【水と空】デマ隆盛 1872(明治5)年、徴兵制を敷くことを国民に告げる「徴兵告諭」が出された。その堅苦しい内容の一部を現代風に書けば〈西洋では心身をささげる税のことを血税と呼ぶ。(国民は)その血をもって国に報いる〉…▲このくだりが大騒ぎを引き起こした、と作家の故半藤一利さんはエッセー集「歴史のくずかご」(文春文庫)に書いている。徴兵の義務とは血を搾り取ることだと、誤解が列島を駆け巡ったらしい▲すぐに全国で徴兵制の反対運動が巻き起こった。この例を引いて半藤さんは〈インターネットやら携帯電話全盛のいま、デマの威力速力たるや…〉と案じている▲今やその威力は爆発的といえる。コロナ禍で会員制交流サイト(SNS)を通じてデマが世界中にあふれている、と正月の紙面で詳しく伝えていた▲悪事、千里を走る。古来、悪いうわさほどすぐに広まってきたが、SNSでもまた、衝撃的で偏った情報ほど広がりやすいという。第5世代(5G)通信システムが感染を加速させている、ワクチンを打つと不妊になる-と数え上げれば切りがない▲厚生労働省の特設サイトなどで事実のチェックはある程度でき、活用が勧められている。マスクに手洗いと身近な感染対策に加えて、うそとほんとを見分ける目も、身を守るのに欠かせない。(徹)(長崎新聞・2022/01/11)
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「ひとの噂(うわさ)も七十五日」と言われてきました。それはスマホなどの現代版「飛び道具」はおろか、新聞やテレビも、世間中に十分にいきわたっていなかった時代の時代相のようでもあります。真偽定かならぬ「噂話」も賞味期限はせいぜい二か月か二か月半がいいところで、それを過ぎれば、また新たな「七十五日」が始まっているという塩梅で、世間はその応接にいとまがなかった。それにしても二か月半とは長いじゃないかという向きもあるでしょう。娯楽もあまりない時代、ようやく巡ってきた「噂」に庶民は飛びついたのかもしれませんし、根掘り葉掘りと事情をまことしやかにしゃべっているうちに、二か月半は過ぎていくということだったろうと、噂話に興味のない人間は考えています。
「血税一揆」もそのたぐいであるとは言えないのは、「政治不信」はどこから火の手が上がるかという問題を明かしているでしょう。「火のないところに、煙は立たぬ」とも言います。煙が出ているのは、だれの目にも見える、それじゃあ、「火元はどこだ」と探したら、「やっぱりあったじゃねえか」という段取りですね。「徴兵の義務とは血を搾り取ることだ」と反政府のだれかが「狼煙」を上げたら、案の定燃え上がった、火元をただせば、やっぱり「薩長の野郎ども」ということになったのです。だから、「血税は云々」もまた、一部の反体制側の上出来な「噂」だった。その「うわさがうわさで終わらなかった」のは、日ごろの新政府の「有司専制」、あるいは「苛斂誅求(時代が古いようですが)」に怒りがたまっていた「旧武士階級」の怨念が発火したからだった。その種火に煽られて、政府打倒のお先棒を担いだ(担がされた)のが、農民や庶民だったのです。
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◉ 血税一揆(けつぜいいっき)=1872年(明治5)11月制定、翌年1月発布の徴兵令に対する反対一揆。徴兵令反対一揆ともいう。「徴兵告諭」のなかで徴兵の義務を「西人(せいじん)之(これ)ヲ称シテ血税ト云(い)フ其(その)生血ヲ以(もっ)テ国ニ報スルノ謂(いい)ナリ」としたことから、この名がおこった。20歳に達した男子に課せられる3か年の兵役義務には、官吏、海陸軍生徒、所定の官立学校の生徒、洋行修業者、戸主・嗣子(しし)、代人料270円上納者ほかの免役条項があったが、それらの適用を受けられない一般農民の、とくに二、三男にとっては、徴兵は逃れられない労働力徴発としての意味をもつ過重な負担であった。血税一揆は、この負担に反対する一揆で、ここに血税一揆の本質がある。徴兵によって「生血」を吸い取られると誤解したためであるとする説は、この本質をみない俗説である。(以下略)(ニッポニカ)
