I also express my opposition.

Putin should get out of the president’s chair. I oppose any war. This “attack” on Ukraine is not allowed. Dogs, cats and other creatures unconditionally do not tolerate any “violence”. That’s why, in line with them, I also express my opposition. As long as I can breathe, I want to stand up to the attacked side and continue to speak out against the war. (A Japanese man living in the countryside of the Boso Peninsula)

______________________________

 侵略に「大義名分」などあるはずがない

【北斗星】最近は登場の機会が少ないようだ。本県から2012年、東日本大震災後の支援に対する感謝の意を込め、ロシアのプーチン大統領に贈られた秋田犬「ゆめ」。プーチン氏の写真満載の今年のロシア製カレンダーにはゆめも一緒に写っているが、13年公開の写真と同じ時の撮影と思われる
▼ゆめのお礼に佐竹敬久知事に贈られたシベリア猫「ミール」は元気な姿の動画が度々公開されている。一昨年春、新型コロナウイルスに感染していないかプーチン氏が心配していると伝えられ、佐竹知事がロシア国営タス通信に「大丈夫」と答えたことも
▼動物好きのソフトなイメージとの落差にがくぜんとさせられる。プーチン氏のウクライナに対する強硬姿勢だ。14年に南部のクリミア半島を強制編入。今月24日には軍事侵攻を開始した。親ロ派支配地域を守るためと言いながら全土を攻撃している。これが侵略でなくて何だというのだろう
▼ロシア軍は首都キエフも包囲し、攻勢を強めている。ウクライナ側には多数の死者が出ている。ロシア国内でも抗議デモが行われた。流血と破壊をこれ以上広げてはならない
▼日米欧など各国は経済制裁強化で足並みをそろえる。ロシアが自らの傷を深めないうちに攻撃を停止し、軍を撤退させることを望む
▼ゆめの命名者、プーチン氏がウクライナにもたらすのは夢や希望ではなく絶望でしかない。ミールはロシア語で「平和」の意だ。秋田からも声を上げたい。ウクライナに平和を。(秋田魁新報・2022/02/27)

 どんな人間でも「権力」の座につきたくなるとは限らないし、いったん「権力の座」についたら、一日でも長くその座を守りたくなるとも限らない。さらに、長く「権力者」として君臨していると、感覚マヒが進行し、人民の苦しみを意に介さないで、少しでもそれを守りたくなるのが人情であるといえなくもない。いずれも、人それぞれであり、それぞれによって、「権力者」像が作られるのでしょう。それにしても「権力」は雪だるまみたいに、大きく見せたくなる、まことの「魔物」ですね。ぼく自身の考える「権力者像」というものをあげるなら、まず「その像」は幻のようであり、あるいは「砂上の楼閣」に等しいものだから、決して幻想を持って(抱いて)その座に憧れない人、それが第一位。その次は、どうしても権力の座に就かざるを得ないとしても(そんな機会も、人も、まずいない)、いつでも、一瞬でも早く辞めたい・降りたいと願っている人。その他は五十歩百歩。最悪は、「俺しか権力者にふさわしいものはいない」という自己肥大の痴呆にかかる人です。辞める時を失してしまうのです。

 自分だけが権力者にふさわしいと思いこんでしまっているものは、すでのその段階で「腐食」(酸化)しているし、「腐敗」が始まっているのです。当人は、その腐敗臭には気が付かない、感覚器官が鈍麻しきっているからです。誰もが、いつだっていう「権力は腐る」というのは事実ですが、ぼくはむしろ、「腐るのが権力だ」と考えています。ロシアのような「大国(領土が広大である)」とは違う、もう比較を絶するような小さな組織で、ぼくは何度か経験してきました。その組織の「長」になるには、選挙を経て「任期四年・二期限り」が規則でした。大半は規則通りに任期を務めるのですが(当たり前のこと)、そうでないのが時々出て来ます。やたらに焦がれる「権力志向人間」です。ぼくはこんな「輩」を二度ほども見ました。いったん、「権力の味」を占めると、その味が忘れられないんですね。ぼくには、まったく想像もつかない、その味は。彼は「規則」を変えようとして、支持者に対して根回しを始めたのです。側近中の側近から聞いた話です。情けないことおびただしいが、それを応援する(支持する)手下もいるのですから、世の中はさまざまですね。こんな組織は、ろくでもないものですよ。

  ネットのニュースで、ロシア大統領の「(侵略)宣言」を聞いた。あれはなんというのだったか、「連邦安全保障会議(会議があるとは思われないが。大統領に賛成の意見を言わされるだけの「会議」がこれです)」とかいうそうです、そこでは、彼は、この国では稀有ではない、「独裁者」そのままの姿で画面に映っていました。「徳川の将軍の『謁見』」の如くでしたね。みんながあんなことを許しているし、それを「国民」(いれば、の話ですが)も黙ってみているんでしょうか。ぼくは、政治や現代ロシアに関してはまったくの「素人(しろうと)」です。それで十分だと言いたいですね。この先の「予測」はしません。競馬なんかではないからです。たくさんの「予想・予測」の専門家がいるのですが、ぼくはまずそれ(予想・予測)を無条件では受け入れない。「当たるも八卦、当たらぬも八卦」で、多数の死傷者が現実に出ているのですから、高みの見物というわけにはいかないんですね。ぼくは見物しているのではない。肝をつぶしながら、さらに犠牲者が出ないことを願い続けています。その半面で、独裁者とその協力者に「天罰」が下ることをより強く願うものです。おそらくプーチン氏は懸命に「墓穴」を、自分一人が入るためだけではない、きわめて大きな「墓穴」を掘っています。数年を置かずに埋葬されるための「墓穴」を、です。

OOO

(http(Russian Archives/Global Look Press)s://jp.rbth.com/lifestyle/82806-putin-ga-daitouryou-ni-naru-mae-no-sugata)

