これ夏秋の遊杖にて越後の雪を見ざる事必せり

 【北斗星】寒の入りあたりから毎日、冷凍庫の中にいるような冷え込みが続く。きのうは大寒。暦の上では寒の後半に入った。しばらくは我慢の日々が続きそうだ▼東北の日本海側は今季、平年並みの積雪と予測されていた。県南が記録的大雪に見舞われた昨冬ほどではないにしろ、県内では積雪が平年の3倍という地域もある。毎朝、住民のため息が聞こえてきそうだ▼朝出掛ける前や、仕事に疲れて帰宅した後、雪寄せに追われる方も多いだろう。心がなえそうになったとき、いろいろな物が背中を押してくれることがある。〈歯を入れて雪掻(か)く力とり戻す〉。鷹巣俳句会などで句作に励み、6年前に78歳で亡くなった北秋田市の五代儀(いよぎ)恵子さんの句。「よしっ」と気合を入れる光景が目に浮かぶ▼今年に入り、県内では雪寄せに伴う事故や火災が増加している。中でも1人暮らしの高齢者宅の火災が相次ぎ、計4人が亡くなった。郡部にある実家の近所ではここ数年、高齢者の1人暮らしが目に見えて増えており、人ごととは思えない▼冬期間には寒さや足元の悪さから外出がおっくうになり、自宅に閉じこもりがちな高齢者が増える。特に1人暮らしの場合は孤独感、孤立感を強めやすいというだけに心配だ▼五代儀さんには〈雪掻きに来て母の愚痴聞いてやる〉というほほ笑ましい句もあった。じっと聞き役に徹してくれる人が身近にいることの幸せを思う。1人暮らしの人を孤立させないヒントも、ここにあるのだろう。(秋田魁新報・2022/01/21)(ヘッダーは読売新聞・2022/01/06)

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  いつ、だれから聞いた(教えられた)のかまったく思い出せませんが「天候に不満を言うな」という意味のことを、ぼくは長い間、まるで「座右の銘」のように大切にしてきました。晴れの日が続くと「雨よ降れ」といってみたり、雨が続くと「いつまで降るんだ」と文句を言うのが人情でしょうが、そうは問屋が卸してくれないのが、「自然現象」です。数日前のトンガの海底火山噴火は、被害の全容が判明していませんが、日常の生活に、相当な打撃を与えていそうです。この劣島でも、「自然災害」は年中行事の如くに、間断なく襲来し、多くの被害をもたらしているのです。

 人間の生活がないところで地震や火災が発生しても「自然災害」とは言わないでしょう。おそらくそれは、単なる自然現象の一つとみられるはずです。この地球上にも、さまざまな「自然現象」がくり返されてきましたが、それは人類の誕生以前のことであったなら、事もなく、火山の大爆発だの氷河期だの、大地震の発生などというだけで済まされてしまう。それで何の問題もないのでしょうが、事人間の生活環境に同様な事態が生じると、そこに「惨劇」「災厄」の刻印が記されるのです。

 今冬の大雪もそうでしょう。大都市やその近郊に住んでいれば、大雪に見舞われることは「閏年」みたいなもので、普段でも1センチ降っても大騒ぎするし、さらに自動車という、コンクリート製の更地だけの乗り物など、いささかの凍結でも立ち往生だし、積雪数センチで、にっちもさっちもいかなくなります。どんなに都会は「快適一番」を信条として作られているかという理由になります。しかも、その物的基盤と心的気分たるや、驚くほどに脆弱であるのです。

 ぼくは、いつでも気象予報や天気図に興味を持っています。これは小さいころからでした。明日は晴れる、あるいは雨が降るなどと、自分で判断しては、それに備えていたものでした。「日和(ひより)」や「日和見」をいう言葉と、そが表す人間の行動を知って、この傾向はさらに強くなった。風見鶏という語もありますが、やはりぼくは「日和」という言葉が好きです。荷風の随筆集に「日和下駄」というものがあります。題名に惹かれたことも事実ですね。ぼくの愛読書の一冊で、田舎者のぼくの、懐かしい東京案内になってきました。

