【有明抄】有田工、センバツへ 野球好きで知られる正岡子規(1867~1902年)は、野球を題材に何首も歌を詠んでいる。新聞記者として野球に関する解説記事も執筆しており、スポーツジャーナリストの草分けでもある◆〈久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも〉。野球愛は深く、幼名の升(のぼる)にちなんで、雅号まで「野球」「能球」(のぼーる)としたほど。球春が近いこの時季は〈九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす〉がぴったりの一首ではないだろうか◆選抜高校野球大会に、有田工高の出場が決まった。昨秋の九州地区大会でベスト4に入り、選ばれるのは間違いないと思っていた。コロナ禍にあって、心身が明るいニュースを欲しているような感覚もあり、正式に決まってほっとした◆甲子園出場は学校関係者や野球ファンにとどまらず、地域の人をはじめ、県民の喜びでもある。一投一打に郷土愛を重ねて声援を送り、一体感が生まれる。心配なのは新型コロナの感染拡大だが、心置きなく楽しめるように早く収束へ向かえばと願う◆選抜大会は地区大会を勝ち上がった強豪校がそろい、1勝するのも容易ではない。〈今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな〉。好機に沸き立つ場面を想像しながら、3月18日の開幕を待ちたい。(知)(佐賀新聞・2022/01/29)
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二千二年、子規が「野球殿堂博物館」に顕彰されたという報道がなされた時、彼が日本の野球導入に果たした役割が一気に広がりました。多くの人がそれについて書いているので、ここでは触れませんが、わずか三十五歳の一期を遂げた子規、青年期の颯爽とした姿はいかばかりであったか、ぼくは胸が痛くなるほどの感慨を催しているのです。彼が殿堂入りした理由は「新世紀特別」枠でした。

「野球を愛した明治の俳人・歌人 明治17年、東京大学予備門時代にベースボールを知り、野球に熱中したといわれる。22年7月には、郷里の松山にバットとボールを持ち帰り、松山中学の生徒らにベースボールを教えた。23年2月、『筆まかせ』の雅号の項に「野球」が初めて見られ、幼名「升」から(のぼーる)と読ませている。29年には「日本」新聞に連載された『松蘿玉液』の中で野球のルール、用具、方法などについてくわしく解説している。野球を詠んだ短歌、俳句も数多く見られ、新聞や自分の作品の中で紹介し、野球の普及に多大な貢献をした。「久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも」「今やかの三つのベースに人満ちてそヾろに胸の打ち騒ぐかな」(「野球殿堂博物館」:https://baseball-museum.or.jp/hall-of-famers/hof-144/)
翌年に殿堂入りを果たした人にはホーレス ・ウィルソンがいました。「南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。明治5年に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった」(同上)
おそらく子規は、このウィルソンあたりから、直接間接に教えられたのかもしれません。野球の始まりが子規であると、そればかりが宣伝されたきらいがないわけではありませんが、それよりも十年も早くに野球に興じていた学生がいたということも忘れられません。今ではプロ野球に集中してとらえられる向きがありますが、明治初期は、学生の「趣味」「遊戯」だったんですね。子規の年下の仲間だった虚子などもボールを追いかけていたのだと思えば、実にほほえましい風景が浮かんできます。この島に「野球」を紹介した嚆矢は子規らであったというのが定説ですが、それ以前にも野球を実践した人たちがいたのです。「希代の明治居士」だった柴田宵曲さんのエッセイに出ています。

