猫ババするのも、棒に当たるのも、人間なんだ

【筆洗】安岡章太郎さんのエッセーに飼い犬が夜中にほえだし、難儀をするという話があった。寒い時期の午前一時半。パジャマの上に外套(がいとう)をはおり、しぶしぶ散歩に出る。大変だが、「(近所の)なかには受験生で、明日は入学試験という人もいるかもしれない」▼受験では苦労した安岡さんだからの未明の散歩か。「大学予科へ入るまで浪人三年、予科でまた落第一年」。途中、戦争もあって大学を出たのは二十九歳の年。受験生の気持ちがよく分かったのだろう▼安岡さんほどではないにせよ、たいていの大人が何らかの形で受験という壁の前でもがき、苦しんだ経験がある。<人生でいちばん応援してもらえるのは、受験の時かもしれない>。そんな広告があったが、なるほど己のつらい経験を思い出し、受験生を見れば応援したくもなる▼応援されるべき受験生へ振るわれた刃物がくやしい。大学入学共通テストがあった東京大学で男女二人の受験生と男性が刃物で切り付けられた事件である▼容疑者は高校二年生と知って脈が速まる。「勉強がうまくいかず、事件を起こして死のうと思った」。勉強に苦労しているのなら、受験生の苦労も分かろうものなのに▼被害者の回復とあらためて試験が受けられることを願う一方、同じ会場にいた受験生の動揺も心配になる。隣の席の貧乏ゆすりにさえ、集中力を乱される試験会場である。(東京新聞・2022/01/16)

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 実は、この駄文は安岡さんについて、なにがしかを書こうとして用意していたのです。彼の本からも教えられたし、何よりも、彼は差別問題に大きな関心を持っていたのを隠さなかった。野間宏さんたちと対談や鼎談をしたものが印象に残っている。さらに、彼は土佐の出身であるということも、ぼくが関心を抱くに至ったっ理由でした。最後の作品「流離譚」はいいものでしたね。(ほぼ同時代では開高健さんもよく読みました)少し年長だった大岡昇平さんも愛読したものですが、戦争で「武勲」をあげられなかったこと、大学進学では優等生ではなかった、そんなところにも惹かれたのかもしれません。作家や作品のついては、どこかで、駄文や雑文(でないことを念じますが)から足を洗ったような、垢抜けした文章(自分で言ってはダメ)を書いてみたいと、ある時期からまじめに考えていました。

 何も文学者に限らないことで、世の中には「犬派」と「猫派」が、鎬をけづっていると言いますが、それは人間の側の問題で、犬にも猫にも、あまり関係はなさそうです。ぼくはこれまでに、犬とも猫ともいっしょに暮したので、どちら派とは言えない。どちらも、場合によって生活を共にする仲間だという意識が小さい頃から抜けていないのです。だから、犬や猫に服を着せたり、パンツをはかせるのは「虐待」ではないかといいたくもある。動物は、もちろん人間もですよ、あまり構わないで育てるに限ると考えてきました。しつけと称して「まて!」とか「座れ!」などと号令をかけるのを聞いたり見たりすると、自分が言われたように腹が立ちますね。「食べもので釣る」という、この根性が汚いではないですか。仲間として、あるいは友だちとして、そこそこの距離をとる、それがつきあいの根本です。今流行ってるんじゃないですか。

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 日本人のペット、8年連続ネコがイヌを上回る 2021年・ペットフード協会調べ 21年10月1〜4日、全国の20〜79歳の男女にインターネットで調査。5万人から得た回答を集計した。/ 21年の猫の推計飼育数は894万6000匹。犬の710万6000匹を大きく上回った。13年以降、猫が緩やかな増加傾向にあり、犬は減少傾向をたどっている。うち新規飼育数も猫は48万9000匹と、犬の39万7000匹に差を付けた。猫が18年から4年連続で増えているのに対し、犬は横ばいだった。/ コロナ後に猫を飼い始めた人は、飼育による良い影響を「毎日の生活が楽しくなった」「寂しさを感じることが減った」と回答。新規飼育数は犬猫ともコロナ前に比べ増えている。同協会は「コロナがペットを飼うきっかけになっていることが伺える」と分析した。/ 協会は21年の調査から単身世帯の割合を実態に近づける集計方法に変更。13年以降のデータを集計し直した。その結果、調査を始めた1994年以降、猫の推計飼育数が犬を初めて上回ったのは、当初の2017年から14年になった。(南日本新聞・2022/01/23)