◎ プーチンぷーちんВладимир Владимирович Путин/Vladimir Vladimirovich Putin(1952― )=ロシアの政治家。レニングラード(現サンクト・ぺテルブルグ)市生まれ。レニングラード大学(現サンクト・ぺテルブルグ大学)卒業後の1975年に旧ソ連国家保安委員会(KGB)入りし、冷戦時代の5年間を旧東ドイツで諜報活動に従事した。1991年のソ連崩壊後は、サンクト・ぺテルブルグ市副市長などを経て、1996年からロシア連邦大統領府に勤務。実務家として辣腕(らつわん)をふるい「影の枢機卿」と異名をとる。1998年に連邦保安長官となり、1999年8月首相に就任すると、「テロリストの殲滅(せんめつ)」と「強いロシア」を唱えて、チェチェン共和国への軍事介入を指導し国内の支持を得た。同年12月、引退するエリツィン大統領から大統領代行に任命され、2000年3月の大統領選挙に当選、5月第2代ロシア連邦大統領に就任した。一貫して「強い国家」の建設を政策目標に掲げる。行政機構改革として連邦全土に七つの連邦管区を設置(チェチェンは直轄統治)して中央集権化を推進する一方、積極的に外国を歴訪し、CIS(独立国家共同体)諸国をはじめ、ヨーロッパ、アメリカ、中国、北朝鮮、中近東などと活発な首脳外交を展開する。2004年再選。大統領として2000年(平成12)に二度、さらに2005年と2009年にも訪日。2008年5月大統領2期目の任期を満了し、与党「統一ロシア」党首、首相に就任。さらに2012年3月の大統領選挙に立候補し当選した(就任は5月)。趣味は少年時代から始めた柔道。(ニッポニカ)

OOO

プーチン氏、ウクライナ東部2地域の「独立」承認 現代の皇帝のように (BBC:2022年2月22日)

ロシアのウラジーミル・プーチン大統は21日、連邦安全保障会議を開き、居並ぶ政府幹部を前に、ウクライナ東部の親ロシア派勢力が掌握する2つの地域を独立国として承認すると宣言した。その上で、ロシア軍に両地域で「平和維持活動」にあたるよう命じる文書に署名した。/ プーチン氏が独立を承認したのは、ロシアが後押ししてきた自称「ドネツク人民共和国」と同「ルガンスク人民共和国」。その代表2人は承認式のため、あらかじめ大統領府で待機していた。/ プーチン氏がロシアのテレビ経由で国民と全世界に披露した「政治劇」さながらの動きについて、BBCのスティーヴ・ローゼンバーグ・モスクワ特派員が報告する。(https://www.bbc.com/japanese/video-60475358

HHHHHHHHHHHHH

 この「侵略行為」に対して、この島国はどんな政策方向をとるのでしょうか。とれるのでしょうか。両国間に(北方領土)問題があると言うが、この間に、問題を出汁にして、適当にあしらわれて来ただけでしたし、プーチン氏と「個人的信頼関係」を結んだという前々総理(「ウラジミール」と友だちだと吹聴していた)、その信頼関係がどんなに「薄っぺらなもの」だったか、今頃になって「煮え湯」だか、「冷や水」だかを浴びせられたと気づいたみたいです。政治家は平気で人を「裏切り」「殺戮し」、「(口癖のようにいう)平和」(それを偽装し、錦の御旗にします)のためには手段を択ばない、その手の人間たちだと考えています。今回の(侵攻)作戦は、教科書通りの、実に古典的手法ですが、いずれにしても「戦争には殺戮」が伴います。それを防ぐためだけにでも、一肌脱いでほしいね。独自の判断で、誰かの指示を仰がないようにして、現状を打開するための方策を実行してほしい、と「ミール」と「ゆめ」にすがる思いで、祈るばかりです。

______________________________

 〈旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり〉

 ある地域の歴史が長く続くと、さまざまな出来事が地層のように重なってくる。実際に事件や事故、事変や戦争、自然災害などに遭遇した人はもちろん、その周りの人々も、それに関心を持つ人も「出来事」の記憶を自らの胸中にとどめておこうとするでしょう。やがて、時間はさらに過ぎて、実際に当事者として「出来事を経験した」人がいなくなると、初めて当の出来事は「歴史」になるのかもしれません。その「出来事=歴史」をいかにして、後世の人間が自らのものにしうるか、それこそが、語り継がれたり(伝承・伝達)、教えられたり(教育)する「歴史の継承作業」だということもできます。事件や事故を歴史の淵に沈めないために、このことを風化させない、そのための努力がさまざまな方法でおこなわれてきました。それが、後世に生きる人間の役割であるのだともいえます。ぼく流のつたない表現でいえば、「歴史を生きる」ということです。

(事件発生時の軍人会館前 ©文藝春秋)(https://bunshun.jp/articles/-/16267?page=3)

 八十六年前の「今日」、いわゆる「二・二六事件」が、首都東京で勃発しました。詳細は事典に譲りますが、この「クーデター事件」の記憶を、実際に経験したものとして、胸中にとどめている人も、たくさん存命されています。しかし、大半は、この事件のことを「学校教育」で学んだということになるのでしょう。いかなる「歴史」も、時間の経過とともに、「学校で習う」という学び方が圧倒的になります。その割に学校の役割のこの方面での重要さが、いとも軽々しく扱われていることを、ぼくはつねに感じてきました。さらに言えば、その当の「歴史事実」の記憶のされ方も、多くは「試験に出るから覚える」式のものに堕しているのではないでしょうか。試験に出なければ、覚えない、あるいは忘れてしまう、このようにして「出来事の実在」は、世上から徐々に消えて行ってしまうものです。これを押しとどめることはできないのではないかということも言えそうです。

 何かと御託を並べていますが、本日は「(一九三六年の)二・二六事件」のあった日です。もちろん、ぼくはこの段階では、まだ誕生以前、「虫けら」でさえありませんでした。よく使う言葉でいえば「父母未生以前」ですが、この事件当時、ぼくの両親は存命していましたから、ちょっと昔というくらいのところです。それだから、この事件の内容は学校教育を通して切れ切れに学んだのであり、それをすっかり忘却した、記憶から排除した後になって、自らの興味や関心の基づいて学びなおしたものです。ぼくが得たと言える「歴史事実」のほとんどすべては、そのように、自分から、自己流に学んだものです。ことの当否ではなく、事実そのままを言うとそうなります。もちろん、引用した二つの「コラム」に書かれているように、事件の関係者の末裔は、それぞれの仕方で「歴史事実」の記憶を持ち続けて来たでしょう。時には、同じ事件を左と右、上と下というように、相反する側の目で見るということも生じます。この事件は、当初から名称に幾度か変更を加えられてきました。「〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉」という名称の変転は、あるいは、歴史の改竄とか修正という以上に、もっと深い意味が込められているのかもしれません。

