歓声よりも悲鳴があがった本塁打として記憶されていよう。一九八八年十月十九日、川崎球場。ダブルヘッダー二試合目の八回裏、ロッテの高沢秀昭選手が近鉄の阿波野秀幸投手から左翼席に同点弾を放つと、観衆の多くはやがて沈黙した▼この年のパ・リーグは首位西武が先に全日程を終え、猛追する二位近鉄も残すは「10・19」のロッテ戦二試合のみに。連勝すれば逆転優勝とあって、多くの近鉄ファンがスタンドを埋めた▼近鉄は一試合目に勝ち、二試合目も終盤に一点リードしたが、直後に浴びたのが高沢選手の一発。そのまま引き分け、近鉄は夢破れた▼その年の首位打者を獲得するなど幾度もファンを沸かせた高沢選手。現役引退から久しいが、消息を伝える報道に接して驚いた。既に六十三歳だが、四月から横浜で保育士になるという▼ロッテのコーチを務めた後、少年野球教室で園児や小中学生を教えていた。子どもの成長を見守ることにやりがいを見いだし、還暦を過ぎてから専門学校で保育を学んだ。かつて娘が使っていた自宅のピアノを調律し直し、練習して弾けるようになった▼「保育士を目指して人生が豊かになった」と語る元バットマン。子どもの心もとらえるのか、専門学校生としてサンタにふんし、保育園のクリスマスイベントを訪れた時も園児たちがはしゃいだ。新たな職場も、歓声がよく似合う。(東京新聞・2022/01/22)(ヘッダーは「三十二番職人歌合絵巻(室町時代 16世紀)」サントリー美術館)
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今では、野球にはほとんど興味がありません。高校野球も大学野球も、もちろんプロ野球も、かつては熱心なファンだった。中学・高校時代は野球漬けになっていたのですから、それなりに興味を持っていたのに、この始末です。どうしてか深く考えたことはありませんが、おそらく、リトルリーグから始まって、いろいろな段階(レベル)の野球も、結局はプロへの準備野球ではないかと愚考したからです。つまりは、エレベーターだかエスカレーター式に、「野球」は利用されているんだと。もちろん、スポーツとしてみればいいのですが、しかし、いつのころからか、野球は「職業」として考えるという風潮が蔓延したように思っています。だから、どうなんです?、と改まって聞かれると、大したことも言えませんが。
「学歴偏重」が「野球偏重」「柔道偏重」というように、どうも「職業」(実はそんなものではなく、社会的出世の手段と化したのかも)というか、社会的履歴になりきっていしまい、スポーツの自由さがなくなった、そんなふうに思ったりするのです。もちろん、個人の勝手な意見です。勝つことにこだわると、面白みが消えていきますね。わくわくしなくなるのではないでしょうか。
もう半世紀も前になりますか、「巨人・大鵬・卵焼き」という三大強者のランキングがありました。近年なら、さしずめ「自民・白鵬・ハンバーグ」といったところでしょうか。強い者の三態ではなく、不正や八百長で「一強」を独占しようとしているから(ハンバーグは、語呂合わせの付け足しですから、悪しからず)。何業にしても、とにかく「一番」「頂点」「金メダル」でなければ話にならないというご時世になったように思われ、いかにも気が置けないことおびただしいですね。一番でなければ、夜も日も明けないというような姿勢では、「スポーツ」もなにもあったものではないですよ。勝ち負けは時の運でもあるし、「勝って負ける」ということもあろうし、「負けて勝つ」という生き方だってある、こんなことは生きている中でいくらもあります。勝てばいいんだという、上澄みばかりを救い取るような人生に、ぼくは背中を向けて、これまで来たように思っています。それが「負ける」ということだったら、ぼくには何の不満もありませんね。
とにかく、野球が関心の外になった。だから、コラム「筆洗」にある、元ロッテの高沢さんについても、ぼくはまったく知るところがありません。ただ、還暦を過ぎて「再出発」する、しかも、それが「保育士」となるといえば、なかなか世間に見られる人生行路ではないという意味で、ぼくは関心を持つのです。再出発するのに年齢に限りがあるものではないでしょうが、それでもプロ野球で一仕事をされた方の「転向」ですから、いろいろな点で、興味が湧くし、どんな「元バットマン・先生」になられるのか、見届けたい気がします。

