蔵王は「金剛権現」の勧請の地、役小角の足跡

 【談話室】▼▽40年前のことだ。山形市出身の洋画家菅野矢一(すがのやいち)さんが古里の夕刻の雪山を描いた油彩画「くるゝ蔵王」で日本芸術院賞を受けた。昭和天皇をお迎えした授賞式で、菅野さんは天皇から尋ねられた。「蔵王は好きですか」▼▽「大変好きです。世界で一番いい山です」。こう答えると天皇は笑顔を見せたという。菅野さんが当時の本紙記事で振り返っている。受賞作は、夕日に映える雪の稜線(りょうせん)を上部に配した。視線を下げるにつれ、落ちゆく日差しを反映して山肌の色は徐々に青黒く変容していく。▼▽翳(かげ)があるからこそ、至高の光が際立つ。「くるゝ蔵王」は山形市役所1階市民ホールに飾ってあるから、ご記憶の方も多いだろう。先日の夕暮れ、山形市の西郊を車で走っていたらこの絵のような光景に巡り会った。瀧山(りゅうざん)から雁戸山、山形神室へと連なる蔵王の山々である。▼▽雪の連山を朱(あけ)に染め上げた西日が傾きを増すと、山巓(さんてん)部分はいっとき赤みを強める。逆に麓の雑木や雪原は薄闇に溶け込んでいく。「世界で一番いい山」という画伯の言葉が頭をよぎる。年明けから雪かきに追われややうんざりしていた身にも、思わぬプレゼントとなった。(2022/01/08)(ヘッダーの画は「蔵王暮色」1982年、酒田美術館蔵)

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「くるゝ蔵王」

◉ 菅野 矢一(スガノ ヤイチ)=昭和期の洋画家 日展参事。生年明治41(1908)年1月19日 没年平成3(1991)年6月15日
出生地山形市 本名菅野 弥一 学歴〔年〕山形市立山形商〔大正13年〕中退 主な受賞名〔年〕一水会優秀賞(第11回)〔昭和29年〕,文展洋画部特選(第11回)〔昭和30年〕「裸婦」,日展特選(第3回)〔昭和35年〕「海のみへる丘」,日展菊花賞(第5回)〔昭和37年〕「」,日展文部大臣賞(第11回)〔昭和54年〕「白い太陽」,日本芸術院賞(第38回)〔昭和57年〕「くるゝ蔵王」,勲四等旭日小綬章〔昭和59年〕 経歴商業学校を中退して画家の道を志す。日展、一水会展に出品。昭和18〜19年渡仏、グランドショミエールに学ぶ。作品に「海のみへる丘」「くるゝ蔵王」などがある。(20世紀日本人名事典)

 まったく知らない画家でした。詳しい履歴もわかりません。どこかで安井曽太郎に師事と出ていましたので、なるほどいう一応の首肯はしますが、いったい、どこが「なるほど」なのか、言っている本人にもよくわからないのです。ぼくは、安井曾太郎の作品はかなり観てきたと思います。もちろん、画集や展覧会を通してであり、はなはだ不十分であることを承知の上で言えば、最も好きな画家であると言えます。その安井曾太郎のどこが、と訊かれれば、これまたよく答えられないのです。気が付けば、ぼくの周りにはたくさんの画家や画学生がいました。京都の住まいの近くに、日本画家や洋画家がいたし、その子どもたちと年齢も近かったので、親しく遊んだものでした。やがて、上京して、その画学生だった人々は、東京で展覧会や個展をなんども開いたし、その会場は、ほんどが銀座周辺でした。ぼくは、その画廊には真面目に出かけた。しかし、いかにも若いだけの、乱暴な「既成画壇打ちこわし」の「ポーズ」のような個展などには、ほとんど見るべきものがなかった。(上は、菅野矢一「陽はまた昇る」1977) 