「日本の野球のはじまりは、明治十七年頃といふことになってゐる。工部大学、法学部大学、青山英和学校、東京農業学校の学生が、それぞれ外人教師の指導によつて技を競つたわけであるが、その前に有史以前と目すべき時代がないわけではない。帝国大学の前身である開成学校の生徒の中にも、すでにボールを手にした人々があつた。明治四年に渡米した牧野伸顕伯の「回顧録」にはフィラデルフィアの学校で「野球も盛にやつた」と書いてある。先覚者の一人にかぞへてしかるべきであらう」(「野球」『明治風物詩』所収。ちくま学芸文庫。2007年刊)
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◉ 牧野伸顕(まきののぶあき)(1861―1949)=明治から昭和期の外交官、政治家。文久(ぶんきゅう)1年10月22日薩摩(さつま)国(鹿児島県)に生まれる。大久保利通(おおくぼとしみち)の次男。牧野家を継ぎ、1871年(明治4)岩倉具視(いわくらともみ)らの遣外使節に父に同行してアメリカに留学。1880年外務省書記生としてロンドンに在勤中、伊藤博文(いとうひろぶみ)の知遇を受け、帰国後、福井・茨城両県知事、文部次官、イタリア公使、オーストリア公使を務めた。1906年(明治39)第一次西園寺公望(さいおんじきんもち)内閣の文相、1907年男爵となり、その後、枢密顧問官、第二次西園寺内閣の農商務相のち文相を兼任、第一次山本権兵衛(やまもとごんべえ)内閣の外相、臨時外交調査委員を歴任した。1919年(大正8)パリ講和会議全権、1920年子爵(1925年伯爵)、1921年宮内大臣、1925年から1935年(昭和10)まで内大臣を務めた。薩摩派の巨頭といわれ、元老西園寺と親しく、親英米派宮廷勢力の中心人物として活躍したため、二・二六事件の際襲撃されたが、難を免れた。吉田茂(よしだしげる)は女婿(じょせい)。昭和24年1月25日死去。(ニッポニカ)
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柴田さんについては、早い段階で、このブログにおいて触れています。この引用の後に子規と野球に関して文章は続くのですが、その前に、意外の感があるので紹介したくなりました。斎藤茂吉氏が「子規と野球」と題した文章を残しているのです。初出は昭和二十五年四月の読売新聞でした。戦後一年目には野球が復活し、学生野球や都市対抗、プロのそれぞれが再開された。そして、昭和二十五年には「セ・パ両リーグ制」が始まった。斎藤さんの記事は、その時期に符節があっています。彼自身がどのくらいまで野球をしたのか、それには触れていませんが、いずれにしても、島の各地においてみられた「野球熱」は一貫して盛んだったことは確かです。戦時中でも「よし(ストライク)」、「だめ(ボール)」とかいって続けていたんですよ。

子規と野球 斎藤茂吉 私は七つのとき村の小学校に入つたが、それは明治廿一年であつた。丁度そのころ、私の兄が町の小学校からベースボールといふものを農村に伝へ、童幼の仲間に一時小流行をしたことがあつた。東北地方の村の百姓は、さういふ閑をも作らず、従つて百姓間にはベースボールは流行せずにしまつた。 正岡子規が第一高等中学にゐてベースボールをやつたのは、やはり明治廿二年頃で、松羅玉液といふ随筆の中でベースボールを論じたのは明治廿九年であつた。松羅玉液の文章は驚くべきほど明快でてきぱきしてゐる。本基(ホームベース)廻了(ホームイン)討死、除外(アウト)立尽、立往生(スタンデング)などの中、只今でもその名残をとどめてゐるものもあるだらう。 『球戯を観る者は球を観るべし』といふ名文句は、子規の創めた文句であつた。『ベースボールには只※(二の字点、1-2-22)一個の球ボールあるのみ。而して球は常に防者の手にあり。此球こそ此遊戯の中心となる者にして球の行く処、即ち遊戯の中心なり。球は常に動く故に遊戯の中心も常に動く』云々に本づくのであつた。 明治卅一年、子規はベースボールの歌九首を作つた。明治卅一年といへば、子規の歌としては最も初期のもので、かの百中十首の時期に属する。

