冬の日に語るのは良いが言ってはいけない

 明窓・千年前に学ぶ冬の過ごし方 きょうは二十四節気の一つ「大寒」。2月4日の立春まで一年で最も寒い時期とされる。寒いのは苦手だが、エネルギーを秘めたような朝の空気感は身が引き締まり、土の中でじっと春を待つ虫たちのような心持ちになる▼中国の文献を編集して朝廷に献上された日本最古の医学全書『医心方』(984年)によれば「この季節は夜は早く寝て、朝は必ず太陽が昇って日が射(さ)してから起きること。志はじっと深く内に秘め、自分なりの考えを持つようにし、徳があるように振る舞う」。これが冬という季節の気に応じた養生法という▼万物が息づき、気が満ちる春を待つのが生き物の道理であれば、年明けからのオミクロン株の猛威で内にこもることは理にかなうのだろうか。上手にこもらなければ、春まで気も身も持たない人がいるだろう▼内科や外科、美容や性愛まで網羅し、全30巻で構成する医心方の養生編総論は「養生は習慣にしなければ効果はない。天性がおのずから自他に対して善であれば、あらゆる病気にかからず、禍乱災害も起こりようがない」と説く▼この時代に千年前の医書は一笑に付されるかもしれない。多くの人は、3回目のワクチン接種や新薬の開発、普及を首を長くして待つ。薬は人と社会を救うが、医心方は第1巻でみだりに薬に頼ることを禁じ、病気にならぬ先の養生を勧める。まずは自分の生活を見直す冬にしたい。(衣)(山陰中央新報デジタル・2022/01/20)

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 このコラム「明窓」を読んで、ぼくは驚きました。なぜかというと、日本最古の「医学書」を紐解くまでして(かどうかわかりませんが)、「冬の過ごし方」を引いているということでした。もう一点は、この「医心方」がどのような経緯で(コラム氏が引用されたような)現代日本語の文章になったのか、それが不問に付されていることでした。試みに、いくつかの、ぼくの常用辞典(事典)を調べてみても、今日、ぼくたちがこのようにして現代文で、詳細に、行き届いた文章でで読めるのはどうしてか、それに触れられていないのを、実に異なことに思う。現代語訳をした翻訳者がおられたのです。それにまったく触れないのは理由があるのかどうか。こんなことは取るに足らないことといわれそうです、その通りと無視しても構わないのですが。

 本居宣長が存在したおかげで、われわれは「古事記」を何とか読むことができるようになりました。もちろん、宣長さんがいなかったら、あるいは、彼がこの訳業を果たさなかったら、「古事記」は埋もれていたかも知れないし、他の誰かが訳したとしても、今のような「文章」「日本語」として、ぼくたちが読めたかどうか。それを考えるだけでも、漢文を日本語に置き換える作業は、二つの異なる文化に精通していないと不可能であったと、いまさらのようにぼくは感慨を持っているのです。ぼくは、この「医心方」の訳業を、宣長さんの「古事記伝」の横に置きたいくらいなんですね。

 この「医心方」の翻訳が開始され、やがて刊行されると耳にしたのは、もう三十年以上も前になります。ある出版社から「全三十三巻」の完訳本が出る、それもたった一人の翻訳によるのだと聞いた時、ぼくは驚愕したというか、いったいそんな人がいるのかと肝を冷やしたのでした。直後にその人は、槇佐知子さんと知った。彼女について、ぼくは、いっさい知るところがなかった。この全集が刊行され出したのは一九九三年でした。当時、ぼくは購入するかどうか、毎月のように迷っていました。「日本最古の医書」を買ってどうするんだ、いつ読むのか、何のために読もうとするのか。一冊数万円もしたのです。現在、全巻揃い(新刊)で八十数万円です。品切れですから、古書でとなるとその何倍か。買っておけばよかったという思いと、今からでも買おうかなどと、いまだに迷っているのです。買ってどうする?

 その長年の迷いの間にも、槇さんの本は折々に読んできました。彼女は一九三三年生まれだそうですから、現在、九十歳になられます。すごい仕事をされてきたなあと、ほとほと驚くばかりです。直接の面識はありませんが、彼女は静岡出身で美術大学を出ておられます。初めて彼女の名前と仕事を知ったのは、はるかの昔で、彼女は絵本を書いておられた。挿画は赤羽末吉さん(ぼくの友人の父)でした。詳細は略しますが、槇さんは医学専門の方ではなかったし、もともとは絵を描くことをされていたのです。それがどうしてこの「医心方」にかかわられたのか、そのことをぼくは知りたくて何冊かの著書を読むうちに、この人は大変な人であると、心の底から感じ入ったのでした。

