
河北抄:豆腐の職人さんの話を本で読んだらこう書いてある。「豆腐の一番うまい時季ですか。新豆が上がってきて乾燥も安定した寒のころから3月ごろ。そのころは水も一番おいしいんですよ」▼そうすると、夏の冷ややっこはもちろんいいけれど、今ごろが本当は豆腐の味そのものがうまい季節らしい。小菅桂子さんの『味の職人こだわり辞典』に出ている頑固そうな職人さんの意見だ。▼先日、ちょっと遠くのスーパーに出掛けたら、よさそうな豆腐が売り場に。たぶん豆腐店のおやじさんだろう、作りたての豆腐を運び込んでいる。うまそうだと思って、試しに2パック買った。▼「はい、どうぞ。まず、そのまま食べてみて。それから塩かしょうゆ。オリーブオイルをかけてもうまい」。おやじさんがそう言うので、そうやって食べてみたら、大豆の味と香りが濃厚だ。▼原材料の表示を見ると、原料は宮城県の大豆・ミヤギシロメ。それから天然のにがり。うまい豆腐の発見は、豆腐好きにはこの上ない喜びだ。たまには遠くのスーパー巡りもいいものだと実感した。(河北新報・2022年02月19日)(ヘッダーは「冨嶽三十六景 礫川雪の且」葛飾北斎。東京富士美術館所蔵。今日の文京区後楽園ドーム近くの「茶屋」からの眺めだとされる)
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「柳多留」に「禁酒して見れば興なし雪月花」という秀句があります。今までよく飲んでいた人間が、何かの都合で禁酒に及んだ。そんな時に友に誘われて「雪見と洒落ようじゃないか」と出かけてみたが、素面(しらふ)ではさっぱりでしたという場面でしょう。さすれば、雪月花を愛でるときの「酒」の効用とは何なのでしょうか。また、酒を飲んだことのない人に「雪月花」のよさがわからないとでも、酒飲みは言うのですか、まさか。このような「愚問」が二つ出てきました。それに加えて、コラム氏の「豆腐」を道具立てにすると、どんなことになるのか。
さらに興覚めがするのですが、国内おける「大豆」の状況は、年々すごいことになっています。醤油や納豆や豆腐という、大豆を使う製品の大半は輸入に頼ることになっているし、その輸入先は、米国からがほとんどだとしたら、いったい豆製品はどんな塩梅になって食卓にあがってくるのでしょうか、そんな悲惨とも喜劇ともいうような時代にぼくたちは、お酒や湯豆腐を嗜(たしな)み、語ろうとしているのでしょう。ぼく自身、もう湯豆腐はおろか、豆腐や納豆が「うまくない」と、食べなくなってどれくらいになるか。
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酒を飲まなくなったし、豆腐も納豆もめったに口にしなくなった理由は、いくつかありますが、酒に関しては、いい歳をして酒で躓(つまず)くー 病気やけが、その他で他人に迷惑や世話をかけることがとんでもないことだと、身に染みて感じられるようになったので、それは、自分としては恥かしい(受け入れられない)と、さっぱりやめた。大豆製品がまずくなったというのは、かなり前から舌が嫌がっていたが、酒の勢いでごまかしていた。でも、酒が胃に入らなくなると、舌も素面になるので、とても受け付けなくなったのです。外国産がどうだこうだというのではなく、まず味が悪い、それはすぐにわかります。次いで、臭いです。じつは、ぼくは牛肉はそれほど好きではないのですが、食べるなら国産派で、どうして外国産がいけないか、それは消毒液や防腐剤、その他の薬品の臭いが強烈すぎるからで、あれは食べ物に伴っていい臭味ではないと、ぼくの感覚が拒絶するのです。それはともかく、そこには輸入にかかわり、食品衛生法やその他、もろもろの「柵」が絡んでいて、国民(消費者)の健康第一などは論外にして、貿易取引国の言いなりになっている国策が、この島の食糧事情を著しく阻害し、かつ国民の健康を危殆に瀕する状態に遭遇させているのです。

