」を行使していたのでしょうが、本物の「政治力」というものは、人を殺す、切る、排除するなどという、恐ろしげなもので、幸か不幸か、彼にはそれがなかったと、ぼくは断言できるのです。二枚舌や二股公約などという「芸当」は彼にはできなかった。正直であり、愛すべき人でしたから、「頭かくして、尻隠さず」という愛嬌を失わなかった。それ故に、少々の政治性を持った人間たちは彼と心中することをためらったんだと思います。負け犬には寄りかかり切らなかったのでしょう。

 この友人と「二・二六事件」とは無関係かといえば、大いに関係があるとぼくは言いたくなります。「青年将校」は将棋の駒でしたから、事件の真相を知る・語るには「駒の使い手」を知る必要があります。青年将校の一人に、後年の「人間国宝」の五代目「小さん」がいたのはよく知られています。立川談志や小三治の師匠でした。その彼に政治性があるとは全くも思いもよらないこと。剣道七段だったとか、剣の使い手ではありましたが、「クーデター」を起こす人間ではありませんでした。小さん師匠は、応召してすぐに「反乱軍」に編入されたのです。その意味では、時宜を得たんですね。Wさんが「小さん」であると言いたい気もしますが、そうじゃありません。

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◎柳家小さん(5代) やなぎや-こさん=1915-2002 昭和-平成時代の落語家。大正4年1月2日生まれ。昭和8年4代柳家小さんに入門,栗之助,小きんをへて小三治で真打となり,25年5代を襲名。「粗忽(そこつ)長屋」「長屋の花見」など滑稽噺(こっけいばなし)の名人と称され,芸術祭奨励賞などをうける。47年落語協会会長。平成7年人国宝。剣道は7段範士。平成14年5月16日死去。87歳。長野県出身。本名は小林盛夫。【格言など】剣道も噺も間が大切。間の悪い奴を間抜けというんだ。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 いずれにしても、実際の「二・二六事件」では行動派は処分され、統制派が一気に主導権を握りました。この「クーデター未遂事件」が、時代や社会をある方向に動かす呼び水となったのです。「善かれ」と思ってやることが、事志と異なると、その「失政」をうまく取り上げ(時宜にかなう)、主導権を握ってしまう勢力がいます。そちら側は政治力では一枚も二枚も上だったということでしょう。その後のこの島国の運命は、「軍部独走」という単独行によって、国家壊滅の道をひた走ったのでした。クーデターに参加した青年将校たちは「将棋の駒」でしたが、その将棋でもっとも大事にされるのが「玉」です。その「玉」を担いで、わが意の如くに政治を蹂躙してしまった結果は、無残な敗戦だったともいえます。

 時に利あり、時に利なし、どちらにしても、まるで賽の目のように動かしようのない転び方をしてしまうのでしょう。たった一人の人間がトップに立ってもできることは限られます。「トップ」を「玉」として動かす将棋指しが命運を握っているのですが、これもいつの日か、「歩兵」となって、誰かに動かされていくのでしょう。「天の配剤」などというのは、そんなにあることではないようです。「善には善果、悪には天罰というように、天は物事を適切に配するということ」(デジタル大辞泉)政治は政治屋に、それがすべてでないのは事実ですが、大小を問わず、社会集団興廃・消長という帰趨を決めるのは、一面では「トップ」の判断であり、政治力です。それは「天の配剤」よろしくを得ることはまことに困難なのは、たくさんの限界や欠陥を持った人間のすることであるからです。たまさかの「天の配剤」があったとしても、それは決して永続しない。次に来るのは、「愚の、時宜を得たもの」であることが往々にしてあるようです。

 ぼくは「いわゆる政治的人間」ではないつもりです。自らの力で他者を動かしたりし支配したりするというように政治力をとらえるなら、まったくそうではないでしょう。Wさんも、どちらかというと、そういうタイプの人のようです。校長先生になったり、学園の理事長になるのは「役職上」であり、その役職は「任命」された結果ですから、勝ち取ったものではなかったのです。選挙においては、国政選挙は言うまでもありませんが、「きれいごと」ではない、そんなことでは務まらないと、政治家本人たちが盛んに言います。きれいごとではできないという意味は、「泥」をかぶるのか、「泥を塗る」あるいは、「清」は避けても、「濁」を承知で、飲み干すことであるのかもしれません。

 Wさんは、いつでも「今日は俺の誕生日だ」と、ところかまわず広言していました。自分の生まれた日を世間に公表する、それも自分からするというのは、いかなる心境であったか。彼以外に、ぼくは知りません。よほど「二・二六」が気に入っていたのか。彼は早くに妻を亡くされた。その後は独身を通されてきました(と思います)。でも時には、誰かを猛烈に好きになって、どうしようもないこともあったようです。ぼくの知っている「バーのママさん」に「一目ぼれ」「ゾッコン」、それこそ涙ぐましい光景でした。散々苦労した(高い授業料を払った)挙句にようやく、その女性と「デート」する約束を取り付けたと喜んでいました。「デート」の当日、指定された、どこかのゴルフ場だったかに、勇んで出かけてみると、別の男性がいたという。直接彼から聞きました。お人よしでしょ。その女性は「私は(本命以外)、男性と二人であったことは一度もありません」とぼくにまで話していました。ほんとうかどうか、わかりませんが、Wさんよりは相当に上手を行く、そんな「政治力」の持ち主でしたね。この政治力は銀座かどこか知りませんが、身を張って訓練された結果だったでしょう。そんな女性の前では、彼は手もなくひねられた格好でした。

 Wさん、足の骨折は完治したでしょうか。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。