【斜面】 一茶が詠んだ豪雪 小林一茶が故郷の柏原(上水内郡信濃町)に戻ったのは50歳の冬。父の遺産を巡る弟との争いがやっと和解に至り、母屋に住み着いた。2年目の冬に詠んでいる。〈我宿(わがやど)はつくねた雪の麓哉(かな)〉。「つくねた」は一つにまとめたの意味だ◆かき集められた雪は家よりも高い山になりわが家はその麓にぽつんとあるかのようだ、と。ユーモアを交えて表した豪雪地ならではの風景である。今冬、信濃町を含む県北部は大雪に見舞われている。飯山市は10年ぶりに豪雪災害の対策本部を設置した◆積雪は2メートルを超えている。道路脇に寄せられた雪と屋根からの落雪が重なって背丈より高い山が残った。本紙記者のリポートによれば、商店街はアーケードの損壊を防ぐため、1月末に総出で雪下ろしをした。2月に入るとまた同じぐらい積もり、人手や費用の確保に悩んでいる◆高齢化が進む下水内郡栄村は「老老除雪」の現実が厳しい。雪踏みを支援する人も体力に不安を抱える。除雪中の事故も相次ぐ。飯山市では86歳男性が屋根から転落して重傷を負った。家や生活を守るため危険を承知で屋根に上らざるを得ないのだろう◆豪雪地を支援する特措法の改正案を立憲民主党が国会に提出した。屋根に命綱を固定する金具の設置や除排雪を自動化する技術の開発に国や自治体が取り組む。与党も改正案を練っている。気候変動による異常降雪にも備え超党派の議員立法で成立させてほしい。雪国の切なる願いである。(信濃毎日新聞・2022/02/10)
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誰でもそうかもしれませんが、「正月」「元旦」には何かと気分を一新し、「さあ、今年こそは」と意気込むものなのでしょう。大好きな一茶にも、同じような「元旦」や「正月」の句がたくさんあります。あるいは「新春」といってもいいでしょうが、それらの句が、やはり一茶というべきか、何かしら「投げやり」であり、「貧窮の最中吟」であり、「拗ね者のひかれ歌」的なものなど、実にさまざまな風景や身辺が読まれています。ぼくは、一茶が大好きですが、その一番の理由は「高等ぶらない」「自分句」俳人、そんな徹底した姿勢が貫かれているからです。そのために、高等文芸を俳句に求めたりする人からは、彼は決して評価されなかった。逆にそれこそ「彼の真骨頂」と強く推す人もいました。以前にも紹介した岩波の「日本古典文学体系」(58)の「蕪村集・一茶集」の校訂解説を担当された川島つゆ氏、本人も句をよくされていました、その川島さんは、。以下のように述べています。
「俳諧史上から一茶を抹殺しても、俳諧史に大きな狂いはないであろうと言ったが、混沌として、また華やかな現俳壇の種々相に目を移すと、先行俳人一茶が、生涯にわたって体臭の強い句を排泄しておいてくれたことは、よかれあしかれ、今日に至るまでの俳壇の流れを早からしめ、又、先駆的浄化作用をつとめてくれたであろうと考えることに、恐らく異論はないであろう。系統的には孤独な作家であったが、その意味において彼もまた俳諧史上に自らの座を主張する権利がある」(既出・「解説」)
「しかし、一茶の作には明日がない。せいぜい凡人の至りついた悟りの境地であり、自己暴露であり、周囲への斜視的投影である場合が多い。それはしかし、彼の生きた時代に、他にどれほど輝かしい文芸的産物があったというのか。封建の紀綱も内部は潰えくずれて、諸人はあるがままの地位身分を守ることだけが精いっぱいであった。まして庶民層に明日の夢はなかった。出れば大小名の先触れに土下座を余儀なくされ、富者も目に立つ栄耀をすれば早速とがめを受けるというような時代に、文芸だけが伸び伸びしていたはずがない。一茶の俳諧にしても、高い理想に向って精進したのではなく、迷いと悩みの中につかみ得た一筋の綱にすがって、老来意識の薄れるまで詠みつづけて来た作句即生活であったのだ」(同上)
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川島さんの説に、ぼくは賛成する者です。あるいはそれを「文芸」という枠の中で云々するのは滑稽でさえあると言ったらどうでしょう。彼の句はお手本にするようなものではなく、模範からは程遠い地面に育っていったものでした。俳句は床の間に飾る書け軸に収めてはいけないでしょうね。土地から鵜案れた、まるで土のにおいがいつまでのするような句、それは誰にでも作れるものではなかったという点で、一茶は他と比較して云々できない俳句詠みだった。その土地が信濃であったことは、土地の人々にとってはありがたいことであったかもしれない。でも、ちと顕彰の度が過ぎますね。

