明窓・常々思ってること 言葉は「両刃(もろは)の剣」なのだ、と常々思っている。人の苦悩を癒やすこともできれば、使い方次第で簡単に心を傷つけ、命さえ奪ってしまう▼そう思わせたのが2年前、女子プロレスラーの木村花さん=当時(22)=が会員制交流サイト(SNS)で誹謗(ひぼう)中傷を受け、自ら命を絶った悲劇。民放のリアリティー番組に出演して憤慨する場面に、心ない言葉が浴びせられた。番組の制作側に過剰な演出がなかったか否かが問われている▼救う術(すべ)はなかったのか-。先日、テレビドラマ『ミステリと言う勿(なか)れ』を見て、ハッとした。子どもの頃にいじめを受けて万引を強制され「本当はずっと逃げたかった」と懺悔(ざんげ)する男性に、菅田将暉さん演じる主人公が「僕、常々思ってるんですが…」と前置きして静かに語り掛ける▼「どうして、いじめられている方が逃げなきゃならないんでしょう」「欧米の一部ではいじめている方を病んでいると判断しているそうです」。そんな考えが社会に浸透し、有効な手だてが打たれれば、悲劇は繰り返されないと思う▼ドラマの原作は漫画家田村由美さんの同名のミステリー作品。主人公の名前は「久能整(くのうととのう)」。人々が抱える苦悩を整える(癒やす)という意味があるのだろう。ミステリーより心に刺さる言葉の方に注目が集まる。それだけ現実社会がすさんでいるということか。言葉を生業(なりわい)とする身として、その重みをかみしめる。(健)(山陰中央新報・2022/02/07)
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この問題が多くの人に認知され、一つの「社会問題」になったとき、来るべきものが来たというか、「言葉の暴力」「暴力の言葉」を無にすることはまず不可能だと、スマホを持たないぼくは考えました。言葉は「一つの道具」であり、道具というものの性質上「諸刃の刃」であることを避けることはできないのです。だから、どんな道具でも使い方を確実に身につけつる必要があるというか、それを身につけることが、道具を使うということと同義でしょう。よく、言葉は道具だといって、それで済ましている人が結構います。ほんとにそう思ってるんですか、世間で言ってるから自分もそう言っているに過ぎないんじゃないですか。「心ない言葉が浴びせられた」といいます。例えば、「お前なんか消えてしまえ」とか、投げつけられた側は、そのときに相手が誰であるかによって受け取る態度は違ってくるでしょう。親や親しい友人から言われれば、たしかにショックだが、しかし「どうして、そう言われるのか」それを受け止める余裕、いや相手の心証を考える気持ちはあるでしょう。しかし当節の「どこの誰だか、知らないけれど」という「悪の月光仮面」には対処しようがない。
いじめ問題が「専門家」とかいう連中によって論議されている中で「いじめられる側にも問題がある」という方向が突き出されてきたことがありました。教育学者や社会学者などが多かったようですが、いったい何を根拠に「雨が降る日は天気が悪い」という荒唐無稽(ノーテンキ)な説をいうのかしら、自然現象ならまだしも、とぼくは声に出して言ったり、活字で言ったりしました。まるで「喧嘩両成敗」ですね。虐めるほうも悪いけど、虐められる側にも原因があると、だれに頼まれて話してるんだと、怒りが湧いてきました。教育学とかいう学問(があるのかどうか知りませんが)では、この問題にどう立ち向かったのか、詳しくはわかりませんでした。やり過ごしていたというのが大方ではなかったか。学校関係者も、まず隠蔽したくなるんですね。

黒人が差別されるのは「差別する側も悪い」が、「(差別される側の)黒人も悪い」と言って済ましていられる神経がわからない。「黒人である」から差別されるのだ、ということになるんですね。これが通る話でないことは誰も知っていると言いたいけど、そうはいかないから困るんです。北海道の中学生のいじめ事件からの「自殺」問題に、教育関係者が、理不尽な姿勢を一貫して維持してきました。「虐められる側の人権」を言われますが、「いじめた側の人権の方が大事」とまで言った教頭だったかがいました。つまり亡くなったのは「一人(もう生きていません)」、いじめた側(これからの将来がある)が複数だから、「一人の人権より」「複数の人権が大事」ということでしたね。こんな人物が校長だか教頭だかになるという仕組みというか「人間集団」こそが問題でしょう。潰れるというより、潰したいね。要は、自分に「責任」が及ぶことにびくびくしているんですね。義務を果たしていないんだから、責任はないと言いたいのですが、組織防衛という義務を身をもって果たしていたのですから、それに対する「責任」があるというものです。