ある時期まで、勤め人を定年前に止めて、少しばかりの元気を残して「介護」か「老人ホーム」などの周辺の仕事をしようと、ぼくは計画したことがありました。六十歳までに転職という算段をしていたのです。それ故に、都心ではなく、近郊の「田舎」で、少し広めの土地を物色したり、建物を見に回ったりしたことがありました。実際に土地(伊東市)は手に入れましたが、今はそのままになっています。ぼくの周辺には、学校の教師崩れで、介護関連の仕事に再就職した人もいましたので、ぼくもできるかな、やってみたいね、そんな「夢想」を紡いでいたのでした。しかし、よんどころない「支障」が入って、勤めを辞めるに至らなかったのは、今からみても、ぼくの思慮が足りなかったと、大いに悔いを残すところではあります。「介護」という職域は、その重要さ、需要の高さに比して、なんとも扱いが粗末きわまりないという情報ばかりが流れています。実態はどうなっているのか。
この道一筋、その生き方はなかなか魅力的でもあり、世間からは高く評価される傾向があるでしょう。それに反して、転職に転職を重ね、少しも腰が落ち着かないと言われるような人生経験もあります。今でも、そうかもしれませんが、さんざんに職業替えをした挙句に「作家」になったという人がたくさんいます。一例にすぎませんが、吉川英治という人などはその代表でしょう。「宮本武蔵」「鳴門秘帖「三国志」など、今でも大変に人気のある作家です。それなりに吉川さんんの書かれたものは読みましたし、映画化されたものも、よく観たものでした。吉川さん以外にも、多くの事例があったので、うんと若い頃(二十歳前)、ぼくは作家というのは、いろんな職業をやってみて、ダメな人間が付く職業なのかと思ったほどでした。他には、松本清張さんなども、なにかと「下積み」という仕事をされていました。それはスプリングボード(踏切版)だったんですかね。

しかしやがて、並み居る作家のことごとくが「帝大卒」「四大卒」の資格を持つ時代が来たのです。大学を出て作家になるというのはどういうことか。小説に限らず、詩でも俳句でも、あるいは評論でも、まず「経験」を元手(資本)にしてモノを書くのであって、感性や感覚だけでは、先がないとまでぼくは思っていましたから、その仕事の多くが、そのような状況に齷齪しているのではないかと、現下の文学の仕事を見たりしているのです。大学を出て作家に、当時は、それがぼくには不思議でした。その大卒組の一人だった、井上靖さん。大学を卒業して新聞社に就職した時、すでに三十歳だったとか、結婚して子どもが二人か三人いたそうです。柔道などに現を抜かしていたのではなかったか。「大学生である」という時間をいかに経験したか、その質が問題になるんでしょうね。今日、あまり抵抗がなくなったのは、「大学」というものの値打ちが低下したからなのかどうか。あらゆる職業の予備門化ですね。それでいいのかも知れない。
これは頓珍漢な例ですが、お相撲さんは「中学卒」が相場だった、そんな世界に「大学卒」だか「大学出身」の力士が現れ、果ては横綱にまでなったとなると、大相撲なんて、底が浅いものだなあと、いっぱしの批判を口にしたこともありました。現在でも、大学は就職の予備門のようになっているし、それはそれでいいのかもしれません。世の中には、さまざまな人間がいますから、すべてが同じというのもおかしな話ですし、人それぞれに、好むところ、好まないところに入っていくのも一つの人生です。でも、そんな人生にも、いくつかの面相というか、幅があって、何度でも繰り返しがきくし、取り戻すことができるんですね。端的にいえば、失敗の繰り返しであり、後悔の種が尽きないのが人生であるのだと、自分を振り返り、偉そうに言います。後悔や失敗が人生なんだと、今ごろになって、思い当たる人間の空言ですかな。
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◉ 吉川英治(よしかわえいじ)(1892―1962)=小説家。明治25年8月11日、神奈川県久良岐(くらき)郡(横浜市中区)に生まれる。本名は英次(ひでつぐ)。父が訴訟に敗れて家運傾き、小学校を中退。店の小僧、官庁の給仕、商店員、ドックの船具工など転々とする。このころについては、のちに『かんかん虫は唄(うた)う』(1930~31)、『忘れ残りの記』(1955~56)に描かれている。1910年(明治43)の暮れに上京、下町に住んでしばらく会津蒔絵(まきえ)の工芸家の徒弟となり、また雉子郎(きじろう)の名で川柳(せんりゅう)を投稿、井上剣花坊(けんかぼう)、伊上凡骨(ぼんこつ)らを知り、柳樽寺(りゅうそんじ)川柳会同人となって、人間観察を深めるが、同時に川柳の限界も知る。