 昭和戦前期とされる時期、「昭和維新」ということが盛んに叫ばれていた時代でもあったのです。すでに大陸では「満州事変」が継続されていました。国内改造という名目で、後に謳われる「アジアの盟主」への踏み石の一歩であったともいえます。明治は「御一新」で始まり、「明治維新」となり、やがて「王政復古」へと歴史の駒は進められてきました。今もなお「維新」を唱道する政治団体がありますが、この語は「…この元号(「明治」)は1868年9月7日の夜,天皇睦仁(むつひと)が宮中の賢所で,儒者の選定したいくつかの元号候補からくじで〈明治〉を選び,翌8日の一世一元の詔で睦仁治世の元号と決まった。〈維新〉は《詩経》の〈周は旧邦と雖も(いえども),其命維(こ)れ新たなり〉や,《書経》の〈旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり〉などから用いられ,百事一新を意味する。そして,この〈明治〉と〈維新〉とは,1870年(明治3)1月3日の大教宣布の詔書で,〈百度維新,宜しく治教を明らかにし,以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし〉と述べ,神道イデオロギーによって巧みに接合された。…」(世界大百科事典)とあるように、「其命維(こ)れ新たなり」「旧染汚俗,咸(みな)共に維れ新たなり」で、すべてを刷新するというのが趣旨で使われてきました。「明治維新」「昭和維新」「平成維新」「令和維新」「大阪維新」「日本維新」(紛らわしい「維新」もあります)などと、御旗は立てられてきましたし、今も立てられているのです。いつの時代でも「百度維新」「維れ新たなり」の必要であるのは確かですが、「クーデター」まがいを以って、「維新」しよう、「以て惟神(かんながら)の道を宣揚すべし」というのは、かえすがえすも語るに落ちた話ではあります。しかし今もなお、地に落ちた話を盲信する人々も絶えません。

【三山春秋】 ▼〈雪は降り積んだままである。少林山の雪景は白と黒の二色だ。ところが東京ではこれに赤が加わって、黒、白、赤の三色となった、青年将校達が、大臣や軍部の高官を暗殺したのである〉。建築家ブルーノ・タウトは日記にこう記している▼1936年2月26日、陸軍の青年将校らが約1400人の部隊を率いて首相官邸などを襲った。後に軍部の台頭を招いた二・二六事件である▼事件は多くの人に強烈な記憶を残した。五代目柳家小さんは、わけの分からないまま反乱軍に属していた。立てこもりの最中、下士官の命令で落語「子ほめ」をやったが、始めから終わりまで誰一人笑わなかった▼カトリック修道女で教育者の渡辺和子さんは当時9歳。軍人の父錠太郎が撃たれる一部始終をわずか1メートル離れた座卓の陰から見ていた▼50年後、銃殺刑に処された青年将校らの法要に請われ参列した。墓参りして階段を下りていくと、男性2人が涙を流しながら立っていた。父の寝室に入ってきた反乱兵の弟だという。2人は「これで私たちの二・二六が終わりました。私たちがまずお父さまのお墓参りをすべきだった」と謝罪、手紙を交わす間柄になったという▼海軍一等機関兵のわが祖父は反乱軍鎮圧のため回航を命じられた戦艦長門に乗り、東京湾で待機していた。それ以上のことは分からないが、意外にも筆者の近くにまで伸びていた事件の影である。(上毛新聞・2022/02/26)
<卓上四季>二・二六の人事
 陸軍皇道派青年将校による二・二六事件には人事の伏線があった。それは陸軍次官に就任した柳川平助が腹心の小藤恵大佐を人事権を握る補任課長に任じたところから始まったと、元陸軍少将田中隆吉の「日本軍閥暗闘史」にある▼小藤は職権を利用して、人事異動のたびに皇道派中の最も熱狂的な尉官を東京の近衛師団に集めた。永田鉄山軍務局長が暗殺された相沢事件のころにはすでに20人超に達しており、クーデターへの決心を強固なものとしたという見立てだ▼事件の動揺が全国に広がる中、田中が参謀を務めていた関東軍では注意を要する青年将校を一斉に拘束。直ちに事態を掌握した。人事が組織の行方を左右することは時代を問わない▼二・二六事件後、統制派が力を増す中、田中が「その欲するままに国政を左右することができた」と批判した人物がいる。永田に代わり台頭し日米開戦に突き進んだ東条英機だ▼派閥の暗闘がもたらした戦争遂行への道。「田中から見れば、青年将校も踊らされた存在だった」と作家保阪正康さんは「帝国軍人の弁明」(筑摩選書)に書いている▼極東国際軍事裁判で検察側証人となったことから、裏切り者扱いされた田中が残した教訓がある。偏狭な優越感は他民族の反感を買い、百害あって一益ももたらさぬ。戦後日本は平和の先駆者たれと願った田中。派閥争いの愚を知る者の重い言葉である。(北海道新聞・2022/02/26)

◎ 二・二六事件【ににろくじけん】=1936年2月26日未明,皇道派青年将校22名が下士官・兵1400名余を率いて起こしたクーデタ事件。皇道派青年将校は北一輝に接近,昭和維新の実現をはかり,武力による国家改造を計画,真崎甚三郎教育総監罷免,相沢事件など統制派の台頭に反発し皇道派の拠点であった第1師団の満州派遣を機に蜂起(ほうき)を決意。斎藤実内大臣,高橋是清蔵相,渡辺錠太郎教育総監を射殺し,鈴木貫太郎侍従長に重傷を負わせ,陸軍省,参謀本部,国会,首相官邸などを占拠,陸軍首脳に国家改造の断行を要請した。陸軍首脳は戒厳令をしいたが,海軍,財界がクーデタに反対であるのをみて弾圧に転換,反乱軍の規定も〈決起〉〈占拠〉〈騒擾〉〈叛乱〉と四転。29日反乱軍を鎮圧。首謀者や理論的指導者の北一輝らを死刑,皇道派関係者を大量に処分,統制派が実権を掌握。岡田啓介内閣倒れ,軍の政治的発言権が強化された。(マイペディア)(右上は東京新聞「雪降る中、日比谷公園付近を行進する鎮圧部隊 =1936(昭和11)年2月26日から29日までの間のいずれか」)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/88199)

