【斜面】 メダル至上主義の奈落 本紙にその名が初めて載ったのは2009年10月のこと。サマージャンプ大会を伝える記事だ。〈女子は13歳の高梨沙羅が優勝〉。14歳になると国際大会で初勝利。全日本スキー連盟が掲げた「メダル奪回戦略」の特化選手に選ばれた◆15歳で企業とスポンサー契約を結んだ。W杯優勝を重ね、17歳で臨んだ14年のソチ五輪は4位に終わり涙を流した。そして25歳で迎えた北京五輪。混合団体の1番手で飛び、103メートルの大飛躍を見せた。その直後、スーツの規定違反で失格を伝えられた◆奈落の底に突き落とされたのではないか。インスタグラムの投稿が痛々しい。真っ暗な写真と謝罪の言葉が並ぶ。〈私の失格のせいでみんなの人生を変えてしまった。深く反省している〉。謝ってもメダルは返ってこないが自らの競技に関しては考える必要があるとつづっている◆何がここまで選手を追い詰めるのだろう。東京五輪の招致が大詰めだった12年、文科省は急ごしらえでスポーツ基本計画を策定した。金メダルの国別獲得順位を「夏季は5位以上、冬季は10位以上」とする数値目標を明記。選手の強化を図るとしていた◆国策、スポンサーの思惑、過剰な期待が絡めばメダル至上主義は強まろう。ジャンプの強豪国はスーツの担当スタッフを抱えて開発競争を繰り広げ、ルール違反すれすれを狙う。今回は有力選手が相次ぎ失格し、判定員に殺害予告が届いたとの報道もある。五輪のゆがみは隠しようがない。(信濃毎日新聞・2022/02/11)
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この問題に言及することは、ぼくの手に余ります。手に余るけれど、ひとことぐらいは言っても非難はされないと考えています。このコラム氏が書かれているとおりと、ぼくはそれを認めたうえで、新聞だって、「メダル至上主義」のお先棒を担いだではないか、担いでいるではないかと指摘しておきたいのです。一地方新聞がわめいても、何ら大勢に影響しないというのでしょうが、それは現状を認めてしまう理屈であって、自らの役割(があるとして)の放棄でしかないでしょう。そのあからさまな責任放棄を見せつけたのが東京五輪で、こぞって「大新聞」と自称も他称もしている各社が、誰のだか、正体は明らかだともいえますが、軍門に下ったではないか。軍門に下って、お先棒を担いだどころではなく、先頭を切って「無謀な五輪開催」の主導権を振り回し、挙句の果てに「メダル獲得」に血道をあげたのはお笑いを通り越していました。(メダルに自らを賭けるのは「選手自身」であって、他の誰でもないのに、いかにも「ガンバレ!ニッポン」とお先棒を担ぎ、旗を振り、メダル獲得への「挙国一致」を煽りつづけていたのは、誰でしたか。(今はともかく、なにがなんでも「ワクチン接種」の大音声です。天下をあげての大号令、その理由は何ですか。他国では、ワクチン接種をしないものは解雇だとかいう、とんでもないお門違いの政治権力が荒れ狂っています。どうも、そちらのほうが感染したような、政治の不作為の出鱈目ぶりです。これはまた別の機会に駄弁りたい)

〈私の失格のせいでみんなの人生を変えてしまった。深く反省している〉ぼくが驚いたのが、この「投稿」です。ある人々には当然のことなのでしょうが、ぼくはそれを十分には受け止めかねているのです。実際に、これには高梨選手のいかなる気持ちが入っているのか。いろいろに考えられますから、なおさら困惑せざるを得ないのです。「みんなの人生」とはだれだれのことをいうのでしょうか。その中に「ぼく」が入っていないのは確かだから、「いや、君もはだよ、日本人だろ」といわれると、日本人ではないけどとはいわないが、「人生を、あなたに変えられる気遣いも、意向もありませんよ」と言うほかない。「みんな」は「自分を有形無形で支え、応援してくれた人々」というのでしょう。それはそうでしょうというばかりです。言いたい事はたった一つ、そんな「みんなのために」ジャンプしていたんだ、ということであり、スポーツというのはそうなんだ、と、スポーツファンであるだけに、ぼくは異議を出さざるを得ない。
それもこれも、国威発揚のための「選手強化」であり、「五輪メダル」であり、「五輪招致」だとするなら、そこには「スポーツの祭典」という言葉が期待する「身体能力の極致」の競争という、本来の狙いが死んでしまいます。いつだって、五輪は「国威発揚」だったし、それ以外に目的はないというなら、それはそれで構わない。ぼくは前回の東京五輪(1964年)以来、この種の運動競技の覇権争いにそっぽを向いてきました。個人の技や技量が競われるのではなく、国家の意向を背負って(日の丸を背に)参加し闘っているということを、広言してはばからないのは兵隊ではあるかもしれませんが、競技(スポーツ)をする人とは思えないんです。選手は「商品」として扱われているのではないですか。商品価値が高くなれば、高く買う人が出るのは当然。買う人、売る人が「商品」をめぐって激しく競い合っているのが現実だという気もします。そこにスポーツが、どんな顔をして出てくるのでしょうか。選手の身体には「国旗」と「スポンサー名」が挟み撃ちのように縛られている。「選手」を責めているのではありません。

