「#いーそーぐゎちでーびる」「#ソーグヮチ」

 <金口木舌>旧正月をウチナーグチで祝う あなたにとって今年はどんな1年でしたか?と書くと、1カ月遅れの文章だと思われそうだが、今日は旧暦12月29日。トゥシヌユールー(大みそか)だ▼新型コロナの影響で、行事などは簡素化されるはずだが、糸満市やうるま市浜比嘉島、南城市久高島など、ウチナーソーグヮチ(旧正月)を祝う地域は今日は新年を迎える準備をしているだろう▼ウチナーグチで新年のあいさつは「いーそーぐゎちでーびる」(いい正月ですね)。今年はこの言葉を口にしたり、SNSに書き込んだりする人が増えそうだ。ツイッターで「#いーそーぐゎちでーびる」「#ソーグヮチ」とツイートすると、トラの絵文字が出現する仕様になっている▼日本で旧正月を祝うのは沖縄の一部地域だが、東アジアでは旧正月が主流。ツイッターではこれらの国の新年を祝う言葉にもトラの絵文字が表示される▼中国語、韓国語、ベトナム語など各国の言葉とウチナーグチが並ぶのは誇らしい。旧正月をしない地域も明日は「いーそーぐゎちでーびる」とあいさつしよう。(琉球新報・2022/01/31)

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 「いーそーぐゎちでーびる」(いい正月ですね)と、ぼくは言ったことはありません。しかし、まだ幼児の頃や小学校に入った頃の正月風景は、「旧正月」行事に比して、どこか形式的であったような気がします。お寺にもお宮に参ることもなく、ぼくはこれまでも「大晦日」も「元日」も、普段の過ぎゆく「一日」であるという、そんな付き合い方をしてきました。慌てもしなければ晴れやかに着飾ることもなく、当たり前の明け暮れに終始していたものです。学生時代に「民俗学」なるものに興味をもち、柳田国男さんや宮本常一さんを筆頭に、もろもろの研究者から、それこそ雑多な「民間伝承」「年中行事」などを学んだ。その大半は、今は影も形もなく、歴史の深淵に沈んでいったようですが、時には、まじかに迫った「旧正月」のあれこれを、殊に東南アジアの各地にみるようになると、なんだか「先祖返り」したような心持になるのです。「みなさん、お変わりありませんか」、と挨拶したい気がしてくるのです。

 もつれた記憶の糸をたどれば、おそらくぼくが経験した「旧正月」にかかわる行事のほとんどは、農耕栽培に結びついていたものであり、これは「農山漁業」の生活に刻まれた「はれとけ(ハレとケ)」が織りなす生活模様であり、その最大の節目が「(旧)正月」だったように思われます。その根本は、一家一同の息災と家内安全、あるいは地域の幸運など、それぞれが生活の基盤である土地の「神(産土・うぶすな)」への祈願と感謝の意思表示ではなかったか。さらに、その根を掘り起こすと「先祖を祀る」という、決定的な契機となった「家の神信仰」にたどりつく。そのことに関して、東南アジア各地の行事の華やかさにばかり目を奪われてしまいがちですが、じつは、その行事の核心部分は、基本的にはこの島にももたらされたものであり、いまでも、その原型のいくばくかの要素は嗅ぎ取ることができるというものです。これは人間集団のさまざまな場面で共通して認められる事柄でもあるのです。「家」「先祖」というものが風前の灯火と化し、すでに消えてしまった時代に、「産土」も「家の神」「年神」もあったものではないでしょう。これもまた、留めようのない「時の仕業」でもあるのです。初詣も、豆まきも、歴史の深淵に沈没してしまった(文化)の形骸であり、たんなる浮遊物にすぎないんですね。そこには金儲けの神はいても、民衆の幸福と幸運を託しうる神は不在です。