『久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも』。子規も明治新派和歌歌人の尖端を行つた人であるが、『久方の』といふ枕言葉は天あめにかかるものだから同音のアメリカのアメにかけた。かういふ自在の技法をも子規は棄てなかつた。また一首の中に、洋語系統のアメリカビト、ベースボールといふ二つの言葉を入れ、そのため、結句には、『見れど飽かぬかも』といふやうな、全くの万葉言葉を使つて調子を取らうとしたものである。つまり子規のその時分の考へは、言葉といふものは、東西古今に通じて、自由自在を目ざしたものであり、その資材も何でもかでもこだはることなく、使ひこなすといふことであつた。ベースボールの歌を作つたのなどもやはりさういふ考へに本づいたものであつた。それ以前にも『開化新題』の和歌といふものがあつたけれども、それと子規の新派和歌とは違ふのである。 『若人わかひとのすなる遊びはさはにあれどベースボールに如くものもあらじ』。これはベースボールといふ遊戯全体を讚美したものである。 『国人ととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゆしも』。競技が国内ばかりでなく、外国人相手をもするやうになつたことを歌つたもので、随筆に、『近時第一高等学校と在横浜米人との間に仕合マツチありしより以来ベースボールといふ語は端なく世人の耳に入りたり』云々ともある。 『打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来る人の手の中に』の結句『人の手の中に』はベースボール技術を写生したのであつた。『今やかの三つのベースに人満ちてそぞろに胸の打ち騒ぐかな』は、ベースといふ字をそのまま使つてをり、満基(フルベース)の状態を歌つたもので、人をはらはらさせる状態を歌つてゐる。一小和歌といへども、ベースボールの歴史を顧れば感慨無量のものとなる。(「斎藤茂吉全集 第七巻」岩波書店 1975(昭和50)年6月初版発行)
柴田さんが書かれた日時は調べきれませんでしたが、たぶん戦後ではないかと推定するばかりです。それはともかく、「野球」と題して次のように書いています。「正岡子規が野球の選手だつたのは大学予備門時代である。「松羅玉液(しょうらぎょくえき)」(明治二十九年)の中で試みた野球の解説は、文学者の手になつた野球文献としてよく引き合いに出されるが、彼と同年配の文学者を見渡したところで、これだけの知識を持合わせた者は先づあるまい」と。その後の内容は斎藤茂吉のエッセイにつながり、重なりますので、略します。柴田さんが言いたかったのは「日本の野球は早慶両校の台頭を俟(ま)って華々しくなるわけだから、それまでの事柄はすべて草創期の記念として人の顧みぬ「野球歌」を取上げてみるのも、あながち無益の業ではあるまい」という趣旨からの「子規と野球」でした。
今日からは想像もできないことですが、娯楽や気晴らしが、実に限られていたし、その多くは野外で汗をかくようなものでした。子規と漱石は大学予備門でいっしょになり、短い期間ではありましたが、生涯の契りを結びます。ぼくは、この二人の青春時代を、特別にと言っていいほどに、好むものです。青春は麗しというのは、誰かの小説みたいなようですが、その意味は人生に、深甚の彫り(刻印)を与えたはずです。話は逸れますが、時節柄ということで。この時期に、似合わしいので。子規はカンニングをしたことを白状していますし、漱石もどこでだったか「不正」をしたことを明かしています。昨日、少し触れた啄木などは二度も「不正受験」をとがめられて、退学(放校)処分を受けているほどです。試験に不正はつきものといって、済ましていていいのか。これはまた、別の問題ですが、挿話として。以下、参考になるかどうかわかりませんけれど、最近の記事を。

「文豪、夏目漱石(なつめそうせき)は大学予備門(旧制一高の前身)の入試で、隣の受験生の答案を写したことを告白している。苦手の数学で「見せて貰(もら)ったのか、それともこっそり見たのか、まアそんなことをして……」だそうな▲ぼかしたのは、やはり後ろめたかったからか。漱石と大学予備門の同窓で親友となった正岡子規(まさおかしき)の入試カンニングも有名だ。こちらは英語の単語の意味を隣から聞いて「幇間(ほうかん)(たいこもち)」と書いたが、実は「法官」だったという▲二つの話に共通するのは、答えを教えた隣の受験生が試験に落ち、漱石と子規は合格したことである。明治の入試のおおざっぱさをうかがわせる若き偉人のカンニングだが(以下略)」(毎日新聞「筆洗」・2022/01/17)
漱石はそのまま在学を続け、一方の子規は専攻(じつが学力が足りなかった。「幇間」と「法官」を理解できなかった、しかも法学部生ですよ)が合わないという理由で退学しています。「不正」をするかどうかという以上に、「大学卒業」に、いかなる意味を持たせるかということが核心の問題ではないでしょうか。必要以上に大学に幻想を持ちすぎたり、与えすぎたりすることがなくならない限り、学校教育の歪曲はまず是正されないでしょうね。それと、ぼくは異に感じるのは、漱石でも子規でも「受験の際には不正をしたよ」と、ずいぶん後になって、面白おかしく「思い出」として語る、告白する、その姿勢も感心しない、不快なものです。沈黙(頬かむり)しているのもどうかと言えますけれど。いやな風潮ですね。「二十年前に、他人の金を盗んだ」とか、「時効だから言うけど、人を殺したことがある」という(口頭であれ、文章であれ、言いふらす)人がいるでしょうか。その時に言いなさいよ。どうして「試験のカンニング」ばかりが、後になって、面白おかしく吹聴されるのか、そこにも、学校軽視や教育軽視が根底にあるんでしょうね。

