一日をどのように使うか、それで悩んでいる人がいる。そんなことに悩むなんてというのは、「人生の深層」に下りて行った経験のないものの「言い草」ではないかという気もしてきます。ぼくなどは、その意味では実に「ノーテンキ(能天気)」で生きて来たし、今でもそのままの天候状態が続いています。「のう‐てんき【能天気/能転気】=[名・形動]軽薄でむこうみずであること。のんきでばかげていること。また、そのさまや、そのような人。「—な人物」[補説]「脳天気」とも書く」(デジタル大辞泉)と解説されている、そのままの人間として、ぼくはここまでやってきました。「軽薄でむこうみず」「のんきでばかげていること」といわれると、まさしく「図星」とい感心するばかり、自分を言い当てられたという想いがします。

ほぼ毎日、夜の十時に寝て、朝は五時前後に起きる。この辺鄙な場所に来てからは、その時間に、ほぼ狂いはありません。別に堅固な考えがあるのではなく、自分の体調・精神状態にあっていると愚考しているからです。残りの十五、六時間は何をしているか。これも特に決まりを持って過ごしているのではありませんから、日々、同じような「極単調」な明け暮れに終始しています。それで面白いかというと、人生は面白いものではないというほかありません。それを面白くすることにも疲れるだろうし、喜怒哀楽というか、悲観楽観がないまぜになって生まれたり消えたりするのが、どんなに平凡だと思われる生活にも起こってくるのです。それに応接するだけで疲れるし、だから、適度の睡眠時間、質のいい睡眠が、ぼくには必要であるというだけのこと。これは特技というのではないでしょうが、ぼくは不眠症になったことがない。寝むれないということがなかったんですね。それはさいわいなことでした。ぐっすり寝られれば、目が覚めている間も、なんとかつまずいたり転んだりしない過ごせそうですから。
テレビも新聞もない状態で暮らしています。だから時間はゆったりと流れていきますね。まったくテレビは見ない(受信料は払っている、かみさんがテレビをよく観るから。新聞は購読していない。こんな時代ですから、ネットでニュースは溢れています。それもあまり見ない。たしかに、真偽定かでないものですが、それなりにえり分けていけば、なんとか、時代の流れや世相というものに置いて行かれることはないと思うし、置かれて行っても何の痛痒も感じませんね)。その代わりと言えますが、ネットで youtube をよく観ます。クラシックの音楽はよく聴く(観る)ほうです。これを聴いていると、何もできませんが、いい演奏会やリサイタルなどに出会うと、何時間でも堪能しながら時間を過ごします。また、落語も、故人になった人のものばかりですが、飽きもしないで聴き続けています。風格というもの絵になりますね。
この三年ほど、時間を取ってみる機会が、とくに増えたのがyoutubeによる「小屋づくり」番組というのでしょうか。ログハウスやダッグアウト(掘っ立て小屋)の類を、独りで、あるいは親子や夫婦で作る、それをカメラで流すというものです。これ世界のいたるところで行われているのではないでしょうか。建築基準や建物制限などお構いなしの深い森の中や、人があまりは入り込まないような場所が多くみられます。それで永住するとか定住するのではなく、時間を見つけては都会から逃げ出して、泊りがけで「小屋づくり」を、それこそを楽しむ、(カメラで撮影するというのですから、今はだれかに見せたいために、そんな人がほとんどなのかもしれない)時代や社会が、規則や組織一点張りになれば、それだけ、そこから「逸脱したくなる」ということでもあるでしょう。


