毒を持って毒を制する逆行、それが一休の自嘲

 【日報抄】今日はとんち(頓知)の日。機知に富んだ当意即妙の受け答え。痛快で笑わせてくれる「一休さん」にちなみ1月9日だという。室町時代のこの名僧の逸話のひとつに、今年の干(え)支(と)に絡む「屏(びょう)風(ぶ)の虎退治」がある▼将軍がこの知恵者を試す。「屏風に描かれた虎が、夜な夜な抜け出して暴れる。退治してくれ」。一休は縄を手に構えて言う。「では捕まえます。虎を屏風から出してください」。この切り返しに将軍も感服し…▼一休の頓知話は江戸時代以降に本などで全国に広がった創作ともいわれる。多くの民話が残る佐渡市の赤泊にも、同じ話が代々伝わる。難題を出すのは庄屋、退治役が和尚に変わっただけだ(「日本昔話通観」)▼佐渡は流刑地として京都から多くの貴族や文化人が送られた。島のこの伝承は本で伝わる以前に、京都からのルートでもたらされた可能性もあるのでは。そんな想像が膨らむのも、奥深い歴史を有し“日本の縮図”とも呼ばれる佐渡の魅力だ▼有名な「屏風の虎」の話をモチーフに、自分独自の頓知を考えてみようという人もいる。ネットで探ってみると、新たな切り返し例として、虎の屏風にササッと墨で檻(おり)を描いてみせるというのがあった。駄じゃれ派もいる。何もせずに屏風の前で「はい、虎絵(捕らえ)ました!」▼硬直したこの時代、発想の転換という頓知の柔軟性が求められているのかもしれない。前例踏襲や、その場しのぎの対応ばかりでは、頓知とは程遠い「頓痴気(とんちき)」と言われてしまう。(新潟日報・2022/01/19)

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 このコラム、「頓智の日」にしては工夫が足りないというか、頓智になっていませんね。「1月9日」だから、「いっきゅう(一休)」、これは駄洒落であって、頓智には無関係だね。いったい誰がこれを名付けたんですか。あるいは「なぞかけ」にちなんで「クイズの日」だとか。面白くもなんともない。名付け親はぼくにはわかりません(少ししか探していませんので、見当たらなかった)が、どうせろくなことを考えていない人たちではないですか。

 それはともかく、この「とんち(頓智・頓知)」に使われている「頓」という漢字です。ぼくはよほど、この字の方に興味を持っています。「意味はこれこれである」といえない、まことに「融通無碍」なんですよ。差し当たって、訓読みの例を挙げてみると、以下の通り ①頓しむ(くるしむ)②頓れる(つかれる)③頓く(つまずく)④頓まる(とどまる)⑤頓に(とみに)⑥頓ずく(ぬかずく)⑦頓ぶる(ひたぶる)⑧頓ぶれる(やぶれる)などなど。

 さらに、熟語としては、①整頓②頓狂③頓悟④頓才⑤頓挫⑥頓死⑦頓服⑧頓首⑨頓馬⑩頓着などなど。その他、限りなくとは言いませんが、いくらでもあげられるという気がしてくる「字」です。これだけでもかなり珍しいと言えます。切りがありませんから、これで、無駄な詮索はやめておきますが、一休さんとはまったく無関係の寄り道でした。なんで一休和尚と「とんち」が結びつけられたのか。これにもいろいろな理由があるのはたしかです。しかし、一休さんは「とんち教室」の先生になれるような、あるいは、なるような人物ではなかったことは確かでしょう。つい先日も彼のことについて駄文を書きました。駄文ですから、終わりがないのですね。だから、調子に乗って、本日も。

