国家は帝国主義でもって日に増し強大に…

 【水と空】 サラリーマン川柳 調査によって数字にばらつきはあるが「ペットを飼っている家」の比率は3割前後に上るらしい。だから、在宅での勤務が増えるとこんな悲劇も-。〈ネコの手がデリート押してファイル消え〉…「デリート」はパソコンの削除キー▲毎年恒例の「サラリーマン川柳コンクール」優秀作が発表された。“働く私たち”の「自虐とあるある」はコロナ禍でも健在▲ねえ、会社行かないの。〈「パパいるの!」在宅続き「またいるの?」〉〈円満の秘訣は出社と気付かされ〉。ただ、通勤苦からの解放はうれしい副産物だ。〈テレワークめざまし時計八時半〉とゆっくり朝寝坊▲飲食店への時短要請が続いて〈8時だよ!昔は集合/今閉店〉〈宣言が明けたら行こうが逃げ文句〉とアフター5は行動変容。ワクチン接種も話題の中心。〈あいさつは/もう打ちました? 熱は出た?〉〈お肌より副反応で若さ自慢〉▲〈何処に居る? みんなマスクの運動会〉-わが子を見つけるのもひと苦労。〈スクスクと育つ孫見るスマホ越し〉-帰省が待ち遠しい▲〈お年玉/チャージ希望と孫ライン〉〈アナログ派/財布の厚みですぐバレる〉-生活に押し寄せるキャッシュレス化の波。だが、こんなつぶやきも。〈ふところが寒い/もともとキャッシュレス〉…じっと手を見る。(智)(長崎新聞・2022/01/28)

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 今でも「留飲を下げる」という表現が時に目に入ることがあります。その様は、世情、何かにつけて「気が晴れない」「鬱憤が蓄積する」「ストレスに襲われる」という、きわめて不安定な精神状態を強いられている時代、何があってもこれだけはいうべきだなどという「悲壮感」からではなく、権力者や傍若無人な輩を、軽く笑いのめす、憎いやつを「ぎゃふん」と言わせる。なぜならば、否も応もなく「衆寡敵せず」、「長いものには巻かれろ」、「泣く子と地頭には勝てず」と、身過ぎや世過ぎに苦労が絶えないのが、ぼくら庶民の常態だからです。

 そんな悪役たる「標的」をいなしたり、すかしたり、笑いものにしたり、辱めを与えたり、それが「川柳」の真骨頂ではなかったか。つまるところ、溜まりに溜まった「もろもろの障害」を五七五でなぎ倒さなくても、転ばす、赤面させる、それだけでも「留飲は下がる」んでしょうね。申し訳ありませんが、ぼくは「留飲」というものを知らないで生きてきました。溜まる前に、溜めることなく吐き出して来たんですね。あれは溜めるものではないようで、いつだって「気分転換」をよくしておかないと、病気にもなりますよ。

 最近の傾向でしょうか?「サラ川」は向かうべきところの敵にではなく、自身への「諧謔」というか「自虐」というか、ブーメランを独り決めしている風がありませんか。それがまたサラリーマンという種族の特性なのかもしれない。それと、どういうわけですか、すっかり家族からは排除され気味な(それを受け入れてもいる)方が多いのは、きっと「衆寡敵せず」で、かみさんは子どもや犬猫を取り込んでいるのに対して、お父さんは「孤独」で「孤立」であり、「ボッチ」「孤食」「独り寝」に追いやられているんですよね。この状態が会社でも「定位置」になっていると、時には驚異的な秀句が生まれるんです。鬱憤や悲哀、哀歓の堆積・埋蔵量に比例するのが出来栄えでしょう。これは川柳に限らないようです。というわけで、第35回コンクールの「第一次予選を通った」とでも言うべき「秀句百首」の最初の部分を拝借します。(左上)(https://news.mynavi.jp/techplus/photo/article/20220127-2258272/images/001l.jpg

 ベストテン選考の投票が始まっていますね。この「コンクール」は罪がないから、いいですねとぼくは言えないけれども、ショパンコンクールやミスワールドコンテストとは比較を絶して評価しますよ。ただ、気になるのはこれを主宰している企業(生命保険会社)です。業界でトップを目指し、N本生命としのぎを削っているのはいいのですけれど、このところ、同社の社員による「不祥事」も、次々と発覚しています。一昨年だったか、山口県下の支店で、顧客から十九億円を詐取した社員が現れました。別の支店では女性社員が…、そのときに、他の社員さんはどんな「川柳」を詠んだのか、詠まなかったのか。きっと「溜飲が下がらない」人たちがたくさんいる会社のようにも見受けられます。「サラ川」開催の趣旨はいいけれど、なんだか、会社員さんたちの「ガス抜き」に利用されているようにも思われるんですね。(右は35回の百句のうち。順は不同)

◉ 留飲(りゅういん)を下(さ)げる=をすっきりさせる。不平・不満・恨みなどを解消して、気を晴らす。「相手を論破して—・げる」[補説]文化庁が発表した平成29年度「国語に関する世論調査」では、本来の言い方とされる「溜飲下げる」を使う人が37.4パーセント、本来の言い方ではない「溜飲を晴らす」を使う人が32.9パーセントという結果が出ている。(デジタル大辞泉)