この問題には繰り返し言及してきました。解決策はない、といってしまえば、身も蓋もありませんが、実際にはそうです。「虐められたら、避難しろ」というのに「なんで逃げなければならないのか」という問いが出るのは当然ですが、そこからどうします。逃げられる「能力(脚力)」があればいいが、そうでないとどうします。乳幼児の「虐待」が頻発しています。なにもできない乳児に「逃げる算段」があるはずもない。乳児に通用しないものは、人間として通用しないことを示しているんじゃないですか。「ハサミ」には「用途」があります。言葉だって「用途」がある。それは当たり前に使うという意味です。あえて言えば(そんなことは言うまでもないが)「善用」でしょう。「◎✖とハサミは使いよう」といいますが、問題は「使いよう」です。本来の使い方を誤れば、自動車は人間を殺し、農薬は他人を殺害する手段になります。
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この雑文収録である「ブログ」は、自分の記憶力の低下(もう手遅れという実感に満ち満ちています)防止という、はかない抵抗のためのささやかな試みです。そのつもりで始めたし、今でもそうだと思っているのですが、たまに扱う問題が、あまりにも「理不尽(りふじん)」であったり「目も当てられない惨状」であったりすると、つい、初期の目的を逸脱してしまいます。それが目下の課題です、そんな問題を扱わないようにしたいとしても、しかし、無理ですね、ぼくは見過ごすことはできない。目を背けることができないから、ついつい、丁寧に言うべきことも、言葉足らずになるんですね。言葉は「諸刃の刃」ですって。
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ずいぶんの昔、ある政党が「水爆には二種類あり、汚い水爆と美しい水爆」とかいう、奇天烈な非論理を展開して、同じ方向を目指すある国(いま五輪を開催している)の「水爆実験」を擁護しました。苦節何十年、今その政党は「一人議員政党」で、消滅寸前です。「馬鹿も休み休み言え」という意味が、ぼくには理解できないんですが、たまに言う「バカ」ならいいんですかね。たまにでもしょっちゅうでも、「バカは言うな」というのでしょ、いじめ問題も、それに似ていますよ。いじめは論外、言葉がないんです、それを窘(たしな)める。「いいいじめ」と「悪いいじめ」があるはずもないのであって、すべからく「いじめ」はあきません、こういえば、「いじめではないと思った」とか「じゃれていたのだ」とかいう。紛らわしいことはするな、それでけりをつけるべしです。いじめに類することは「擁護」も「弁解」も無用であり、御法度です。人を傷つけておいて、「擁護」も「弁解」もあるものか。

「どうして、いじめられている方が逃げなきゃならないんでしょう」「欧米の一部ではいじめている方を病んでいると判断しているそうです」。そんな考えが社会に浸透し、有効な手だてが打たれれば、悲劇は繰り返されないと思う」というのは能天気ですね。欧米ではなく、この島でもそんな考えはとっくの昔からありますよ。問題の根っこには「暴力」を認める心理というか感性が、社会集団にあるということ、そこを見なければ、何を言っても寝言じゃん。「暴力団」がついには消えてなくならない理由はどこにあるか、それは実に単純、「どんな種類であれ、暴力を認める(使う・使うことを容認する)感情(攻撃感情)」が人間にあるからです。問題は、したがって、「暴力を行使しないように、自分に注意する」ということ、これが教育の眼目です、学校であれ、家庭であれ、暴力を使いたくなる衝動を「コントロールする」その力を、子どもが持っている、その力を育てることですよ。ここまで来ても、必ず、それを「育てなかったもの」が生まれていますから、残念ながら「暴力(いじめ)」は根絶できないということです。なに、悲観することはありません。「なくするための道(方法)を歩く」こと、これが生きることの大切な一面、いや核心だとぼくは考えてきました。「賽の河原の石積み」ですよ。「暖簾に手押し」というが、押し続けるとどうなりますか。