兵隊は戦争傭員として、国家に縛られる。そのために自由を拘束されるが、代価は「国権発揚に参加」しているという「名誉?」で、はたして、それだけで納得するのか。兵役は義務というところがほとんどでした。国防という観点から、国民たるもの、それに馳せ参ずるのは当然という傾向は、今でも根強くありますが、それで問題なしというのかとも思う。「五輪のゆがみは隠しようがない」という指摘はまっとうです、よくぞ書かれたと言いたいところです。だが、今を去ること二十数年前、ご当地五輪(冬季長野五輪)が、どんなに歪んだ、不正や汚職にまみれた「大会」であったか、まさか知りませんでしたと、いうのではないでしょう。ぼくは、まったくの無関心派であり、無頓着人間でしたけれど、そんな人間のところにも「黒い・汚い五輪開催強硬」の種が飛んできました。当時の五輪招致と開催の責任者の位置にいたのが、後に金にまつわる「汚職」で逮捕された、長野の各地に事業を展開していた「実業家(実際は虚業家だった)」、T氏だった。そのエゲツナイ強硬開催の(つけ)はまだ拭い切れていないのではないですか。この内情に詳しい後輩、県庁にいた人間、から聞いた。
事程左様に「五輪のゆがみは隠しようがない」にもかかかわらず、またぞろ、何年後かに札幌で五輪開催をという、熱烈な待望論がある。その主たちが政治家と土建屋と、スポーツ選手なのだというなら、一種の「談合五輪」であるということにしかなりません。夏や冬の五輪開催、メダル獲得と、報道機関は一斉にはやし立てているのが、ぼくには不気味です。多くの人間の関心をそちらに向けておいて、政治はあらぬこと、よからぬことを次々と企んでいるのです。新型コラナ感染症問題も、いつしか相当にいい加減な方向に捻じ曲げられ、それに従わないものは「処罰」というところまで、後一歩です。三年目の正直といいませんが、感染症法でいうところの「まず検査」「感染者の発見」「陽性者は隔離」という基本が踏みつけられてしまいました。勝手に罹患しろ、勝手に療養しな、勝手に苦しむがいいという、驚くばかりの国民蔑み政治の横行蔓延ではないでしょうか。
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それに対して警鐘を鳴らすどころか、要路の官僚と懇(ねんご)ろになって、記事を書いているという記者が出て来ました。反吐が出るので書くのを控えますが、「ひどいものだ」というレベルを通り越して、地に落ちてしまったでしょう、新聞は。経済安保の責任者と交際を重ねて、記事を書く経済部の女性記者。すごい退廃の極みに、この島社会は安定しているのでしょうか。
「岸田政権が目玉政策に掲げる経済安全保障推進法案の責任者である藤井敏彦・経済安保法制準備室室長が更迭された問題。藤井氏が、ビジネススクールで”副業”を続け報酬を得ていた疑いがあることや、その講義の前日に朝日新聞政治部の女性記者のマンションに一泊する不倫疑惑について、「週刊文春」が事実確認を求めたところ、2月8日付けで更迭された。朝日新聞は、2月10日の朝刊で、この人事を報じる記事を掲載し、その中で女性記者の不倫について「業務外のことと判断しております」との見解を発表した」
まさにこの新聞は「権力の御用新聞」であり、「宣伝広報・下請け機関」になっているんですね。女性記者が一人でことを行ったのでないことは明白で、デスクも、その上もみんな知っていたということではないですか。(文春オンライン:〈経済安保法案の責任者更迭〉朝日新聞が記者の不倫で見解発表「業務外のことと判断」:https://news.yahoo.co.jp/articles/19a354940e2b1764685b0763bf12169111cc6578)
この方面にはとんと暗いのがぼくです。何度か耳にしたり、目にしたことはありますが、それがどういうことかよくわからなかった。そんなことがいっぱいありますが、「枕営業」もその一つ。これは学術用なのか、営業マンたちの符丁なのか。そこで常時愛用する辞典によってみると、かろうじてありました。「デジタル大辞泉」には「販売員などが、契約成立の交換条件として顧客と性的関係を結ぶこと」とあります。この場合、販売員は「朝日女性記者」でしょうか。顧客は「経済安保法室長」でしたか。「安保」という割には、不用意というか、あけすけというか。あるいは「枕芸者」という語も、どこかで聞いたような気がします。これも、デジタル大辞泉に頼ります。ひょっとして、「療法」していたのかもしれないとなると、「わっ、どうしよう」といっても、もう手遅れですね。
