殿堂というのは、神仏を祭ってある建物をいう

 知り合いが一人でも住んでいると、その土地に親しみを覚えます。国の内外を問わないで、ぼくはそのように感じるのです。だから、この島のすべての都道府県に知人を持ちたいというようには考えませんが、今では、そんな知人とも疎遠になったり、連絡が取れなくなったり(その大半の理由は小生の不精であるのですが)、時々「あの人は、健在だろうか」「どうされているのか」などと、遠くを見つめるような気になることがしばしばです。ぼくが年を取ったせいでもあり、安閑として日々を暮らすことが困難な時代だから、たぶん、そんなことも背景にあるのかもしれません。

 飽きもせず(という気がします、本人でも)、駄文を書いていると、いいことなんかはありませんが、機縁というか因縁というか、それを書かなければ(関心を持っていなければ)、見逃してしまうこと、それはきわめて些細な、取るに足りない事柄ばかりですが、駄文筆記のおかげで関心の網にかかるということがあるんですね。その一例が、昨日のブログで触れた「野球事始め」です。いろいろなことが言われてきたもので、それだけ、世の関心が高いということの証明か。ぼくはまだ調べてはいませんが、牧野伸顕が岩倉使節のメンバーとして選ばれて(この使節には大久保利通も入っており、その次男坊だった伸顕さんが随行するのは不思議ではありません)、明治初期にアメリカに出かけた際に、当地で実際にやったことがあると証言しているのですから、少なくとも、この島の人間が始めた野球の歴史は、想定されているよりは早い時期に求められる。といってもほんの数年の違いです。野球を誰がもたらしたか、だれがやったか、今では「どうでもいいことだ」と、ぼくなんかは大まかに考えますが、人によっては看過できない事柄なのかもしれません。(左写真は牧野伸顕さん)

 肝心なのは、人間社会の歴史というものをどのように見るか、その一点にかかってくるのじゃないですか。よく出す例ですが、「法隆寺」は誰が建てたか。「聖徳太子」だと言われますが、まさか、太子が大工であったはずはない。今では名も知られない多くの渡来してきた大工(職人)たちと労働にかり出された民衆でした。すべては、だれが作ったとか、始めたとか、時間がたち、歴史の彼方に霞んでしまえば、そんなことにこだわっても、ほとんど意味を持たなくなります。劣島における野球の歴史、それも大事だけど、今やっている、野球を楽しめばいいんじゃないかということになります。でも、いずれ、そうなるだろうけれど、調べて明らかにするのも重要だという向きがあることも否定できません。(上写真の、使節団、右端が大久保) 

 以下、栃木の新聞コラムが、その問題について言及されているのを目にして、昨日の今日だから、こんなことがあるんだなと少し立ち止まった風情で、大した意味があるわけではない。ぼくが入った大学でも、「野球の伝来」「大学野球」などを語るのに熱心な教師(体育担当)がいて、いろいろと親切に話してくれた。その「講義」を受け入れなければ、単位が取れないので、ぼくは教えられた(教室に入った)というばかりです。その教師は、半世紀前の出来事でも「眼前の出来事」の如くに話していた。これは、まるで「落語」や「講談」だなと、ぼくは納得しました。実にリアリティがあるんですね。その教師はソフトボールはやったかもしれないが、野球とは無関係の人だった。こういうのを「語り部」というのかもしれません。半世紀以上も前の大学に、こんな「語り部」が無数にいましたね。本を読めばわかるというのではなく、語りを聞く、そういう点では、授業は「出し物」でした。演者が豊富にそろっている学校がいい学校だと言われていた嫌いがあります。つまりは、ささいな歴史(ぼくにはそう思われる)にも、渾身の魂を込めて「語る(時には騙る)」情念があるかどうかでしょうね、授業の神髄、あるいは教師冥利というものは。

 この島での野球の始まりがいつであるか、あるいは誰が「ベースボール」を「野球」と命名(翻訳)したか、それは一面では歴史の問題としては重要でしょうが、実際にプレーする選手たちにはあまり関係ないのではないでしょうか。野球をしようという人間は、野球の歴史を学ばなければならぬとなると、果たして野球人口は増えるでしょうか。まったく同じこととは言えませんが、似ているようにも見えるのが、音楽の歴史の学習と楽曲の演奏との関係です。ベートーベンについてどれほど深く学んだところで、演奏が上達するものではない。歴史の学習と演奏の技量とは直接には結びつかないからです。だからと言って、ベートーベンが何者であるかを知らないで、彼の作曲した音楽を演奏するとどうなるのか。知らないよりは知っていたほうがはるかに大事ではないかということはわかります。(左写真はホーレス・ウィルソン)

