意思表示することは、基本的人権だと思っている

 【小社会】 雄弁な抗議 命をかけた決意の行動だった。1968年のメキシコ五輪、陸上男子200メートルの表彰式。金、銅メダルに輝いた米国の黒人選手2人が静かに頭を垂れ、黒い手袋をはめた拳を突き上げた。▼米国では公民権運動が燃え盛っていた。同じ年の春にはキング牧師が暗殺された。表彰式で2人は靴をはかず、首にはビーズのネックレス。貧困や黒人へのリンチ事件を表したという。金メダリストのトミー・スミスさんは「国歌の次に聞こえるのが銃声でないことを」祈った。▼無言ながら、あまりに雄弁な抗議。五輪憲章は会場などでの政治的、宗教的、人種的な宣伝活動を禁じている。国際オリンピック委員会(IOC)は激怒。2人は大会を追放され、名誉回復には半世紀を要した。▼これも決意の行動だったのだろう。北京冬季五輪という「平和の祭典」の期間にもかかわらず、予断を許さないウクライナ情勢。同国のスケルトン男子の選手が「戦争はいらない」と書かれた紙をテレビカメラに掲げ、物議を醸した。▼メキシコでは激怒したIOC。選手に処分を科すのかと思えば、「戦争はいらない、は皆が共感できるメッセージだ」。不問に付す方針のようだ。近ごろは商業主義ばかりが目立つIOCだが、久々に共感した。▼五輪に政治を持ち込ませない理念は大切だろう。とはいえ、繰り返される雄弁な抗議の裏には、いつまでも紛争や差別をなくせぬ人間の不条理もみる。(高知新聞・2022/02/15)

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 「戦争不要」とウクライナ選手 北京五輪スケルトンで抗議〔五輪〕【北京AFP時事】北京冬季五輪に出場したスケルトン男子のウクライナ代表選手が、ロシア軍集結による緊張の高まりに抗議する一幕があった。  滑走前、テレビカメラに「ウクライナに戦争は要らない」と記されたポスターを示した。 抗議したのはウラジスラウ・ヘラスケビッチ選手(23)。記者団に対し「普通の人と同じで戦争を望まず、自分の国に平和が欲しいだけだ」と思いを語った。政治的宣伝を禁じた五輪憲章の下、国際オリンピック委員会(IOC)の処分を受ける可能性もある。(時事通信・2/12(土) 6:14配信) 

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 「五輪(開催)」は、政治の世界の政治問題以外の何物でもないということを、ぼくは何十年来と痛感してきました。昨夏に開かれた東京五輪は、成果というか時代・社会への貢献は何一つなかったとも言えますが、IOCを筆頭とする五輪関係組織は政治団体であり、その開催に群がる有象無象がどんなに金権体質に毒されているか、それを白日の下にさらけ出しただけでも、なにがしかの意味はあった(何兆円もの税金を投入してまで強行する値打ちはまったくなかったと、ぼくは考えている)。つい最近のブログでも書いたように、選手個人に政治的な背景や意図はまったくないとしても、一人の人間、一つのチームが「商業主義」に支配・翻弄され、一個の「商品」として扱われていることには変わりはないと思います。夏・冬に五輪を開催する費用は、数兆円とされる。それだけのものを準備することができる「主催国」は極めて限られているし、どこかの国のように、十分な金があるわけでもなく、やたらに「開催」したがる、悪癖にもがいているところもあります。要するに、開催に費用が掛かるというのは、すべての関連事業が経済の原理で進められるからでしょう。「スポーツの祭典」という看板の前後左右に「商業主義」「政治抗争」「利権獲得競技参加企業」ががんじがらめに「五輪」を羽交い絞めに、圧(の)し掛かっている構図が見て取れるのです。

 五輪は「国家」あるいは「政治」から独立したスポーツ競技であり、そのことは明確に五輪憲章にも謳われている。が、現実にはそれは「有名無実」で、あらゆる場面で「政治と国家」が顔を出しているのです。column 氏が書かれたメキシコ大会の表彰台上の「黒人差別への無言の抗議」に、ぼくは大きく動かされました。これまでにも何度か、この問題を他人にも語り、このブログにも書きました。抗議をした二人は、その後メダルをはく奪され、選手生命を絶たれ、社会的政治的な制裁を長く受けても、その戦いの姿勢を変えることはなかった。どんな理由があるにせよ、五輪競技(場)に「政治を持ち込むな」というのが、IOCですが、その当人が最も政治的であるというのはどうしたことか。

 「理由の如何を問わず暴力は認めない」というのは、一見もっともらしいが、それは嘘だ。欺瞞です。暴力や迫害がまかり通っている社会で「理由の如何を問わず…」を守っていたら、暴力や迫害は永遠に続くでしょう。それを「(暴力)政府」が言っているなら、そんな政府は、まさに「力」で倒さなければなるまい。メキシコ五輪開催の時期と重なっていたような頃、フーコーという思想家は「暴力がなかったら、アメリカの黒人差別は終わらなかったろう」といった。二十歳を過ぎていたぼくには、驚くと同時に、こういう発言をし、それに伴う行動ができる人間になろうという、大それた願いを抱いたものでした。願いは一貫していましたが、行動が伴わなかったという憾みが強くあります。