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十四世紀の半ばまで生きた、ある賢人は次のように「世上」「世情」を喝破していました。いうまでもなく、当時の「世」はいかにも狭いものであったことは確かでしょうが、今だって、広いと言えば世界規模ですが、果たして、その実態は「仮想現実」ということではないのでしょうか。reality と virtual reality の境目はあるのかないのか定かではないという時代に、ぼくたちは遭遇しています。その「ハザマ(間・狭間・硲・羽佐間、以下無数に)」に、格好のネタが転がり落ちたら、手ぐすねを引いて待っていた連中には、かぶりつくのに「千載一遇の好機」であり、かぶりつかれるほうにしてみれば「格好のカモ」という具合ですね。
しかし両者にしてみれば「ひとの噂も七十五日」なんて、そんな暇があるかいな、というわけで、新たなカモを求めて「罠を仕掛ける」のです。その「罠」はよくもまあ、これだけ次々に新製品ができますなあと驚くほどに、多種多様な「アプリ」だとか「トラップ」などが目白押しです。実際に、そんな「罠」に命運をかけているのが、第五世代とか第六世代という「フロントランナー」たちです。ところが、フロントだと思っていたのも瞬時で、あっという間に置いて行かれる。もっと露骨に家えば、この「AI」「IT」は、世界の経済の命綱のような働きをしているのではないですか。どんな道具にも、きっと両面ある。どんな道具も「使いよう次第」ですよ、「✖✖とハサミは使いよう」というではないですか。「切れない鋏にも使いようがあるように、ばかも使い方しだいでは役に立つ」(デジタル大辞泉)と明言しています。つまり切れるのも、切れすぎるのも、使い方次第だというわけ。「オレオレ詐欺」には、よく知らないが、「スマホ」だったり「携帯」が使われているそうです。

これからはスマホの世の中だと、時代の花形(稼ぎ手)になっているのでしょうが、これも使い方次第ですね。ぼくの言いたことはたった一つ。なにかと「炎上」が騒がれていますが、その中身は千差万別でしょう。世の中には、「火のないところに、煙を立たせよう」という困った人がいます。ではどうするか、「君子、危うきに近寄らず」です、これだけです。そのように言って、「スマホはやめろ」「携帯は持つな」というのではない。ぼくは、自分では持っていませんが、他人が持つか持たないかに、それは感知も関知もしません。「危うきに近寄らず」という信条みたいなものは、少しは考えておいたらどうですか、その程度です。もし「炎上」したら、即、119番です。「私のFBが炎上しています」「ぼくのTwitter が大変なことになっていいる」と消防署に連絡してもいいけど、あまり役には立たないでしょう。「危うきに近寄らず」には「七十五日待て」、いや「十日待て」、いいや「二、三日待て」という、その「間」が大事というのです。その「間(はざま)」にまで急襲する執拗な人はいるものではありません。
ぼくはスマホを所持も使用もしていないので、この現代の「噂話」と、そこから生まれてくる「時代病」については、適切な処方箋を書くことはできないと告白しておきます。その代わりにというと叱られそうですが、「人生の達人による今日、明日を生きる道しるべ」(ぼくが用いている「ちくま学芸文庫版」の帯の文句)と激賞されている「希代の人間観察者(モラリスト)」に、この問題の確たる処方箋を示していただこうと思います。この「処方箋」の要諦は、繰り返し繰り返し、「処方」の内容を読むことです。読むにつれて、薬を服用した如くに効き目が出てくると思います。決して副作用はないでしょう。安心して読むことに集中していくと、まるで「漢方」みたいにじっくりと効用が出てくるはずです。「百聞は一見に如かず」のような言い方をしていますが、自分の目で、確かに「見る」という、この行為が最も欠けているのが、ぼくたちの住む「時代の病理」ですね、つまりは「付和雷同」し、「右顧左眄」するのです。ある種のクラスターが「炎上」を引きおこし、さらにそれを煽動しているのです。