これは無粋な話ですが、まず状況・事情をお断りした上うえで、ぼくの愛する「湯豆腐」の句を何首か。これらは、まだまだ国産の大豆が、著しく健在・健康であった時代の作品です(多分、例外はないと思います。後ほど、もう少し調べておきます)。ということは、少なくとも、食料に関してだけでも、まだ政治的にはそれなりの判断力を持った政治家や官僚がいたという証明にもなります。俳句が生命を保ち得るか否か、随分と離れているように見えますが、政治家や官僚のセンスや政治力によるところが大であるという、ばかばかしい話になりますね。それぞれの句について、駄評は止めておきます。どうぞ、ご随意に。
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・湯豆腐やいとぐち何もなかりけり 石原八束 ・・・これは男二人の、粋でない待ち合わせの図でしょうね。

◎石原八束 (いしはら-やつか)(1919-1998)=昭和後期-平成時代の俳人。大正8年11月20日生まれ。石原舟月の長男。飯田蛇笏(だこつ),三好達治にまなぶ。「内観造型論」をとなえて新境地をひらき,昭和36年俳誌「秋」を創刊,のち主宰。51年「黒凍(くろし)みの道」で芸術選奨。平成10年7月16日死去。78歳。山梨県出身。中央大卒。本名は登。著作に「駱駝(らくだ)の瘤(こぶ)にまたがって―三好達治伝」「飯田蛇笏」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)
・湯豆腐の湯気に心の帯がとけ 金原亭馬生(十代目)・・・志ん生さんの長男、志ん朝さんの兄だった。

◎ 金原亭馬生(10代) (きんげんてい-ばしょう)1928-1982 昭和時代の落語家。
昭和3年1月5日生まれ。5代古今亭志ん生の長男。昭和18年父のもとに入門。むかし家今松,古今亭志ん朝をへて志ん橋で真打となり,24年10代を襲名。「大坂屋花鳥」「お富与三郎」などの人情噺を得意とした。戦前派と戦後派の橋渡し的存在で,落語協会副会長をつとめた。昭和57年9月13日死去。54歳。東京出身。本名は美濃部清。(同上)
・湯豆腐や隠れ遊びもひと仕事 小沢昭一 ・・・俳号は「変哲」でした。かたい塩せんべいが大好物だったとか。

◎ 小沢昭一(おざわ-しょういち)(1929-2012)=昭和後期-平成時代の俳優。
昭和4年4月6日生まれ。早大在学中から演劇活動をおこない,昭和26年俳優座の「椎茸(しいたけ)と雄弁」で初舞台。28年「広場の孤独」で映画デビュー。以後今村昌平監督の「にあんちゃん」「人類学入門」など多数の映画に出演。放浪芸の採集でも知られ,「日本の放浪芸」などをあらわした。平成16年森繁久弥のあとをつぎ,博物館明治村の3代目村長。18年朝日賞。19年菊池寛賞。昭和48年にはじまったラジオ番組「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は1万回をこえて放送された。平成24年12月10日死去。83歳。東京出身。(同上)
・湯豆腐のまだ煮えてこぬはなしかな 久保田万太郎 ・・・浅草生まれの粋人で、荷風の少し年下の文人。

◎ 久保田万太郎(くぼた-まんたろう)(1889-1963)=大正-昭和時代の小説家,劇作家,俳人。明治22年11月7日生まれ。「三田文学」から出発。大正6年小説「末枯(うらがれ)」でみとめられる。昭和12年文学座創立に参加。戦後俳句誌「春灯」を主宰。32年文化勲章。下町情緒と市井の人々の哀歓をえがいた。昭和38年5月6日死去。73歳。東京出身。慶大卒。俳号は傘雨。作品に小説「春泥」,戯曲「大寺学校」など。【格言など】湯豆腐やいのちのはてのうすあかり(妻の死後によんだ句)(同上)
・しょせんこの世は しょせんこの世は一人なり ・湯豆腐やいのちのはてのうすあかり (二句とも、万太郎さんです)
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湯豆腐の湯気あつあつとほのじろく(無骨) 万太郎さんには、どこかしら懐かしい感じをぼくは持っています。とても難しい人のようでしたが、それはそれ。猫が好きな方でした。生涯の最後の方は、たった一人で、「しょせんこの世は一人なり」と、時を刻んでおられたんですね。
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