 何よりも、一休というと、ぼくは「風狂」という語を使いたくなる。これを使いたくなる人は、そんなにいないのです。おそらく一休さんは、この語が似合う、最右翼ではないでしょうか。彼自身が、自らをして「風狂の狂客」と自称してさえいるのです。「風」「雲」は禅家の専売のようになっていますが、それは、行方定めぬ、つかみどころのない、人をも世をも隠し通しさえするという、鋭利な牙を持っている風雅、そんな気味がするのです。「行雲流水」と、とどまらないで流れゆく自然界の代表のような顔をしています。にもかかわらず、いったん牙をむくと「頓に」表情を変えてしまうのです。

 すこし「風狂」にこだわってみたい。安東次男さんの芭蕉研究に「風狂余韻」「風狂始末」と題されたものがあります。この場合の芭蕉は「風雅の境地に入り込んで、他を顧みない」というものとして受け取られていたと言えます。また葛飾北斎は「画狂老人」と自署しています。このような「風狂人」は、中国ではさらに多く存在していました。その筆頭に、ぼくは「寒山拾得」を持ってきましょう。下の墨画は「禅機図断簡 寒山拾得図」(因陀羅筆)(国宝)(東京国立博物館)です。二人の僧が、木の根元に座って、なにやら談笑している図です。鴎外がこれをモチーフにして「寒山拾得」を書きました。この二人の僧の得体は知られていません。この島の画家という画家(日本画)は、だれもがこの画題を逃そうとはしませんでした。もちろん、禅僧がいてこその話です。そのいくつかでも、ここには出しませんが、実に壮観です。画を描くというのは、寒山拾得を描くことだという受け止め方があったのではないでしょうか。もちろん雪舟もその一人です。

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◉ 寒山拾得(かんざんじっとく)(Han-shan Shi-de)=中国,の伝説上の2人の詩僧。天台山国清寺豊干禅師の弟子。拾得は豊干に拾い養われたので拾得と称した。寒山は国清寺近くの寒山の洞窟に住み,そのため寒山と称したといい,樺皮を冠とし大きな木靴をはき,国清寺に往還して拾得と交わり,彼が食事係であったので残飯をもらい受けていた。ともに世俗を超越した奇行が多く,また多くの詩を作ったという。しかし,これらの事績はすべて,天台山の木石に書き散らした彼らの詩を集めたとされる『寒山詩集』に付せられた閭丘胤 (りょきゅういん) 名の序,および五代の杜光庭の『仙伝拾遺』に記された伝説に発するもので,寒山,拾得の実在そのものを含めて真偽のほどは確かめがたい。後世に禅などが彼らのふるまいや生活に憧れ,好画題として扱うことが多かった。顔輝 (がんき) ,因陀羅などに作品があり,日本でも可翁,明兆,松谿などが描いた。その詩は『寒山詩集』に寒山のもの約三百余首,拾得のもの約五十首を収め,すべて無題である。自然や隠遁を楽しむ歌のほか,俗世や偽善的な僧を批判するもの,さらに人間的な悩みから女性の生態を詠じたものまで,多彩な内容をもち,複数の作者を推測することもでき,さらにその成立もいくつかの段階を経ているとも考えられている。(ブリタニカ国際大百科事典)