 野球の始まりや、始められた時期を知ることは、その領域に限らず、何かを新しく始める(受け入れる)という意味では、その他の領域の参考にはなるでしょう。子規が野球好きだったというのは、彼の俳句や評論の理解や解釈に大きく影響するとは思えませんが、子規居士を、よりよく知るという意味では、決してどうでもいいことではなさそうです。子規はキャッチャーをしていたそうです。わかりそうな気もします。俳諧刷新、改革軍団の旗手であり、プレイングマネージャーだったとは、まるで、故野村克也さんみたいな役回りでしたね。

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【雷鳴抄】 野球伝来150年 野球はいつ、日本に伝わったのか。野球殿堂博物館は1872(明治5)年、第一大学区第一番中学(後の東京大)の米国人教師ホーレス・ウィルソンが学生に教えたのを始まりとし、今年は150年目に当たる▼宇都宮中(現宇都宮高)から旧制第一高等学校に進んだ野球選手で、戦前に朝鮮銀行副総裁を務めた君島一郎(きみじま・いちろう)さん(旧塩原町出身)が1972年刊行の「日本野球創世記」でその由来を紹介。野球界の定説になる▼だが、同書より30年以上前に「明治5年説」を唱えたのが、市井の野球史研究家、斎藤三郎(さいとう・さぶろう)さんだ。殿堂博物館の資料などによると、斎藤さんは野球の文献を集めるために古書店を開き、研究に没頭したとされる▼俳人正岡子規(まさおか・しき)は新聞記者だった明治29年に「野球伝来は明治14、15年ごろ」とする記事を書いた。後日、読者から正しくは明治5年との投書が届く。野球通の子規は紙面で誤りを認めたとの逸話が残る▼この記事をいち早く発見したのが斎藤さんだ。膨大な資料を基に検証し、新聞や雑誌で明治5年が最有力と主張し続けた。記事を目にした君島さんは斎藤さんと交流を重ね、執筆の参考にしたという▼君島さんは既に野球殿堂入りし、斎藤さんも今年、特別表彰候補者に加わった。日本野球の源流を探し当てた先人に思いをはせるいい機会である。(下野新聞・2022/01/30)

 コラム氏は、上のように書きます。同じ県内の先達「一郎と三郎」の因縁話のようで、ぼくには面白く読めました。お二人とも、野球の歴史の発掘や野球隆盛の礎を築いたということで顕彰されたのでしょう。慶賀に堪えないと言っておきます。もう半世紀以上も前に後楽園球場に足を運んだことが何度もありました。そのときに、何気なしに(博物館に)入ったのか、前を通っただけなのか、記憶は曖昧ですが、その時代にはすでに野球博物館は開館されていたんですね。それはまるで巨大な「墓」か「石碑」にも見えたのです。人であれ団体であれ、その栄誉を顕彰するのはいいことだと思うし、それをとやかくいう筋(権利)は、ぼくにはありません。

 コラムにある「ホーレス・ウィルソン」に関しては「1871年(明治4),東京神田の南校(のちの東京大学)の教師としてアメリカから来日したウィルソンH.Wilson(当時28歳)が,日本で初めて野球を教えたといわれる」(世界大百科事典)と述べられている人で、この島における、もっと早い段階で「野球」にかかわった人とされています。あるいは野球導入の恩人だったか。

 「野球殿堂は、日本の野球の発展に大きく貢献した方々の功績を永久に讃え、顕彰するために1959年に創設されました。野球発祥の地である米国では、1939年に野球殿堂が創設され、日本の殿堂の20年先輩になります。「殿堂」とは英語では、”Hall of Fame”といわれ、直訳すると「名誉の殿堂」という意味になります。殿堂入りされた方々の表彰レリーフ(ブロンズ製胸像額)を、野球殿堂博物館内の殿堂ホールに掲額し、永久にその名誉を讃えます。野球殿堂入りには競技者表彰と特別表彰があります」(「野球殿堂博物館」:https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/)

 ぼくは博物館に出かけて、中の飾り物を観覧しようとは思いません。写真で見る限りでは、まさしく「殿堂」であり、もっとわかりやすく言えば、生者・死者をともに顕彰する「お墓」ですね。この殿堂で思い出すのが、「芸術院」や「学士院」です。この「院号」というものは、なかなか「畏き身分」におられた方々への「尊称」を込めた名称とみられたものでした。また「殿堂」もしかりで、「神仏おわすところ」という。ならば、「野球殿堂」は野球の「神や仏」が祀(まつ)られているところとして、お線香でもたくべき場所なのかもしれません。考えてみれば、ずいぶんと品の悪い「神・仏」がいるなあと感心するのですよ。衆参両議院、芸術院や学士院、あるいは日本棋院、さらには◉✖病院、また少年院などに使われてきた「院号」の経緯についても書きたい草草はありますが、書いても書かなくてもいいようなことですから、やめておきましょう。「いんごう」ときくと「因業爺」を想起しますが、これは無関係です。(ゴミのような暇談義です、ぼくには。最高位の「院号」付き戒名を受けると、相場は「五百万円」とか、これこそ、因業、そのものですね。それにしても「院」などというものも、なかなかの履歴があるんですね。「大学院」なんというのも、いかにも悍(おぞ)ましいな)