気を取り直してといいたいんですが、学校や教育軽視の直接間接の原因になるようなことを、いい気持になって、コラム氏は書いてしまうんですね。困った風潮、そういうのは、この「あかんたれだけ」でしょうか。「甲子園出場は学校関係者や野球ファンにとどまらず、地域の人をはじめ、県民の喜びでもある。一投一打に郷土愛を重ねて声援を送り、一体感が生まれる」と、地方紙は書かなければ、担当者は処分されるんですか。野球に限らず、どうして「郷土の誇り(埃)」と持ち上げたくなるのか、その気が知れません。「郷土の汚れ」の方はどうするんですか。「甲子園は地域の、県民の、郷土愛の」と言われますが、問題(過当競争の煽動)になるのは、それを当然だとする「知性」だか「感性」だかの不育が原因だと指摘するのが役割じゃないですか、新聞は。甲子園は、ただの野球場であって、「聖地」でもなければ、「殿堂」なんかではないよ。甲子園への「ことよせ」が過ぎませんか。(甲子園に「ある事に託す・かこつける・ゆだねる」のは、いったい何のためですか)(当節、あらゆる催事が「甲子園・聖地への巡礼」になっている、その背後霊は何でしょうか。神主や巫女さんが「新聞社」であることは判明している。甲子園に典型的な「宗教」は何派ですか)
こんなことを言えばきりがありませんが、五輪でも甲子園でも、優勝や入賞を果たすと「表敬訪問」と称して「首長(知事・市長・町長・村長)」に挨拶か報告に行くようですね。どうして金メダルが「名誉県民」「村民栄誉賞」になるのか、ぼくには理解不能です。政治と宗教は分離が原則という。ならば、スポーツと政治もくっつかないほうがいいんじゃないですか。ろくなことはないですよ。今でもある「国民体育大会」の不正な選手団構成をみると、スポーツは利用されているなあと、ため息ばっかりが出てきます。五輪競技の個人や団体の「メダル獲得」が県民や都民、あるいは府民の力添えがあってこそだ、というのも変じゃんか。五輪は「県大会」か。ぼくはそう思いますよ。もうどれくらい前になるか、半世紀をはるかに超えた、昔の話ですが、大分県だったか、熊本県だったか、独りの高校生が「東京芸術大学」の声楽科に合格したといって、村(町か)が「提灯行列」をしたということを、関係者から聞いたことがあります。(今日の「打ち上げ花火」だね)今は亡き、T川S人という声楽家でした。郷土の誉れ、というのですか、まるでお酒みたい。個人の領域をすぐに「全体に入れてしまう」、この島社会は明治初期と少しも変わらないのを、どう受け止めればいいのか。猫と遊んでいるに越したことはないな。
口直しになるか、子規作の「ベースボールの歌九首」を。その「巧拙」はいわないでおきます。

久方のアメリカ人のはじめにしベースボールは見れど飽かぬかも 国人ととつ国人と打ちきそふベースボールを見ればゆゝしも 若人のすなる遊びはさはにあれどベースボールに如しくものはあらじ 九つの人九つの場をしめてベースボールの始まらんとす 九つの人九つのあらそひにベースボールの今日も暮れけり 打ち揚ぐるボールは高く雲に入りて又落ち来きたる人の手の中に なかなかに打ち揚げたるはあやふかり草行く球のとゞまらなくに 打ちはづす球キャッチャーの手に在りてベースを人の行きがてにする 今やかの三つのベースに人満ちてそゞろに胸のうちさわぐかな (明治三十一年、新聞『日本』、歌集『竹の里歌』所収、明治三十七年)
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