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◉ 風狂(ふうきょう)=「風」は「瘋(ふう)」に通じ、人をさして風子、風癲(ふうてん)、風漢などとよぶ。「風狂」とは(風が狂おしく吹くという意味は別として)、もと狂気、狂人を意味した。隠逸の高士寒山(かんざん)が「風狂夫」(『山堂肆考(さんどうしこう)』)、「風狂の士」(『寒山子詩集』序)と、また拾得(じっとく)が「風狂に似たり」(『寒山子詩集』序)、「風狂子」(『沙石集(しゃせきしゅう)』)とよばれたというのも、彼らが凡俗の目には狂人としかみえなかったということである。しかし「狂」の語は単なる精神疾患の意を超えて用いられた。李白(りはく)が「我はもと楚(そ)の狂人」と自称し、葛飾(かつしか)北斎が「画狂老人」と自署するとき、彼らは自分が世間の標準から外れていることを自認してはばからない。人は世間の規範からの逸脱を肯定的にとらえて「狂」とよぶ場合があり、日本において中世以降「風狂」とはそのような「狂」の形態の一つをさす。(中略)/ 遁世(とんせい) 精神や性格の異常ではなく、自らの意志で選ばれた生き方である。たとえば鴨長明(かものちょうめい)の『発心(ほっしん)集』は、極楽往生を願って世俗的所有物のいっさいを捨てた隠者の伝を多く伝える。彼らにとって遁世とは、家を捨てて寺に入ることではなく、すでに世俗の体制に組み込まれた寺をも捨てて隠棲(いんせい)することを意味した。彼らは真の「放下(ほうげ)」を目ざしてひたすら俗から逃走し、追いかけてくる名誉や利益から身を隠す。しかし、俗からの脱出が人の世からの逃走であるうちはまだ消極的な脱俗である。

 (さらに別種の)風狂 これは自由を求めて世間から逃走するのではなく、すでに精神が自由となっているために世間の規範を超越するものである。かならずしも山中に隠棲せず、あるいは乞食(こじき)となって市中を横行し、ときに色街に戯れることをためらわない。しかし世俗の価値基準は眼中になく、常識からみれば奇行の連続であり、その存在自体が俗世間への批判となる。その代表者は自ら「風狂の狂客」と号した一休である。このとき、「風狂」とは自由なる精神と同義となる。(以下略)(ニッポニカ)

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 一休さんと「風狂」の、強烈な結びつきは、おそらく言うまでもなく、この「寒山拾得」伝説に始まったとみていいでしょう。寒山は自らを「風狂天」といい、拾得は「風狂子」と称した。「風」は人間業ではないのはもちろん、いったん発生すれば、とどまるところを知らない「狂乱の風情」です。この場合の「風」は、世間に吹く風であると同時に、その風に流されて、あるいは、逆らって人間世界(世間)の外に吹き飛ばしてしまう力を持っています。その人間世界の埒を外れた人をして、「風狂」(自称・他称)としたのではなかったか。寺も、当たり前の世間であるなら、それを捨てるほかないことになります。「出家」というのは「出世間」だったのに、驚くなかれ、世間で名を成すことに血道をあげるという、たまげた「仏教人士」もあるのですね。「禅」で飯を食う坊さんもまた、同じことです。

 上に引いた辞書の説明に「発心集」が述べられています。長明さんの著とされるものですが、「極楽往生を願って世俗的所有物のいっさいを捨てた隠者の伝を多く伝える。彼らにとって遁世とは、家を捨てて寺に入ることではなく、すでに世俗の体制に組み込まれた寺をも捨てて隠棲(いんせい)することを意味した。彼らは真の「放下(ほうげ)」を目ざしてひたすら俗から逃走し、追いかけてくる名誉や利益から身を隠す」と。これはしかし、まだ序の口で、「風狂序二段」程度です。三役になるのには、そんなところで留まっていては話にならない。大関や関脇になると「かならずしも山中に隠棲せず、あるいは乞食(こじき)となって市中を横行し、ときに色街に戯れることをためらわない。しかし世俗の価値基準は眼中になく、常識からみれば奇行の連続であり、その存在自体が俗世間への批判となる」と。おおむね、ぼくはこの説に賛成しています。詳しく語るには、「一休論」を書かなければなりませんが、ここでは、まず「一休み」です。あわてない、あわてない。

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 行きたいと願いながら、まだ行ったことがありませんが、現在の京田辺市に「一休寺」といわれる名刹があります。なかなかのお寺で、一休さんの墓所もあります。そもそもこの寺を再興したのが一休和尚でした。この地で亡くなった一休和尚の「酬恩庵」、別名薪寺ともいわれるところで、なかなかの庭も見られます。その作庭の一人に、詩仙堂の石川丈山も加わっているんですね。今では有名になりすぎた寺の一つで、その意味では一休さんの意に沿わないところでもあるのでしょうね。