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◉ ハレ(民俗学)はれ=日本民俗学の基礎概念として、(褻、毛、気)に対比する内容を示す語である。一般にはハレとケは民俗文化を分析する用語として使われている。ケが日常的側面を説明しているのに対して、ハレは非日常的側面を説明する。ハレは晴、公の漢語に置き替えられる例が多い。晴は天候の晴天に通じ、公は公的な儀式に表現されている。したがってハレ着という場合には、普段着ではなく公的な儀式に参加する際に着用する盛装や礼装に当てはまる。人が誕生してから死に至るまでに何度もハレの儀礼に出会う。宮参り、七五三、成年式、結婚式、年祝いなど冠婚葬祭が基本にある。また1年間の行事においても、正月、、神祭りなどもハレの機会である。 ハレは衣食住に顕著に表現されており、ハレ着のほかにも、食事が普段と異なり特別の作り方をする例に示される。神祭りに使われる神饌(しんせん)や、供物を人々が食べ合う直会(なおらい)などの食事、餅(もち)や赤飯、赤い色をつけた食物をカワリモノとしてハレの食物にしている。/ ハレはケを基本にして成り立っている。ケである普段の生活、日常生活が維持できなくなると、それとは別のリズムをもった生活が必要になる。非日常的な側面が強調されるのであり、それは精神が高揚した晴れやかな気分に満ちた時間と空間をさすことになる。私的な部分よりも公的な部分が顕著なのであり、ケに対するハレが公式の儀礼に表現されてくることになる。(ニッポニカ)

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 細かいことは省きます。こういうものの言い方は誤解されるのが落ちですから、あまり言わないほうがいいのでしょう。その一例になるかと思われるのが、「稲作の伝播」の問題です。この島に、どのようにして「稲作農耕」が伝わってきたか、それだけでもいまなお議論が決着していない、悠久の歴史の提出する宿題でもあります。少なくとも、この島で独自に、あるいは単独で「稲」「稲作」「水田稲作」等々が展開されて来たのでないことは明らかです。ではそれが、いかにしてこの島にもたらされたか。それを携えてきた人々がいたからです。今風の「海外渡航」ではないわけで、生活・文化・歴史をすべてを身にまとって、この東アジアの端っこの島にやってきた人たちの集団がいたのです。その人々は、けっしてひとかたまりでやって来たのではなく、地形的にいっても、南から西から北から東から、海を交通の要衝として渡来し、そのことが気の遠くなるほど繰り返されて、やがて、この地に生活の基礎を築く人々が固定され、いつの日か、(後に日本と呼ばれるようになる)「島社会の住人」の元祖となったのでしょう。

 今日の海外旅行のように「旅行鞄」「キャリーバッグ」を持ってやってきたのではありません。おそらく数日、あるいは数年滞在したら、生まれ故郷に帰るという人たちではなかったのです。今なら、家財道具一式をすべて背負って、最後まで、この地に住み着くことを考えた人々でしたろう。つまり、生活も文化も歴史も、ひとまとめにしてこの地にやってきて、住み着くようになったのです。反対に、住み着こうとはしなかった、もとの仲間の人々も、基本的には、集団から抜け出して渡来して行った人々と同じ生活圏にいたとするなら、「生活・文化・歴史」を共にしていたのですから、今となれば、東西に、あるいは南北に離れ離れではあるけれど、根っこの部分では同じ生活意識を持っていたことになるでしょう。多方面における文化や伝統(行事)の類似性や共通性は、このことを証明しているととらえられます。

 文化圏あるいは生活圏というものを、どの程度の範囲でとらえるか、今でも容易ではありませんが、少なくとも「農耕」「漁業」「林業」などの第一次産業といわれるものに共通して認められる特色は、拡大された姿で、「年中行事」や「「正月のしきたり」などに見ることができるのではないでしょうか。

 昨日も書きましたが、ぼくは「旧正月」人間です、少なくとも「年賀状」を書くという点においてだけは。年初にいただいた賀状の返信を、立春前後に出すことになってから、かなり時間がたちます。ぼくは「旧暦の人間」でもあります。俳句などを楽しもうとすると、どうしても、今日の暦では実感も理解も働かないことおびただしいのです。参考になるかどうか。一茶には「立春」を詠んだ句がたくさんありますが、その一、二を。