 調査には限界があるのが前提です。はたして、これで犬猫の「飼育の実態)が正確に反映されているのかというと、大きな疑問符が付くでしょう。どんな調査結果にも、「眉に唾をして」というのが、ぼくの基本姿勢です。今日では政府の統計や官庁のもろもろの調査統計がずさんというか、偽装偽造されていた、それが当たり前の慣行として続けられてきたのです。犬猫の調査に限って、きわめて正確に現状を反映しているとは思えないし、まして実施主体が「ペットフード協会」というのですから、「眉に水を垂らして」見る必要があるでしょう。「2009年4月1日より任意団体ペットフード工業会は、一般社団法人ペットフード協会に変わりました。当協会は、国内でペットフードを製造または販売する企業87社で構成され、ペットフード市場の90%以上が会員社によってカバーされています。/ 当協会会員社は、我が国におけるよりよいペットライフの実現に貢献すべく、弛まぬ努力を重ねています。/ ペットと共に暮らす人々から信頼されるペットフードを提供していくためにペットフードの安全性・品質向上の推進と啓発事業を行うことにより、ペットと人の生活の質を高め、“ペットとの幸せな暮らし”を実現する」と、高邁な事業展開の方針をうたっておられます。(一般社団法人:ペットフード協会:https://petfood.or.jp/data/chart2021/index.html)

 たくさんのことを言いたい気もありますが、言っても無駄だという諦念に似た気分もあります。犬や猫と暮らす、その暮らしぶりは千差万別、ネットにあふれている「私のペット」の映像を見ると、この先どうなるんでしょう、という心配がふつふつと沸き起こってきます。ペットは見世物や玩具ではないという、付き合いの根っこの考えが育っていないんでしょうか。今でもむ「愛玩動物」などというんでしょうか。先日川崎でペットを病院に連れて行くのに、脇見運転で親子が死亡する事件があった。助手席にいたのは「インコ」で、それに気を取られて事故を起こしたという。インコと人間を比べるのではありませんが、もう少しまともな感覚を育ててくれよと言いたくなります。あまり他人のことをとやかく言えまでんが、しばしば犬猫病院に行くっと、なにかと感想が湧いてくるのです。それぞれが「血統書」がついていたり、なかなか高価な対象(商品)だと思われるのばかりが来ていますね。我が家の猫たちは野生育ちですから、上等なペットに慣れきっている獣医師も、腰が引けているという感じを持たされます。ここに来るんですか?といいたそうな。(ぼくの偏見かな)

 一年ほど前に、生まれて十日ばかり経過した子猫が、いかにも「息絶え絶え」だったので、ダンボールの小箱でにわかにケージを作り、そして病院に連れて行ったら、待合の先客たちがまず「白い目」で睨んだ。ここは、そんな「ボロイ猫」が来る病院じゃない、と言わぬばかり。頭に来ましたよ。立派なケージに、これまた立派な猫や犬。駐車場には外車がズラリ。何とか我慢して医者に診てもらったら、奴は「これはもう駄目です」と、猫に触れもしなかった。魂消(たまげ)たとはこのこと。死にそうになっている猫の子を、手で触りもしないで「もう駄目」と言い捨てた。無料で診てくれというのではないんです。ぼくは怒鳴ろうかと思いましたが、子猫のいのちが大事だし、と気を静めて家に帰った。その数時間後に亡くなった。今は、家の裏庭で「仏」になっている。「患者」や「患者の付き添い」の人相風体で、「予備診断」をするとは、医者の風上にも置けない野郎だと、今でもその病院の前を通るときに怒りがこみ上げてきます。(それは、茂原市のS動物病院)

 ぼくのところへ、「処分される運命にある」犬猫の「助命」のための署名がしばしば来る。それぞれの自治体の判断で保護したものの、里親探しをやっていたり、あるいは「処分」(駆除という言い方をする自治体もある)数を発表しているところもある。いったい、全国で毎年どれくらいの数になるのか、気が変になりそうなので、ぼくはまず調べる気がしないのですが、もっとも関係する「ペットフード協会」もやらないだろうし、犬猫病院の団体もやる気遣いがありません。可愛いから飼う、飽きたから捨てる、こんなことが何の痛みもなく日常的に行われているんですね。粗末な扱いは動物に対しても、人間にたしても、すっくりそのままで共通している。

 今では「猫カフェ」が盛んです。その猫たちは、用が済んだ(退職した)らどうしようというのか。時間給で雇っているんですかね。やがて「犬喫茶店」も出てくるでしょう(もうあるかも)。さらには「猫のいる飲み屋」「犬が横に坐ってくれるバー」が出現しそうな勢いです。これもすでにあるのかも。キツネやタヌキが店を経営しているというのはよく聞きますが、さて犬猫ではどうなんでしょう。要は、人間の勝手な扱いを受ける「ペット」にだけはしてほしくないね。犬猫をペットにするというのは、あるいは子どもを「ペット化」することに失敗したからかもしれません。しかし犬であれ、猫であれ、人間の仲間としては最良の動物ですよ。いっしょに暮らした歴史の古さは半端ではないのです。