◉ 酬恩庵(しゅうおんあん)=京都府京田辺(きょうたなべ)市(たきぎ)にある臨済(りんざい)宗大徳寺派の寺。一休(いっきゅう)寺の名で知られ、薪一休寺、妙勝寺、薪寺ともいう。山号は霊瑞山(りょうずいさん)。正応(しょうおう)年中(1288~93)に絶崖(ぜつがい)宗卓によって妙勝寺が開創され、南浦紹明(なんぽじょうみょう)を招いて開山とした。

伽藍(がらん)は元弘(げんこう)年中(1331~34)に兵火にあい、いったん灰燼(かいじん)に帰したが、のち紹明の遺風を慕う一休宗純(そうじゅん)によって1456年(康正2)再興された。やがて一休はここに一草を結んで酬庵と名づけて隠棲(いんせい)した。入寂後、一休は門人によって寺内の塔に葬られた。本堂(国重要文化財)は小さいながら、1506年(永正3)の建立で、唐様(からよう)で変化に富んでいる。寺宝に一休禅師の木像・画像があり、後花園(ごはなぞの)天皇宸翰(しんかん)女房奉書とともに国重要文化財。また、方丈、唐門(からもん)、庫裡(くり)などが国重要文化財に、枯山水の方丈庭園と虎丘(こきゅう)庭園は国名勝に指定されている。(ニッポニカ)

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 一休さんの「漢詩」を一つ。(ヘッダーに掲げたものです。東京国立博物館収蔵)

	峯松

萬年大樹摠無倫
葉々枚々翠色新
琴瑟不知誰氏曲
雲和天外奏陽春	

(峯の松
万年も歳を経た松の大樹のあたりには人もなく
一枚一枚の葉の翠色が新鮮である
聞こえてくる琴の音は誰の曲だろうか
雲が天空と調和して、陽春を奏でている)

 一休さんが「とんち好き」だったというのは、ぼくに言わせれば、悪い冗談です。「笑点」で座布団の取りっこをするような、そんな遊び四分三の「落語家」のような方ではなかったでしょう。あるいは、「クイズ王」のごとき、紅顔の美青年(?)であることだけを誇っているような軽薄人ではなかったと言えます。いつも抜き身を身につけていたとは言いませんが、何も頼るものがない、何にも頼らない、そのままの自分、そのままの素性で生きていこうとされた人、その意味では、実にうらやましい「無頼の人」だったと思う。もちろん、彼の胸中は知る由もありません。

 ここで一休研究家の市川白弦氏の「解説」を引いて、この駄文を終わりにします。

 「政治家のいやらしさ、とひとは言う。政治家がいやらしいのは、われわれ自身のいやらしさを目のあたりにみるからである。いやらしさの実態は名利心と権勢欲である。名と利と権の三位一体が人間のいやらしさのを構築し、このいやらしさのうえに文化が花ひらき、歴史が「進展」している。一休の面目は、かれが自分の虚偽、虚栄、名誉心をまともに見すえて、たじろがなかったところにある。一休は自分の嗔恚(しんい=憤り)、情欲、嫉妬をおし隠そうとはしなかった。むしろ虚偽的、露悪的にあからさまにした。それは時勢を警策するための、毒を持って毒を制する「逆行」でもあったが、そのことがすでにひとつの自己顕示であることを一休は知っていた。かれの自嘲または懺悔がそこから生まれたというていい。かれが他者のいやらしさのうちに自分を見るのでなかったならば、栄衒心、名利の欲をあれほど執拗に攻撃することもなかったであろう。しかもそのことじたいが、しばしば自己の栄衒心の組みひしがれた亡霊であった」(市川白弦「一休とその禅思想」「中世禪家の思想」所収。日本思想体系16、岩波書店刊)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。