 この時期の画廊まわりは、その後も長く続いた。また、大学から遠くないところには美術館もあるし、「丸善」も通学・通勤の途中でしたから、暇な折にはきっと一人で出かけていました。そんななかで、日本画や洋画の、所謂「大家」の作品も観ることに熱心でしたね。名前を上げればきりがないほど、多くの画家の仕事を観たことになります。昭和四十年代から六十年代半ば(昭和期末)ころのことです。その時期に、すでに菅野矢一さんは大きな仕事をされていたのでしょうが、いっこうに気が付かなかった。そのような迂闊な、ぼくの視界に入ってこなかった画家は無数にいたと思う。それを一人でも二人でも「発見したい」というのが、ぼくの差し当たっての願いです。もちろん、高名な大家も含めて、改めて日本の、日本人の「画家を発見し、再発見」したいと切に願ってもいるのです。もちろん、「書」などにもじっくりと近づいて鑑賞したいものです。菅野矢一さんが、ぼくにとって、その「幸先のよい画家」となりますように。(右は、「自画像」1923)

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◉ 安井曾太郎(やすいそうたろう)=[生]1888.5.17. 京都,下京 [没]1955.12.14. 神奈川,湯河原洋画家。京都の下京区(のちに京都市中京区に再編)の木綿問屋安井元七の五男として生まれる。1903年商業学校を中退し,聖護院洋画研究所(のちの関西美術院)で梅原龍三郎とともに浅井忠の指導を受けた。1907年フランスに留学ジャン=ポール・ローランスに師事しながらポール・セザンヌらの後期印象派の美術を学び,1914年帰国。翌 1915年二科会に所属,第2回二科展に滞欧作品 44点を特別出品して注目された。1935年帝国美術院(→日本芸術院)の会員に推されて二科会を去り,翌 1936年一水会を創立。その後,帝国美術院改め帝国芸術院会員,東京美術学校教授,帝室技芸員となり,1952年文化勲章を受章。写実を根底にしながら明快な色彩と要約したフォルムとを構成して,近代的な造形思考に基づく独自の写実様式を展開した。主要作品に『薔薇』(1932,アーティゾン美術館),『金蓉』(1934,東京国立近代美術館),『承徳の喇嘛廟(らまびょう)』(1937,永青文庫),『深井英五氏像』(1937,東京国立博物館),『安倍能成像』(1944,東京国立近代美術館)などがある。(ブリタニカ国際大百科事典)

(「房総風景」安井曾太郎、1931)

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 実は「蔵王」について書いて見たくていろいろ思案している最中に、菅野矢一画伯につながったという次第でした。蔵王には何度か行きました。いずれも「下手の横スキー」の遊びでしたが。また、その序でに、当地のいくつかの温泉にも浸かってきました。山形蔵王、宮城蔵王と言い慣わしていますが、そのどちら側にも、ぼくは親しみを持っていました。スキーもその一つでしたが、さらには、戦前の「生活綴方教育」の担い手たちがたくさん蝟集して新たな活動を開こうとしている、その教師たちの拠点にもなっていたのが宮城や山形だったのです。もちろん青森も岩手も福島も入っていますが、仙台が中心地のような位置づけで彼らの何人もが、自転車で山形や岩手から、仙台に集結しては議論に夜を徹していたのです。「北方教育」と呼ばれてきました。この教員たちのしごとは、もっと知られていいし、どうして潰されたのかをも見る必要があると、ぼくは考えている。原稿だけは、かなりの枚数を書いてありますが、時代の雰囲気で、ぼくにはそれを出す気持ちが失せてしまったんですね。(出版社との約束を破ってしまったことになります)

 蔵王はもとは「ぞうおう」と呼ばれていたのですが、やがて「ざおう」と一定する。呼びやすかったんですね。この山は「蔵王権現」を勧請した修験の山として、全国の本山的な位置を与えられてきました。この島に固有の(ような)「山岳信仰」の本尊である「金剛蔵王権現」が祭られているのです。蔵王神社は各地に存在しています。山岳信仰といい、修験道という独特の信仰を開いたのが「役小角(えんのおづぬ)」とされています。彼は、劣島の殆んどの山岳信仰(山開き)の生みの親ともされている。この島の、あらゆる山に「足跡」を残しています。弘法大師さんよりもよく歩いたでしょうね。ぼくは早い段階から、役小角に興味を持っていて、いつかゆっくりと調べて、その足跡を確かめてみたいと、各地の山の神社に目を光らせてきました。

