「絆(きずな)」などと大声で言われますが、…

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 特定の言葉が、白昼堂々と使われているのを目にすると、ぼくはどうしても身を隠したくなります。そんな「忌(いみ)言葉」がいくつもあります。だから、自分から使うことはもちろん、他人が使っているのも、心楽しくないんですね。言葉は「ちから」(「強制力」)でもあり、また号令や問答無用の作用さえもっているのです。だから、何かあると、「掛け声」や「歌声」で状況を変えようとするのでしょう。そのもっとも典型的な事例は「戦時中の標語」でした。あるいは「軍歌」でした。「欲しがりません、勝つまでは」と書くだけでは足りず、それを「標語」にして唱和する、そうすれば、だんだんと意気軒高になり、「何もいらない 死ぬまでは」ということになるのです。

 しばしばいうことですが、言葉が「旗」になるのです。この「言葉の下、一丸となって」という決死隊のような蛮勇・無謀さを要求される、あるいは強いられることになる。このブログでも、何度も触れましたが、「絆」という語を取り上げて、それがどんなに誤った、狂った使われ方をしているかしていたか、しばし<「絆」考>としたい。おおよその「解説」は、上のいくつかの辞書の説明にある通りでしょう。これはもともとは、動詞の「絆(ほだ)す」からの名詞化です。「ほだす」とは、「 つなぎとめる」とか、 自由を束縛する」ということであり、それが受け身的に使われると「ほだされる」です。参考例に出した辞書の真ん中は「精選版日本国語大辞典」です。「この男にほだされて」、こんな男に引っ掛かって、泣きたくなるよ、というのです。よく「情にほだされ」てひどい目に遭うなどと使います。

 これが「絆」となると、どうでしょう。まるで「向かうところ、敵なし」の勢いで、それに異を唱えると、忽ちに袋叩きにあうがごとき状況です。ぼくは、いつも、この「絆」連合には仰天させられ、驚愕させられ、挙句の果てには、その場から逃げ出すのが落ちでした。この「絆」は、個人で使われるときには、それほど違和感を持たないのです。まだ「旗」になっていないからでしょうか。ある言葉が「標語」になると、もう駄目です。(ぼくは、「校歌」を一人ではもちろん、集団で歌ったことがない。いや、「校歌」自体が身に付かなかった。団結力を醸すためのものだったでしょうが、ぼくには効果がなかった。大学にも「校歌」はあったそうですが、ぼくは「校歌」が出てくるような危険な場面(いわゆる「式」です)、それにはまず近づかなかったから、歌詞もよく知りません)

 復興支援ソングと称された「花は咲く」という歌を「第二の国歌」というそうです。とすれば、「第一の国家」があるんですね。これを積極的に広げたのが、「みなさまの公共放送局」だったと聞いています。ある作家は、この歌を聴くと「反吐が出る」といいました。多くの場合は、たくさんの人たちが合唱するのでしょうが、それは立派な「旗」になるのです。その旗のもとに集まらないものは「日本人ではない」と言わぬばかりです。絆・頑張ろう・日本・(大和魂)…とくると、「進め一億、火の玉だ」とどこが違うのでしょうか。「絆」という言葉が、どんなに恣意的に、いい加減に使われているか、そんなことは問題ではなく、「絆」という言葉があればいいのだ、ということでしょう。ぼくには「意味不明」のものばかりです。「がんばろう 日本!」というが、それは「日本」という生物に言葉をかけているのでしょうか。あるいは、自分(たち)が「にほん・にっぽん」なんだから、自分たちを「激」(鼓舞)しているというのか。よくわからない。「絆があなたを支える」も、理解不能です。「絆」という字が支えるのでないことはわかりますが、どんな「絆」が、どのように支えてくれるのか。意味不明でも、なんか声を出して叫び、歌っていると、だんだん「一つになってくる」ような気がする、とするなら、それは幻想なんだけどなあ。

 「歌の絆」というのも不明です。主催しているのは「朝日新聞・三菱商事・福島放送」だったと思う。「歌の絆」というのは「花は咲く(チャリティソングというらしい)」を多くの人と絶唱することなのですか。「歌で一つになる」「歌で心が一つにつながる」ということらしいが、なぜそれが「歌の絆」「歌は絆」でなければならないのか、ぼくにはわからない。「『花は咲く』にほだされようぜ、みんな」そんなところですかな。この「絆」に被災地の高校生を参加させているのも、ぼくは、「うんと昔の、いつの日にかも、やっていたな」という記憶の炎が燃え出すような気がします。

