紛るる方無く、ただひとり有るのみこそ良けれ

 本日も「徒然草」です。芸がないとは、このことをいうのです。高校卒業まではまったく目もくれなかったが、年齢が上がるとともに、ぼくは兼好さんが好きになった。今では、若い兼好さんの書かれたことに、なにかと思い当たることも、有之、しかもなお、ああ、まだ彼は「若書きしているな」といいたくなる時もあるのですから、我ながら、手に負えないというか、始末に悪いですね。兼好さんの経歴は、正確にはわからないようですが、定説では、1283年から1352年までの、六十八歳の生涯だったとされています。少々詳しすぎるきらいがありますが、以下に、ある辞書の「解説」を引いておきます。それによると、彼には不明なところが多々あり、定説はあるようでないのが、実情のようです。彼自身も、何かと出世を求めたけれども果たせず、あるいは「不遇な人生」という思いが萌すことになったのかもしれません。

 前稿で、「彼は人間観察者=モラリスト」という意味付けを、ぼくはしてみたのですが、それは、決して「傍観者」としての観察ではなく、自らが世間における「実験台」「体験者」となった、その経験をもとにしての「人間論」の展開が「徒然草」一巻になったという趣旨でした。彼が書いていることがよくわかるというのは「言葉が過ぎ」ますけれども、七百年の時間の隔たりを考慮してもなお、人間のすること、考えることは、いささかも変わらないという「人間観」を確認することができるのです。しかもなお兼好にしてそのようにいうか、という思いがぼくにあるのは、彼は「若い」というだけの馬齢を、ぼくは重ねてきたからです。兼好さんは、ほぼ六十八歳で亡くなっていることになっています。

 もちろん、彼ほどの才能や努力の才には恵まれなかったけれども、彼同様に、一応は「宮仕え」を半世紀近くしてきましたから、その年月の間位に知ることになった「人間観察」は、粗密は問わないなら、ぼくにもそれ相応の意見は述べられるというものです。加えて、ぼくは兼好さんよりも長生きしていますから、彼の主張や哲学に、なるほどという面と、それでもなお、ね、という背反する意見を持ち合わせてもいるのです。

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◉ 吉田兼好よしだけんこう 生没年不詳鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての歌人・随筆家・遁世者。本名、卜部兼好(うらべのかねよし)。『尊卑分脈』によれば、卜部家は天児屋根命(あめのこやねのみこと)の子孫で、神祇官として代々朝廷に仕えたが、平安時代中期の兼延の時に、一条院から御名の懐仁(かねひと)の「懐」と通ずる「兼」の字を賜わってからは、それを系字として代々名乗るようになった。そして、兼名に至って、卜部家の本流から分かれて支流となり、朝廷の官吏となったが、兼好は兼名の孫にあたり、長兄に天台宗の大僧正慈遍、次兄に民部大輔兼雄がいた(卜部家が吉田と称するようになったのは、室町時代の兼熙(かねひろ)からであって、吉田兼好という呼称は、鎌倉時代・南北朝時代のいかなる史料にも全くみえず、また、卜部家の本流の姓をさかのぼって支流の出である兼好にまで及ぼす必要もない。したがって、江戸時代に捏造された「吉田兼好」という俗称は学問的には否定されるべきである)。なお、林瑞栄により、兼好は武蔵国金沢(かねざわ)家の御内伺候人の子弟であり、したがって関東の生まれであること、『金沢文庫古文書』中にみえる倉栖兼雄は兼好の兄であることなどが主張されている(『兼好発掘』)。風巻景次郎は、成長した兼好が久我家(こがけ)の家司(けいし)を勤めたことを推定している。その後、朝廷に仕え、官は蔵人を経て左兵衛佐に至っているが、仕官中、大覚寺統の歌道師範たる二条為世について和歌を学び、多くの公卿・廷臣に接して、有職故実の知識を得、また、恋愛をも経験している。しかし、彼の内に熟して来た出家・遁世の意志は、『大徳寺文書』によると、正和二年(一三一三)九月には、六条三位家から水田一町を九十貫文で買い取った田地売券のなかに、すでに「兼好御房」とみえているので、この時までに実現していたものと推定される。『兼好法師家集』のなかに、「さても猶(なほ)世を卯(う)の花のかげなれや遁(のが)れて入りし小野(をの)の山里」の一首があることによって、遁世後、居住した所が京都の東郊、山城国山科小野荘の地(京都市山科区山科)であることがわかり、そこは、六条三位家から買い取った水田一町の所在地でもある。彼は退職宮廷官吏としての経済的地盤をそこに置いたものといえよう。(左上は「兼好法師像」 伝海北友雪筆 17世紀後半 個人蔵)

