「朝起きは三文の徳」は「得」だそうです

 今朝は四時には起きていました。早寝早起きがモットーではありますけれど、三時台に起床するのは、めったにない。何度も書いていますが、ぼくは「ラジオ深夜便」という✖HKの番組を毎晩聴きながら眠ります。小さな携帯ラジオにイヤフォンで。安物でしたが、「ステレオ」が聴けるのです。毎晩といいました。この番組が、今のような時間帯で年中無休で始められてから三十二年といいます。それ以前は、毎日ではなく、週に何回か、特別番組として放送されていた。その前はは、二代前の天皇の病状報道や、病気の急変に備えて、二十四時間体制でスタンバイし、報道がない場合は音楽を延々と流していました。この段階では、バッハの無伴奏など、普段の番組ではまず聞かれない長い曲も流されていた。やがて元号が変わり、深夜番組を継続してくれという声が、かなり上がったそうです。ぼくは、病状報告はまったく聞きませんでしたが、深夜を通して流された音楽は聴いていました。

 そして、不定期に「深夜便」が始まり、二年後の一九九二年に本格的に開始されたと言います。ぼくは最初から、殆んど毎晩のように聞いてきました。地震などの緊急速報も何度か、この番組で知らされた。もちろん、深夜十一時過ぎから朝の五時まで、一睡もしないで聴き続けるというほど、ぼくはこの放送協会に義理はないし、早寝早起き人間としては、熟睡をしなければその姿勢(モットー)に問題が生じるでしょう。実は、ぼくはかなり前から、夜九時に寝て、朝は三時に起きるという生活を続けていました。だから、十一時からの「深夜便」の時間帯はたいていは睡眠中なんですね。それでも、何か面白い番組や聞きたい人が語っているとなると、三時前に起きて聴いたものでした。

 この放送で、ぼくが最も感銘を受けたのは、番組が開始された時期にアナウンサーの和田(げんじ)さんという男性が「奥の細道」の朗読をされたときでした。「五月雨を集めて早し最上川」のくだりを、実に丁寧に朗読された。ぼくは本職のアナウンサーの実力にほとほと感心し、その朗読の力に感動を覚えたのでした。まるで、布団に入っているのですが、ぼく自身も船の客となって急流を下っている、そんな錯覚をぼ得たのでした。

 「最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、 芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、 爰に至れり。
 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の 滝は青葉の隙々に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし」

 その「深夜便」の三時台からのテーマが「にっぽんの歌こころの歌」というものです。なんでこんなタイトルなのかといぶかしくも思ったりしましたが、これは、どんな曲が登場してきても、ほとんど耳にしています。本日は、なんと大村能章という作曲家の作品を放送したのです。大村さんの履歴は下の辞書にあります。まあ、日本の歌謡曲の走り・先駆けとも言うべき作曲家でした。彼の代表的な曲が十曲ほど流されました。もちろん、ぼくはすべて知っていたし、大半は、日ごろから歌っていました。いったいどこで覚えたのか、学校ではまず教えてくれなかったものばかりです。(上の写真左端は小林秀雄と火野葦平)

 彼の作った曲の多くを歌ったのが東海林太郎という歌手でした。「野崎小唄」「麦と兵隊」「旅笠道中」などなど。これはすべて番組で流されました。「麦と兵隊」は火野葦平の杭州従軍中の作品。当時、火野さんは応召して杭州に、やがて徐州戦線に赴いた。その前(1937)年だったかに「糞尿譚」で芥川賞の受賞を戦地で知らされた。その際、小林秀雄が戦地に赴き、伝達(授賞)式をした。このときの小林さんのエッセイを、大学生になったころ読んで、いろいろと考えさせらた。戦争の良しあしではなく、「国民は黙って戦争に入っていった(受け入れた)」という思考、あるいは、戦争を正面に据えていない、小林さんの戦争観が文中にあるのがはっきりと読めました。(それがどんなもので、どうしてそうだったか、その後になって徐々に、ぼくにはわかってきました)