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世に語り伝ふる事、真(まこと)はあいなきにや、多くは皆、空(そら)言なり。

有るにも過ぎて、人は物を言ひ成すに、まして、年月過ぎ、境も隔りぬれば、言ひたきままに語り成して、筆にも書き留めぬれば、やがて、また定まりぬ。道々の物の上手のいみじき事など、頑ななる人の、その道知らぬは、そぞろに神の如くに言へども、道知れる人は、更に信も起こさず。音に聞くと、見る時とは、何事も変る物なり。
かつ顕はるるをも顧みず、口に任せて言ひ散らすは、やがて浮きたる事と聞ゆ。また、我も真(まこと)しからずは思ひながら、人の言ひしままに、鼻の程、蠢(おごめ)きて言ふは、その人の空言(そらごと)にはあらず。げにげにしく、所々うちおぼめき、よく知らぬ由して、然りながら、端々(つまづま)合はせて語る空言は、恐しき事なり。我が為、面目有る様に言はれぬる空言は、人いたく抗(あらが)はず。皆人の興ずる空言は、一人、「然(さ)も無かりし物を」と言はんも詮無くて、聞き居たるほどに、証人にさへ成されて、いとど定まりぬべし。

とにもかくにも、空言多き世なり。ただ、常に有る、珍しからぬ事のままに心得たらん、万(よろず)、違ふべからず。下様(したざま)の人の物語は、耳驚く事のみ有り。良き人は怪しき事を語らず。
かくは言へど、仏神(ぶつじん)の奇特(きどく)、権者(ごんじゃ)の伝記、然のみ信ぜざるべきにもあらず。これは、世俗の空言を懇(ねんご)ろに信じたるも烏滸(おこ)がましく、「よも、あらじ」など言ふも詮無ければ、大方は、真(まこと)しくあひしらひて、偏に信ぜず、また、疑ひ嘲るべからずとなり。(「徒然草 第七十三段」参考文献は島内・既出)
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人の口に戸はたてられずです。人というのは「噂が好きである」と、肝に銘じておくべきです。三人が寄って、和気あいあいと話をしていた。その中の一人がいなくなった途端に、残りの二人が「言うまいことか、いなくなった人間のことを悪しざまにいう」のが、人間だし、そんな人間が集まって世間ができていると、もう一度肝に銘じるべし。(◉「ひと【人】 の 口(くち)に戸(と)は立(た)てられず=世間が噂をするのはとめることができない。人が取りざたするのは防ぎようがない」(精選版日本国語大辞典)

それでも「噂になりたい」「世間に知られたい」と言うなら、どうぞ、ご随意に。「お気に召すまま(As you like.)」だね。重ねて、君子危うきに近寄らず、です。ぼくはまったく、いうまでもなく「君子」ではない。しかし「小人もまた、危うきに近寄らず」を、生涯のモットーにしてきました。「良き人は怪しき事を語らず」というのは兼好さん。兼好という人は「良き人」であったかどうか、それは問わないけれども、彼は本当に時代を観ていたし、人間を観ていた人でした。それをして(モラリスト)といったんでしょうね、フランスでは。この島では、差し当たって、鋭い人間観察者だったと言えるでしょう。ものごとを観察する態度は一貫していた。すべては自らの経験に照らして物を言うということだったろう。決して「噂」に寄りかかりはしなかったのです。ぼくは彼の忠告に、かなり前から従ってきたような気がするのです。その兼好さんが、この時代に生息していたら、「とにもかくにも、空言多き世なり」と、さらに慨嘆の思いも深くしながら、重ねて言ったでしょう。それを知ったうえで、「噂になりたいのか」と自問してみる。
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