 小野荘において、彼は『徒然草』の第一部(第三十二段まで)を元応元年(一三一九)に執筆し、勅撰の『続千載和歌集』『続後拾遺和歌集』、私撰の『続現葉和歌集』に入集し、二条派の歌人として世に認められているし、二度も関東に下り、鎌倉および金沢(横浜市金沢区)に住んでいる。『金沢文庫古文書』には、兼好自筆の幾つかの文書や関係史料がみいだされる。元弘の乱以後の時代に入ると、彼は北朝側に属して京にとどまり、『徒然草』の第二部(第三十三段から末尾まで)を元徳二年(一三三〇)から翌年にかけて執筆し、建武三年(一三三六)ごろから上・下二巻に編成して、その際、いくつかの段を補入・添加したらしい。また頓阿(とんな)・浄弁(じょうべん)・慶運(きょううん)とともに、二条派の和歌四天王と呼ばれ、勅撰の『風雅和歌集』『新千載和歌集』『新拾遺和歌集』、私撰の『藤葉(とうよう)和歌集』にそれぞれ入集し、二条派の歌学者・歌人として次第に世に認められるに至った。康永三年(一三四四)に、足利尊氏が多くの人々に働きかけてまとめた『宝積経要品(ほうしゃくきょうようぼん)短冊和歌』の中に、和歌四天王のほかの三人とともに、五首を詠じて収められている。また、『太平記』巻二一の「塩谷判官讒死事」の中に、塩谷判官の妻、顔世に横恋慕した、北朝の権力者で足利尊氏家の執事たる高武蔵守師直が、「兼好と云ひける、能書(のうじょ)の遁世者」に艶書の代作を命じた記事があり、洞院公賢(とういんきんかた)の日記『園太暦(えんたいりゃく)』には、二度、兼好来訪の記事があって、「和歌ノ数寄者(すきもの)也」と書いているので、歌人・能書家・有職故実家として世に認められていたことが推定される。また、観応三年(一三五二)には、二条良基作の『後普光園院殿御百首』に合点(がってん)を付しているので、このごろまで生存していたことがわかる。没年月・没処が不明なのは、京都以外の地で世を去ったためと思われる。著作には、建武三年ごろ、現在の形のごとくまとめられた随筆『徒然草』二巻と、『風雅和歌集』(貞和四年(一三四八)成立)撰進のための資料として集成した、自筆の『兼好法師家集』一巻(尊経閣文庫蔵)がある。公武の対立する時代の動きに対して、時勢に随順して生きた文化人たるところに、しかも、公武のそれぞれに批判的であることによって、二つのものの止揚・統一を『徒然草』の中にめざしているところに、彼の中世人としての真面目が見いだせる。(ジャパンナレッジによる「国史大辞典」)(左上は「兼好法師像」 伝海北友雪筆 17世紀後半 個人蔵)