◎ 昭和維新(しょうわいしん)=1930年代前半の日本の右翼運動が主張した国家の革新、国内の改造をよぶことば。1928年(昭和3)藤井斉(ひとし)らの海軍青年将校が組織した王師会の綱領に「明治維新ヲ完成シ」という主張がみえるが、昭和維新という呼び方が広がったのは五・一五事件(1932)からである。同事件の檄文(げきぶん)が「維新日本ヲ建設セヨ」をうたい、同事件の被告三上卓(みかみたかし)海軍中尉が獄中で作詩したという「青年日本の歌」が「昭和維新の歌」として広がったことで、昭和維新は二・二六事件(1936)に至る国内改造運動の合いことばとなった。それは「皇道維新」と称されることもある。しかし内容は政党財閥を批判して天皇親政を主張するスローガンにとどまり、具体的な改革の目標やプランを意味することばではなかった。(ニッポニカ)

OOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOOO

 もう半世紀近く、ぼくはこの日になると、一人の友人を思い浮かべます。その人は「政治学者」であり、職場の同僚でもありました。ある時期に、彼は「学校行政」「教育政治」に大いなる興味を抱き、所属学部長を務め、さらに大学理事に就任、付属学校の理事長・校長などを歴任していました。そして二度、三度と、「総長(学長・理事長)」になるべく選挙を戦った方でした。その都度、ぼくはなにかと相談を受けたのですが、管理職に就こうという気が、ぼくには皆無でしたから、彼にとってはあまり役には立たなかったと、いまにして相済まないという気もしています。それはともかく、彼とは一貫して交流を重ねてきた。本年の年賀状には「すべって転んで、骨折して」と書かれていたので、少し心配はしています。一別以来、もう十年近くになりますか。(左は、現「九段会館」、事件当時は「軍人会館」)

 「二・二六」とその人の関係はというと、実はその日が「誕生日」だった。実に記憶しやすい日付でした。まだ三十前からの付き合いでしたから、ぼくにとっても、この「二・二六」は、また歴史的記念日とは異なった意味合いを持っているのです。もちろん彼は昭和十一年生まれではありません。それよりずっと後の生まれでした。ぼくの二歳年上。「未完の昭和維新」ではなく、Wさんのことについて少し続けます。一つの職場で、彼の一挙手一投足を見る機会に恵まれていたし、機会を見つけては、理由をつけては連日飲み歩いたほうでしたから、彼はどのような性格の人物であり、何を考えているのかも、手に取るようにわかりました。人物は好感が持てたし、能力もある人でしたから、人望よく、その人を、多くの人は大学行政の任につかせたのでした。しかし、人間がよすぎた(変な言い方ですが)ために、望み(総長就任)を達することはできなかったように思います。どんな組織でもトップに上り詰めるには、それなりの時期や人望など、幾多の要素が求められるのでしょうが、Wさんは、それらは備えていたと思う。ただ一つ欠けていたとするなら、「政治力・政治性」でした。政治学者である彼に、その「政治力」が欠けていたというのは逆説(皮肉)のようでもあり、またそうであろうと、ぼくには納得できないものでもないのです。ぼくに言わせれば、彼は育ちが好かった、いや好すぎたから、「政治力」などを持たないで大人になったんだろう思われます。企業でも学校でも、よほどの「時運」に恵まれないと、政治力抜きでは首座に上り詰めることはできないのではないでしょうか。

 ここで「時宜を得る」という言葉を使いたいのです。「タイムリー」というものです。なんでこんな奴が「トップなの?」ということは、しばしば生じますが、これは「時宜を得た」というほかないのです。その証拠に、時宜を得て「トップ」になった人間の仕事ぶりには、見るべきもの、取るべきものはまずありません。それでも長く続くことはありますが、それもまた「時宜を得た」というだけのこと、その「無能者」が時宜を得続けている間に「組織」は回復不能の打撃受けていることが多くみられます。それでも続くのは、「組織」そのものをどうするかということよりも、自らの地位や利益に、取り巻きの多くが関心を持つので、それがまた無能人間を支えるからです。この社会の現状を見ると、このような事態が各地各所で生じていることが手に取るように見えてきます。無能者のための時宜が続きますね。これも、時の運ですな。

 Wさんが時宜を得なかったのは、人が好すぎたからです。変な言い方ですが、なににおいても「トップ」に立つには、善人ではだめで、悪人に限ります。この場合の「善人・悪人」は親鸞や法然のいうところとは違います。政治力を指して、その力をどれだけ持っているかが、善人と悪人の別れ目です。その点で、Wさんは「善人」でした、今も。誰もが安心して、彼と付き合えます。彼は政治学をもっぱらにしていましたから、「政治力」を行使していたのでしょうが、本物の「政治力」というものは、人を殺す、切る、排除するなどという、恐ろしげなもので、幸か不幸か、彼にはそれがなかったと、ぼくは断言できるのです。二枚舌や二股公約などという「芸当」は彼にはできなかった。正直であり、愛すべき人でしたから、「頭かくして、尻隠さず」という愛嬌を失わなかった。それ故に、少々の政治性を持った人間たちは彼と心中することをためらったんだと思います。負け犬には寄りかかり切らなかったのでしょう。

 この友人と「二・二六事件」とは無関係かといえば、大いに関係があるとぼくは言いたくなります。「青年将校」は将棋の駒でしたから、事件の真相を知る・語るには「駒の使い手」を知る必要があります。青年将校の一人に、後年の「人間国宝」の五代目「小さん」がいたのはよく知られています。立川談志や小三治の師匠でした。その彼に政治性があるとは全くも思いもよらないこと。剣道七段だったとか、剣の使い手ではありましたが、「クーデター」を起こす人間ではありませんでした。小さん師匠は、応召してすぐに「反乱軍」に編入されたのです。その意味では、時宜を得たんですね。Wさんが「小さん」であると言いたい気もしますが、そうじゃありません。

PPPPPPP

◎柳家小さん(5代) やなぎや-こさん=1915-2002 昭和-平成時代の落語家。大正4年1月2日生まれ。昭和8年4代柳家小さんに入門,栗之助,小きんをへて小三治で真打となり,25年5代を襲名。「粗忽(そこつ)長屋」「長屋の花見」など滑稽噺(こっけいばなし)の名人と称され,芸術祭奨励賞などをうける。47年落語協会会長。平成7年人国宝。剣道は7段範士。平成14年5月16日死去。87歳。長野県出身。本名は小林盛夫。【格言など】剣道も噺も間が大切。間の悪い奴を間抜けというんだ。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