・春風のそこ意地寒ししなの山    ・春立や弥太郎改一茶坊   ・春立や菰(こも)もかぶらず五十年 

 なんということもない句なのでしょう。しかし、ぼくの感覚からすれば、そこに著されている「春」は「一月一日(元旦)」ではなく、やはり「立春」の近くではないか、一茶の句だからそういうのだろうと言われれば、その通り。否定はしませんが、梅が咲く、鶯が鳴くという季語・季題も「立春」に結び付けなければ、その味わいは難しいのではないですか。

 ともかく、ぼくは「いーそーぐゎちでーびる」と口には出さないし、こっそり「祝う」ということもしません。けれども、まもなく鶯が鳴くだろうというとき、あるいは初鳴きに出会うと、まぎれもなく「新春」を迎えた気になるのです。(右は「どんど焼き=小正月(こしょうがつ)に行われる火祭り」)

 今の世も鳥はほけ経鳴にけり (一茶「おらが春」)

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◉ 旧正月(きゅうしょうがつ)=暦(太陰暦)の正月。1872年(明治5)政府は太陽暦を採用し、従来の太陰暦(正確には太陰太陽暦)を廃止したから、従来の暦は旧暦とよばれるようになった。その際、東京・滋賀などわずかの例を除き、正月や盆をはじめとする民俗的な年中行事は、大半旧暦で行われ続けた。年中行事は年間の生産労働の営みと密接な関係があったからである。ことに正月行事は、大正月(おおしょうがつ)(元旦(がんたん)中心)・小正月(こしょうがつ)(15日中心)の区別もあり、内容が多岐にわたる民俗行事であったから、容易に新暦に移行することはできず、旧暦の正月(旧正月とよばれた)が各地に長く維持され、長い年月の経過のうちにしだいに移行するほかなかった。過渡的に1か月遅れ(月送りともいう)の正月行事を続けていた土地も多い。(ニッポニカ)

◉ どんど=〘名〙 (「とんど」とも) 小正月の火祭。正月一四~一五日に門松、竹、注連縄(しめなわ)などを持ちよって火を燃やすこと。左義長。とんどう。どんどや。どんどやき。《季・新年》※俳諧・炭俵(1694)上「御茶屋のみゆる宿の取つき〈利牛〉 ほやほやとどんどほこらす雲ちぎれ〈孤屋〉」(精選版日本国語大辞典) 

◉ 左義長(さぎちょう)=小正月(こしょうがつ)を中心に行われる火祭り。正月の松飾りを各戸から集めて、14日の晩方ないしは15日の朝にそれを焼くのが一般的な方式である。社寺の境内、道祖神のそばや河原などで行われる。トンド、ドンドンヤキ、サイトウ、ホッケンギョなどさまざまによばれており、いまなお広く行われている。サギチョウというのは、すでに平安時代の文書に「三毬打」または「三毬杖」としてみられるが、3本の竹や棒を結わえて三脚に立てたことに由来するといわれている。火の上に三脚を立てそこで食物を調理したものと考えられている。(もち)などを焼いて食すことはその名残(なごり)かもしれない。いずれにしても、木や竹を柱としてその周りに松飾りを積み上げるものや、木や藁(わら)で小屋をつくって子供たちがその中で飲食をしてから火を放つものなど多様である。関東地方や中部地方の一部では道祖神祭りと習合しており、燃えている中に道祖神祭りの石像を投げ込む事例もある。長野県地方のサンクロウヤキは松飾りとともに、サンクロウという木の人形を燃やす。また九州地方ではオニビとよばれて7日に行われている。多くの土地では、火にあたるとじょうぶになるとか、その火で焼いた餅を食べると病気をしないなどという火の信仰が伝承されている。なお、中心の木を2方向から引っ張ったり、あるいは燃えながら倒れた方向によって作柄を占う、年占(としうら)的な意味をもつようなものもある。(ニッポニカ)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。