ぼくはほぼ毎日見ています。それを見ていると、それを作っている「人間の姿」がそっくり映し出されているというように見えます。人間は、誰だって「モノづくり」に集中したいのでしょうね。大工さんではなく、素人が作る家は、それなりの設計図があるのでしょう。ぼくもほんとに小さい頃、山で枯れ木や枝を集めて、雨を凌ぐだけの覆いを作り、そこに食べ物を持ち込んで何時間か過ごしたことはよくありました。そんな仕草が、どんな映像からも見えてくるんですね。(上と左はカナダトロントの証券マンを辞めて、たった一人で森に入って家を作っているショウン・ジェームスさん、上は一軒目の家。それを手放し、二軒目を建築中、それが左。この録画はもっとも視聴者の多いもののひとつで、ぼくはほとんど最初から、すべてを見てきました。いまもなお、普請中です)
小屋を作っている土地は誰のものか、などうるさいことを言えばきりがありませんが、他人の森や林の中で、枯れ木や枯れ枝を使ってしばしの「小屋掛け」生活を楽しむ、そんなところではないでしょうか。みんながそれぞれに楽しんでいるのがありありとうかがえるのが面白いんですね。物騒な大男が「トマトを刻む」「卵焼きを作る」「食器を洗う」、きっと家ではあまりしないようなことも、それなりに楽しんでやっている。森や林の中では、新鮮な酸素が「人間を素直に。自分で何事もする」、そんな人間に変えてしまうのでしょう。(下の写真は「Life in the Wild: bushcraft and outdoors)(この方の小屋づくりも、ほぼすべてを見ています)

手間暇かけて⛺(キャンプ)を張る人もたくさんいます。熊や猪などの野生動物が暮らしている環境で、独りキャンプをしたい人間が、世界にはごまんといるんですね。中には、たった一人、女性だけで適地を探して雪の降る中をキャンプしているものもありました。それはどうでもいいんですが、ぼくが不思議というか、奇妙なことだと思うのは、テントの中に、寝袋にくるまって寝いる瞬間までをカメラで映してそれを他人に見せるという、その趣味(あるいは悪趣味)です。それを見せる人たちが(男女を問わず)ずいぶんたくさんいるんですね。それから男に負けじと小屋や家を作る女性がいても不思議ではありませんが、どうして水着みたいなものを着てカメラに収まるのか、見せたいというのか、見たいという男がいると確信しているからか。ぼくには興味がないので、何とも言わすに、見ないだけ。

いわゆる「ユーチューバー」というのでしょうか、あからさまに、スポンサーがついている番組もたくさんあります。それには、ぼくは興味が湧かないですね。多種多様ですから、それぞれの関心に基づいてみればいいだけですが、そうしていくと、観たい番組は極めて少なくなってしまう。当然ではありますが、こんなyoutube の番組作りを、もう何年も行っている人々が、驚くほどいるということを発見しただけでも、見た甲斐はあったと言っておきます。
毎日のように、そんな映像を見ていると、ぼくは鴨長明さん(1155??ー1216??」を想い出します。「方上記」の作者で、文字通り「方丈四方」の掘っ立て小屋(実は、それはプレハブでした)を自作し、引越しする際には、それをたたんで、リヤカーで運んだと言います。いまなら、さしずめキャンピングカーといったところか。 一丈(約三・〇三メートル)四方で、畳四畳半の広さがあったとされます。そこにはいろいろな家具や調度が備えられ、仏壇まで用意されたと言います。一千年近く前の「長明」さんは、いまでは、世界のいたるところに生息しているんですね。
現代の「長明」は、目の色も髪の色も、多種多彩であり、それぞれの文化や伝統も「方丈庵」には十分に認められます。長明もそうでしたが、今風の「方丈記」を著そうとしている人々も、それが「終の棲家」というのではなく、何時間か何日間か、街中の喧騒を離れ、独り静かに、あるいはあわただしく「いのちの選択」をしているようにもぼくには見えます。電気もガスも水道もない、そんな環境を求めているというのも、時代に逆行していますが、なに、時代が追い付いて、今風顔負けの「電化生活」を謳歌することもできるんですね。時代が変わったという実感があります。