HHHHHHHHHHH

 いずれにしても、実際の「二・二六事件」では行動派は処分され、統制派が一気に主導権を握りました。この「クーデター未遂事件」が、時代や社会をある方向に動かす呼び水となったのです。「善かれ」と思ってやることが、事志と異なると、その「失政」をうまく取り上げ(時宜にかなう)、主導権を握ってしまう勢力がいます。そちら側は政治力では一枚も二枚も上だったということでしょう。その後のこの島国の運命は、「軍部独走」という単独行によって、国家壊滅の道をひた走ったのでした。クーデターに参加した青年将校たちは「将棋の駒」でしたが、その将棋でもっとも大事にされるのが「玉」です。その「玉」を担いで、わが意の如くに政治を蹂躙してしまった結果は、無残な敗戦だったともいえます。

 時に利あり、時に利なし、どちらにしても、まるで賽の目のように動かしようのない転び方をしてしまうのでしょう。たった一人の人間がトップに立ってもできることは限られます。「トップ」を「玉」として動かす将棋指しが命運を握っているのですが、これもいつの日か、「歩兵」となって、誰かに動かされていくのでしょう。「天の配剤」などというのは、そんなにあることではないようです。「善には善果、悪には天罰というように、天は物事を適切に配するということ」(デジタル大辞泉)政治は政治屋に、それがすべてでないのは事実ですが、大小を問わず、社会集団興廃・消長という帰趨を決めるのは、一面では「トップ」の判断であり、政治力です。それは「天の配剤」よろしくを得ることはまことに困難なのは、たくさんの限界や欠陥を持った人間のすることであるからです。たまさかの「天の配剤」があったとしても、それは決して永続しない。次に来るのは、「愚の、時宜を得たもの」であることが往々にしてあるようです。

 ぼくは「いわゆる政治的人間」ではないつもりです。自らの力で他者を動かしたりし支配したりするというように政治力をとらえるなら、まったくそうではないでしょう。Wさんも、どちらかというと、そういうタイプの人のようです。校長先生になったり、学園の理事長になるのは「役職上」であり、その役職は「任命」された結果ですから、勝ち取ったものではなかったのです。選挙においては、国政選挙は言うまでもありませんが、「きれいごと」ではない、そんなことでは務まらないと、政治家本人たちが盛んに言います。きれいごとではできないという意味は、「泥」をかぶるのか、「泥を塗る」あるいは、「清」は避けても、「濁」を承知で、飲み干すことであるのかもしれません。

 Wさんは、いつでも「今日は俺の誕生日だ」と、ところかまわず広言していました。自分の生まれた日を世間に公表する、それも自分からするというのは、いかなる心境であったか。彼以外に、ぼくは知りません。よほど「二・二六」が気に入っていたのか。彼は早くに妻を亡くされた。その後は独身を通されてきました(と思います)。でも時には、誰かを猛烈に好きになって、どうしようもないこともあったようです。ぼくの知っている「バーのママさん」に「一目ぼれ」「ゾッコン」、それこそ涙ぐましい光景でした。散々苦労した(高い授業料を払った)挙句にようやく、その女性と「デート」する約束を取り付けたと喜んでいました。「デート」の当日、指定された、どこかのゴルフ場だったかに、勇んで出かけてみると、別の男性がいたという。直接彼から聞きました。お人よしでしょ。その女性は「私は(本命以外)、男性と二人であったことは一度もありません」とぼくにまで話していました。ほんとうかどうか、わかりませんが、Wさんよりは相当に上手を行く、そんな「政治力」の持ち主でしたね。この政治力は銀座かどこか知りませんが、身を張って訓練された結果だったでしょう。そんな女性の前では、彼は手もなくひねられた格好でした。

 Wさん、足の骨折は完治したでしょうか。

________________________

 「人間よ、人間を敬いなさい」、そして…

 【筆洗】ドイツのまちハダマーの施設ではナチス時代、多くの障害者が殺された。「秀でた者の遺伝子を保護し、劣る者のそれを排除する」という優生思想に基づく政策だった▼障害者団体幹部の藤井克徳氏の著書『わたしで最後にして ナチスの障害者虐殺と優生思想』によると、ガス室跡のある建物が保存されている。殺害された障害のある人は国全体で二十万人超ともいわれ、ユダヤ人大量虐殺より先に始まった。殺されなくとも、断種すなわち不妊手術を強いられた人も多かった▼断種には他国も手を染めたが、日本もその一つ。障害があり、不妊手術を強いられた人たちが起こした訴訟で先日、判決が言い渡された▼大阪高裁は手術強制の根拠となる旧優生保護法(一九四八〜九六年)を「極めて非人道的、差別的」と断罪し、違憲と判断。同様の訴訟で初めて国に賠償を命じた。一審は「手術から二十年過ぎ、賠償請求権は消滅した」と判断したが、高裁はこれを「著しく正義、公平の理念に反する」と覆した。司法の良心だろう▼非人道的な法が九〇年代まで存在したことにあらためて、暗然とした気分になる。相模原の施設で「重度障害者は不要」と男が凶行に及んだように、社会に差別感情は根強い▼ハダマーの施設の碑にはドイツ語でこう記される。「人間よ、人間を敬いなさい」。心に刻むべきはドイツ人に限らない。(東京新聞・2022/02/24)
 【天風録】埋もれかける心の声 4歳の時に病で光を失ったエッセイストの三宮麻由子(さんのみや・まゆこ)さんは時折、その境遇を「シーンレス」と造語で表現する。直訳すると、風景がない―。あえて視覚障害としないのには理由がある▲音や手触りで辺りの様子を感じ取る。それは、病気や事故次第で誰の身にも起き得るからだ。障害者の話とあしらわず、「明日はわが身」といった感覚を持ってほしい。そんな思いも込めてのことらしい。裏返せば、まだ理解を欠く現状なのだろう▲「障害者は不幸」とみる、ゆがんだ考えの温床が四半世紀前まであった旧優生保護法。その名の下に、本人が知らぬ間に不妊手術を強いていた。憲法の精神に背くとして、国に損害賠償を命ずる大阪高裁の判決がおととい出た▲原告には、耳の不自由な老夫婦もいる。二人は「うれしい」「怒り、悲しみは続いている」と入り交じる思いを手話で伝えた。「元の体に戻せ」と心の声も聞こえてくるようだ。肉声で聞き取れず、何とももどかしい▲救済の手を差し伸べられるべき被害者は約2万5千人もいるはずなのに、一時金の支給はまだ千人に及ばないという。心の声を埋もれさせないためにも、こんなときこそ「聞く力」の出番では。(中国新聞・2022/2/24 6:36)