上の掛け軸の文は一茶のものです。文政四年は一八二一年です。
【原文】 去十月十六日中風に吹倒 / されて直に北邙の / 夕のむなしき土と成りしほしふしきにも此正月一日ニ
初雞に引起されてとみに東山の旭のみか /よ出せる玉の春をむかへるとは我身を我めつら /しくさなかから生れ代りてふたたひ此世を歩く心ちになん/ ことしからまふけ 遊ひそ日和笠 / 一茶 . 文政四年 雞旦
(十月に中風で倒れて、危うく死にかけた。不思議にも正月一日に、鶏の初鳴きに起こされ、目出度い春を迎えられたのだ。まるで、生まれ変わって、この世を歩く心地がする。「ことしからまふけ 遊ひそ日和笠 」日和傘をかぶって、もうけものをしたいのちを楽しむぞ)(当時、彼は五十八歳でした。その五年後に亡くなる)
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正月春の句を、順不同に出しておきます。
・家なしも江戸の元日したりけり(「七番日記」・文化七年) ・雪とけて村一ぱいの子ども哉(「七番日記」)

・三ケ月はそるぞ寒さは冴えかへる(「七番日記」) ・春風や牛に引かれて善光寺(「七番日記」)
・ことしから丸儲けぞよ娑婆遊び(「八番日記」・文政四年) ・穴蔵の中で物いふ春の雨(「七番日記」)
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長男であり、一人っ子でもあった彼は、継母との仲がうまくいかなかったゆえに、仕方なしに父の言いつけで、十五だったかで故郷を出る(出される)。江戸へは奉公のためでした。少年に展望も勝算があるはずもなかった。さあ祝いだったと思いますが、彼は「俳句」に惹かれた。「椋鳥と人に呼ばるゝ寒さかな」(「おらが春」)と江戸の人間からは蔑まれる。食い物にありつこうと、年端もいかな彼を成人は揶揄したのです。おかしいですね。この「江戸」だって、一茶の時代から、たかだか二百年前に、はじめて造り出されてたっ新出来の町です。「田舎者」が「田舎者」を虐める、揶揄するという、悲劇か、喜劇か。このよろしくない傾向は、今だってあるんじゃないですか。住み着く順番、後先が「優劣」を競うなどとは、とんだ笑い話。
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「還暦の感」(文政六年正月)(「文政句帳」)から。
・春立つや愚の上に又愚にかへる(「六十になった。今までも愚であったが、還暦が来てまた、さらに愚になった」)
年相応に、人は賢くなるというのは「迷信」です。人間の器量までが矮小化されるんだ、それが老いるということ。今まで愚者だったのが、何かの拍子に賢者になることなんかあり得ない。あるはずがないということです。ぼくが長く生きてきて、若いときは愚かだったが、年を取って賢くなった、そんな人は見たこともないのですから、一茶の自己評価はまっとうでしょ。「生き方」というのは「自覚の有無」で決めてもいいんじゃないですか。世間はそういう一茶を嫌ったし、疎んじた。なぜなら、オベンチャラも忖度も、お上手も一切言えなかったからです。「正直」というのも目の敵にするのが「世間」です、自分たちは「符節を曲げて生きているから」ですよ。「憎まれっ子、世に憚る」というのは、どうか。

この句に「まえがき」のようなものがあります。「今迄にともかくも成るべき身(死んでいるはずだった身)を、ふしぎにことし六十一の春を迎へるとは、実(げ)に実に盲亀の浮木に逢へるよろこびにまさりなん。されば無能無才もなかなか齢(よはい)を延(のぶ)る薬になんありける」と。かえって「無能無才」の方が、世の中に生きるには好都合だというのでしょう。世間が遠ざけるはずです。
正直者の頭に神は宿ったか、宿らなかったか。 それに頓着しないで「正直に生きる」、それが人生だと、一茶は示したんですね。評価がつくかつかないかは、思慮の他ではなかったか。
一茶もまた、「漂泊」の人だったかもしれない。ある年の秋に「善光寺」に詣でた。「善光寺の柱ニ旧友昨二日通るとありけるに」と書いて、「近づきの楽書(落書)見へて秋の暮」と読む。知り合いの「落書」を善光寺の柱に見つけた。旧友は「昨日、ここを通ったのか」と、旅の侘しさを噛みしめていたかもしれません。これもまた、人生だという感慨を、一茶に倣って、ぼくはここに感じとりたいですね。彼はもう行ったか、追いつくかな、会えないかなと。人生(いのちといのち)の交差も、これに似ているようですね。
HHHHHHH
時々、過ぎてきた事柄や人物を思い浮かべてしまいます。もちろん好んで、そうするのではない。「あの人」は元気か、健在か。いやなことも、忘れたいことも出て来ます。それをぼくは放置している。ほったらかしにしているのです。どこまで、記憶の光と闇が、ぼくの、この一瞬間を照らしてくれるか、あるいはさらに暗くするのか。光の輝きと同じくらいに、闇の深さは計り知れません。
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