 この「麦と兵隊」という曲で、ぼくは大村さんを早い段階から知っていた(曲が発表されたのが昭和十三年)。彼はテレビの草創期によく歌番組で審査などをしていたこともあり、こんな古い人が歌謡曲の大立者なのかと変に興味を持ってしまったのです。まだ小学生だったと思う。やがて、ある「事件」がきっかけで、彼はさらに有名になった。辞書にもありますが「同期の桜」の作曲者であることを認めたためでした。長くそれは秘匿され、作曲者不詳となっていたものです。「戦争責任」を問われるという恐れもあったでしょうが、それにしても自らの作った曲をないものにしようとしてしていた節があったのです。大村さんの曲に歌詞を提供した西城八十という詩人も「戦犯指定恐怖症」があったと言われます。詳しいことは避けますが、「歌が旗になる」という、ある種の宿命のようなものが歌謡曲にはあったし、そんな歌を時局に応じて量産したということでもあったでしょう。いずれにしても大村さんは、ぼくには忘れられない人となったのです。

 それで、四時前に起きて、改めて、大村さんの作られた曲を聴きなおしたという次第です。布団の中で「麦と兵隊」なんか聞けたものではありません。やはり起きなければと、殊勝にも装いをただしたとも言えますね。「旅笠道中」、これはしみじみと歌いながら、人間が生きているのは「旅笠道中」であり、それはまるで「やくざ」のような流れ者(風来坊)ではないかと痛感した歌でした。特に三番の歌詞はいつ聞いても、あるいは読んでもいいですね。「身につまされる」というのかな。堅気を装って入るが、いつだって、男は直ちに「やくざ」になる、女の前では、ね。「とかくやくざは、苦労の種よ」というけど、その通りですね、自分のことを棚に上げて、そう思う。さらに、この番組の最後の曲が「明治一代女」でした。いろいろな歌手が歌っていますが、番組では美空ひばりさんでした。曲が終わった途端、石澤典夫さん(アンカー)は、思わずだったろうか、「うまいもんですねえ」と感に堪えないような一言を漏らしたのは、印象的でした。その曲も聞き直したいために、ぼくは四時前に起きた。この曲のもとになった芝居を、ぼくは「新派」で何度も見たものでした。懐かしい記憶が蘇ってきましたね。

(東海林太郎・歌「麦と兵隊」:https://www.youtube.com/watch?v=bJTgYilVgm4

(東海林太郎・歌「旅笠道中」:https://www.youtube.com/watch?v=fw42zmRZNUw

(美空ひばり・歌「明治一代女」:https://www.youtube.com/watch?v=Q0Kbdb8nGqQ

 早起きして、少し考えたのは戦時下の歌、つまりは「軍歌」と、「やくざ(股旅物)」と芸者の一代記「醜聞(歌舞伎役者との刃傷沙汰)」を題材にした、三つの歌は、作詞も作曲もともに、大村能章さんと藤田まさとさんでしたが、「戦時と平時」は、彼らにとって「地続き」だったということでしたね。つまりは、運動会の応援歌も戦争時の軍歌も、パチンコ屋のテーマ音楽も、敵を打倒するというか、己を鼓舞する、あるいは島をめぐる争い、それが人生なんだとでもいうような、その意味では、いつだって変わるところがないんだということ、それを思いますと、ばっちり目が覚めたんですね。寒いばかりではないんです、人間が覚醒するのは。

 加えて、明治大正昭和平成令和と、あわただしく「元号」が変わりましたが、その変わりように人情や、人の立ち居振る舞いが、想像したようには変化していかないということです。この島の住人の物の見方や考え方は、多いっそれとは変わらないということも、ぼくは深く考えてみたいと思った。明治は遠くなったというのは、時間の単位でいえば、そうでしょうが、じっさいは遠くなってなんかいないようにも感じられてくる。百五十年や二百年など、大きな集団にとっては物の数にも入らない程度の「瞬時」なんですね。こうはいっても、これは懐古趣味でも、復古主義でもなく、「江戸」と一つながりだった「明治」に、ぼくたちは、その暮らし向きとそれに見合った性情というものを育てられたのではなかったかという、歴史と民族の関連の問題としてみたいんです。もちろん、ことの良しあしをいうのではありません。

OOOOOOOOOOOOOO

◉ 大村能章( おおむら-のうしょう)1893-1962=大正-昭和時代の作曲家。明治26年12月13日生まれ。昭和10年代に東海林(しょうじ)太郎のうたう「野崎小唄」がヒットし,以後純日本調の作品を数おおくのこした。12年日本歌謡学院を設立。58年,作曲者不詳といわれていた「同期の桜」の作曲者とみとめられた。昭和37年1月23日死去。68歳。山口県出身。本名は秀弌。作品はほかに「明治一代女」「兵隊」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

