學則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改

 <卓上四季>善行の四知 天知る地知る我知る人知る。後漢の政治家楊震(ようしん)が賄賂の受け取りを拒否した時の言葉である。「だれも見ていませんから」と金十斤を差し出すかつての部下王密に「だれも知るまいと思っても必ずだれかが知るところとなる」と諭した▼不正行為や悪事は必ず露見する。後漢書に残る「四知」の故事の由来だ。函谷関以西の出身であることから、「関西の孔子」とも称賛された清廉の人ならではの逸話であろう▼大学共通テストの出題内容が試験中に外部に漏れた疑いがある問題で、受験生とみられる19歳の女性が香川県警に出頭した。母親と相談して警察に連絡したそうだ▼家庭教師の仲介サービスを通じて試験問題の画像を送られた大学生が不審に思い、大学入試センターに通報したことが発覚の端緒だった。現代に生きる「四知」の教えか▼警察が慎重に経緯を調べている。不正行為があったのだとすれば、決して許されるものではないが、疑惑が報じられてから、どんな思いで過ごしていたのだろうか。その胸中を思うと心が少しふさぐ▼宮城谷昌光さんの小説「三国志」(文春文庫)では冒頭の場面に続きがある。「悪事ばかりでなく善行もやはり四者が知るのではあるまいか」。学びの道は険しく、不安で絶望することもあるだろう。だが、努力は必ず誰かが見ているものだ。実力で勝ち取る合格の喜びが周囲も幸せにするゆえんである。(北海道新聞・2022/01/28)

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 いかにも「今風」の事件でした。あるいは事故というべきか。ぼくにすれば、この手の「不正」は日常茶飯事だと思っていますから、大ナタを振るい下すような、大げさなふるまい(反応)はしたくありません。そういったからといって、ぼくはこの事件を起こした人の行為を許しているというのでないことはもちろんです。「成績が上がらず、不安だった」からと、この女性は告白しているそうですが、いろいろと事情がありそうで、軽々には判断できませんね。「今風」といったのは、ネット時代のスマホ隆盛の世相をいうためでしたが、道具にはいろいろな使われ方があるということを、幾重にもこの事件は教えています。「はさみと✖✖は使いよう」これもまた、一種の「盗撮」なんでしょうが、世に衰える気配のない犯罪である「盗撮」に刺激されたのは間違いありません。男が「盗撮」をするものとばかり見ていると、女性だってやってるじゃんということでしたね。

 やりきれないと思ったのは、この人は既に別の大学に入っていたというらしいこと。これを「仮面浪人」とかいったように聞いています。もしそうなら、ぼくは何人もの「仮面浪人」に出会ってきましたし、親しくなった人も数人はいます。「仮面をかぶる」のはいけないことという法律があるのでもなさそうですから、大学生をしながら、さらに、新規に受験をしてもいいでしょう。(二重学籍は拙いですね)どうしても「希望の大学に入学したかった」ので、再受験したが、思うように成績が伸びなかった。それで「思い余って盗撮」の挙に出たというのでしょうが、「短絡」とはこれを言う。今年はだめだという自信があるなら、もういい一年先に、堂々と受ければいい。事情があって、それはできないというなら、大学はいかないで、別の道を考えたらどうですか、ぼくならそうするし、他人にはそう言いますね。この大学生は、自らを責める念が強く、名乗り出たというのでしょうか。こんなことをいうと怒られたり、石を投げられそうですが、入りたい人はすべて合格にしたらいいではないか、とぼくは持論をいうばかりです。試験は必要ですが、それが必要悪であるとなると、ないに越したことはありません。

 「ものを見てはいけない」試験をまず廃止したら、というのがぼくの拙見です。暗記していなければ点数が取れない試験、反対に、なんにせよ暗記してれば、いい点が取れる、そんな試験は廃止したらどうです、と言えば、廃止しない、したくないための意見や反論が百出します。試験は何よりも「公正」を旨とするという、その「公正」が歪められたら、試験は成り立たないと。見ないでする試験で、一体受験生の「どの能力」を調べるのでしょうか。これがいささかも問題視されないというのは、解せないいし、腑に落ちませんね。これぞ「人間に対する不正」ですよ。その昔、高知のお母さんたちが「十五の春を泣かせない」と、大きなうねりとなる「高校全入運動」を起こしました。その成果があったかどうか、いまではほとんどが高校に行きます。進学率は九十数%です(中退率もかなり高いね)。大学に関しても志願者と定員の比率は拮抗している、四年生大学の半数近くが定員割れを起こしています。問題は、だれもが「入りたい大学」が限定されているということですね。誰もが入りたいところに、自分も入りたいというのは人情ではあっても、まるで新春の「福袋」争奪の混雑みたいで、冷静になれば、わざわざ血圧をあげてまで「袋奪取競争」に行かなくてもということに気が付きます。

