まぼろしの影を慕いて 雨に日に

 【三山春秋】▼古くから日本では赤色が邪気を払うと考えられてきた。江戸時代には死に至る病とされた天然痘が流行し、赤の濃淡で人や動物を描いた「疱瘡(ほうそう)絵」が魔よけの護符として使われるようになる。この時、だるまも同じ理由で広まったらしい▼農閑期のだるま作りが現在の高崎市豊岡地区で始まるのも同じころ。疫病の流行とともに歴史が始まったことになるが、願掛けの縁起物として知られるのは絹産業が盛んになる明治時代になってのことだ▼繭を作るまでに4回脱皮する蚕が古い殻を破って動きだすさまは「起きる」と呼ばれていた。これにかけて「七転び八起き」のだるまは特に養蚕農家の守り神として喜ばれ、暮らしの中に入っていく。上州の歴史風土とは深く結びついていた▼全国一の生産量を誇る高崎を皮切りに、ことしも新春恒例のだるま市が始まった。きょうは400年の歴史をもつ前橋初市まつり。規模を縮小して行われた昨年に比べれば、各地でにぎわいも増すだろう▼県民が縁起だるまに託す思いは商売繁盛や家内安全、学業成就か。夏の参院選をはじめ選挙の多い1年には必勝祈願としても欠かせない。加えてコロナ禍の終わりを願わぬ人はいまい▼赤いだるまは病よけの護符であり、次々襲い来る感染の波にも負けず起き上がるシンボルである。多くの人の掛けた願いがかない、平穏な日常を取り戻す年であってほしい。(上毛新聞・2022/01/09)

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 「だるまさん」にはいくつかの思い出があります。いずれも大したことではない逸話ですが、ぼくにとっては、高崎や達磨大師などに連想は膨れ上がっていくので、いたずらな無駄話ではないつもりです。「高崎のだるま」が、ことのほか有名になったのはいくつかの理由があるのでしょう。ぼくにはあまり興味はないのですが。高崎出身のIさんとは、どのくらいの付き合いになったか。先年、亡くなられた。群馬県のどこかの温泉場に「同級会」と称して何人かが集まった、食事を済ませて「ひと風呂浴びてくる」といって、湯船の中で亡くなったという。八十五歳だったか。とても健康でいろいろな職業を経験し、最後は悠々自適の(ような)生活を送っていた。まさか、の突然死でした。胸部の動脈の破裂だったそうです。

 彼は、ぼくの連れ合いの姉の夫、行ってみれば、ぼくとは「義兄弟」(北島三郎ですね)の間柄でした。毎年この時期になると、郷里の高崎に帰り、戻るに際しては、いくつものだるまを土産にしていた。確か、ぼくのところの子どもも、いくつかもらったのではなかったか。彼は、これもどうでもいいことですが、N曽根元首相とは子どものころからの知り合いで、何かと面倒を見てもらったと言います。年齢は十歳は離れていたでしょうが、ぼくは好きではない元首相でしたが、彼の語る「人物像」は、なかなかの存在だったように思われてくるのです。何しろ「郷里の誉」でしたから。「義兄弟」が亡くなり、高崎とはすっかり縁切り状態になりました。彼の葬儀に来られた従兄弟(高崎在)とは何かと話す機会がありましたが、なんと、その従兄弟の隣家の方が(ぼくの)「授業に出ていたと、評判は予てより聞いていますよ」と、言われて赤面したことがありました。

 「高崎のだるま作りは、今から二百十数年前、豊岡村の山縣友五郎が始めたとされています。/ 稲の収穫や麦蒔きが終わった、秋から翌年の春にかけて作られていましたが、友五郎が始めたころは、色塗りに使う材料が簡単に手に入らないなどの理由で、生産量は少なかったようです。1859年の横浜港の開港で、だるまの生産が盛んになっていきます。海外からスカーレットという赤の顔料が輸入されるようになったからです。/ 徐々にだるまの作り手が増えていき、1909年ころには18軒になりました。現在では72人の職人が伝統を継承しています。(以下略)(下の写真も)(https://takasakidaruma.net/)

◉ 達磨【だるま】=達磨の座禅にちなみ,手足のない赤い衣をまとった僧の姿の人形。底を重くして倒れてもひとりでに起きる起上り小法師(こぼし)の一つ。商売繁盛,開運出世の縁起物として喜ばれ,目のない達磨に満願のとき目を書く風習がある。郷土玩具(がんぐ)として張り子製のものが各地で作られ,達磨市の立つ地方が多い。松川達磨(仙台),目無し達磨(群馬県豊岡,現・高崎),子持達磨(甲府),姫達磨松山)などが著名。(マイペディア)