◉ 藤田まさと=明治41年、川崎町細江(現在の牧之原市細江)に生まれた藤田まさと先生は、昭和57年8月、74歳でこの世を去るまでの半世紀、人の生き様、人生の浮き沈みといった日本人の心を揺さぶる詩を五線紙に添えてきました。/ 特に「旅笠道中」「妻恋道中」「流転」「大利根月夜」といった股旅・道中物は、まさに藤田作品の真髄であり、江戸情緒をたっぷりと歌い込んだ「明治一代女」、軍国歌謡の代表作「麦と兵隊」、終戦の陰で引揚船から降り立つ我が子を待つ、空しい母の姿を歌った「岸壁の母」などは、人の心をとらえて離さない日本人の歌にほかありません。/ 一方、藤田先生がふるさと榛原を想う心は、「榛原音頭」「榛原小唄」を生み、盆踊り、秋祭りにその昔を添え、郷土の後輩には、青少年の歩むべき道としての校歌を贈っていただきました。このように藤田まさと先生が歌謡界に燦然と輝く不滅の金字塔を打ち立てたその事実は、日本人の心の昭和史であるといっても過言ではありません。/ このような藤田まさと先生の業績をたたえ、その作品を後世に伝えるとともに、地方文化の発展に貢献することを目的に、毎年「藤田まさと先生を偲ぶ歌の祭典カラオケコンクール」を開催しています。(静岡県牧之原市HP:https://www.city.makinohara.shizuoka.jp/soshiki/33/1589.html)

 さらに藤田さんについて。「1918年(大正7年)旧満州遼寧(辽宁:りゃおにん)省大連に渡り、1926年(大正15年)大連商業学校卒。大連商時代には、野球で甲子園に出場している。内地に戻り、明治大学に入学したが、1928年(昭和3年)、3年生で大学を中退し、日本ポリドール蓄音機株式会社に入社する。/ 制作部長、文芸部長を歴任しながら作詞活動も行い、1935年(昭和10年)、「旅笠道中」、「明治一代女」の大ヒットで一躍人気作詞家となった。/戦後も「岸壁の母」などのヒットがある。1979年(昭和54年)には、自身もレコードを出し歌手としてデビューしている。晩年には、「浪花節だよ人生は」のヒット曲がある」(Wikipedia)

◉ 東海林太郎(しょうじたろう)(1898―1972)=歌手秋田県生まれ。早稲田(わせだ)大学商学部卒業後、南満州鉄道に入社したが、鉄嶺(てつれい)図書館長を最後に8年間で退職。クラシック音楽で身をたてようと上京、下八川圭祐(しもやがわけいすけ)に師事する。1933年(昭和8)時事新報の音楽コンクールで上位入賞し、キングレコードに入社。34年ポリドール発売の『赤城(あかぎ)の子守唄(うた)』(佐藤惣之助(そうのすけ)作詞、竹岡信幸作曲)が大ヒットし、股旅(またたび)歌謡曲の基礎をつくった。燕尾服(えんびふく)姿で直立不動、端正な歌いぶりで有名。ほかに『国境の町』『むらさき小唄』『野崎小唄』などのヒット曲があり、65年(昭和40)には流行歌手として初の紫綬褒章(しじゅほうしょう)を受章した。(ニッポニカ)

◉ 火野葦平【ひのあしへい】=作家。本名玉井勝則。福岡県生れ。早大英文科中退。労働運動に従事,検挙されて転向。日中戦争の応召前に書き,同人雑誌《文学会議》に1937年発表した《糞尿譚》で芥川賞。受賞は陣中で知った。従軍中の作品《麦と兵隊》がベストセラーとなり,《土と兵隊》《花と兵隊》を次々に書いて一躍流行作家となった。戦後に《花と竜》《革命前後》などがある。睡眠薬で自殺。(マイペディア)