太陽光パネルは、どんなところにも電気を利用可能にしてくれる、都会と変わらない生活がおくれるのです。それではいったい何のための「不便な暮らし」志向なのか分からなくなりますが。とにかく瞬時でいいから、都会を離れ、人事の柵(しがらみ)を断ち切り、いやな絆(きずな)」からも解放される、自分一人の、疑似孤独生活を求めて、いずこの世界も回転しているということでしょうか。(左は、京都河合社(ただすのやしろ)の「方丈庵」の復元です)(もとをただせば、誰だって自力で住まいを作っていたんです。その「自力」を奪われたのはどうしてだったか、だれが奪ったのか、家づくりに限らず、「自力喪失」の「自力」回復は、ぼくたちにとっては喫緊の課題でもあるのでしょうね
OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO
【小社会】キャンプブーム 東京から高知に移住した知人がソロキャンプにはまっている。軽の四輪駆動車を手に入れ、少しずつキャンプ用品を買いそろえ、暇を見つけては野外に繰り出す。この寒空に何を好きこのんでと思うが、当人は喜々として楽しそうだ。▼筆者の了見が狭いことを、元日の本紙が教えてくれた。キャンプは今や1990年代の第1次ブームを上回る盛況。かつての家族単位から、最近は友人や女性同士、知人のような単独行まで多様化が著しいという。▼高級車でオートキャンプ場に乗り付け、ブランド品でそろえた道具のご開陳に及ぶ一流志向もおれば、質実剛健を旨とする本格派、ひたすら料理に凝るキャンプ飯派とスタイルはさまざまだ。▼ソロキャンプで有名なのがお笑い芸人のヒロシさん。独りぼっちの「ぼっちキャンプ」がBSの人気番組になり、酒場探訪における吉田類さん的地位を確立した。コロナ禍にあって、密とは無縁のレジャーが好感されている。▼さてこのブーム、視点を変えれば、いずれ南海トラフ地震に直面する本県にとって歓迎すべきではないか。震災後の避難生活の難儀は先災地に明らかだが、いざその時、苦境を生き抜くサバイバル術をキャンプで楽しみながら身に付けた人がおればどんなに心強いだろう。▼知人は火打ち石を手に入れ、ほぐした麻ひもに火をつけるすべを学んだという。芸は身を助くというが、ひょっとして人を助くかもしれない。(高知新聞・2022/02/16)
JJJJJJJ
仏教には「他力宗」と「自力宗」がよく知られていますが、それと同様に、庶民の生活にも自力と他力が混在しているのがあたり前でした。一種のブームといわれる「田舎暮らし」「農業への挑戦」など、これまでも都会志向便利至上主義への異議申し立てが各地でしょうじていました。昔も今も、都会から離れ、自らの足で立って生きることを求め、それを実践してきた人々がいました。今日の「野蛮思考・志向・嗜好」現象が何かの予兆であるというものではなく、一時の気まぐれと商業主義が合致しただけのことなのかもしれない。そういう目に見えやすい現象の深部では、微細な変化が人類全体の極小部分で起こっているようにも思われます。アメリカのある地域に「アーミッシュ」という極めて頑なな文明拒否生活集団があります。キリスト教の一派ですが、そのアーミッシュの生活も、今日では崩壊の度が深くなっているとも指摘されています。文明の波が勢いよく押し寄せているというのです。流行と不易というなら、不易の側にこそ焦点を当てて、ぼくたちの行く末を見やる必要があるのでしょう。(この集団についても、どこかで触れています)
KKKKKKKKK

◎ アーミッシュ(あーみっしゅ)Amish=16世紀のオランダ、スイスのアナバプティスト(再洗礼派)の流れをくむプロテスタントの一派であるメノナイトから、1639年に分裂した一派。ヤコブ・アマンJacob Ammanを指導者として始まったためアーミッシュとよばれる。イエスやアマンの時代の生活を実践しようとする復古主義を特徴とする。メノナイトと同様、ルターやツウィングリの国教会制度を拒否(教会と国家の分離を主張)、国民性やイデオロギーの違いで人を殺すより、牢獄へ行った方がよいとする平和主義を貫く。映画『刑事ジョン・ブック――目撃者』(1985)で広く知られるようになった。現代文明を拒否して電気や車を使わず、馬車を用いて、おもに農業を営む。地味な服装は信仰の表れである。アメリカ合衆国では、義務教育や兵役拒否で国家と争うが弾圧は受けなかった。権威や偶像を認めず、自然とともに暮らすアーミッシュの質素な生き方から何かを学ぼうとする現代人もいる。アーミッシュ単独の実数はつかみにくいが、メノナイト系全体では、1990年現在、北アメリカに約38万人、世界に約85万6000人といわれている。(ニッポニカ)
________________________________