 詳しくはわかりませんが、有史以前から犬は人間と暮らしていたとされます。猫もこの島では奈良時代あたりからと、いくつかの文献に出て来ます。「野生時代」が犬よりも長かったことは確かで、それだけ「家畜化」が容易ではなかったのでしょう。その名残はいまでもあるのではないですか。とにかく、犬は歩かなければ、たちまちのうちに弱ってしまう。これは飼い主の怠慢で、つなぎぱ放しにしていて、(佐倉に住んでいた時の)両隣の犬が亡くなったことを覚えています。あっという間のことでした。それに比して、猫はまだましかもしれません。でも、最近では猫も首輪をつけられ、散歩させている(猫から言わせれば、人間を散歩させているんだ)飼い主が見受けられます。

HHHHHHHHHHHHHH

 犬・猫にかかわる「諺」らしいものを二つばかり。たくさんある中で、もっとも人口に膾炙しているものを出してみます。動物をネタにして、人間の愚かさやくだらなさを言い当てる、あるいは揶揄するためのものが多いようですが、それだけ、人間を名指しでいうのでは波風が立つというか、角が立つからという意味合いもあるでしょうし、動物になぞらえられれば、どんなに図星でも腹を立てられないという計算もあったでしょう。いずれにしても、諺というものは、人間社会の、荒唐無稽さの暗喩であり、あるいは婉曲な人間批判でもあったのでしょうね。 

 ある人に対して、「お前、この前に預けた金を猫ババしたろ」と単刀直入にいうことはめったにありませんが、よからぬことを隠し立てしたりした時、暗に(場合によっては、これ見よがし、聞こえよがしに)いうときのセリフです。例に挙げられた猫にしたら、えらい迷惑な話でしょうね。隠さなければならないし、そうすることがだれにとっても都合がいいように「砂をかけるんだ」といいたいところですね。もともとは、もっと違った使われ方をしていたはずです。猫が「悪事を隠す」というのは濡れ衣であり、それは人間が「猫をかぶっている」からではないですか。

 あちこちうろついいて、風来坊を決めこんでいたから、とんだ災難に遭うことの例として使われた表現で、「江戸いろはかるた」の第一番目でした。元来は、肯定的な「ものいい」ではなかったと思う。「猫ババ」と同様、最初は違った意味を指そうとしていたと思われます。犬がうろついて「棒に当たる」というのは、どう考えてもヘンテコです。「猫ババ」も含めて、ぼくにはおおよその見当がついています。しかし、ここでは言いません。出し惜しみをするのではなく、「諺」というものが示す歴史や性格から言って、陳腐な意味内容を示すために作られ、使われて来たのではないんですよ。

 言葉の誤用は、いつの時代でも起こるのであり、それがいつしか、正当な位置を占めるようになるのです。「情けは人のためならず」というのは、その現代における典型ですね。情を他人に施せば、まわりまわっていつか自分に返(帰)ってくるというものでしたが、近年では「ひとに情をかけるのは、その人のためにならぬ」、つまり余計なお世話であり、甘やかすことにでもなるという理解です。いかにも、今日的な軽薄個人主義時代風の用法でしたね。どういう使い方にせよ、ここに犬や猫が出てくることの意味は、それだけ、犬猫が人間の暮らしに中で一定の役割を果たしていたということの、一面の証明でもありますね。

 終わりの一言。自分が犯した過ちをごまかすのに、犬や猫を使うとは、もってのほかです。猫ババしたのも、棒にあたったのも、猫・犬ではなく、人間ではないか、身内ではないにしても長い間の、かけがえのない「友だち」を出汁に使うというのは、美しくないこと甚だしいね、と犬猫は言いたいだろうな。人間というのは、どこまでも横柄で傍若無人な動物なんだろうと、人間以外の生き物は、きっと感じ取っているに違いありません。「これが人間のすることか?」

 二つの「諺」について、もともとの使われ方は、「こうでした」という、その解釈に関して「ヒント」を出しておきます。犬も猫も、人間にとっては無二の親友でした。彼や彼女は利口だった、人間に比べて、「分を超えないんですから」、まず間違いを犯さなかったものです。それを人間はうらやましく思っていたんだね。ところが、…。「弘法も筆の誤り」とか「猿も木から落ちる」とかいったような、そんな解釈が成り立つような使われ方をしていたのであろうと、ぼくは愚考している。

LOOOOOOOOOOOOL

◉ ねこ‐ばば【猫×糞】=[名](スル)《猫が、ふんをしたあとを、をかけて隠すところから》悪いことを隠して素知らぬ顔をすること。また、拾得物などをこっそり自分のものとすること。「拾った物を猫糞する」(デジタル大辞泉)

◉ 犬も歩けば棒に当たる=労をいとわず動きまわるうちに思いがけない幸運に遭うことのたとえ。また、物事を積極的に行う者は、それだけ災難に遭うことも多いというたとえ。(ことわざを知る辞典)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。