音楽演奏の才能ということ、改めて考えている

 ヴィヴァルディの「四季」というヴァイオリン協奏曲はこの島において、もっとも多くの愛好者を生んだ古典音楽でしょう。高校の音楽教材にも取り入れられていたと記憶しています。それがいつのころだったかよく知りませんが、それ以前にぼくは、この音楽をドイツの指揮者だったヘルムート・ヴィンシャーマン指揮のバッハゾリステン管弦楽団などで聞いていました。おそらく大学に入ったころでしたから、今から六十年近く前になります。以来、ぼくはどれくらいこの曲(だけではなく、いわゆる「バロック音楽」というものに深入りしていきました)を聴いてきたことか。数えきれないくらいの演奏家に耳を傾けて来た。ソロを担当するヴァイオリニストだけでも、おそらく百人は下らないでしょう。

 中でももっとも有名になった、いやポピュラーになったのはフェリックス・アーヨというソリストで出されたレコードでした。(➡)この合奏団は年中行事のように来日公演をしていました。ぼくは一度も行かなかったが。この「四季」は正確には「バイオリン協奏曲集《和声と創意の試み》」というヴァイオリン協奏曲の最初の四曲を言いました。「春夏秋冬」を、文字通り音楽で表したものです。そういわれればそのように聞こえてくるというのも、標題音楽のなせる業だし、人間は「暗示」というか「誘導」に引っ掛かりやすいというのでしょうか。「四季」の演奏はイ・ムジチに限るとは言わないし、だれの演奏がいいとか悪いとか、ぼくはそういうことを云々する段階をとっくに卒業したと思う。クラッシク音楽では、当たり前ですが、作曲家と演奏家は固定していないし、作品だけが独立(孤立)していて、発表当時はだれかに捧げられたかもしれないが、その後は誰が演奏(カヴァー)してもかまわない、むしろそのような扱われ方をしてきたのがクラッシック音楽でした。その作品は、ある種の「山岳」「山脈(やまなみ)」のようであり、それに登ろうという「挑戦者(演奏家)」が陸続することで、作品の幅や深さを拡大してくれるのでしょうし、そこに音楽の歴史が紡がれているのです。

 ぼくは、いまでは、演奏家が誰であるかなど、固有名にはほとんど興味がない。いわば古典音楽そのものも、生活の中のBGM(伴奏)として聞くようになった(堕落した?)からでしょう。しかし、作者が誰かが気になるようでは、作品は十分に成熟していないという、そんな勝手な感想をぼくは持っているのです。あの音楽は「私が作曲した」というのは作曲者が存命である限りでいえることで、音楽の永続性は作曲家の生命をはるかに超越するのです。作品(それがどんなものでも)を育てるのは、それを愛する、好む、そんな人々が実際にしていることです。ところが、このような作品が時代を超えて聞かれ続けるには、常に、新たな演奏による刺激を受ける必要があるでしょう。これはあらゆる音楽に妥当することではないでしょうか。決して、このことは「芸術」に限らないことです。作者の名前が消えて、作品の生命が続く、それが望ましい姿ではないか、という気もしてきます。「人生は短い 芸術は長い」(もともとはギリシャの医者・ヒポクラテスの言で、〈Ars longa, vita brevis 〉「人生は短く、医術は極め難し」から派生した)

 蛇足です。「芸術」といって、それを狭くとらえる必要もない。もとは芸術「art」は「技術」「技芸」を指して言ったものでしたから、建築であれ、機械であれ、いろいろな分野が求めた「技術」は、人間の生命をはるかに超えて用いられているということでしょう。ぼくはこの問題を考えるとき、一例として「法隆寺」を想定して考える癖が付きました。だれが作ったか、そんなことより、この木造建築は千数百年維持されてきたという歴史の長さと重みを感じさせられるのです。