 強制不妊手術なぜ始まった? 戦後の食糧難が背景(朝日新聞アピタル・2018/05/16)(https://www.asahi.com/articles/ASL5J455HL5JUBQU006.html)

 昨日に続いて、もう一度「旧優生保護法」にかかわる問題に触れてみたいと考えました。法案が議論さ、制定されたのは戦後のことだった。その時における法律制定の「賛否」の代表的な意見の要約が右表に出されています(詳細は朝日新聞アピタルで)。「産児制限」の必要性から、「劣生遺伝」のおそれのある子どもは生まない、そのための法律であり、加藤さんのいう「理由」はともかく、この法律に「賛成」の意見を示されたことに驚きを持ってみています。上に示した二冊の関連図書のうち、藤野豊さんのものを手にすれば、歴史を含めて、この間の経緯を知ることができます。(余談ですが、「強制不妊と優生保護法」の著者である藤野さんには、さまざまな「人権問題」に関して、ぼくは多くの教示を与えられました。ハンセン病者の国策問題についても、彼は一貫して「元患者」の側に立ち尽くし、裁判でも積極的に闘われてきた人です。ぼくが在職中に担当していた授業(人権問題に関するもの)に、何度も参加してもらっていました)

 生まれてよい命、生まれてはいけない命、これをだれが決めるのか、そもそも、こんなことが人間(政治や権力)の都合で判断されていいはずがないにもかかわらず、「時勢」というのか、時代の流れというのか、いとも簡単に決められてきたのです。なぜか、圧倒的多数の人民は「自分のことではない」「自分には関わりがない」として、政治権力の判断、取り返しのつかない誤った判断に拒否権を行使しなかったからでした。さらに言えば、そのように決めたのは「公益」のためであり、「公共の福祉」に反しないからだとか何とかいうように、大多数の反対意思がなければ、なんでも許されるという国家の判断基準の「恣意性」にありました。強制不妊手術問題に関しては、一万五千名弱の人が手術を施されています(「同意者」を含めれば、二万数千名という)。未成年者もいました。今判明している分で、これだけの数字です。数の多い少ないが問題なのではなく、つい近年まで、法に基づいて堂々と「強制不妊手術」が行われていたことです。

 この強制不妊の根拠になった「イデオロギー」は、昨日も述べたとおり、「民族浄化」であり「いのちの選別」、「優生確保」だったのですが、それは今日においても根が生えて存続している「教条」でもあると言えます。新たな「不妊治療」「出生前診断」の方針・法則が示されてきましたが、その中に、明確に「優生」確保のための医療行為が明示されているのです。産む・産まないという「権利」を尊重するのは当然ですが、産まないための理由が「いのちの選別」に起因している点、問題の核心に関しては、十分に説明できないままで現実が動いているともいえます。この点に関しても、大きな議論がある問題ですが、ここではこれ以上は触れません。(「産む・産まない・という立場の権利は尊重されるべきだと言いますが、では「産まれてくる」側の権利を、人間はどのように受け取るのでしょうか。そんなものはないのだと切り捨てられるのかどうか。「産んでくれと、頼んだ覚えはない」という「声に、どう反応できるのでしょうか。つまりは、この程度の問題にも、人間は十分に応えられないままで、歴史を生きているんですね。

OOO

◎ 出生前診断=(略)出生児の約3~5%はなんらかの先天性疾患をもっており、その約25%が染色体異常による疾患、約20%が単一遺伝子変異による疾患、約40%が複数の遺伝子変異による疾患、約5%が環境や催奇形因子による疾患とされている(Thompson & Thompson Genetics in medicine, 8th Edition)。/ このように、一定の確率で発生する先天性疾患について出生前診断を妊婦が受ける理由としては以下があげられる。(1)胎児の健康・発育状態が良好との診断を受けることで妊婦が安心感を得ることができる、反対に、胎児になんらかの異常が認められた場合には、(2)胎児に対する治療、その他妊娠中に医療処置を受けることができる、(3)出産時の最適な分娩(ぶんべん)方法や出産後の療育環境を事前に準備することができる、(4)人工妊娠中絶を受ける機会を得ることができる、というものである。(1)~(3)は出産することを前提としているが、(4)についてはその前提がなく、先天性疾患を理由とする「命の選別」に通じることから倫理的問題があるとされている。(以下略)[神里彩子 2020年9月17日](ニッポニカ)

OOO

 若いころ、街中の産婦人科医院の看板に、右下のような札(あるいは診療科目の横に)が出ていました。「優生保護法」という法律を知るきっかけになったし、それがどういうものであるかを調べる契機となりました。人工妊娠中絶の手術ができる医院(医者)だとわかったのですが、そのほとんどの「中絶」の理由が「望まれない・望まない妊娠」だったということが明らかにされました。その是非は、単純に云々することはできませんが、問題があることを認めたうえで、この法律の効用は否定できません。しかし「いのちの選別」が国家政策として、長年にわたって続けられてきたこと、その被害を受けた当事者が「法の違憲性」を訴えて初めて、この問題が話題になり、法廷で争われたという、このプロセスに関して、文明国の中の「野蛮性」があぶり出されたという想いを抱きます。と同時に、この裁判に十分な関心を払わなかったことを含めて、ぼく自身のなかに厳然としてある「野蛮性」に、改めて刃を向けているのです。「自らに関係しない」事柄が、いつの時代にあっても、存在しないということは金輪際ないということを、肝に銘じておきたい。

 「人間よ、人間を敬いなさい」というドイツはハダマーの「施設」にあるという「碑」の言葉を噛みしめています。まず、「他人を尊重」し、その次に(順番は、この通りであるとは限らないが)「人間以外のいのちも、敬おう」と心底痛感するのです。人間が人間を差別してきたからこそ、「人間が人間を敬う」、その深重(しんちょう)の意味をつかんで離さないようにしたい。人間にとって「人間のいのち」は大事だけれど、それ以外はどうでもいいとは言えないことを、実は人間であれば、知っているんですが、それを知らないふりをして通しているんじゃないでしょうか。(権力をもつと、それをとにかく振るいたくなる。権力の強さ比べをしたくなる。そのために無辜の民の命が犠牲になるんですね。また、ある国で「戦争が始まった」という。これもまた、人間の分際では「手に負えない」問題なんでしょうか。戦争には「大義」は不要なんですね。

HHHHHHHH

 余話として このところの「コロナ禍」でしばしば耳にするのが「トリアージ」という語です。これもまた、ひとつの「いのちの選択」と言えなくもないのです。「助かるいのち」と「助からない・助けないいのち」といえば語弊がありますが、医療の現場で、恐らく日常的に使われている言葉であり、医療行為をさしているのではないでしょうか。

◎トリアージ(〈フランス〉・〈英〉triage)《「選別」「優先割当」の意》大災害によって多数の負傷者が発生した際に、現場で傷の程度を判定し、治療や搬送の優先順位を決めること。また、その役目。重傷者を優先的に処置し、現場の人材・機材を最大限に活用するために行われる。順位は、負傷者の総数、応急処置能力、医療機関の収容能力、搬送能力などを考慮し、状況に応じてそのつど判定される。(デジタル大辞泉)

____________________________

 医療者の「善意」が人権侵害に、ホントか?