 ぼくは学校の教師の真似事をしていましたから、事情をよくっ知っているし、入試に関してもそれなりの経験をしてきました。それゆえに、「一点の差」が、その先の人生を左右するということは断じてありません。いや断じてあるという、その「姑息な思考の中」にだけ、その歪んだ感情があるということでしょう。ぼくに言わせれば、入学試験の「点取り競争」は、運動会の「パン食い競争」以下ですね。まず、そこにゆとりいうか、余裕がないという点。「自分が不合格なら、別の人が合格する」から、これは「人の役に立っている」と考えればいいじゃん。もう一つ、大学に入れなければ、「先がない」という時、大学に行かなかった人の人生を否定しているのでしょうね、気が付かないだけだろうけど。

 今回の「共通テスト」初日の開始直前に、名古屋から来た高校2年生が、東京の試験会場前で、二人の受験生ともう一人を刃物で刺した事件がありました。「T大に入って、医者になるのだ」「偏差値七十超の高校から来た」と叫んだそうです。こういう高校生が、各地にたくさんいると想像するだけで、教師の仕事の貴重さがわかろうというものです。こういう考えこそ「不正」だし、その芽を摘むことが学校や教育に求められるのにと、ぼくは言いたいですね。とするなら、この社会は「不正を助長する教育」が蔓延っているのであり、「不正の温床が名門学校」だという、荒唐無稽な状況にはまっているんですよ。

 この駄文を書いているときに、一通の封書が届きました。かみさんが「Sさんというのは、あの人でしょ」、と尋ねながら渡してくれた。そう、ぼくの先輩にあたる人からでした。封書を見て、「また以前の住所に年賀状を」と直感しました。案の定で、彼は本年九十歳になるという。ぼくは何かとお世話になった先輩です。その人の悪口を言うのではありません。「受験の時、あの問題さえミスしていなければ」と、ぼくは何度聞かされたか。彼は「帝大受験」組でした。いったい何十年前の受験だったか、このように話す教員が同じ職場に何人かいました。この大学もだめだし、この人たちも、人生を勘違いしていると、ぼくは感じたし、感じたままを相手に話したたこともありました。通じなかったけど。だから、こんな「不真面目な教員」にはなりたくないと、ぼくは「教師の真似事」に徹してきたのです。可愛そうでしょす自分の人生の失敗を「たった一問にかけて」、それを「片時も忘れないで生きている」というのは。「目がもう少し大きかったら、人はが幸せだったのに」と言ってみたら、「もう少し身長が高ければ」と、何センチかに人生を載せるというのは、よろしくないでしょ。そんなこと言ったら、ぼくは「生きていけないくらいのハンデ」「ディスアドバンテージ」があると言いたくなっても不思議ではない。

 十九歳の大学生兼受験生に、ぼくごときが何かを言う理由がありません。合格したことも不合格になったころも、ほんの一瞬の感情の揺らぎでしかありません。残りの九十九%は、自分の足で立ち、自分の頭で考えることをしなければ、生きていること(人生)に申し訳が立たないように、ぼくは思う。人生に意味があるかと、誰かに聞かれれば、「あるに決まっている」と断言します。でも自問自答する際には、「本当に意味があるのか」「あるはずがないでしょ」そんなことを、ぼくはこれまで何百何千回もくり返してきました。「それが人生なんだ」という、この「不安に根差した」生きる根拠は揺るがないんです。「意味があるか、意味がないか」それを決めるのは、自分ですよ。時には「ある」だし、時には「ない」と言いたくなる。それが「生きている」ということでしょ、違いますか。

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◉天知る、地知る=悪事は、いつかは必ずばれるものだということ。[使用例] 吞みたいのは山々だが、そいつはいけねえな。天知る地知るだ。後が怖ろしいぞ[佐藤垢石泡盛物語|1951][由来] 「後漢書―ようしん伝」に載っている逸話から。二世紀の初め、後漢王朝の時代の中国でのこと。楊震という役人のところに、ある夜、賄賂を持ってきた人物がいました。楊震が受け取らないでいると、その男は、「もう夜ですから、だれにもわかりません」と言います。すると、楊震は、「天知る、しん知る、知る、知る。何ぞ知るもの無しとわんや(天が知っているし、祖先が知っているし、私が知っているし、あなたが知っている。だれにもわからないなんて、言えませんよ)」と述べたので、その男も我が身を恥じて帰ったそうです。この楊震のセリフは、「じゅうはっりゃく」では「天知る、地知る、……」となっており、日本ではその形でよく知られています。(故事成語を知る辞典)