言葉は「道具」です。たしかに一面ではそう、「あれを取ってくれ」という言葉は、道具性を含むし、それ以外の意味はありません。でも、同じ言葉でも、道具以上の働きをすることもあります。これを話せばきりがないし、「記憶力低下防止」から逸れるので、本日は御免こうむります。「諸刃の刃」という表現を、コラムは誤用していませんか。これについても、すでにどこかで触れています(すぐに思い出せないのは、記憶力の低下どころではなく、記憶力の消滅なんだね)。
「もろは【諸刃】 の 剣(つるぎ)=(両方に刃のついた剣は、相手を切ろうとして振り上げると、まず自分を傷つけるところから) 相手に打撃を与えると同時に、こちらもそれなりの打撃を被るおそれのあることのたとえ。また、役に立つものも使い方によっては、危険なものになりうることのたとえ。※浄瑠璃・雪女五枚羽子板(1708)厄払ひ「両刃(もろハ)の剣にて人をきるに、振上げさまに我まづ斬らるると云ふ譬へ有」(精選版日本国語大辞典)
「人の苦悩を癒やすこともできれば、使い方次第で簡単に心を傷つけ、命さえ奪ってしまう」と言われたのはコラム氏です。「お願いだからは早く消えてくれ」という類の「雑言」「相手の存在を否定する言語」が、限りなく多数投げつけられたのが「自死の原因」とされています。この言葉を投げつけた人間は「傷ついている」のでしょうか、いないのでしょうか。相手を切るつもりだったが、自分も手傷を負ったといえるんでしょうか、この「SNS」問題で。これ以上は言いませんが、なんかおかしいですね。「両刃(もろハ)の剣にて人をきるに、振上げさまに我まづ斬らるると云ふ譬へ有」という三百年前の浄瑠璃作者の「使い方」を熟読してみる。一本の「剣」を言ってるんですね。「癒やすこともできれば、…命さえ奪ってしまう」と言われていますが、どの言葉が、ですか。「同じ言葉」とは、例えば「お願いだから早く消えてくれ」であるとして、それが相手を傷つけたと思うけれど、どうして癒したり(癒されたり)するんですか。「言葉を生業(なりわい)とする身として、その重みをかみしめる」、「かみしめかた」が、まずもって足りませんね。こも原稿も複数の方が目を通しているんですよね。すべてが「節穴」でしたかな。これは嫌味ではないつもり、「生業」をどうとらえるかの問題です。
「虐めは暴力」、理由の如何を問わず「暴力は容認できない」、それでも暴力(言葉によってであれ)をふるうものは、刑法の「傷害罪」「人権侵害」として罰するしかないんですね、ぼくはそう確信している。
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テラハ出演の木村花さん自殺、母親が真相求めフジテレビなど提訴へ フジテレビの恋愛リアリティー番組「テラスハウス」に出演したプロレスラー木村花さん(当時22)が命を絶った問題で、母親の響子さんが、来年にもフジテレビと制作会社に対し損害賠償を求める訴訟を起こす方針を明らかにした。16日に東京都内で会見し、「多くの人の人生を狂わせる番組だった。出演者の人権が守られていたのかを裁判で明らかにしてほしい」と話した。/ 花さんは昨年放送された番組をめぐってSNSで匿名の中傷を相次いで受け、自殺した。弁護団によると、中傷を受けるきっかけとなった番組の制作で、過剰演出や出演者をおとしめる意図的な編集があったかが裁判での主な争点になるという。花さんが精神的に不安定になっていたのに番組放映に踏み切った両社の対応も追及する。(以下略)(朝日新聞・2021年12月16日)
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木村花さんツイッター中傷、投稿者に129万円賠償命令 フジテレビの番組「テラスハウス」に出演し、昨年5月に自ら命を絶ったプロレスラー木村花さん(当時22)がSNS上で中傷されたとして、木村さんの母・響子さん(44)が長野県の男性に約294万円の損害賠償を求めた訴訟の判決が19日、東京地裁であった。池原桃子裁判長は、男性が争わなかったことから「原告の主張する請求原因を自白したものとみなす」とし、約129万円の支払いを命じた。(以下略)(朝日新聞・2021年5月19日)
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