 「東京市中散歩の記事を集めて『日和下駄』と題す。そのいはれ本文のはじめに述べ置きたれば改めてここには言はず。『日和下駄』は大正三年夏のはじめころよりおよそ一歳あまり、月々雑誌『三田文学』に連載したりしを、この度米刃堂へいじんどう主人のもとめにより改竄かいざんして一巻とはなせしなり。ここにかく起稿の年月をあきらかにしたるはこの書はん成りて世に出づる頃には、篇中記する所の市内の勝景にして、既に破壊せられて跡方もなきところすくなからざらん事を思へばなり。見ずや木造の今戸橋いまどばしはやくも変じて鉄の釣橋となり、江戸川の岸はせめんとにかためられて再び露草つゆくさの花を見ず。桜田御門外さくらだごもんそとまた芝赤羽橋むこう閑地あきちには土木の工事今まさにおこらんとするにあらずや。昨日のふち今日の瀬となる夢の世の形見を伝へて、つたなきこの小著、幸に後の日のかたり草の種ともならばなれかし。
  乙卯いつぼうの年晩秋                       荷風少史」

 「一名東京散策記」と副題された、大正初期のころの東京の記録です。これと「断腸亭日常」を合わせれば、荷風という作家は「歩いて書いた、普段着の記録者」であったことが判然とします。

 「人並はずれてせいが高い上にわたしはいつも日和下駄ひよりげたをはき蝙蝠傘こうもりがさを持って歩く。いかにく晴れた日でも日和下駄に蝙蝠傘でなければ安心がならぬ。これは年中湿気しっけの多い東京の天気に対して全然信用を置かぬからである。変りやすいは男心に秋の空、それにおかみ御政事おせいじとばかりきまったものではない。春の花見頃午前ひるまえの晴天は午後ひるすぎの二時三時頃からきまって風にならねば夕方から雨になる。梅雨つゆうちは申すに及ばず。土用どようればいついかなる時驟雨しゅうう沛然はいぜんとしてきたらぬともはかりがたい。もっともこの変りやすい空模様思いがけない雨なるものは昔の小説に出て来る才子佳人がわりなきちぎりを結ぶよすがとなり、また今の世にも芝居のハネから急に降出す雨を幸いそのまま人目をつつむほろうち、しっぽり何処どこぞで濡れの場を演ずるものまたなきにしもあるまい。閑話休題それはさておき日和下駄の効能といわば何ぞそれ不意の雨のみに限らんや。天気つづきの冬の日といえども山の手一面赤土を捏返こねかえ霜解しもどけも何のその。アスフヮルト敷きつめた銀座日本橋の大通おおどおり、やたらにどぶの水をきちらす泥濘ぬかるみとて一向驚くには及ぶまい。
 わたしはかくの如く日和下駄をはき蝙蝠傘を持って歩く」(青空文庫版)

 とみてくると、これを読むほかなくなりそうです。「蝙蝠傘と日和下駄」は荷風の必需品でした。彼は若い頃にはフランスやアメリカに遊学した経験がありますから、いろいろな意味で、東京の佇(たたず)まいとその描写には、なかなかの一家言がありました。本日は、その内容には立ち入りませんが、下駄に傘を常に伴うということから、彼もまた「天気」に必要以上に気を遣っていたということになるでしょう。そんなに長くもありませんので、まずお読みになることをお勧めします。ぼくも、そうすですが、荷風は大正初期の東京改造を「白い目」でにらんでいる風情で、今の東京に迷い出たらどうなるか、即座に死するであろうと、ぼくは断言できます。ぼくが本郷の街中から千葉に越し、さらに房総半島の山中に逃げてきたのも、都会が醸し出す、言いようのない「鬱陶しい雰囲気」でした。ぼくが都内から逃げ出したのは、今から半世紀前でしたから、荷風の心情や、いかにと思うばかりですね。

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◉大寒 (だいかん)=二十四節気の一つ。元来太陰太陽暦の 12月中 (12月後半) のことで,太陽の黄経が 300°に達した日 (太陽暦の1月 20日か 21日) から立春 (2月4日か5日) の前日までの約 15日間であるが,現行暦ではこの期間の第1日目をさす。昔中国ではこれをさらに5日を一候とする三候 (鶏始乳,鷙鳥 厲疾,水沢腹堅) に区分した。猛鳥が激しく飛び回り,沢にが堅く張りつめた厳寒の時期の意味であるが,「小寒の氷大寒に解く」といって,小寒に比べて大寒のほうが暖かいともいう。大寒の最後の日が節分で,翌日旧暦の正月を迎えるわけである。(ブリタニカ国際大百科事典)

◉ 永井荷風 ながい-かふう 1879-1959=明治-昭和時代の小説家。明治12年12月3日生まれ。永井久一郎の長男。広津柳浪(りゅうろう)の門にはいる。アメリカ,フランスに外遊,帰国後「あめりか物語」を発表する。明治43年慶大教授となり「三田文学」を創刊。大正5-6年の「腕くらべ」,昭和12年の「濹東綺譚(ぼくとうきだん)」などおおくの作品をのこす。市井に隠遁し,反時代的姿勢をつらぬいた。27年文化勲章。29年芸術院会員。昭和34年4月30日死去。79歳。東京出身。東京外国語学校(現東京外大)中退。本名は壮吉。別号に断腸亭主人,金阜山人,石南居士。作品はほかに日記「断腸亭日乗」,小説「つゆのあとさき」など。(で示達版日本人名大辞典+Plus)