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 以下、七十四段と七十五段を読んでみたいと思います。「だんだん良くなる法華の太鼓」という俗言がありますね、法華経のお経にはド派手な「法華の太鼓」が付き物です。ぼくは幼少のころ、能登半島の小さな村で、夜になると、この「だんだん」をたたいて回る僧たちに、いささか怯えていたものでした。これは、今から二十年ほども前になりますか、近所の知り合いが亡くなられて、葬儀場に「お別れ」に出かけたことがありました。その方は法華(日蓮)宗の、有名は一派(政治団体・政党も有している組織です)の信者さんでしたから、その葬儀の会場にはたくさんの同信の方々が来ておられた。やがて「僧正」さんが登場して、お経が始まった途端、その大きな公共の葬儀場が壊れるのではないかと、肝を冷やさんばかりの大合唱というか大読経がはじまった、その合間にたたかれた太鼓の音の大きかったこと、長く生きていて、こんなに騒々しいお葬式は初めてでした。これでは亡くなられた方はもちろんですが、お隣りでも「式」をあげられていた「仏さまたち」は心安らかに眠れたものではなかったと、今思い出しても驚いた出来事でしたね。(兼好さんとは無関係です)

 いつも、無駄な「前置き」が冗漫すぎるという自覚はあるのですが、それを止める「抑止力」が弱い、いやないんですね。

 この段を含めて、後の数段は、文字通りに「段段、よくなる」という感想とともにぼくは読んできました。なかなかの人物でしたね、吉田さんは。出世したかっただろうなあという、彼の恨み・憾みに似た感情にも、ぼくは同情を禁じえません。もちろん、彼が生きた時代の「家柄」「氏素性」が、一人の人間の「運命・命運」を決めていたのですから、それを超えて何かを得るということは不可能だったと言えます。この二つの段も、ぼくが特に気に入っているというか、ここに同志を得た想いがするのです。この二段も「読んで、読んで」で、意が通じるし、そうかなあと、しばし深呼吸するのではないでしょうか。ある詩人は「深呼吸の必要」を書かれて、一冊の本にされました。兼好法師も「深呼吸の必要」を、諄々と説いていたのだと、今日に生きる(人生に齷齪している)ぼくたちは気づかされないだろうか。

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 蟻の如くに集まりて、東西に急ぎ、南北に走(わし)る。高き、有り、賤しき、有り。老いたる、有り、若き、有り。行く所、有り、帰る家、有り。夕(ゆうべ)に寝(い)ねて、朝(あした)に起く。営む所、何事ぞや。生(しょう)を貪り、利を求めて、止(や)む時)無し。

 身を養ひて、何事をか待つ。期(ご)する所、ただ老と死とに有り。その来(きた)る事、速(すみや)かにして、念々の間に留まらず、是を待つ間、何の楽しびか有らん。惑へる者は、これを恐れず。名利に、溺れて、先途(せんど)の近き事を顧みねばなり。愚かなる人は、また、これを悲しぶ。常住ならん事を思ひて、変化(へんげ)の理(ことわり)を知らねばなり。(「徒然草 第七十四段」)

 (超現代語訳)「何をくよくよ川端柳 焦がるるなんとしょ 水の流れを見て暮らす」ともかく、こんな調子で生きるに如(し)くはなし。どうして齷齪(あくせく)すんですか、「ただ老いと死を」待つばかりなのが人生だと、あきらめであろうが、悟りであろうが、それなりのけりを付けたらどうです、みなさん」(というのが兼好さんの、この段に現れた「人生観」ではないでしょうかね)

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「徒然草絵巻」の一部(海北友雪筆 17世紀後半 サントリー美術館蔵) 

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 徒然詫(わ)ぶる人は、いかなる心ならん。紛(まぎ)るる方無く、ただひとり有るのみこそ良けれ。

 世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひ易(やす)く、人に交はれば、言葉、外(よそ)の聞きに従ひて、然(さ)ながら心にあらず。人に戯(たはぶ)れ、物に争ひ、一度は恨み、一度は喜ぶ。その事、定まれる事無し。分別(ふんべつ)、妄(みだ)りに起こりて、得失、止む時無し。惑ひの上に、酔(ゑ)へり。酔(ゑひ)の中(うち)に、夢を成す。走りて忙(いそが)はしく、惚れて忘れたる事、人皆、かくの如し。

