
昔、たんごの国普甲寺といふ所に深く浄土をねがふ上人ありけり。としの始は世間祝ひごとしてさゞめけば、我もせんとて、大卅日の夜、ひとりつかふ小法師に手紙したゝめ渡して、翌の暁にしかじかせよと、きといひをしへて、本堂へとまりにやりぬ。小法師は元日の旦、いまだ隅み隅みは小闇きに、初烏の声とおなじく、がばと起て、教へのごとく表門を丁々と敲けば、内より「いづこより」と問ふ時、「西方弥陀仏より年始の使僧に候」と答ふるよりはやく、上人裸足にておどり出で、門の扉を左右へさつと開て、小法師を上坐に請じて、きのふの手紙をとりてうやうやしくいただきて読ていはく、「其世界は衆苦充満に候間、はやく吾国に来たるべし。聖衆出むかひしてまち入候」と、よみ終りて、「おゝおゝ」と泣れけるとかや。此上人、みづから工み拵へたる悲しみに、みづからなげきつゝ、初春の浄衣を絞りて、したゝる涙を見て祝ふとは、物に狂ふさまながら、俗人に対して無常を演ルを礼とすると聞からに、仏門においては、いはひの骨張なるべけれ。それとはいさゝか替りて、おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界ながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける。

目出度 さもちう位也おらが春 一茶
こぞの五月生まれたる娘に一人前の雑煮膳を居(す)へて
這へ笑へ二つになるぞけさからは
文政二年正月一日
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一茶は多くの人から好まれてきました。それだけの人望があったのかどうか、ぼくにはよくわかりません。しかし、彼は人並み以上に苦労をして生きてきたという点では、ぼくは親しみを早くから覚えてきました。もちろん、彼の作る「小さいものへの慈しみ」が、幼心に、やさしく語りかけてきたという事情はあるでしょう。彼の死後に出された句文章「おらが春」をこよなく愛読するものです。詳細は省きますが、彼自身が生きてきた軌跡を、晩年に近い「一年」を切り取って描き出した文であり、句であります。
これが一茶の句であると、だれからも愛でられたもののかなりの句がこの集に収められています。まず冒頭の一文に添えられた句は、目出度さも中(ちう)位なりおらが春 について、一茶はこう述べています。
「おのれらは俗塵に埋れて世渡る境界ながら、鶴亀にたぐへての祝尽しも、厄払ひの口上めきてそらぞらしく思ふからに、から風の吹けばとぶ屑家はくづ屋のあるべきやうに、門松立てず、煤はかず、雪の山路の曲り形りに、ことしの春もあなた任せになんむかへける」貧乏人は貧乏人らしく、陋屋にて「春」を迎えるのだ、と。この句文集の末尾には「ともかくもあなた任(まか)せの年の暮 (五十七歳)一茶 文政二年十二廿九日」と記(しる)しています。

この島では一時期、国民がすべて「中流意識」を標榜していたことがありますが、一茶のいう「中位」は、それと似て非なるものでしょう。「俗塵に埋れて世渡る境界」にふさわしい「正月」をして「おらが春」というのです。決して「人並」「世間並み」ではなかったことは、彼の仕事(作品)がよく示しているところです。「中位のおらが春」から始まった新年(新春)も、ついには「あなた任せの年の暮」と韻を踏んで、一年の記録を閉じている。この「ともかくもあなた任せの年の暮」という句にはじめて出会った時、なんという句だろう、俳句だろうとぼくは訝(いぶか)しく思った。雀や蛙に思いを寄せる一茶は、それなりに「ちゃらんぽらん」な人だという、まるで、わが同士を得た気がしたのも、一茶にあきれた理由でした。じっさいに「あなた」はだれだったのか、「ともかくもあなた任せ」という一茶の「あなた」は誰だったか。それを知るために、一茶を少しは勉強してみようという気になったのかもしれません。手元には「一茶全集」(信濃毎日新聞社刊)しかありませんでした。(ヘッダー写真は黒姫高原スキー場:https://www.shinano-machi.com/spot/255)
これからも、折りに触れて、一茶の「あなた任せ」の宗教心と、「中位なりおらが春」の自己認識に寄り添っていこうと考えています。本日は、その前触れ(前宣伝)であります。
本日は二月一日、来る二月四日は「立春」です。旧暦の「正月」「新春」でもあります。どれくらい前からか、ぼくは年賀状をいただいても、返信は「三が日」や「松の内」には出さくなりました。大変な無礼でもあるのですが、どうしても気持ちがしっくりこないまま「(暮れに)本年もよろしく」とは書けませんでした。その思いは相当昔から萌していたのですが、世の習いに抗することはなかなか困難を感じていたのでしょう。しかしもう十年以上にもなるか、ぼくには「立春」こそが「正月」だという、「古人の感覚」が戻ってきたのでした。以来、豆まきや立春の前後に「本年も何卒よろしく」と書くにいたったのです。年賀状の返事を出さない無礼者と、大声で叱られはしませんでしたが、多くの人は怒ったはずです。それも仕方がないと感じつつも、今でも考えあぐねています。