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 以下は、大寒に突入したのを機に、あちこち読み散らしていたものの中から、いくつかの「言種」を、順不同に羅列しておきます。

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いきながら一つに冰る海鼠(なまこ)哉 (元禄六(1693)年冬作・松尾芭蕉) 芭蕉には「いざさらば雪見に転ぶところまで」という一句があります。貞享四(1687)年十二月作。彼には「雪」は鑑賞するであり、俳句の材料でしたね。

 鈴木牧之の「北越雪譜」です。雪が降るとはいかなることか。彼は身をもってそれを書き残したのです。

 「吾が国に雪吹ふゞきといへるは、猛風まうふう不意ふいおこりて高山平原かうざんへいげんの雪を吹散ふきちらし、その風四方にふきめぐらして寒雪かんせつ百万のとばすが如く、寸隙すんげきあひだをもゆるさずふきいるゆゑ、ましてや往来ゆきゝの人は通身みうち雪にいられて少時すこしのま半身はんしんゆきうづめられて凍死こゞえしする□、まへにもいへるがごとし。此ふゞきは晴天せいてんにもにはかにおこり、二日も三日も雪あれしてふゞきなる事あり、往来ゆきゝもこれがためにとまること毎年なり。此時にのぞん死亡しばうせしもの、雪あれのやむをまつほどのあるものゆゑ、せんかたなく雪あれををかしくわんいだす事あり。施主せしゆはいかやうにもしのぶべきが他人たのひと悃苦こまる事見るもきのどくなり、これ雪国に一ツの苦状くぢやうといふべし。われ江戸に逗留とうりうせしころ、旅宿りよしゆくのちかきあたりに死亡ありて葬式さうしきの日大あらしなるに、宿やどあるじもこれにゆくとて雨具あまぐきびしくなしながら、今日けふほとけはいかなる因果いんくわものぞや、かゝるあらしあひて人に難義なんぎをかくるほどなればとても極楽ごくらくへはゆかるまじ、などつぶやきつゝ立いづるを見て、吾が国の雪吹ふゞきくらぶればいと安しとおもへり。」と書くのは鈴木牧之です。

 芭蕉については、「芭蕉翁がおく行脚あんぎやのかへるさ越後に入り、新潟にひがたにて「海にる雨やこひしきうき身宿みやど寺泊てらどまりにて「荒海あらうみ佐渡さどよこたふ天の川」これ夏秋の遊杖いうぢやうにて越後の雪を見ざる事ひつせり」と、俳聖の「芸風」を問うているのでしょう。

 「近来も越地に遊ぶ文人墨客ぶんじんぼくかくあまたあれど、秋のすゑにいたれば雪をおそれて故郷ふるさと逃皈にげかへるゆゑ、越雪の詩哥しいかもなく紀行きかうもなし。まれには他国の人越後に雪中するも文雅ぶんがなきは筆にのこす事なし」雪に恐れをなして、冬には誰も来ないことを、牧之は嘆いています。(「北越雪譜」)(左・右の絵は牧之筆)

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◉ 鈴木牧之【すずきぼくし】=江戸後期の文人。本名儀三治。俳号秋月庵牧之。越後塩沢の縮(ちぢみ)仲買兼質屋に生まれ,家業のあいまに学問・風流に心をよせ,山東京伝ら多くの江戸文人と交遊。菅江真澄と並ぶ,江戸後期の代表的地方文人。著書《北越雪譜》,信越国境の平家谷秋山郷を探訪した記録《秋山記行》,自伝《夜職(よなべ)草》,《秋月庵発句集》など。(マイペディア)

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うす壁にづんづと寒が入りにけり(一茶)さすがに信濃の人です。粗末な「終の棲家」でしょうか、その壁にさえ寒さが貫通しているのです。独り身で、その寒さはいやがうえにも染入ったことでしょう。