 「権現(ごんげん)」または「権化(ごんげ)」という言葉は古くから使われていますし、今でも頻繁に用いられています。「熊野権現」「悪の権化」などというように。「① 仏菩薩衆生を救うために仮の姿をとって現われること。また、その現われたもの。権化。〔随筆・貞丈雑記(1784頃)〕〔最勝王経‐一〕② 仏菩薩が衆生を救うために、日本の神に姿をかえて、この世に現われること。また、その現われた神。本地垂迹(すいじゃく)の説から出たもので、熊野三所権現、山王権現、春日権現などの類。」(精選版日本国語大辞典)

 ぼくたちの日常に、とても親しみのある神であったのです。

◉ 役小角=生年:生没年不詳 7,8世紀の呪術的宗教家,役行者の名で修験道開祖とされる。賀茂の一族,のちの高賀茂朝臣の出身で,大和国葛木上郡茅原村(奈良県御所市)の人と伝えられる。大和国葛城山で修行し,呪術にすぐれた神仙として知られ,多くの伝説が生み出された。五色の雲に乗り,大空を飛び,神仙の宮殿で神仙と交わり,心身を養う霊気を吸いたいと願い,岩窟に籠もり,葛を身にまとい,松の葉を食べ,清泉で沐浴し,世俗の汚れを落とし,山林で修行した。孔雀王の呪法を修得し,鬼神を使役して,水を汲ませたり,薪を採らせたりし,鬼神が命に従わないと,験力で自由を束縛した。役優婆塞とも称されるように,仏道修行者とされるが,不老長生の神仙となるために,山林に籠もり,穀物を口にしないで,松の葉や草の根を食料として修行に専心していたので,道教の医術や方術に習熟した行者であった。 文武3(699)年,弟子の韓国連広足に妬まれて,妖術で人々を惑わしていると密告され,伊豆国に流罪にされた。また別に,大和の金峰山と葛城山の間に橋を架け渡せと神々に命じたところ,神々は嘆き,葛城山の一言主大神がある人に乗り移って,役小角が陰謀を企んで,天皇を滅ぼそうとしていると讒言したといわれる。天皇は捕らえようとしたが,役小角の験力のためにかなわず,代わりに母親を人質として捕らえた。母を釈放してもらうために,自ら囚われの身となり,流刑となったが,昼間は伊豆で,夜間は富士山に登って修行を重ね,遂に天を飛ぶことができるようになり,罪を許されると,神仙となって天空に飛び去ったといわれる。修験道の本尊,蔵王権現は,金峰山上で役小角が衆生を救済するのにふさわしい仏を出現させようとして祈願して,湧出させたものという。修験道の開として,寛政11(1799)年には,朝廷から神変大菩薩の諡号が贈られた。<参考文献>『続日本紀』,景戒『日本霊異記』(朝日日本歴史人物事典)

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 いまとなれば、もはや不可能ではありますが、この「役小角」という存在自体が定かではなく、そもそも人間であったのかさえも疑わしいものに、ぼくは強く惹かれてきましたが、ついにはそこに自らを没入させることはなかった。果たしてそれは幸福なことだったかどうか。これもうんと幼い頃、「サンカ」という、山岳・山地民衆に大いに興味をそそられたことも軌を一にします。この「サンカ」と呼ばれた人々は、時には天皇の死に際して、その棺を担ぐ役割を持っていたともされていました。彼らは、つい近年まで存在が確認されていたと言われますが、やがて、その足跡がすっかり消えてしまいました。あるいはその存否が怪しいとされる劣島の先住民たちと同じように、われわれの先住者であったのではなかったか。こんな大事なことに目を向けなかったとは、まことに怠けごころの祟りでしたね。

 「くず」「さえき」「えみし」くまそ」「はやと」などなど、ここまでくれば、もうすでに「古事記」「日本書紀」の世界です。ぼくはその一つ一つの「氏族」「先住民」を調べてみたいという願望を持ち続けてきたのです。思いもかけない余計なことにつかまって、学校や教育などと知った風なことを言っている間に、もう今では間に合わなくなりました。大学を卒業する時、ぼくは京都に帰り、山の中の中学校の教師をしながら、山野を駆け巡りたいと強く望んでいたのでした。今は昔の夢のまた夢。