◉ 明治一代女(めいじいちだいおんな)=戯曲,新派作品。川口松太郎が 1935年にみずからの小説を脚色したもの。同年 11月明治座で作者の演出,花柳章太郎,大矢市次郎らの出演で初演。 1887年浜町で起きた芸者花井お梅の箱屋峰吉殺しの事件を,芸者お梅が歌舞伎役者仙枝へのいちずな愛から引起した偶然の殺人事件という人情劇に仕立てた作品。大好評を得て,新派の代表的演目として定着した。同事件を扱った作品には,ほかに真山青果作の新派劇『仮名屋小梅』 (1934) や歌舞伎などがある。(ブリタニカ国際大百科事典)(右は柳橋・新橋で売った芸妓の花井お梅さん。父は佐倉藩の下級武士だった。っそれ見しても、情勢が刃傷事件を犯したら、どうして「毒婦」になるのか。それはすべて男の「評価」なんだ)

OOOOOOOOOOOOOO

 「ラジオ深夜便」は、この放送局の最大の「目玉」ではないか。テレビは見ない人間ですから、ラジオに偏りますが、どうしても民放はうるさくて聞けないんですね。その点では、この「深夜便」はいいものですが、ともすると、最近は民放並みに騒々しいものが進出してきた感があり、やがて、これも聞き納めかなと思ったりしています。ぼくの寿命が尽きるという意味でもあります。それにしても、この長寿番組は、おそらくもっとも聴取者によって支えられてきたものでしょうね。よくもこんなに多くの人が番組宛に便りを出すもんだと感心します。人がいいんだね。ぼくには考えられもしないことです。

 この番組は、あらゆる分野の問題や話題を扱っています。ぼくは、今はなくなりましたが「心の時代」という放送が好きでした(テレビでもやっていた)。いろいろな分野の方々のインタビューや講演や語りがあって、知らないことばかりを教えられてきたからです。ぼくはラジオ派ではありません。でもそれを三十年以上も続けている、我ながら、アホやなあと言ってみることもある。布団に入ってまで聞くことはないじゃないかといわれそう。悪い習慣なんですね。そのくせ、ぼくは不眠症にかかったことがない。もちろん睡眠薬は飲んだことも見たこともない。ぼくには不要ですから。寝付かれないときはありますよ、そんなときは起きだして、着替えてから何かをやりだします。

 だから「ラジオ深夜便」は、ぼくには寝むりに入りやすい、良質の「マクラ」であり、落語の「マクラ」でもあるのです。注文も文句も、いっさいありません。「おや、おかしいな」と思うことはいくらでもありますよ、でもそれに対してなにかをいう気にはならない。いやであれば、聞かないだけ。ぼくの利害の外ですから。聞くともなく聞く、聞いているのかいないのか、聞いたような聞かないような。自分でもわからないのがいいんでしょうね。耳障りなら、イヤフォンを外せばいいだけ。この「中途半端」「はっきりしない」という宙ぶらりん、それがぼくには、もっとも気分のいい状態です。白か黒かはっきりしろ(白ではない)と言われたら、ぼくはいつだって逃げ出していました。

 それにしてもこの「協会」には何とたくさんの「社員」がおられることでしょう。それぞれがいい仕事を、その分野でやられたうえで、この「深夜便」の配達員になっているんですから、頭が下がります。(この番組は、老齢者人材派遣兼有効利用センターですね)大半はその昔、テレビで拝見した方でしたが、最近は、初めてお名前を聞く方が増えてきました。ぼくの後輩にあたる、何人もがこの「みなさまの✖NK」に勤務されておられます、いずれ声を聴ける日が来るのかどうか。そして、ぼくはよく考えたものです。今日でも水戸黄門の「印籠」がいたるところで生きているんだな、と。「✖HKのものです」といえば(名刺を出せば)、大概のことは通じてしまうんですね。電車賃は無料にはならないでしょうが。身分証明のための余計な前置きはいらない、名詞一枚です。この霊験あらたかなる威光が、あるいは「学歴社会」が死滅しない理由なんですか?)(ぼくはこれまでに、一度だって名刺を作らなかった、だからを持たなかった。それで何かと非難されもしましたが、「本人」が目の前にいるのですから、それを横にして、紙切れを渡す必要性を感じなかったまでです。でも、「紙切れ」の威力は、人によっては抜群なんでしょうね)

朝起きは三文《「徳」は「得」とも書く》早起きをすれば、必ずいくらかの利益がある。早起きは三文の徳。(デジタル大辞泉)(「三文」って、そんな貨幣なんか今通用しないだろう。今なら「早起きは三万の徳」かな)

_______________________

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。