 左は第34回目の「ベストテン」だそうです。「恐妻家」というのでしょうか、この世には、たくさんいるんですね。でも、実際は「恐妻家」を偽装・改ざんしているのかもしれない。ぼくなんか、自慢することではないけれど、正真正銘の「恐妻家」なんだ。それも、かれこれ半世紀の及ぶんですから、盾突くことはおろか、横にだって座れませんから。それにしても、お父さんたちよ、嫁さん(かみさん、妻)を(こっそりと)いじる・いびることで「溜飲が下がる」、なんという「安あがり」で済ましているんですか、と他人さまには言えた義理ではありませんが。

 いたるところで「川柳ばやり」です。いい傾向かどうか、ぼくには判断がつきかねますね。小難しいことは言いませんが、この島の今の状況では、人々は「内に籠(こも)る」「家に籠る」「陰に隠れる」「悪事は密かに」そんな傾向が続いているようですね。この傾向はいいのか悪いのか、加えて、これは何の前触れ、兆候なのでしょうか。この先もこうなるのか、怖いですね。「サラ川」を通し、「サラ川」の底流に、現下の「逼塞ぶり」「優勝劣敗大歓迎」の「冷めた興奮状況」が垣間見えるようです。ユーモアや諧謔の背後に、大きな闇が迫っているんですよ。

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 唐突なようですが、ぼくは啄木のある評論を想起している。「大逆事件」後の、国家主義横溢の時代状況に、彼は「時代閉塞の現状」一篇を書いた(明治四十三年)。病気などの理由によって、彼の生前には発表できなかった。

 「国家は強大でなければならぬ。我々はそれを阻害そがいすべき何らの理由ももっていない。ただし我々だけはそれにお手伝いするのはごめんだ!」これじつに今日比較的教養あるほとんどすべての青年が国家と他人たる境遇においてもちうる愛国心の全体ではないか。そうしてこの結論は、特に実業界などに志す一部の青年の間には、さらにいっそう明晰めいせきになっている。いわく、「国家は帝国主義でもって日に増し強大になっていく。誠にけっこうなことだ。だから我々もよろしくその真似をしなければならぬ。正義だの、人道だのということにはおかまいなしに一生懸命もうけなければならぬ。国のためなんて考える暇があるものか!」
 かの早くから我々の間に竄入ざんにゅうしている哲学的虚無主義のごときも、またこの愛国心の一歩だけ進歩したものであることはいうまでもない。それは一見かの強権を敵としているようであるけれども、そうではない。むしろ当然敵とすべき者に服従した結果なのである。彼らはじつにいっさいの人間の活動を白眼をもって見るごとく、強権の存在に対してもまたまったく没交渉なのである――それだけ絶望的なのである」(青空文庫版)

 閉塞状況というのは、それぞれが受け取る「時代感覚」でしょうが、現代にみられる、さまざまな暴力や政治的汚職、公務員のサボタージュなど、企業の儲け主義、金権腐敗の横行、すべてに見られる「拝金主義」現象、人間交際の破綻などなど、それがそのままで「明治末」だというのではありません。でも、同じような方向を歩いているのが、この島社会のたどりつつある道のような錯覚を覚えるのです。明治から始まって、えらく遠くまで来たように思っていたが、実はある時期から「後ろ向きで」歩いていたんですね。一歩前進、二歩後退、誰も気が付かなかったのか。覆うべくもない「刹那主義」と「超大国幻想論」が交雑しているような、ただならぬ暗澹たる時代の闇をぼくたちは潜っている(潜らされている)ようです。名状しがたい「時代閉塞」であり、それを打破するのは何なのかと、大きな不安を託っている。(啄木の提示した問題、時代認識をぼくたちはどのように見るのか、それについては、稿を改めて触れてみたいですね)

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◉ 石川啄木(いしかわたくぼく=[生]1886.2.20. 岩手,日戸 [没]1912.4.13. 東京 詩人,歌人。本名,一 (はじめ) 。盛岡中学校中退 (1902) 後上京し,与謝野鉄幹の新詩社に入り,処女詩集『あこがれ』 (05) によって文名を得た。しかし生活には常に恵まれず,職を求めて北海道を放浪 (07~08) ,上京後,歌集『一握の砂』 (10) により生活歌人として確固たる地位を築いた。貧困と孤独のなかにも希望を捨てず,大逆事件 (10) を契機に社会主義思想に接近し,生前未発表の評論『時代閉塞の現状』 (10) は自然主義の無思想性を批判し,国家権力の直視と明日への待望を説いて,啄木の思想の根底を示している。『明星』風の抒情性を残しながら,生活感情を大胆率直に表現した作風は,死後民衆の詩」として強い影響を残した。代表詩集『呼子と口笛』 (11) 。代表歌集『悲しき玩具』。(ブリタニカ国際第百科事典)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。