【河北春秋】仙台市太白区の画家樋口佳絵さん(47)は20年ほど前、自宅前で生後1、2カ月の黒猫を見つけた。両目は腫れて開かず、ノミだらけだった。すぐに動物病院に連れて行った▼片目が見えるようなった猫を家で飼い始めた。だが、他の野良猫たちも心配になる。飼い猫と、過酷な環境で生きる野良猫の暮らしはなぜこんなにも違うのか。約10年前、野良猫を捕まえ(Trap)、不妊手術をして(Neuter)元の場所に戻す(Return)「TNR活動」を始めた▼当時、仙台市で殺処分された猫は年間1000匹以上。活動は焼け石に水なのではないか。そこで、野良猫の現状を知ってもらう啓発活動をする団体「cat&dog&me」を設立。野良猫の不妊手術を支援する基金も設けた。本年度は10カ月で市内の567匹の手術費334万円を補助した▼今月は仙台市と盛岡市の画廊やカフェ、雑貨店12店でチャリティー企画「cat!cat!cat!」を23日まで開催。オンライン店も開設し、アートやグッズを販売、収益を保護活動支援に充てる▼仙台の殺処分は減ったが、ゼロではない。「殺処分のためではなく、猫の病気を治し、育てるためにお金をかけるような仙台になってほしい」と樋口さん。人も猫も幸せな社会を思い描く。(河北新報・2022/02/07)
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この手の記事やニュースが目に入ると、ぼくの脳細胞はフリーズしてしまいます。いつのころから犬や猫といっしょに生活するようになったか、記憶にはありません。戦後の田舎暮らしでは、犬や猫どころではなかったから、家庭に犬猫がいるということがなかったのかもしれません。記憶の中の最初の犬は、弟が学校の先生の家から子犬をもらってきてからだったように覚えています。まだ昭和三十年になっていなかったころです。それはシェパードの子犬でした。何年くらい生きていたのか、これもあいまいですが、たしか上京してからもまだ元気だった気がします。ある冬の寒さ嗚呼が厳しい季節に、あまりの寒さと老齢だったからか、死んだという知らせを受けたように記憶しているばかりです。
本格的に付き合いだしたのは結婚してからで、すでに半世紀ほども経ちます。まだ幼かった娘たちが犬を連れて帰ったことがありました。捨てられていたというのです。当時はマンションに住んでいましたから、管理規則では「動物飼育は禁止」だった。それを住民の一人に注意され、「あんたの家で犬を飼うなら、おれは、ベランダで鶏を百羽飼うぞ」と言われた。「時計代わりにもなるから、ぜひ飼ってください」といったが、案の定、その人は鶏は飼わなかった。要するに「規則違反」を詰(なじ)ったのです。悪いことにその時、ぼくは暇だからというので管理組合の「(代表)雑用係」だった。犬を捨てることもできず、苦慮しましたが、幸いにそれは都内の親戚が引き受けてくれた。しばらくすると、また子どもが捨てられていた猫を連れてきた。同級生の女の子が家に来てその猫と遊んでいた。すると、「鶏百羽」を持出した男性が電話をかけてきて、「今度は犬を飼っているそうだな」と噛みついてというか、嫌みを言ってきた。同級生の女の子はその男性のお嬢さんだった。それで彼は、「そんなら、俺は家でライオンを飼うぞ」といった。またぼくは「どうぞ、動物園に行く手間が省ける」などと減らず口をたたいたが、このままでは仕方がないと、マンションの管理規則を変えることを考えて、何度か変更を提案したが賛成がえられなかった。
そうこうしているうちに、ぼくは体を壊して、もっと静か環境へと、佐倉市に引越しをしたので、猫や犬の問題は持ち越しになった。マンションの管理規則を変えるというのは、極めて早い時期のものだったと思う。今は動物を(鶏百羽やライオンはダメでしょうが)、「飼育」してもいいところが多くなっています。犬や猫がうるさいだの、マンションを汚すだのという人がたくさんいましたが、ぼくはいつだって、「人間の方が始末に悪い」と反発していました。転居先では、一時でしたが、最多で「十三匹の猫たち」と同居していました。すべて避妊や去勢の手術をしての同居でした。そこに三十年も住んでいましたので、猫たちはすべてが寿命が尽きて(中には病死もあった)亡くなりました。これが、今から十年ほど前のことです。
やがてぼく一人が先行して山中に越したのですが、数年遅れてかみさんがやってきたら、すぐに野良猫に食事を与えだした。困ったことになったとは思いませんでしたが、手間暇と金がかかるなあと、結局は、ただいまは猫八と同居中です。まだ周囲に野良猫同然のものがかなりいますが、さて、その猫たちをどうするか、それが目下の思案です。