(1968年のメキシコ・オリンピックでは、米陸上のトミー・スミス選手とジョン・カーロス選手が、アメリカ国内の人種差別に抗議するため表彰台でこぶしを突き上げた)(https://www.bbc.com/japanese/57717187)

(左の映像はトミー・スムス氏へのインタビューです)(https://www.esquire.com/jp/culture/column/a35066440/tommie-smith-social-justice-protest-interview/) 

 五輪に限らず、世の中のあらゆることが「政治」にかかわっています。それを言葉だけであっても「政治を持ち込むな」という、その言辞・言動もまた、まぎれもない「政治」判断なんですね。もっとも政治主義が蔓延し浸透している国における「五輪開催」では多くの問題が噴出しています。それぞれに言及することは止めますが、ウクライナ選手の「アッピール」には、勇気のある行動であったと、ぼくは賛意を惜しみません。この選手がいかなる信条の持ち主か、ぼくにはまったくわかりませんが、満腔の賛意を示したいと思う。それに対して、IOCは「戦争はいらない、は皆が共感できるメッセージだ」と判断したのは、自らの置かれた状況を知っているからです。選手を罰すれば、ロシア側についたことになる、それに対してアメリカなどが反発する、今日の世界政治情勢の大海に漂流している「豪華クルーズ・利権丸」、それがIOCでしょう。国籍不明の「政治至上主義団体」専用の豪華客船ではないでしょうか。この団体の願望(欲望)はたった一つ、五輪開催という「甘い汁」が吸えるなら、どんなことでもする、そんな政治姿勢をとる感覚は見事というか、汚いというか。

 例によって、この駄文に結論はありません。ぼくはスポーツは好きだし、自分でもいくつかの運動をしていました。しかし、今のような商業主義がユニフォームを着ているような「スポーツ」は、なんであれ観たくないし、好きになれない。それが五輪となればなおさらです。昨日、偶然に夕食時にテレビをつけていたら、「金」を逃したスケートの選手の「記者会見」を現地からのライブで放送していた、せっかくの夕飯がまずくなると、慌ててチャンネルを変えたのですが、拙宅のテレビに映る放送局は、すべてがその「会見」番組だった。たまらなくなり、ぼくは食事を切り上げ、自分の部屋に逃げ込んだのでした。(かみさんはテレビ人間ですから、ずっと観ていたと思う)驚きましたね、なんでもいいから、「ニュースを放送しろ」とは言いませんが、どのチャンネルも、まさか「羽生」はないだろう、この国は至るところで「病んでいる」と強く感じたのでした。新聞も、役割は終わったが、とっくに終わっている「テレビ」は断末魔という、見たくもない醜態がそこにはありましたね。

 (このブログでは、あくまでもぼく個人の意見を駄弁ってます。スポーツ選手の才能を磨く、その努力や精神力というものを、大いに評価はしますが、そこの周りに寄生虫のように侵襲する「商業主義」に、ご当人たちは神経がいかないのが、ぼくには不思議です。これは「アマチュア」ではなく、完璧なプロだし、ならば、それなりの接し方があるだろうというまでです。今頃、アマチュアなどと言っているところが、老人性「時代遅れ感」満杯ですね)

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 英陸上選手、「抗議することは基本的人権」 五輪での抗議全面解禁求める

 東京オリンピックにイギリスの短距離走選手として出場するディナ・アッシャー=スミスさん(25)は23日、人権侵害や不正に抗議し意思表示することは「基本的人権」だと述べ、五輪出場選手による抗議の全面解禁を求めた。/ 東京オリンピック・パラリンピックで選手たちが抗議行為をすることについて、国際オリンピック委員会(IOC)は今年7月、禁止ルールを緩和した。選手たちは競技の前後に「意見を表明」できるようになった。選手たちが試合前に、人種差別への抗議として片膝をつくことは認められる。ただ、競技中や表彰式、選手村では、そうした行為は禁止されている。/ これを受けて、表彰台でも差別に抗議するしぐさを認めるよう、一部の選手が連名でIOCに要望書を提出した。/ 女子100メートル走で金メダル候補とされているアッシャー=スミス選手は、IOCの禁止規定と違反への罰則は、実際には実施不可能だと述べた。/ 「人種差別に抗議した人を処罰するって、いったいどうやってそうするのか、いったいどうやってそんなことを強制するのか」とアッシャー=スミス選手は言い、「誰かが、人種差別は間違っていると言ったとして、それを理由にその人のメダルを取り上げるのか?」と疑問をあらわにした。/ 「抗議すること、意思表示することは、基本的人権だと私は思っている」(以下略)(BBC・2021年7月24日)(https://www.bbc.com/japanese/57951864)(東京五輪では「メダル候補だったイギリスのディナ・アッシャー=スミスは予選落ち。太ももの裏側のハムストリングを7月に入って損傷していたと明かし、200メートルは棄権した」(BBC・2021年8月1日:https://www.bbc.com/japanese/58042050)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。