【有明抄】旧優生保護法の罪 わが子を見ながら「遺伝だなあ」と思う時がある。乾燥肌など筆者の遺伝もあるが、心配性は妻の遺伝。「いいところも、悪いところも似てこその親子」だと感じる。なのに、「短所は遺伝させてはいけない」とした時代が日本にあった。「旧優生保護法」である。戦後の1948年に制定され、特定の病気や障害がある人に対し、強制不妊手術などが行われた。悲しい史実だ◆大阪高裁がきのう、旧法下におけるそうした行為を違憲とし、国に賠償を命じた。違憲判断は出ていたが、賠償命令は初めて。産み育てる権利を奪った罪は重い。難しい法的解釈より、原告に寄り添う姿勢が大切だろう◆そもそも、命の誕生自体が奇跡。健康に生まれても、成長の過程で思わぬ病気やけがをすることはある。喜びも悲しみも苦しみも、全て背負って生きるのが人生といえる◆食欲や睡眠欲といった本能がないと人は生きていけないが、本能は時に攻撃性を生み、暴走する。だからこそ、互いに戒め、ブレーキをかけ合う。自分とは違う考え方や行動をとる人を認める。つまり、多様性を受け入れることが人間関係の基本と思う◆人権とは、その人が「自分らしく生きるための権利」。生まれる前にその権利を奪っていいはずがない。今回の司法判断を、幸せや人権について改めて考えるきっかけにしたい。(義)(佐賀新聞・2022/02/23)

 今日においてもなお、「優生思想」というものが払拭されていないどころか、根強く、しぶとく生きながらえています。人間の中に「優生」「劣生」の遺伝子を持っている存在があり、劣生分子を淘汰するという意図に基づいて制定されたのが「優生保護法」です。「優生」を保護するという名目で「劣生」を除くという目的があからさまに見て取れます。それ以前には、戦時中に制定された「国民優生法」があり、その法の目的をさらに拡大・拡充したものとして戦後に制定され、近年まで有効であった。こういう法律を国家が「制定する」という愚行を見て、国家というものが、いかなる性格を持っているものかが判然とするのです。法の趣旨は下に示した通りで、「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」という、まことに悍(おぞ)ましい「イデオロギー(教義)」に乗っかっていました。「優生上の見地」というのは何でしょう。「遺伝性精神変質症、遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患又は遺伝性奇形を有しているもの」に対して、「出生を防止」するためと称して、実に野蛮な医療行為を国の法律で定め、それに基づいて、強制手術が実施されてきたのです。ナチにおいては「民族浄化」が謳われましたが、それとほとんど隣接している、いや、真横で並存している風でもありました。これが「戦後の法律」であるという点に、言われぬ退廃を感じてきました。

 すでにさまざまな知見や実例が、当時において諸外国にあるにもかかわらず、係る「悪法」を半世紀も存続させてきた国家の罪は重いのですが、その認識がないのは、国家当事者意識を持つ者がいなかったという、政治的不毛と不作為のためであって、それはまさしく犯罪というべきでしょう。この「優生思想」の合法化によって、無数の人民が「命の選択」を迫られたのです。果たして、今現在、この社会において、かかる「優生思想」は根絶されているといえるのでしょうか。ささやかですが、ぼくは学校教育の「成績主義」や「序列化」を一貫して否定し非難してきたし、現場に向かっても、「教育における優生思想」からの解放というか、そこから脱け出るための教育の創出をやかましく語ってきました。にもかかわらず、それを期待していなかったのではないが、いかなる成果もなかったというほかないのですが、それにしても「優生思想」という、思想のお面をかぶった「教条(ドグマ)」には、我ながら思いますのに、まるで「蟷螂之斧」のごとき、滑稽を演じてきたのでした。成績をめぐる順位競争は、序列化であり、価値づけでもあります。それがやがて、「優劣を決定する因子」となってきたのです。いまなお、その根底の思想(差別の別名)は健在であります。

UUU

◎ ゆうせいがく【優生学 eugenics】=優生学とは,C.ダーウィン従弟であるF.ゴールトンが1883年につくり出した言葉で,ギリシア語の〈よい種(たね)〉に由来する。1904年の第1回イギリス社会学会で彼は《優生学――その定義,展望,目的》という有名な講演を行い,ここでその学問を,〈ある人種の生得的質の改善に影響を及ぼすすべての要因を扱う学問であり,またその生得的質を最善の状態に導こうとする学問〉と定義した。したがって優生学には理論上,結婚制限,断種,隔離等により望ましくない遺伝因子を排除しようとする〈消極的〉優生学と,税制優遇や法的強制により望ましい遺伝因子をもつ人間の多産早婚を奨励する〈積極的〉優生学がありうることになる。(世界大百科事典 第2版)

UUU

◎ 優生保護法(ゆうせいほごほう)=現行母体保護法の改正前の法律。優生学上不良な遺伝のある者の出生を防止し、また妊娠・出産による母体の健康を保持することを目的として、優生手術人工妊娠中絶、受胎調節および優生結婚相談などについて規定した法律をいう(昭和23年法律156号)。優生保護法以前には、国民の資質向上を目的とした「国民優生法」が成立(1940=昭和15)していたが、これは主として優生手術と健康者の産児制限の防止を規定したものであった。優生保護法は、戦後の混乱期における人口急増対策と危険な闇(やみ)堕胎の防止のため人工妊娠中絶の一部を合法化したもので、その内容の是非をめぐってはつねに議論があった。さらに優生思想に基づく部分は障害者差別となっており、改正を求める声が多かった。このため、優生保護法のうち、優生思想に基づく部分を削除する改正が行われ、法律名も母体保護法(1996年9月施行)に改められた。(ニッポニカ)