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 「努力は必ず誰かが見ているものだ。実力で勝ち取る合格の喜びが周囲も幸せにするゆえんである」とコラム氏は優しいが、だから厳しいことをも言われる。「きっと優等生」です。でも、陳腐ですね。「努力」とはどういうもので、それは誰が、必ず見るのか。ぼくには疑問です。誰かがみているから「努力」するんじゃないでしょ。そうすることが必要だから、努力するんだと、どうして考えられないんですか。「実力による合格が周りを幸せにする」と、そうだとしても、一瞬ですよ、その一瞬のための「努力」、ぼくに言わせれば、ひょっとして、世が世なら、しなくてもいい努力かもしれないじゃん、そんな「刹那の喜び」を進めてどうするんですか。ぼくは、ある大学に長くいたから、おかげさまでたくさんの学生やその親に出会ってきた。(その大学に入った)ためにもがいたり、、苦悩している「学生」や「親たち」が、どんなにたくさんいたことか、ある時期、職場でのぼくの仕事は「退学のすゝめ」でした。「君は、この大学に無駄な授業料を払うつもりで、在学するつもりか」「あなたは、こんなところにうろうろしている人ではないよ」と。おそらく百人をくだらない学生の進路変更にかかわっても迷いはありませんでした。「合格祈願」とか「大願成就」といいますが、人生を自分の足で立って歩く、自分の頭で考える、そんなことを「天神さん」に相談しても(安いお賽銭で、さ)できるはずがないと、ぼくは明言したいね。

 「天知る、知る、我知る、知る。何ぞ知るもの無しとわんや」と言われて、賄賂を差し出そうとした男も、わが身の至らなさを恥じて帰ったというところが、ぼくには教えられるのです。楊震は人物だったでしょう、しかし悪事を働こうとした王密が、「何ぞ知るもの無しとわんや」と問い返され、即座に身をひるがえしたというのは、なぜか。有無定かでなかった「判断力」が王密に甦ったとするなら、消えないで残っていた判断力を育てた「教育」の影響(あるいは人間といってもいい)に思いを及ぼしたいんですね。身を恥じるという心情が育っていないから、さまざまな「不正」が「不正」と受け取られないままにまかり通っている、それがぼくたちの生きている時代の不幸というものでしょう。他者を押しのける競争ばかりをあおり、それだけを評価しようとすると、そんな歪曲の極致を行く「学校教育」を矯(ため)める(方向転換する)ことが、まず先決なんだがな。

 言っても詮無いこと。学校が「わが身を恥じ」、方向転換する可能性はゼロではないとも思うのです。十中八九は、「だれにもわかりません」と、不正が知られないで合格する人もいるかもしれない。「何であれ、合格は合格なんだから」と。そこで気が付かなければ、また次の機会に、(目を覚ます)機会がきっと来るでしょう。その次に、さらに、その次にこそ、この繰り返し、これもまた人生です。

 「子曰、君子不重則不威。學則不固。主忠信、無友不如己者。過則勿憚改」(いわく、くんおもからざればすなわあらず。まなべばすなわならず。ちゅうしんしゅとし、おのれかざるものともとすることかれ。あやまちてはすなわあらたむるにはばかることかれ)

 なかなか難しいことを「孔子先生」は言うものですね。この部分は、誤解されるために読まれているようにも、ぼくには見えるんですね。ここで対象(問題とされる人)になっているのは「人の上に立ち、導くことをしようとする者=君子」への訓辞(言葉)なんですよ。それを忘れないで、読んでいくと、「過ちて則ち改むるに憚ること勿れ」、人の上に立とうという気概のある者でも、「誤ち(間違い)があったら直ちに改めよ」というんですね。ぼくは凡々人間ですから、なおさら「何度でも改めよ」という言葉として受け止めてきました。つまりは、いつだって、何度だって「生きなおす」「再出発する」ことを求められているんですよ、それが人生かもね、と。

 件(くだん)の受験生は、香川県の人だと知りました。「うどんをたべて、暖かくして」、再度歩き出してほしいね。(都内のある「有名私大」に入りたかったそうです、でも入らなくてよかったかも)十九歳の方へ、先はながいよ、ゆっくり、そう、アンダンテで歩いてくださいね。

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 余談です 「仏の顔も三度まで」と言われますね。正確には「(仏のような、優しい人でも)顔を三度も撫でられれば、怒り出す」というのを、短くしてて使ってきたんです。それはともかく、こういったのは「人間」であって、「仏」ではない。仏であれ、神(天神さん)であれ、何度撫でても怒らないでしょう。一回失敗しても、また(何度でも)「祈願」に行けば、いつかかないますね。その大願成就は「自力」だったんですよ。「神頼み」や「仏頼み」は、自力を引き出す力があるということ。

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