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 「だるま」といえば、「達磨」さんを連想します。この島社会では、もっとも人口に膾炙した坊さんではなかったでしょうか。まるで雲をつかむような人物で、その「面壁九年」は、雪舟の絵などによって知られるようになりました。(この絵は、どこかに出してあります)なにしろ、禅宗の開祖というのですから、いかほどの存在であったことか。十分な理解もなく、ぼくはいくつかの文献を読んだだけです。彼は唯一の弟子・慧可を許し、彼にすべて後事を託したとされます。本場の少林寺山崇高寺に似せて、わが劣島には少林山「達磨寺」があります。もちろん、群馬県の高崎に、です。そのお寺と露天商とが対立し、「だるま市」が変則開催を余儀なくされているのです。本年も分裂開催になっているようですね。「だるまさんが転んだ」なのかなあ。

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 引き裂かれる群馬の「だるま市」 対立深まり高崎駅前と少林山開催に 「発端は経費問題」 感情もつれも…

引き裂かれる群馬の「だるま市」 対立深まり高崎駅前と少林山開催に 「発端は経費問題」 感情もつれも…

 年始めの風物詩として全国に知られた少林山達磨寺(群馬県高崎市鼻高町)の「だるま市」が、運営を巡る対立からだるまの露店がほとんどいない異例の開催となって約1年。溝はますます深まり来年1月はJR高崎駅前(元日、2日)と寺での祭り(6、7日)という異例の分離開催が決定的となった。「だるま発祥の寺」と「だるまを製造する組合」の決裂。220年の歴史を持つ祭りは大きな曲がり角に立つ。双方の言い分を聞いた。     

 発端は寺負担の経費問題 だるま市は毎年、露天商約200店、だるま販売店約60店が並び夜通し市を開き、参拝客20万人が繰り出す年始の風物詩だった。/ 対立の原因は何か。「祭りの経費負担にあった」と達磨寺の広瀬正史住職は指摘する。住職によると、警備や電気設備など多額の運営費の多くは寺が負担していたという。昨年、寺は応分の負担を出店料として求めたところ、露天商側が猛反発、出店を拒否し、組合まで追随して不参加となった。それでも今年1月のだるま市は少数のだるま商有志が寺近くで販売はした。来年1月は有志さえいない状態になりそうだ。(以下略)(産経新聞・2016/12/22)

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 「だるまさん」を挟んで「にらめっこ」の状態がもう六年以上も続いているんですね。開祖は「面壁九年」でしたから、まだ二年以上はありますが、それまでに「雪解け」とはいかないのでしょうか。泣いても笑ってもいいから、「みっともない、金銭のもつれ」は、だるまさんに免じて解決してほしい。そんな修羅の「だるま」にご利益があるとは思えないんですがね。

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 その「達磨寺」のHPからお借りしました。

 「達磨は今から1600年ほど前、南インドにあるカンチープラム()の第三王子として誕生し、幼名は菩提といいました。/ 若い頃に父である国王が亡くなり、菩提多羅王子は国政を二人の兄に頼み、お釈迦様から二十七代目にあたる般若のもとに出家し、『菩提達磨』の僧名を頂きました。/ 師にいて修行すること四十年に及び、般若多羅尊者から釈尊正伝の第二十八代目を継承しましたが、師より「六十七年間はインドを布教し、その後に中国に正法を伝えなさい」と遺言され、それに従って老年になってから、海路を三年かかって中国・広州の港に上陸しました。/ 梁武帝と問答し、縁かなわず揚子江を渡って洛陽の都のはずれ、嵩山少林寺の裏山の洞窟に住み、面壁九年の坐禅をするうちに求道者・神光が現れ、その熱意に感じ中国で始めて弟子をとり、慧可と名付けました。/ この慧可にすべてを伝え、中国に禅宗の基礎を築かれたのですが、その教えを理解できない者たちによって毒殺され、熊耳山定林寺に葬られました」(黄檗宗少林山達磨寺HP)

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 この「だるま市」に関しては次のような告知がありました。「ご本尊様が降臨される」という「星祭」それはまた、星に祈りを届ける宵でもあるのでしょう。ここで、どういうわけだか、一つの映画と主題歌が浮かびました。いったい、ぼくはこの映画をいつ見たのか、もちろん、小学生のころだったが、暗い教室で観た場面の数々が、ぼくの目に焼き付けられています。「生と死」を教えられたのだったかも。「星に願いを」は、ディズニー映画「ピノキオ」(一九四十年)の主題歌です。少林山達磨寺の住職さんたちは「星に願いを」を知らないのでしょうか。ゆっくりと味わってほしいですね。「夢はかなう」「争いは終わる」からね。

 *少林山七草大祭だるま市 「七草大祭は開創当時より行われる伝統行事です。/ 1月7日の午前2時が本尊様が降臨される吉日とされ、前日の6日から前夜祭として夜通し行われる星祭です。/ 本尊様が降臨される7日午前2時に星祭大祈祷が厳修され、本尊様のご利益を求めたくさんの参拝者で賑わいます。/ 200年程前の天明年間、9代目の東嶽和尚がだるま作りを伝授し、だるまが作られるようになると、だるま市も同時に行われるようになりました。(同寺HP)
When you wish upon a star
Makes no difference who you are
Anything your heart desires
Will come to you