 「絆(ほだ)す」「絆(ほだ)される」「絆(きずな・きづな)」、それらは、一言でいえば、「縛られる」ということであり、「自由を奪われる」ということ、「自分を忘れ・失って、全体と一体(一部)になる」というのでしょう。「絆のチカラ がんばれ 東日本 栄村」という標語を横断幕にして、その下に集まれば、その瞬間は「一致」「心は一つ」「縛られている感、いっぱい」かもしれませんが、それが終われば、雲散霧消、「絆」はたちどころに消えてゆく。それでいいのかもしれません。では、「絆」を絶叫するのは何のためか、ぼくには「一致した振り」「団結祭りに参加したという満足感」「大声を出した充足感・爽快感」の経験であるとしか思えない。それで悪いというのではなく、そんなところに、ぼくはいたくないというばかりです。「デモ」だって、それにそっくりじゃないですか。

 「ガンバロー」「がんばる」、これもぼくは嫌いな言葉、大嫌いな言葉です。まずは使いたくない、代表的な言葉の一つですね。何を、どのようにがんばるのだろうか、といつも「がんばる」「がんばろー」を聞くと考えたものです。それを使っている当人は「一所懸命に」「あきらめないで」とかいう、ある種の「覚悟」「態度」を示すつもりでいうのでしょうが、それを聞く側からすると、「口癖で、言ってるだけ」、まあ一種の間投詞だな、あるいは、懸命さを示すための「悲壮感」の表現なのかもしれない。ぼくは若い人から腐るほどこの語を聞きました。しかし、殆んどは「掛け声」「口から出まかせ」だったような気がします。元来があまり上品な語ではなかったと思う。おおよその解説は辞書の通りです。ぼくの理解では、殆んどが「我を張る」に聞こえました。ある女性教師から聞いたのですが、この語を女性が使うことは、ひどく非難されたということでした。「梃子でも譲らない」ということだったとしたら、そんな女性(もちろん男性でも)は好まれなかったと思います。「覚悟」や「決意」を示す語としてなら、もっとふさわしい言葉があると言いたいですね、それを探して使わないと。

 標語に「がんばる」「ガンバロー」が出てくると、何をどこまで(押し通すのか)と大変に訝(いぶか)しく思う。「がんばろう 日本!」と絶叫して、どうするんでしょう。何をするというのか。右のポスターを、ぼくは興味というか、奇怪感をいっぱいにしてみたのです。「つながろう・絆・連合」というのは同語反復どころか、同語三復ですよ。最近の「連合」は女性会長の登場で、ますます権力に抱きつきに・抱擁されに行っていますが、この先、「連合」であるのではなく、「分裂」になるのを心配します。組合が権力に参画したいというのは、まるでこの島の「報道機関」と同日の談。文字通りに「身売り」です。「進め一億、火の玉だ」というのですか。かくして、この島には「批判勢力」も「対抗勢力」もなく、すべてが右へ右へと、草木も靡(なび)くように、自らの墓穴を掘るのに、「絆」のちからで総力を挙げているが如くです。そんなに「絆」が好きなんですか、と、尋ねたいね。

 「つるむ」のではなく、「固まる」のではなく、個人個人を突き出していかなければ、社会は動きが取れなくなるという、その典型を現在の事態が示しています。組合の総本山までもが「絆・連合」と「旗」を挙げて、権力の吸引力に、牙も骨も抜かれ、砕かれている時代です。それほどに「絆」というのは言うに言われぬ「強制力」「束縛力」「呪縛力」を有しているのでしょうか。であったとしても、自分から「縛られに行く」ことはないじゃないか。masochistic なんですかね、絆の使い手は。

HHH

◎がん‐ば・る〔グワン‐〕【頑張る】=[動ラ五(四)]《「が()には()る」の音変化、また「眼張る」のからとも。「頑張る」は当て字 困難にめげないで我慢してやり抜く。「一致団結して—・る」 自分の考え・意志をどこまでも通そうとする。を張る。「—・って自説を譲らない」 ある場所を占めて動かないでいる。「入り口に警備員が—・っているので入れない」(デジタル大辞泉)

 蛇足です この島の学校に「国語教育」は存在しているし、「言葉を生業にしている業者」はごまんといるにもかかわらず、どうして「絆」が好まれて、誤用されるのか、何時しか、誤用が正解となる日が来ると言うなら、この島の「言葉」は機能不全であると、ぼくは断言しますね。言語のない社会、それは、言語を用いない動物の集団です。そうなると、もはや、「絆」でも「団結」でもなく、たがいが敵同士としての弱肉強食の闘争に終始するでしょう。「なに、もうとっくに始まっているよ」という声がします。

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