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◉ 四季(ビバルディの作品)(しき)La quattro stagioni=イタリア・バロックの作曲家アントニオ・ビバルディの作品。独奏バイオリンと通奏低音付き弦楽合奏のために書いた12曲からなる協奏曲集『和声と創意への試み』Il cimento dell’armonia e dell’invenzione(作品8。1725年アムステルダム初版)のうち、第1番から第4番までが一般にこの名でよばれている。各曲は3楽章からなる典型的な独奏協奏曲の形式をとっているが、第1番から順に春、夏、秋、冬と名づけられ、四季の情景を詠んだソネットが添えてあるところが特徴である。協奏曲に標題音楽の要素を取り入れた最初の例であり、夏の雷鳴や冬に氷の上を歩く人の姿など、音による描写が至るところにみられる。そしてこの『四季』は、その生気に満ちた楽想によって人気を得、第二次世界大戦後のバロック音楽ブームの口火を切った作品でもある。なお『四季』の名をもつ音楽作品には、ハイドンオラトリオ(1801初演)、チャイコフスキーの12の小品からなるピアノ曲集(1875~76)、グラズーノフのバレエ音楽(1900初演)などがある。(ニッポニカ)

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 若い時ほど、古典音楽がなければ、夜も日も明けぬという、ぼくの狂気の状態(時代)は過ぎ去りました。今は静かに、どこかで音楽らしいものが鳴っているだけでお落ち着いてきます。だから、向き合って音楽を聴こうという機会はほとんどなくなったのですが、時には、この時代に遭遇していることもあり、youtube で思わない演奏や演奏家に遭遇することがあります。以前に聴いていた演奏家を再発見するということもあります。そんな時は、うれしいというよりは、この演奏家はすごく成長したなという驚きのほうが先に立ちます。以前に聴いたときと同じ演奏でも、そんな感じ方(「すごい演奏だ!」)をすることがあるのは、どうしたわけか。前には何も聞いていなかったということになるのかもしれませんし、その優れた面を聞き逃していたという場合もあるのでしょう。(上の記事は【Vivace 2019年7月号】から)

 十年とは言いませんが、七、八年前に聴いていた演奏家に、昨日再会し、その演奏の堂々とした姿勢に驚愕を覚えました。本日は、そのマリ・サムエルセンさんのライブ演奏(録画)の「さわり」の部分を紹介したくなったのです。それも「四季」の演奏で。その一部だけを以下のURLから聴かれたらと思います。確か一九八四年生まれだったか、だから、以前にぼくが聴いたのは、まだ三十になる前のころだったように思われます。この間の研鑽がすごかったのか、ぼくの耳が何も聞いていなかったのか、きっと何も聞こえていなかったんでしょうね。それは雑事に追われて、気持ちが荒(すさ)んでいた証拠でもあると言っておきます。再び彼女の演奏に出会えて、ぼくは健康であり、元気でいてよかったと、しみじみ感謝の念に満たされています。

 昨日は、美空ひばりさん(「柔」)でしたが、その後で、何気なしに「四季」のライブ演奏(録画)をいくつか眺めていて、マリさんにぶつかったというわけです。彼女の「現代音楽(作品)」演奏は圧巻です。ふやけたような、ちゃらい演奏が多い時代に、ある種の「爆弾」が投下されたかのように、ぼくは震撼させられました。兄はチェリストで、兄妹で演奏されていますが、これにも痺れます。

(①https://www.youtube.com/watch?v=Yu6Hr9kd-U0

(②https://www.youtube.com/watch?v=wgkLeeRh2pw)(この演奏は、彼女がしばしば演奏する現代音楽の作曲家マックス・リヒターの「編曲」を使っています。これは、今回初めて聞きましたし、この「秋・冬」は、まるで狂風と狂熱の荒れ狂う「季節」ではなかったでしょうか。おそらく、四季演奏の歴史で、初めての「異変」が起きたのかも知れません。このヴァイオリニストは、底知れない技量と音楽性と、playng spirit の持ち主のようです、大変な才能の開花が見られますね。少し大げさにものを言う癖がぼくにはあります。でも、彼女の演奏を聴いていて、すごい才能が育ったものだと、心底から驚かされているのです。山埜)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。