If your heart is in your dream
No request is too extreme
When you wish upon a star
As dreamers do

Fate is kind
She brings to those to love
The sweet fulfillment of
Their secret longing

Like a bolt out of the blue
Fate steps in and sees you through
When you wish upon a star
Your dreams come true

 ここから、達磨大師について書こうとしているんですが、なんだか雰囲気がよろしくないようで、気分が乗らないんですね。「達磨さん」を押し出しているお寺さんが「金銭トラブル」の渦中だなんて。笑えない話です。どこまでも落ちるんですね。三題噺を。「だるまさんが転んだ」「火だるま」「雪だるま式」で、どんな無駄話が展開できるでしょうか。ぼくは「達磨」状態、手も足も出ないんではなく、出さないんですよ。そのうちに、雑談で。

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 稿を改めて、出直したほうがよさそうですね。何しろ「禅」の開祖に当たるのが、達磨さんです。ぼくの不思議とするところは、なぜ、これほどまでに「達磨さん」が、この島で好まれる、あるいは人気者になったかという点です。いくつかのそれらしき理由は得られそうですが、どうも、ぼくにはしっくりこないんですね。ひたすら、雪舟の「慧可断碑図」を観るだけで、もう何か、言うことが嘘くさくなるように思われてきます。第一、九年間も壁に向かわなければ、何もえることができないというのは、何なんでしょうか。「石の上にも三年」というのも、ぼくはどうかと考えてはいるんです。まるで「宗教・仏教」は自虐的(サディスティック)に見られすぎているんではないですか。

 どこまで行こうが、物には影がついてくる。影をつくる「本体」がある限り、それは避けられない。これが本体で、あれが影であると、どのようにして見分けられるのか。影を本体と見間違えるのはどうにも仕方がないというわけでもありますが。ほとんどは「影を慕いて」人生を生きているようなものです。「悟り」とは、段階があるのであって、「まず、隗より始めよ」なんでしょうな。千里の道も一歩からです。

 「色即是空」というお経の文句があります。形のあるもの(=色)は、すべて実体がなく、空(影)であるというのでしょう。あるいは「空即是色」とも言います。同じことです。「影」を把捉することは不可能ですよね。万物は実体がなく空である、そのままに、空と見られて、実体のないと認められることが、事物の本質なのだというのです。どんなものにもついて回るのが影、影は実体ではないし、その影を生み出している実体も、実は影なのだということ、形のあるものはきっと壊れる。だから、それにとらわれなさんな、端的にいうと、そういう意味なのでしょう。達磨さんに限らず、悟りを得たと言われる存在には、どこか「影」があるのではないでしょうか。その「影」こそが「色」であり「空」なんですね。

 プラトンの書いた「国家」という書物の第七巻に「洞窟の比喩(allegory of the cave)」というのがあり、そこに、この問題が出てきます。詳しいことは避けますが、要するに、ろうそくの映し出す「影」を見て、世人は「本物」と受け止めるのであり、「影が作る価値」の世界です。誰もこの「影」の呪縛から解放されない。面倒なことをいえば、嘘と真(まこと)の違いはどこにあるかという問題でもあるのでしょう。これは嘘、これは真と、だれが見ても明確に区別できることばかりがあるのではないということです。プラトン(ソクラテス)は、影を作っているのは「実体」があるからであり、それを見なければ、ものを見たことにはならないと言いますが、世人は、それには耳を貸さない。つまりは「色即是空」というわけです。「実態を見る」ためには、特別の訓練・方法があるのです。それは「面壁九年」のようなもの、あるいは「只管打坐」であるのでしょう。(この先をつづけても、実りはないでしょうねえ)

HHHHHHHHHHHHHHHHHHHH

◉ 達磨【だるま】中国禅宗の祖とされる僧。菩提(ぼだい)達磨Bodhidharma。インド生れ。470年ごろ(異説が多い),海路南中国に入り,嵩山(すうざん)少林寺で面壁9年,法を慧可(えか)に伝えた。伝記には不明な点が多く,著書も《少室六門集》などが伝えられるが,疑わしい。(マイペディア)

◉さとり【悟り】=仏教の歴史を通じて,出家であれ在家であれ仏教者たちは,禅定もしくは三昧に入るように修行し,禅定や三昧において仏教的真理を知る知恵を得,りを悟っていたと考えられる。禅定や三昧によって表層意識を消滅させつつ深層意識を自覚化していき,最深層意識をも消滅させると同時に,彼自身の実存においてあらゆる衆生にゆきわたる根本真理を知る知恵を得,悟りを悟ったのである。したがって悟りとは,そのようなしかたで自我的な人格から解脱して自由になり,衆生に対して無礙(むげ)自在にはたらく新しい仏菩薩的人格へと生まれ変わることであるといってよい。(世界大百科事典第2版)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。