生きた証として美しい言葉を財とするよう、…

「今晩、講演なさるのですか?」

食堂の隅でコーヒーを飲んでいると、窓際のテーブルから声がかかった。 

  いえ、本祭りを見にきたのです。

「ここに出ている方かと思って。失礼いたしました」

 手元のパンフレットを持ち上げて見せ、その老婦人は笑った。本祭りに合わせて催される行事の一覧らしかった。

  (中略)

  ロベルタは、八十七歳になる。国語の教師を定年退職した阿あっと、郊外で小さな書店を開いた。

「ずっと夢でした」

 ユダヤ系イタリア人。父親はいない。親族もいない。幼馴染もいない。誰もいなくなった。生き延びたのは、母親  と彼女だけだった。

「勉強するのよ」すべてを失って、生きた証として美しい言葉を財とするよう、母親は娘に諭した。

 小学校には行けなかった。読み書きは母親から教わった。独学で勉強をつづけ、大学まで進んで文学を学んだ。結婚はしたけれど、夫にも先立たれてしまう。

 また、独り。

(財は残さなければ)

 教師になったのは、将来に言葉の力を伝えるためである。

「読むことができてよかった」

 書店を開き、本へ謝意と鎮魂の思いを捧げての残りの人生を送るつもりだった。(以下略) 内田洋子著「モンテレッジォ 小さな村の旅する本屋の物語」文春文庫版、2021)

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 先日、「放浪書房」について駄文を書きましたが、その際、ヘッダーに載せた写真(の本)が、内田さんが書かれた「小さな村の旅する本屋」でした。本が行商の品物になっていた、しかも、それはかなり古い昔からのことであったということを読んで、ぼくはショックを受けたのでした。イタリアの小さな山村のことでした。その村には書物にかかわる何かがあったのではありません。標高六百㍍を超えるような山村。本が書かれた段階(2018年当時)で、村の人口は三十数人だったという。この島でも、本が行商の品として商われたことがあったと思われますが、これほど徹底して(本)にこだわっていたわけではなかった。

 「本」とはなにか、それを、改めて考えさせられていたのでした。「放浪書房」の移動販売は、ことさら新規の業態などではなく、おそらく洋の東西で古くからおこなわれていた形態だったのでしょう。人は「文字」「文章」がなければ、人間らしい感覚を保てないのかもしれません。だからこそ、かさばる書籍を荷物にして、ヨーロッパ各地を販売圏にしてきたのであり、それが今に至るまで、延々と継承されている、その文化の底力というものを目の当たりに見せられた思いがします。今は内容には触れません。是非一読されることをお勧めしたいですね。

 蛇足です 住まいの近くにB教堂という書店があります。チェーン店なのでしょう。相当に広く、本の数も半端ではなさそうです。どれくらいの広さか、うまく伝えられません。これが本屋ですかという印象を受けた、ぼくは一回行ったきりで、二度と行くことはないでしょう。本を売るというのは、時給で雇う人に任せていい仕事になっていますね。本屋だけではない。食品でも何でも、「商品知識ゼロ」が、当の品物を売る側にいる、これは退廃や堕落どころではなく、自らの(栄養)を土足で踏みにじっているのと変わらないと、ぼくは思うのです。本を置いている、本を売っているから「本屋」という、それでいいという人ばかりが好むんですかね。

 内田さんの書かれた本は優れたものでしたが、その「よさ」は、本をこよなく愛する人たちに邂逅した内田さんの幸運そのものから生まれたと言いたいほどです。「本が取り持つ縁」ということになるでしょうか。上に少し引用した元国語教師だった、八十七歳(当時)のロベルタさんもそうでした。無聊を慰める気持ちもあって開いた本屋さん、「ところが本を売り始めると、なかなか評判を呼んで、ロベルタは大勢の新しい友人に囲まれた。同人誌を作ったり、朗読会を開いたり。/ たった一人になったロベルタを、本が再び助けてくれたのだった」(同上)(内田洋子さん➡)

 大学時代の仲間からも、「お前は、本の虫だ」といわれてきました。当方は「人間であるつもり」なんだが。きわめて平凡な、どこにでもいる「本好き」すぎないし、今でもそうだと自認しているのです。しかも、どんな時でも読みたい「本」があれば、ぼくはまじめに生きていけるという自信(変な表現ですが)がある。それがすでに何度か、自分で読んだものであってもいい。暇があるからというだけではなく、読みたい本がいつでも順番を待っているから、ぼくは息をしているんですね。今のところ、山の中まで来てくれる「行商の本屋さん」はなさそうですから、仕方なく、ぼくは通販で用を足しているのです。そのうち、家にあるいくばくかの本の「行商」でもしようかな。

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