◎ まくら‐げいしゃ【枕芸者】1芸でつとめずに、売春を主とする芸者。不見転。2枕さがしをする芸者。
不見転とは何か、枕探しとはどういう遊びか。こんなことは学校ではまず教えてくれない。教師は知っていてもあるいは実践していても、教えないこともあるんですね。こんな芸者さんのことを、「みずゆき」とも「みず」ともいうそうです。ぼくは落語から、よく知らないままに、たくさんの教育を受けたんですね。志ん生や文楽、圓生などという名人は、また日本の風俗の「師範」でした。観念だけではなく、彼らの話からは、たっぷりと経験を積んでいた様子がありありと感じられたものです。「枕さがし」というのは、先だっても、池袋という都内の繁華街で老人が二十四歳だったかの女性に殺害された事件がありましたが、これは「枕さがし」が発覚して凶行に及んだと言われています。他に男がいたのですから、あるいは「美人局」にも該当するのか。これ以上はふれはしません。ぼくは、もっぱら観念の中でしか知らない世界ですから。

それにしても、こんな営業というか、「取材活動」をして記事を書き、多額の月給を懐だか銀行口座だかに入れていたんですね。「いい記事だね」という読者は「いい面の皮」。ぼくは知りませんが、今だって「同伴出勤」というのが、どこでも廃れないで見られるるようです。まるで、いたるところが「お江戸」であり、「吉原」ですね。お抱えの記者が「枕営業」をしていて、それを上司も知っていたとすれば、この会社は「置き屋」か「お茶屋」じゃないですか。だとするなら、さしずめ部長は「やりてばあさん」かもしれませんね。そして、読者が払っているのは購読料ではなく、「お茶代」「花代」だったというわけ。江戸時代が続いていますね。
「朝日を見なければ、一日が始まらないよ」という人は五万といるでしょうね。友人の中にも「絶対ひいき」「あさひいのち」がいます、何人も。「いい面の皮」ですこと。さすがは「天下の朝日」だというべきか。旭日旗が今日もへんぽんと翻っているか。
すでに終わっている、終わりかけている、そんな制度や組織が後を絶ちません。この先もさらに続くという予感というより、確信がありますね。この連中は、幸か不幸か「名門」「一流」の大学卒なんでしょうな。そのような、人生のイロハのイをも無視したり、理解できない連中が陸続と卒業している、そんな「大学」を目指して、入試狂詩曲といいたくなるような事態が、目下進行中です。ラプソディとは「きわめて熱狂的な表現の詩」あるいは「音楽」です。この島に、コロナ禍の最中にも流れ続けている「五輪狂詩曲」、ぼくは聞きたくないのですが、どこかから漏れ聞こえてくるので、駄文を「ひとくさり」、でした。亡くなったむのたけじさんがかかあああげたぼは「たいまつ」という新聞でした。「たいまつ」で言いたい事を書き、それがだめになったら、次は「真っ暗」という新聞を出すつもりだと言っておられた。むのさんの出身会社の「朝日新聞」は、社名を改めたほうがいい、「日没新聞」と、ね。
無駄です 〈朝日新聞は、2月10日の朝刊で、この人事を報じる記事を掲載し、その中で女性記者の不倫について「業務外のことと判断しております」との見解を発表した」〉とありますが、この「判断」は誰のものなんですか。記者の判断だったら、業務外だから、問題はないでしょ、だし、社の「判断」だったら、個人のこと(プライヴァシー)なんだから、問題ないでしょ、となるという「判断」ですか。腐りきっているし、もう「切除」もなにも、手遅れですね。これで官僚も記者も職を辞めないし、月給もそのモアとなるでしょうか。誰も傷がつかないという解決策。読者は「いいつらのかあわ」だし、こくみんは「踏んだり蹴ったり」。油断もできないですね、にも前門にも後門にも、油断のならないウィルスが待ち構えていますから。
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上の記事は二年近く前のものです。「感染者224人」で、必死の予防策を模索しているという風情ですね。今では懐かしさすら感じられてくる報道です。果たして事態は「改善された」のか、それとも「さらに悪化している」のか。いまこそ、確実な対策実行が求められているにもかかわらず、もうピークが見えたという雰囲気がありありです。素人が何を言うかといわれても、なおさらに、一茶なら「あなた任せのおらが息」ですが、無信仰ものは「自分頼りのわがいのち」です。くれぐれも「注意」に神経を集中していきたいですね。
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