 下の写真は「院」の数々です、ありますね。江戸はおろか、室町も鎌倉までも引きずっていますね、この島は。(左から川越の「喜多院」、「野球殿堂博物館、戒名「授与」代金一覧、八街少年院、戒名の仕組み。京都等持院(足利尊氏)、丸谷才一著「後鳥羽院」、日本芸術院、その他無数にありますよ)

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◉ 院号(いんごう)=院を末尾に付して示す名称寺を意味する場合と人を意味する場合がある。前者は独立の寺院を示したり,また,付属の建築物をさす場合がある。人を意味する場合は,元来,退位した天皇の住む建物を意味し,またそれに住む上皇をもさしたが,さらに普遍化され,皇后,ひいては江戸時代の大名にも用いられた。武士は一般に死後,院の名を得,これがのちに死者の法名に院を付する起源となった。(ブリタニカ国際大百科事典)

◉ でん‐どう ‥ダウ【殿堂】=〘名〙① 広大で立派な建物。また、ある分野の中枢となる建物・施設。殿宇堂宇。※東海一漚別集(1375頃)清滝律寺開山「美兮麗兮殿堂、明兮豁兮軒牕」※西洋事情(1866‐70)〈福沢諭吉〉二「橋を架し川を堀り道路を修理し殿堂を建立し府内の壮麗又昔日のパリスに非らず」 〔晉書‐荀菘伝〕② 神仏などをまつってある建物。※正法眼蔵(1231‐53)行持上「殿堂を掃灑する行持あり」※随筆・胆大小心録(1808)一五八「東大寺の毘盧舎那仏、五丈余の大像をつくりて、殿堂はにつき入るばかりなり」(精選版日本国語大辞典)

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 栃木とのかかわりを述べなければと思いつつ、余計な寄り道・道草をしてしまいました。今でも後輩が教師をしていますし、今は亡き中高校時代の同級生のお墓参りをしなければと思うばかりのままになっています。親戚もあり、その他、四十年以上も前に、車をぶつけられた思い出の地でもあります。それと、下に出しておきましたコラムの内容に触れて、書かなければと思う気持ちもあります。やりきれない事件が、こうして日常生活のいたるところで「待ち構えて」いる現実に、ぼくたちはいかに身を処するのか、この事件と似たような場面にぼくは立ち至った経験がありました、高校生の時です。やはり、電車の中で。ぼくは袋叩きになりかけたのですが、危機一髪、難を逃れたのは、いかにもサイワイだったと、今でも思っている。それもこれも、またの機会に。

【雷鳴抄】愚者に正論 智(ち)を以(もっ)て愚に説けば必ず聴かれず-。古代中国戦国時代の法家韓非(かんぴ)らの言葉をまとめたとされる書にある一節で、その意味は愚者に正論で諭しても聞き入れられることはない▼県内を走るJR宇都宮線の電車内で男子高校生に暴行し、顔の骨を折るなどの重傷を負わせた疑いで28歳の男が逮捕された。一連の経緯を聞くほど、あきれるのと同時に強い怒りがこみ上げてくる▼下野署によると、容疑者は優先席に寝転がり、加熱式たばこを吸っていたという。高校生がやめるように注意したところ逆上し、車内やホームで殴る蹴るの暴力を振るったそうだ▼顔を近づけて威嚇してきたため、高校生が手で押し返したが、これに「先に手を出した」と激高した。「相手がけんかを売ってきた。正当防衛だ」。同署の調べ通りなら、常人が理解できる範囲を超えている▼悔しさが募る一方、こうした常軌を逸した行為はまれなケースではない。俳優の大和田伸也(おおわだしんや)さん(74)が注意した若者集団に逆恨みされ、「オヤジ狩り」にあったという話は有名である▼高校生は立派である。しかし正しい行為に暴力が返ってくる社会とは一体、何なのか。さらに今回、周りに大人はいなかったのか。そこで何か手だてはなかったのだろうか。深く考えさせられることばかりだ。高校生の一日も早い快癒を願う。(下野新聞・2022/01/29)

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