本日のコラムを読んで、ぼくはこの画家に感心しました。ぼくには思いもつかなかったし、それだけのエネルギーもなかったからです。「TNR活動」といい、「cat&dog&me」活動の開始といい、問題を個人で何とかとしようという、土台無理なことではなく、広く多くの人に活動の意味や支援を呼びかけ、それなりに前進していることは素晴らしいことだし、大いに参考になるものです。「殺処分のためではなく、猫の病気を治し、育てるためにお金をかけるような仙台になってほしい」という彼女の考え方は、ぼく自身も昔から構想していたものですから、もろ手を挙げて大賛成。でもこちらは仙台ではなく、また街中でもなく、山の中。わざわざ、都心から車で「猫を捨てに」、そんな輩が後を絶ちません。行政が積極的に関与してくれるとは思われないし、犬や猫どころではない問題が山積しているのでしょうから、細々と、「猫との同居」をいましばらくは続けていくことになりそう。
近年、「売らないペットショップ」が各地で誕生しています。その実態はさまざまでしょうが、「命に値段」の理不尽さに声を上げる人々が出てきたということです。「ペット」という言葉に、ぼくは抵抗を感じるものですが、とにかく欲しいから買う(飼う)、飽きたから捨てる、という看過できない「動物虐待」は、結果的には「人間虐待」に接続していることを、ぼくたちは見せつけられています。この問題に解決策があるのかどうか、今の段階ではよくわかりませんが、少しでも「いのちをたいせつに」「いのちの選別はいけない」、そんな姿勢や生き方が、一歩一歩始められる社会を念じていますね。「人間の出産」にまつわる多くの人為的な処置(医療)の問題を丁寧に調べていたことがあります。「試験管ベイビー」から始まって、今では「デザインベイビー」といわれる時代に入っています。
いのちを操作することが可能であるということと、それを現実に利用することとは直接にはつなげてはいけないのでないか。「脳死は人の死か」が社会的な問題にされ、やがて「臓器移植」が現実に始められてきました。だから「生命の誕生」も医療の進歩だ、あるいは「万能細胞」技術や医療の分野が先鋭化しています現代に、「生命操作」を安易に、あるいは生命維持のためと、短絡的にとらえる傾向がないかどうか。これは単に「動物飼育」の問題にとどまらない、多くの課題を内包しているるように思われてきます。犬猫などの「保護」や処分防止のためには、専門家である動物病院関係者のさらなる活動に期待しているのですが。
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以下の話題は、かなり前から関心を持って見すえていました。「ペットショップ」の前を通るたびに、この「ケージ(檻です)を壊したいなあと、破壊神(心)が騒いで困っていました。「ペットを売らないペットショップ」、この方向に、なんとか進んでいくことを願っています。
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*売らないペットショップ:ほんの一例です。①「売らないペットショップが登場、命に値段つけることに疑問」;(https://www.news-postseven.com/archives/20190923_1453314.html?DETAIL)②「茅ケ崎に犬猫を販売しないペットショップ 月数回の譲渡会」・神奈川新聞 | 2022年2月7日(月):https://www.kanaloco.jp/news/social/article-827498.html)③その他





◎ 愛玩動物(あいがんどうぶつ)=さえずりを聞いたり、美しい色彩や姿を観賞したり、かわいいしぐさを楽しんだりするなど、人の生活に潤いを与えるために飼育される動物のことで、英語ではペットpetという。昔からイヌ、ネコ、小鳥、キンギョ、ニシキゴイなどがもてはやされてきた。しかしこれらの小動物に飽き足りず、なお珍奇なものを求めようとする風潮が高まり、ペットショップにはアライグマ、ハナグマなどの野生動物も姿をみせるようになった。範囲も著しく広がり、前出のもののほかにシマリス、ハムスター、ミドリガメをはじめとする爬虫(はちゅう)類、アメリカザリガニやカブトムシその他の節足動物も人気がある。もともと特定の種を定められるものではなく、好みによりすべての動物がなりうるが、そこにはおのずと、個人の家庭での飼育に適するものと不向きのものがある。動物を飼育するからには、飼い主にはそれを十分に管理し、他人に迷惑を及ぼさぬようにする責任が生ずるものであるから、大声で鳴き騒がしいものや、著しく不快臭のするもの、猛獣、毒ヘビのように飼い主だけでなく他人に対しても多大の危険性を有するものは、愛玩動物としては適さない。