 だれも顧みないままで捨て置かれた医書、その一つは「医心方」であり、もう一つが「大同類聚方」でしたが、それがほぼ時を同じくして、彼女の前に現れたのでした。

 「(槇さんは)既往症を癌と思いこみ、残された日々を有意義に生きたいと念じ続けていた或る日、何気なく手にした一枚のチラシ。それは市の用途地域改正案の図面と説明書であった」彼女が居住する地区の広大な民有地(旧財閥の庭園)を、都が「商業地域」に用途変更するというものだった。彼女は早速、いろいろな団体と共同して「緑地を守る会」を作り、事務局の責任者になった。「守る会に参加した医師の一人があるとき自宅に招いて、豪華な帙(ちつ)入りの和綴じの本を見せてくれた。何気なく手にした私の眼が釘付けになったのは、開いた頁の記述が私の既往症に似ていたからである。思わず何頁かを拾い読みしてふと顔を上げると、唖然としたような医者の顔があった…こんな難解な古漢文が読めるのかと。それが私と『医心方』の最初の出会いである。

 その後、その医師は我が家を訪れ、いくつかの文字について質問した。それは偶然、私の知っている慣用文字であった。/ 「千年来、誰も訳さなかった本です。あなたなら訳せる」といわれたが、私は守る会を遂行することで精一杯であった。明日がないという想いで一日一日、全力投球していたから『医心方』の現代訳どころではない。/ だが、献身的に守る会に協力して下さる医師の申し出を断りきれず、文字の解読や訳をするようになった。すでにその時『医心方』に取り憑かれていたのであろう」(槇佐知子「古代医学のこころ 『医心方』随想」NHK出版、1993年刊)

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 縁といい、機縁(奇縁)といいます。いろいろな人と出会い、偶然が運んでくる機会に恵まれて、槇さんは古代医学書の翻訳にのめりこんでいきます。おそらく、翻訳中の彼女の形相には鬼気迫るものが漂っていたと思われます。およそ畑違いといっていいような仕事を、彼女はたった一人で、半世紀近くもかけて成し遂げられました。それだけでも宣長の偉業に比して、いささかの遜色もないのです。彼女を突き動かして、かかる「偉業」をなさしめたのは、何だったのか。「医心方」刊行開始の段階で、ぼくははるか彼方から、すごいことをされる人がいるものだと、仰ぎ見るような気持で、その姿を遠見していたことをはっきりと記憶しています。

 「医心方」の内容以上に、ぼくは槇佐知子という存在に、強烈な印象を受けてしまったというべきでしょう。運命というものがどんなに残酷な仕打ちを人に対してなすものか、その過酷な運命に対面し、対峙して、人はいかなる態度を取るのか。そこから逃げることもできよう、あるいは果敢に闘う人もいるでしょう。人それぞれが、自らの運命に向き合う姿勢や態度というもの(それを「経験」と呼びたい)を、他者が知ることができるなら、ぼくたちは、その「姿勢や態度」(経験から生み出された「思想」といっていいと思う)から学ぶことができるというものです。槇さんだけの人生(経験)であり、槇さんだけに経験された運命であるようにも思われますが、いいや、それは誰にも通じる、どなたにも訪れる「生き方」の問題であるともいえるでしょう。書かれたものを読むということの、あるいは核心となる意義ではないでしょうか。

 早くに刊行された著書の巻頭に、槇さんは一編の「献辞」(それは、悲痛な呼びかけでもあります)を載せておられました。それは、「妹に」と題されていた。

 

妹よ
あなたは津軽の海底をさまようのか
凍てた土に閉じこめられているのか
それとも、樹海をわたる風と化したのか
あなたが消息を絶って以来、今年は七周年…
生死を知るすべもなく
古代医学の研究に支えられ
私は生かされて来た
私の仕事は、あなたとわたしの悲しみと苦しさの
結晶である
あなたの生存を念じつつ、私はこの書を
あなたに捧げる 
           一九八六年二月九日