21年(大正10)講談社の諸雑誌の懸賞に応募、『縄帯平八』『馬に狐(きつね)を乗せ物語』『でこぼこ花瓶(かびん)』などが入選した。翌年『東京毎夕新聞』記者となり、同紙に『親鸞記(しんらんき)』(1923)を無署名で連載したのを機に、しだいに文運が開け、『キング』創刊号から初めて吉川英治の名で『剣難女難』(1925~26)を発表するに及んで、注文が殺到するようになる。このころ、また『少年倶楽部(くらぶ)』に『神州天馬侠(てんまきょう)』(1925~28)を発表するが、これは『竜虎八天狗(りゅうこはちてんぐ)』(1927~31)、『月笛日笛』(1930~31)、『天兵童子(てんぺいどうし)』(1937~40)などと続く、彼の少年少女小説の傑作の最初のものであった。ついで、『大阪毎日新聞』紙上を飾った『鳴門秘帖(なるとひちょう)』(1926~27)で、ようやく大衆文壇の花形作家となって活躍が始まる。(以下略)(ニッポニカ)
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ここで、考えてみたいのは「職業」について、あるいは「仕事」についてです。第一義には「生活の糧を得る」ため、「糊口をしのぐ」ためではありましょうが、それ以上に大事なのは「これがやりたい」という職業意識でしょうか。この「何のための仕事」という、根っ子にあったらいいなあという「職業意識」が腐熟・未熟なままで、ぼくみたいに社会に出てしまうという、中途半端な人間が大量生産されるのはどうしてなのか、そんな埒もないことを考えあぐねているのです。「職業指導」とか「職業選択」のための教育(進路指導も含まれます)ということになりますか。
「ロッテのコーチを務めた後、少年野球教室で園児や小中学生を教えていた。子どもの成長を見守ることにやりがいを見いだし、還暦を過ぎてから専門学校で保育を学んだ」という。おそらく、それは高沢さんの実感だったのでしょう。「子どもの成長」をつぶさに実見したからこその、転職だったように思います。あるいは、子どもの成長ぶりは「強烈な体験の一つ」だったかもしれません。それは誰もが持てる経験ではないし、そんな経験がすべてうまく次の仕事に生かされるとはかぎらないのは確かでしょう。だから高沢さんの、この先にぼくは興味を持つのです。
横道に逸れます。この「職」という漢字。名詞から動詞から、あるいは副詞…に至るまで、多彩な使われ方をしてきた言葉です。十分に調べてはいませんから、間違いかもわかりませんが、職とか職人という使われ方は古く、「職業」という言葉は比較的新しいのではないでしょうか。あるいは明治以降からかもしれないと、ぼくは勝手に想像しています。その音読み、訓読みも、当然ですが多様です。音読みとして「しき」「とく」「しょく」など、訓読みとして「つかさど(る)」「「つと(め)」「つかさ」などなどで、その意味するところも広範囲にわたっている。「つかさどる・責任を持つ。つとめ・しごと・任務」「もっぱら・主に・もとより」「税・みつぎもの」「しるす」「くい」などなど。(「漢字辞典オンライン」参照)(一つ一つについて解説すればいいのでしょうが、面倒なのと、その道の職業専門家にお任せしますよ)
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◉ 職人歌合【しょくにんうたあわせ】=さまざまな職能民が左方・右方に分かれて和歌を詠むという形をとる仮託の歌合で,絵を伴う。中世のものに,13世紀から15世紀にかけて成立した《東北院歌合》5番本,同12番本をはじめ,《鶴岡放生会歌合》《三十二番歌合》《七十一番歌合》の4種5作品がある。どのような職を〈職人〉と定義しているか,歌の内容や番(つが)いの組合せによってその社会階層が推定できるなど,その図像表現とともに,中世の社会史の重要な史料。国学者によって江戸時代に復活,また趣向が〈職人尽絵〉に引き継がれるなど,近世以降も多くの後継の作品が作られた。(マイペディア)
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相当前のことでしたが、なにかの文献の中で「職として」という表現に出会って、ぼくは読めなかった。それで調べたら、案の定、言葉の海にはまってしまったんです。ここでは簡単に「職業(occupation)」とは、①生活の資を得るための仕事(なりわい。生業) ②金銭の有無にかかわらず、自らの「務め」とすること ③その他とします。ことほど左様に、職業には多様な意味や含みがありますから、一筋縄ではいかないんですね。これによく似通った使われ方をするのに「仕事(work)」があります。でも、そんなことはどっちでもいいような問題ですね。