また最近のように野生鳥獣の生息数が著しく減じてきているおりでは、みだりに野生動物をとらえて個人飼育するのは好ましいことではなく、飼育下で継代繁殖可能なものだけにとどめるようにしたい。なお、旧総理府では「動物の保護及び管理に関する法律」を1974年(昭和49)4月1日より、「犬及びねこの飼養及び保管に関する基準」を1975年7月16日より、「展示動物等の飼養及び保管に関する基準」を1976年2月10日より、それぞれ施行させた。また「動物の保護及び管理に関する法律」は1999年(平成11)の改正により「動物の愛護及び管理に関する法律」に改称された。なお、この法律は中央省庁が再編された2001年(平成13)1月より、環境省(旧環境庁)の所管となった。(ニッポニカ)
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海外でも「ペットを売らないペットショップ」の話題が数多くみられてきました。この先どうなるのか、確たる展望はありませんが、犬猫をはじめとする「動物」の命を大切にする社会は、「人間の命を大切にする社会」の必須の条件です。犬猫なんかより、人間の、子どもの、老齢者の命を守るほうがもっと大事だという人もいるでしょうが、つまりは「命はつながっている」ということを実感するためにも、まず「小さな命」から始めたいですね。これはなかなか厄介な問題や課題をたくさん持っています。人間の側では、あるいは解決ができないかもしれないのです。
ぼくは「人権尊重」、それを「ヒューマニズム」といってきたのでしょうが、その標語は、結果的には「人間中心主義」の別名でしかなかったし、「人権尊重」の「人権」とは誰にも認められてきた権利なんかではなく、値段はついてはいないけれど、見えない価格がつけられていて、社会にあっては堂々と「見えない値段」通りに優劣をつけて差別してきたのではないかと主張してきました。いじめや虐待は、「命の価格化」であり、「命の優劣化」の現実的な表れだと言えるのです。どんなことでも、命を尊重するための活動を始める、そうすると、必ず「いのちそのもの」が人間にのみ尊重されものとして備わっているとは考えられなくなる、一番の根本に引き戻されるのです。ぼくに、明確な答えがあるわけではない。しかし「尊重されるいのち」を可能な限りで広げてとらえたいと願うし、そのための行動に移りたいと考えてもいるのです。「人身売買」と「動物売買」は同格ではないもかもしれませんが、根っこでは、同列に並べられるような問題です。時間はかかるけれど、「狭い道」は多くの人が歩くことによって、少しでも広げられるようになるのですね。
蛇足、「その一」です 人権と特権について、繰り返し言っておきたいことがいくつかあります。そのうちの一つです。どこかで触れています、がもう一度。ある人の「人権」は、別の人にとっては「特権」そのものに映ります、いや、特権なんですね。誰だって「人権」を有しているとされているにもかかわらず、その人権を超える権利を持つ人がいるでしょ。それが特権です。同じ構造ですが、ある存在の権利は、別の存在には、まさに「特権」に移ります、いや「特権」そのものとして迫ってきます。貴族と庶民、人間と動物、そのような関係に置き換えると、どうでしょうか。
蛇足、「その二」です 人権というのは何ですか、答えるのが無疼かしいと多くの人は言います。そうかなあ、とぼくはいつも思う。難しく考えるのは、「理屈(を考える)」だからでしょ、といいたいですね。単刀直入にいえば、人権(言葉遣いが適切ではありませんが)というのは、「とうといいのち(尊い命)」です、あるいは「いのちのとうとさ(命の尊さ)」です。そういってみれば、「人権」というのは人間の専有物でないことがわかりますね。だから、ぼくは「人権尊重」というのは、一面では「人間中心主義」であり、「人間の独尊主義」だと言っているのです。「いのち」の地平に降りてきて、果たして、どれが尊い、どれが尊くない、と言えるのでしょうか。
(I say that “respect for human rights” is, on the one hand, “anthropocentrism” and “only human dignity.” When you come down to the horizon of “life”, can you say which is precious and which is not?)
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