凍つる夜の独酌にして豆腐汁(徳川夢声)ぼくは夢声さんは好きでしたが、この句はいかがでしょうか。

生き死にの話ぽつぽつどてら着て(川上弘美)ぼくにはよくわからない句です。情景が浮かんできませんでした。

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 これまでに、ぼくは何度も「雪かき」をしました。「雪下ろし」の真似事もしましたが、本格的に汗をかき、肝を冷やしたという経験はない。千葉でも現住地でも、何度か雪に降られましたが、生活に支障をきたすということはまず考えられません。それだけ「便利は生活」の恩恵にあずかっているというのでしょうか。先般、近郊でも降雪がありましたが、このときには停電があり、しばらくは不自由しましたが、昼間だったから、問題なく過ごせたのです。いろいろと便利になり、旧来の苦しみから解放されつつあるのは目に見えていますが、大雪による降雪、その影響で日常生活が停止せざるを得ないのは、いまでも課題となっています。コラム氏が書いているように、高齢者の独り住まいが増えてくる状況下で、雪害に遭遇することは何としても避けなければならない目下の急務です。加えて、ある意味では「猖獗を極めている」(かのような)コロナ禍の只中に閉じ込められているのです。パンデミックは、やがてエンデミックだと(期待を込めて)言われていますが、油断はできません。

 大寒から立春までが最も寒い時期とされています。天気図をみると、来週のどこかで雪が舞い降りるのか、降りしきるのか。今少しの辛抱というのでしょうかな。やがて、晴れてマスクのない、スッピンで街中に出歩くことのできる日が来るのを鶴首しているのです。それもまた、ちょっとは危険ですが、ね。ぼくは街中には用はありませんが、とにかく、多くの人々には「ストレス」が異様に重ねられていることは事実です。この抑圧状態をしのぐための暴力もまた、全開とならないように、最新の配慮と注意に心したいですね。

 今朝の二時過ぎから三時までの間、ぼくは奇妙というか驚くような経験をしていました。毎日「ラジオ深夜便」を聴きながら布団に入ります。十一時過ぎから五時まで、毎日です。大部分は眠っているのですが。ぼくはこの放送を開始以来、殆んど聴いてきました。約三十年超です。今朝は、二時過ぎから松任谷由実さんの楽曲が流れていました。十数曲だったと思う。ぼくは、彼女は嫌いではないが、特別のファンだというわけでもなかった。ところが、曲の順番は忘れましたが、流れてくる、すべての曲をぼくは歌詞まで知っていたのでした。驚きました。今まで一度だって、彼女の曲をゆっくりと、意識して観たり、聴いたりしたことがなかった。にもかかわらず、殆んどが知っている曲だったので、ぼくはびっくりするやら、目が覚めるやら、それで三時には起きてしまったのです。猫が驚いていた。

 これはどういうことだったか。おそらく、ぼくは気が付かないままで、彼女の歌を何百回も、それ以上も聞いていたことになる。いわば、刷り込まれていたのです。実に驚くべき出来事でした。おそらく、彼女はデビューして三十年以上はとっくに過ぎているでしょう。ということは、間断なくその期間、ぼくの耳には由美さんの曲が入り込んでいたのでした。こんな経験は初めてだった。その証拠に、初めて彼女の「詩」を読んで、いかにも時代がかった、古風を擬した「ことばづかい」なんだと、びっくりもしている。まるで「あさきゆめみしゑひもせす」の世界のようです。

 その意図は何なのか、ぼくには、少しわからないところですが。「過ぎし世」(という表現など)に価値を置く人でもあるのですね。ここが「隔世の感」というところかもしれないと、いい加減なことをいってみるのです。しかし、その才能たるや、恐ろしいほどのものなんでしょう。ぼくは、中島みゆきさんにもいかれていましたが、才能の表され方はまったく異なる、その天稟は、およそくちがいますな。ぼくは、彼女に、今から「ハマる」んだろうか?(松任谷由実「春よ、来い」https://www.youtube.com/watch?v=gol5dFrv4Ao

*念のために、由美さんのデビューの時期を見てみました。なんと1972年、「返事はいらない」という曲で、とありました。まだ高校生だった時ですね。ちなみに、このデビュー盤は数百枚しか売れなかったという。以来半世紀、見上げたもんです。この singing lady は「怪物」のようですね。衰えることを知らないというと奇妙に聞こえますが、そんな女性を、ぼくはこれまでに何に見てきたのでしょう。貴重なことですね。

 二月四日が「立春」だ。あと二週間で、ぼくにとっては「新年」「新春」です。猫と戯れ、かみさんと緊張を失わないで、「春」を待ちたいですね。(十日ほど前に、我が家の猫が「ウグイス」を捕ってきて、家の中で解体していました。「なんと残酷なことを」と叱ったのですが、効き目があったかどうか。鴬には「かわいそうな」ことだったと、情けない気分になっていました。おそらく一瞬、気を許したんでしょうね、猫に)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。