「目出度さも中位なりおらが春」という気分を、わがものにしたのも一茶のおかげだったかもしれません。(今日あたりから、年賀状の返信の準備に入っているのですが、最近はパソコンの調子がすこぶる悪くて、ゆっくりと「修復」やらソフトの「インストール」のやり直しなどをしています。加えて、印刷機の動きもおかしい。本人同様に、相当に「ガタがきている」のです。つまらない文章を腐るほど書いているせいですね。機器も、まちがいなしに、使う人間に似てくるのでしょうから、この「不具合」はあるいは、ぼくの手に負えないのかも、とダメならダメで、賀状の返信は「春のお彼岸(春分の日)」あたりころまでにしようかとも愚考しているところです。
(右の写真は「漂泊の俳人・小林一茶は流山の商家・秋元三左衛門(俳号・双樹)のもとをたびたび訪れたことから、流山は一茶の第二のふるさとともいわれています。市では、この由緒ある「小林一茶寄寓の地」を市指定記念物(史跡)に定め、庭園や建物を整備して、一茶双樹記念館としてご利用いただいています。流山市HP:https://www.city.nagareyama.chiba.jp/institution/1004311/1004320/1004322.html)
HHHHHHHHHHHHHHHHH
以下は「解説」になります。

俳人小林一茶の生涯 小林一茶は、1763(宝暦13)年、長野県の北部、北国街道柏原宿(現信濃町)の農家に生まれ、本名を弥太郎といいました。3歳のとき母がなくなり、8歳で新しい母をむかえました。働き者の義母になじめなった一茶は、15歳の春、江戸に奉公に出されました。奉公先を点々とかえながら、20歳を過ぎたころには、俳句の道をめざすようになりました。
一茶は、葛飾派三世の溝口素丸、二六庵小林竹阿、今日庵森田元夢らに師事して俳句を学びました。初め、い橋・菊明・亜堂ともなのりましたが、一茶の俳号を用いるようになりました。/ 29歳で、14年ぶりにふるさとに帰った一茶は、後に「寛政三年紀行」を書きました。30歳から36歳まで、関西・四国・九州の俳句修行の旅に明け暮れ、ここで知り合った俳人と交流した作品は、句集「たびしうゐ」「さらば笠」として出版しました。/ 一茶は、39歳のときふるさとに帰って父の看病をしました。父は、一茶と弟で田畑・家屋敷を半分ずつ分けるようにと遺言を残して、1か月ほどで亡くなってしまいました。このときの様子が、「父の終焉日記」にまとめられています。この後、一茶がふるさとに永住するまで、10年以上にわたって、継母・弟との財産争いが続きました。

一茶は、江戸蔵前の札差夏目成美の句会に入って指導をうける一方、房総の知人・門人を訪ねて俳句を指導し、生計をたてました。貧乏と隣り合わせのくらしでしたが、俳人としての一茶の評価は高まっていきました。/ 50歳の冬、一茶はふるさとに帰りました。借家住まいをして遺産交渉を重ね、翌年ようやく和解しました。52歳で、28歳のきくを妻に迎え、長男千太郎、長女さと、次男石太郎、三男金三郎と、次々に子どもが生まれましたが、いずれも幼くして亡くなり、妻きくも37歳の若さで亡くなってしまいました。一茶はひとりぽっちになりましたが、再々婚し、一茶の没後、妻やをとの間に次女やたが生まれました。
家庭的にはめぐまれませんでしたが、北信濃の門人を訪ねて、俳句指導や出版活動を行い、句日記「七番日記」「八番日記」「文政句帖」、句文集「おらが春」などをあらわし、2万句にもおよぶ俳句を残しています。/ 1827(文政10)年閏6月1日、柏原宿の大半を焼く大火に遭遇し、母屋を失った一茶は、焼け残りの土蔵に移り住みました。この年の11月19日、65歳の生涯をとじました。(一茶記念館:http://www.issakinenkan.com/)
◉ おらが春(おらがはる)=小林一茶(いっさ)の代表的な句文集(くぶんしゅう)。一茶死後25年たって、弟子の白井一之(いっし)が上梓(じょうし)。1819年(文政2)、一茶57歳の1年間の随想、見聞、句作だが、ちくりと皮肉を仕込んだ見聞にも、この年、長女さとを痘瘡(とうそう)で死なせて、その悲嘆の情をありていにつづった文章にも、一茶の円熟が感じられる。そして、重なる子供の死(3年前に長男死亡)を通じての、浄土真宗門徒一茶の如来(にょらい)信仰の成熟が目をひく。一之がこの題を選んだ句文集最初の句「目出度(めでた)さもちう位也(くらいなり)おらが春」を、集末尾の句「ともかくもあなた任(まか)せのとしの暮(くれ)」と照応させつつ、「自力他力」の「小(こ)むつかしき子細(しさい)」を超えた、「あなた任せ」の境地を一茶は熱っぽく述べている。[金子兜太](ニッポニカ)

◉ こばやし‐いっさ【小林一茶】=江戸後期の俳人。通称、彌太郎。本名、信之。信濃柏原の人。三歳で実母に死別し、八歳以後継母の下に育てられる。一四歳の時、江戸に出る。のち二六庵竹阿(ちくあ)の門に入り、俳諧を学ぶ。全国各地に俳諧行脚の生活を送ったが、晩年は故郷に帰り、俳諧宗匠として安定した地位を得た。しかし、ようやくにして持った家庭生活は妻子に死なれるなど不幸であった。その作風は鄙語、俗語を駆使したもので、日常の生活感情を平明に表現する独自の様式を開いた。著に「おらが春」「父の終焉日記」など。宝暦一三~文政一〇年(一七六三‐一八二七(精選版日本国語大辞典)(一茶は房総の各地に足跡を残しています。右は市川市の葛飾神社内)
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