◉ 山窩【さんか】=少数集団で山間を漂泊して暮した民。散家・山稼などとも書かれ,ポン,ノアイ,オゲ,ヤマモンなどとよばれた。居住地は東北地方と北海道を除く日本全域にわたった。通常〈せぶり〉と称するテント生活を営みながら川魚をとったり,箕(み)や(ほうき)・籠(かご)作りなどを生業とし,人里に出て売ったり米などと交換したりした。その社会は厳重な〈はたむら〉(おきて)の下に統制され,独特の習俗を伝えるほか,仲間だけに通用する隠語を多用したことが知られている。第2次大戦後,急速に姿を消した。柳田国男三角寛による研究が知られる。(マイペディア)

 ぼくが言いたいのは大したことではない。天皇の祖先はこうであると、まことしやかに「神話」として語られてきましたが、それでは「日本人」とはなんですかという問いには、まともに答えられないし、それをいかにも無関心を装うようにして、学問に携わる人々は不問に付してきたのではないかという疑問でした。大昔には確かにいたであろう、わが先祖の、その歴史や痕跡をたどることは、ぼくたちの現在をよりよくするためにも大事な仕事ではないか、そんな埒もないことに、ぼくは突き動かされているのです。若し、それの一部でも明らかにされるなら、この島の人民は、近隣諸国の人々とさらに深い付き合いが始まるに違いないと考えている。その理由は? お互いの隣人として、強い影響を与え、与えられながら、身近に暮らしていた仲ではなかったか。そう、幼馴染だったんだ。

 冒頭に戻ります。コラムの中で書かれていた、「菅野さんは天皇から尋ねられた。『蔵王は好きですか』『大変好きです。世界で一番いい山です』」という菅野さん。山の姿・形がいいからとか、景色が美しいというのではなく「山岳信仰の聖地だから」という思いがあったに違あいありません。それは富士山についても言えることです。一番高い山だとか、山容が素晴らしいというのではなく、ただそれだけの理由ではなく、山頂の「浅間神社」に祀られている「コノハナサクヤビメ」に対する信仰だからでしょう。(このあたりの関連については、「竹取物語」「浦島太郎」に触れた駄文で、いくらかは述べています。この二つの「物語」は、この島に独自にあった(育った)ものではありません。東アジアの各地にはいくつもの、同類の奇譚が伝えられている)

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◉ 木花開耶姫(このはなさくやひめ)=日本神話で、天孫瓊瓊杵(ににぎのみこと)に求婚された山の神の娘。この求婚を喜んだ山の神は、「天孫の命が石のごとく永遠であれ、木の花が栄えるように栄えてあれ」と磐長(いわながひめ)と木花開耶姫の2姉妹を奉るが、磐長姫が醜いために天孫は木花開耶姫だけをめとる。それで天皇(『日本書紀』一書では人間)の命は有限なのであるという。この話は、人間が石から生まれずバナナから生まれたために死ぬようになったという、東南アジアの古層栽培民文化に成立した死の起源伝承に源をもつ。この人間の死の起源伝承を、『古事記』が天皇の死の起源伝承に置き換えたのは、神である天皇がなぜ死ぬかという問いに答えを用意する必要があったからである。なおこの結婚により、天孫は山の呪力(じゅりょく)(幸(さち))を加え、御子(みこ)は山幸彦(やまさちひこ)として誕生する。[吉井 ]『大林太良著『バナナ・タイプ』(『日本神話の起源』所収・1961・角川新書)』(ニッポニカ)

◉ このはなのさくや‐びめ【木花開耶姫/木花之佐久夜毘売】=日本神話にみえる女神大山祇神おおやまつみのかみの娘。天孫瓊瓊杵尊ににぎのみこと火照命ほでりのみこと彦火火出見尊ひこほほでみのみこと火明命ほのあかりのみこと富士山の神とされ、浅間せんげん神社に祭られる。(デジタル大辞泉)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。