こんなことわざ(諺)を聞いたこと・使ったことがあるでしょうか。「職人貧乏人宝 (しょくにんびんぼうひとだから)」今日ではまったく目にしなくなった表現です。「人宝」とは、人にとっては宝のように貴重なこと、「職人貧乏」とは、「その職で得る稼ぎでは貧乏請け合い」ということです。他人には役に立つ(重宝される)が、自分は貧乏から抜けられない、そんなところではないでしょうか。これをぼく流に理解(誤解)すると、人に役に立つ、それは金にはならないけれど「食うに困らぬ程度の資はある」となるでしょうか。人の役に立つ仕事で金儲けができますかというのはどうでしょう。そこに、「稼ぎに追いつく貧乏なし」という救いの綱が下りてくるんですね。「それでなくっちゃ」、職業や仕事というものは、そうであったらいいなあ、そんな気がしているのです。博打や投資でもなく、地道に体を動かす限りで、食うだけの実入りが期待できる「働き」なんです。
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「稼ぐに追いつく貧乏なし」とは、「一所懸命に働いていれば、貧乏することはない。楽な暮らしはできなくても、働き者なら何とか食べていくことができる」(ことわざを知る辞典)あるいは、「常に精を出して働けば、貧乏に苦しむことはない」(デジタル大辞泉)こんなところに、ぼくの気持ちは行きつきました。要するに、地道に、懸命に、それが生きることの本道ではありませんかと、いいたいんですね。金や地位、名誉や評価なんかではない、そんなものが取り付きもしない生き方があるんですね。それを、ぼくは「風狂」ととらえています。

これについては、すでに、この駄文録で何度か触れていますが、再言しますと、以下のようになるようですね。それを職業と結びつけてとらえるのは行き過ぎですが、「自由なる精神」のかけらでも失ないたくないという意味では「一抹の風狂」「風狂五分ばかり」を、ぼくは最良の生き方とし、その生き方に沿った仕事を大事にしたいと考えていました。実際にはまことに「中途半端」なものでしかありませんでしたが。(左写真は、守一先生、蟻を観察・凝視の図)
一例として、画家の熊谷守一さんを。彼こそ「風狂」に値する人ではなかったでしょうか。七十歳過ぎてから脳梗塞を患い、三十年近くは、まず外出しなかったと言います。来る日も来る日も自宅の庭で、「蟻(あり)」を観察し続け、ある日「蟻は後足の二番目から、動き出す」ことを発見したと言います。 (後足だったかどうか、正確なところは忘れましたが、そんな「風狂」が、ぼくにはたまらないんですね。大好きな人でした)
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◉ 熊谷守一(くまがい-もりかず)=1880-1977 明治-昭和時代の洋画家。明治13年4月2日生まれ。42年文展で「蝋燭(ろうそく)」により褒状をうける。大正5年二科会にはいり,「陽(よう)の死んだ日」などを発表。戦後二紀会創立に参加し,のち退会。後年は形と色を単純化し,無所属で自由な制作をつづけて「画壇の仙人」とよばれた。昭和52年8月1日死去。97歳。岐阜県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。自伝に「へたも絵のうち」。(ブリタニカ国際大百科事典)

◉(略) 人は世間の規範からの逸脱を肯定的にとらえて「狂」とよぶ場合があり、日本において中世以降「風狂」とはそのような「狂」の形態の一つをさす。その「狂」の系譜は、大略次の四つになる。(中略)(4)風狂 これは自由を求めて世間から逃走するのではなく、すでに精神が自由となっているために世間の規範を超越するものである。かならずしも山中に隠棲せず、あるいは乞食(こじき)となって市中を横行し、ときに色街に戯れることをためらわない。しかし世俗の価値基準は眼中になく、常識からみれば奇行の連続であり、その存在自体が俗世間への批判となる。その代表者は自ら「風狂の狂客」と号した一休である。このとき、「風狂」とは自由なる精神と同義となる。(ニッポニカ)
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