 いまだ、真の道を知らずとも、縁を離れて身を静かにし、事に与(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言ひつべけれ。「生活(しょうかつ)・人事(にんじ)・伎能(ぎのう)・学問等の諸縁を止めよ」とこそ、摩訶止観(まかしかん)にも侍れ。(「徒然草 第七十五段」)

 (超現代語訳)「何をしたらいいのか、よくわからない、困ったことだと」言う人の心持は何ですか。それこそ「何もすることはない」が一番いいことなのに。世間の動きに歩調を合わせていると、何かと身持ちは揺れ動いて、心が定まる(休まる)ことがないでしょうに。そんな右往左往の生き方(生活)は、惑いながら、その上に酒で酔うようなもので、あちこち走り回って大事なことを忘れてしまう、だれもがそうなんだなあ。

 面倒なことは知らなくても、「(世間とのつながりである)縁を離れて身を静かにし、事に与(あづか)らずして心を安くせんこそ、暫(しばら)く楽しぶとも言ひつべけれ」という、そのことをまず経験したらどうですか。あれこれ心をわずらわすというのは、いかにも気の毒だと、ぼくには思われてきます、というのが、兼好さんです。ここでも「深呼吸の必要」を望んでいますね。

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◉ 摩訶止観【まかしかん】=中国,隋代の仏書。天台三大部とよばれる。20巻。智【ぎ】(ちぎ)が594年に荊(けい)州(湖北省)の玉泉寺で講述。灌頂(かんぢょう)の筆録。天台摩訶止観,止観とも。自己の一心のうちに森羅万象が円満具足するという,天台観心を詳述し,実践上の宝典とされる。中国,日本で重視。(マイペディア)

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 魔訶止観がどういうものか、ぼくは何も知らない。それでも「「一念の心のうちに、迷から悟りにいたるあらゆるものごとが本来そなわっている」という「一念三千の理」を自らの胸の内に見て取ることを求める禪の訓練法の一つであるでしょう。それはなにも、こむずかしい「仏典」を持ち出すまでもないことで、世間の付き合いもほどほどにということですが、早い段階から「ほどほどに」がなくなるように、子どもは育てられ、世間に受け入れられることが「真の大事」だと、実に愚かしい生き方(そこに生きる意味はないですよ)を強いられているのです。「世間は怖い」と、ぼくがいつでもいうのは、「二人からなる集団自体」が世間だからです。ほとんどはそんな、狭量な「世間」に認められたいと身を粉にするのでしょうし、それができないと蹴落とされるのです。 家そのもから始まって、幼稚園、学校・会社・地域と、それぞれに作られている「社会」が世間なんですね。「別個の世間」だってあるにもかかわらず、そんな、煩わしい世間に受け入れられたいと齷齪(あくせく)するし、徐々に、あるいは一気に、いのちの泉を枯らしてしまうのですから、じつに恐ろしいことではあります。

 兼好は誰かに頼まれたわけでもなく、自分自身の経験から「世に従へば、心、外(ほか)の塵に奪はれて惑ひ易(やす)く…その事、定まれる事無し」と強調して止まないのは、確信・核心があったからです。彼にとって「出家」というのは「縁を離れて身を静かに」していることでした。つまりは「深呼吸」です。一休みでもあったでしょう。そうすると、そこから何かが生まれてくるのでしょうね。

 「ただひとり有るのみこそ良けれ」というのは、隠棲したり、山中に住むことをいうのではないでしょう。街中にいて、「ただひとりあるのみ」を自分自身は、どれだけ作り出せるか。世間にいて、世間にいない、そんな「風狂」が、実は求められているのではないでしょうか。とにかく、「深呼吸の必要」ですね。我が家のネコさんの一人は、顔を合わせると、目が合うと、きっと「欠伸(あくび)」をします、それに引き込まれそうになるほど、ゆったりとするんですね。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。