◉ 医心方(いしんほう)=現存する日本最古医書。平安中期の医家丹波康頼(たんばのやすより)が984年(永観2)に円融(えんゆう)天皇に奉進した。全30巻。内容は医学全般を包括して養生、房中に及ぶ。すべて中国の六朝(りくちょう)・隋(ずい)・および朝鮮の医薬関係書からの引用で構成され、多くは隋の『諸病源候論』によって項目を分けている。引用書は100余種に及ぶが、そのなかの多くが亡失して伝わらないため、中国医学史研究上、きわめて貴重な文献となっている。また古態(こたい)を残していることから現伝の古医書を考訂するうえでも重要な資料となっている。秘蔵されたため幕末まで人目に触れることがなかった。伝本に主として半井(なからい)本系と仁和寺(にんなじ)本系の2系統がある。半井本は、正親町(おおぎまち)天皇が典薬頭(てんやくのかみ)の半井瑞策(ずいさく)に賜ったもので、同家は代々これを秘蔵したが、安政(あんせい)年間(1854~60)幕命によって供出させられ、江戸医学館で校刻された(安政版)。原本は半井家に返却され今日まで伝わり、1982年文化庁の所轄となり、84年国宝に指定された。ただし巻22は早くに流出してお茶の水図書館にあり、これも国の重要文化財。仁和寺本は、幕末まで全30巻中20巻が残存していたが、今日、仁和寺には5巻分しか現存しない(国宝)。しかし流出部の内容は国立公文書館所蔵ほかの幕末の模写本によってうかがうことができる。半井本系と仁和寺本系では記載にしばしば異同がある。(ニッポニカ)

◉ 大同類聚方(だいどうるいじゅうほう)=平安時代の医書。出雲広貞(いずものひろさだ)、安倍真直(あべのまなお)らが、808年(大同3)に平城(へいぜい)天皇の命を受け、国造(くにのみやつこ)、県主(あがたぬし)、稲置(いなぎ)、別首(わけのおびと)、あるいは諸国の大小神社、民間の名族・旧家に伝来する薬方を徴集し、選出・類纂(るいさん)した。100巻よりなり、日本古来の医方を総集した最初で最大の書であるが、今日に伝わっていない。現在、出雲本、畑本、北畠(きたばたけ)本などが流布本として伝わっているが、それらはいずれも偽撰(ぎせん)で、その内容は大同小異とされる。このことについては、幕末の和方医家、佐藤方定(のりさだ)が『奇魂』で論じたほか、多くの学者が偽書と断じている。(ニッポニカ)

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 貝原益軒の「養生訓」は、ぼくの愛読書です。その種本になったのが「医心方」だとされています。漢方とか東洋医学といえば、いささか偏見の目で見られる傾向がいまなお強くありますが、どうでしょうか。切った張ったと言わぬばかりの西洋医学に大きな問題が見出されて久しいのです。それに、今頃、東洋だ西洋だ、ということ自体が、筋を外れているとぼくは考えています。「生薬」という年来の薬を服用しない人は、いまだって、おそらくいないのではないですか。それほど食べ物や飲み物を含めて、ぼくたちの生活の土台は、身体の構造や心理の表れ方を含めて、千年前とどこまで、どれほど変わっているのか、大いに疑問とするところです。ぼくは「漢方」(「本草」「生薬」)というものに、時に頼ることに躊躇はしませんでした。基本的には、人間の体の仕組みは変わっていないのなら、千年前の知恵が通じないことはないでしょうし、いま大きな話題になっている「ワクチン」、それを飲んで(注射して)みて、はじめて副作用(副反応)があるかどうかがわかるという「化学薬品」の問題点もまた、本草学が明らかにしてくれるのですから。開発中の薬(ワクチン)を、パンデミックの広がりで罹患した「感染病患者」に投与する、服用・投与された患者は実験台なんですかね。それはまた、まるで土台と屋根ができたばかりの(建築さなかの)家に入居するほど、ばかげた行いではないですか。

 槇さんについては、もう少し丁寧に、その仕事や生き方について考えたいし、そこから、ぼくは貪欲に学んでいきたいと願っているのです。最後に、もう少し、著者から引用しておきます。

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 その昔、奥多摩のどこからか掘り出された巨大な片麻岩は、堂塔が朽ち果て星霜が移り変った今も一部分だけ地上にのぞかせ、土の中で沈黙し続けているのだ。天平時代の人々の掌に触れ、声を聴き、工事する人々の哀歓も此の石は見たであろう。/ こうした石や裸樹のように気を内に収めるのが冬という季節に順応した養生法で、古代中国ではこれを「養蔵の道」といった。すなわち、志を深く内に秘めて熟成させ、徳を己の中に備えるのだ。

 「冬の日には語るのは良いが言ってはいけない」と隋王朝以前に著された『千金方』という本に書かれている。自分からしゃべるのが「言う」、人に問われて答えるのが「語る」で、「人に尋ねられたら自分の意見を述べなければならないが、聞かれもしないことを自分からあれこれしゃべるのは冬の養生法に適さない」というのがその説である。(「医心方の世界(増補版)」人文書院、1993)

 ぼくはこの部分に行きあたって、芭蕉の「物言えば唇寒し秋の風」が即座にわかりました。俳聖は「養生」にいつでも留意していた人でした。だから、なぜ「唇寒し」なのか、それはまるで、頓悟(とんご)というのでしょうね。三十五年前の、ぼくに生じた小事件でした。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。