法律第百五十六号(昭二三・七・一三)
◎優生保護法
第一章 総則
 (この法律の目的)
第一条 この法律は、優生上の見地から不良な子孫の出生を防止するとともに、母性の生命健康を保護することを目的とする。
 (定義)
第二条 この法律で優生手術とは、生殖腺を除去することなしに、生殖を不能にする手術で命令をもつて定めるものをいう。
2 この法律で人工妊娠中絶とは、胎児が、母体外において、生命を保続することのできない時期に、人工的に胎児及びその附属物を母体外に排出することをいう。
第二章 優生手術
 (任意の優生手術)
第三条 医師は、左の各号の一に該当する者に対して、本人の同意並びに配偶者(届出をしないが事実上婚姻関係と同様な事情にある者を含む。以下同じ。)があるときはその同意を得て、任意に、優生手術を行うことができる。但し、未成年者、精神病者又は精神薄弱者については、この限りでない。
 一 本人又は配偶者が遺伝性精神変質症、遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患又は遺伝性奇形を有しているもの
 二 本人又は配偶者の四親等以内の血族関係にある者が、遺伝性精神病、遺伝性精神薄弱、遺伝性精神変質症、遺伝性病的性格、遺伝性身体疾患又は遺伝性奇形を有し、且つ、子孫にこれが遺伝する虞れのあるもの
 三 本人又は配偶者が、癩疾患に罹り、且つ子孫にこれが伝染する虞れのあるもの
 四 妊娠又は分娩が、母体の生命に危険を及ぼす虞れのあるもの
 五 現に数人の子を有し、且つ、分娩ごとに、母体の健康度を著しく低下する虞れのあるもの
2 前項の同意は、配偶者が知れないとき又はその意思を表示することができないときは本人の同意だけで足りる。
 (強制優生手術の審査の申請)
第四条 医師は、診断の結果、別表に掲げる疾患に罹つていることを確認した場合において、その者に対し、その疾患の遺伝を防止するため優生手術を行うことが公益上必要であると認めるときは、前条の同意を得なくとも、都道府県優生保護委員会に優生手術を行うことの適否に関する審査を申請することができる。
 (優生手術の審査)
第五条 都道府県優生保護委員会は、前条の規定による申請を受けたときは、優生手術を受くべき者にその旨を通知するとともに、同条に規定する要件を具えているかどうかを審査の上、優生手術を行うことの適否を決定して、その結果を、申請者及び優生手術を受くべき者に通知する。
2 都道府県優生保護委員会は、優生手術を行うことが適当である旨の決定をしたときは、申請者及び関係者の意見をきいて、その手術を行うべき医師を指定し、申請書、優生手術を受くべき者及び当該医師に、これを通知する。(以下略)

UUU

 左の「持論」は、2019年7月段階で、石川県内の「保険医療新聞」という業界紙に掲載されたものです。恐らく筆者は石川県内の医療関係者と推察されます。書かれている内容に関して、間違ってはいないという向きがあるから、掲載されたのでしょうが、ぼくは一読して、いまなお、「優生思想」は克服されていないという感想を強くもつものです。「地獄への道は善意の小石で敷き詰められている」という「善意」とは、いったい何でしょうか。ここに「善意」を持ちだすのですか。ぼくに言わせれば、「善意」の名をかたった「悪意」であり、係る蛮行はいたるところで行われていました。これはけっして医療の分野に限らないことです。「善意」を武器にして、悪意の医療行為を是認してきた医療者の責任は重いし、このような「悪法」を全員一致で制定した国会の暴力行為も犯罪だと言うべきです。

 ぼくは、昔から言ってきたことですが、地裁や高裁段階で「死刑判決」を下した裁判事案が、その後の展開で「無罪」となった時(冤罪が明らかにされた段階で)、「死刑」を科した裁判官はいささかの咎・罪も負わないし、負わされないのは間違いである、と。それと同様に、国策だから、言われたとおりに「(善意で)強制手術をしたまで」という医療関係者の罪が問われないのは、実に釈然としないのです。権力側から言われたのだからというのは、理屈です。それを「善意」と言いぬけているのが現実でしょう。その権力側は、誰一人責任を問われないのも、国家というものの実体が「空っぽ」であることを示しているのではないでしょうか。「国家」という空白、あるいは幻想が、しかし、それをいいことにして、いたるところで人命を枯葉の如くに蹂躙してきたのも、していることも事実です。

 繰り返し、学校教育に関して、この駄文の山を築く中で書いてきたことは、教育の根っこはどうなっている、学校は何を基盤にして教育実践を行っているのか、そのような大きな問題に見えるものの、陰に、いつだって「優生思想」(「能力の開発」とかなんとか言いながら)なるものが厳然と、あるいは隠然と控えているということでした。何をどうしたものか、いっかな減じる気配のない「いじめ」も、もとをただせば、「優劣の区分け」から必然的に生み出された「劣等者の排除」か、それに類する暴力でしょう。学校教育の核となり、背骨となるのもが、「教育者の善意」による「学力競争の展開」であるというなら、そこには表現を絶した退廃や堕落があると、ぼくはあえて言いうものです。

 優勝劣敗、弱肉強食というのは、野生動物の世界の話ではないのです。人間の住む領域で戦われている「食うか食われるか」の生命をかけた戦い・闘いを見て、多くの野生動物は、「あれほどひどい存在は見たことがない」というでしょう。わざわざ法律を制定し、さも合法だと見せつけながら、踏みにじられる「人権」を作り出しているのです。誰にも「人権」があるのではないのです。「あんな奴に人権があるなら」、「俺はこういう特権を持つ」といって、つねに優劣や格差。差別を正当化するための政治であり行政なのだし、それを正当化するための「権力機構」であるというばかりですね。それに大きな力を貸しているのが、学校教育ではなかったか。

 現下のコロナ禍にあって、治療の優先順位という名目で「いのちの選別」が白昼堂々と語られ、現実のものになっているのではないでしょうか。それを正当化する理屈は、効き目のない膏薬の如く、なんとでも貼り付けられます。「優生保護法」は、同じような理屈づけ(「いのちの選別」)で制定された、その先鞭であったのではないでしょうか。歴史を学ばないという「習性」は、今も完治していないようです。

「旧優生保護法の不妊手術で国に賠償命令」NHK 2022年2月22日 19時12分:https://www.youtube.com/watch?v=PEWOOFzm26w

_____________________________