昨日の昼頃から降り出した雪は、思いのほか積もりました。朝には十センチはあろうかというほどの雪の原が生まれていました。十月に生まれたばかりの猫は初めての積雪に興味深々、庭を駆け回っては足を冷たくしては、室内に飛び込んで、また飛び出すことを繰り返していました。「犬は喜び庭かけまわり 猫はこたつで丸くなる」と、正反対のはしゃぎようでしたね。思わぬ初雪で、午前中には停電が発生。二度三度とついたり消えたりで、電気製品が対処に大童です。そのなかでもパソコンは、使用中に電源が落ちたために、被害というほどでもありませんが、なかなか立ち上がらなくなりました。このまま、本日はダメかなと半分は諦めていたところです。

停電が回復し、パソコンも何度か起動や再起動を繰り返しているうちに、ようやく「立ち上がり」ました。それが午後三時ころでした。(ただ今、三時半過ぎ)本日の駄文は「止めておけ」という合図であろうと、ぼくはそのサインを受け止めるべく、昨日にも触れたプリーモ・レーヴィの「これが人間か アウシュビッツは終わらない」(朝日選書版)のページを繰っていました。この本の邦訳(竹山博英訳)が出たのは2017年でしたが、その時に購入し一読しました。類書にはみられない内容であったとぼくには思われたし、印象に残った著書になっていたのです。停電の余得というのか、パラパラしているうちに、本格的に読みだした。
本日は別のネタを用意していたのです。しかし、上で言ったように「停電」「パソコン不調」などで「これが人間か」を再読する羽目になったので、触りの部分だけでも、その紹介をしたくなった次第。引用ばかりになりますが、何かの参考になればと、以下に書いておきます。昨日の続きのような按排になりました。

幸運なことに、私は、一九四四年になってから、アウシュビッツに流刑にされた。それは労働力の不足がひどくなったために、ドイツ政府が囚人の勝手気ままな殺戮を一時的に中止、生活環境を大幅に改善し、抹殺すべき囚人の平均寿命を延長するよう決定した後のことだった。 だからこの本で、不安をかき立てる抹殺収容所という主題に関して、そこで起きた残酷な事実が、世界中の読者の知っている以上に語られることはない。この本は新たに告発条項を並べ立てるために書かれたのではない。むしろ人間の魂がいかに変化するか、冷静に研究する際の基礎資料をなすのではないかと思う。個人にせよ、集団にせよ、多くの人が、多少なりとも意識的に、「外国人はすべて敵だ」と思いこんでしまう場合がある。この種の思いこみは、大体心の底に潜在的な伝染病としてひそんでいる。もちろんこれは理性的な考えではないから、突発的でちぐはぐな行動にしか現れない。だがいったんこの思いこみが姿を現し、今まで隠れていた独断が三段論法の大前提になり、外国人はすべて殺さねばならないという結論が導き出されると、その行きつく先にはラーゲルが姿を現わす。(p5)
今日は良い日だ。私たちはあたかも視力を取り戻した盲人のようにあたりを見回し、顔を見合わせる。太陽の光を浴びながら顔を見合わせたことなどないのだ。ほほえみで顔をほころばせているものもいる。これで飢えがなかったら! 人間とはこうしものだ。痛みや苦しみが同時に襲ってくるとき、人はそれをすべて合わせて感じるわけではない。ある一定の遠近法によって、小さな苦痛が大きな苦痛の影に隠されてしまうからだ。これは神意によるもので、だからこそ収容所でも生きられるのだ。また、自由人の生活で、人間の欲望には限りがない、とよく言われるのも、これが理由だ。だがこれは、人間が絶対的な幸福にたどりつけないことを示すよりも、むしろ、不幸な状態がいかに複雑なものか、じゅうぶんに理解されていないことを表わしている。不幸の原因は多様で、段階的に配置されているが、人は十分な知識がないため、その原因をただ一つに限定してしまうので。つまり最も大きな原因に帰してしまう。ところが、やがていつかこの原因は姿を消す。するとその背後にもう一つ別の原因が見えてきて、苦しいほどの驚きを味わう。だが実際には、別の原因が一続きも控えているのだ。(p91~92)

…同時代の多くの人間が、こうして地獄の底に押し込まれて、つらい生き方をした。だが一人一人の時間は比較的短かった。そこでこういう疑問が湧いてくることだろう。この異常な状態に何か記録を残す意味があるのだろうか、それは正しいことなのだろうか、という疑問が。 これには、その通りと答えておきたい。人間の体験はどんなものであっても、意味のない、分析に値しないものはない、そして今語っているこの特殊な世界からも、前向きではないにしろ、根本的な意味を引き出せる、と私たちは信じている。ラーゲルが巨大な生物学的社会的体験であったことを、それも顕著な例であったことを、みなに考えてもらいたいのだ。 年齢、境遇、生まれ、言葉、文化、習慣が違う人々が何万人となく鉄条網の中に閉じこめられ、必要な条件がすべて満たされない、隅々まで管理された、変化のない、まったく同じ生活体制に従属させられた。たとえば人間が野獣化して生存競争をする時、何が先天的で何が後天的か確かめる実験装置があったとしても、このラーゲリの生活のほうがはるかに厳しかったのだ。 人間は根本的には野獣で、利己的で、分別がないものだ、それは文明という上部構造がなくなればはっきりする、そして「囚人(ヘフトリング)」とは禁制を解かれた人間にすぎない、という考え方がある。だが私たちには、こうした一番単純で明解な考え方が信じられないのだ。むしろ人間が野獣化することについては、窮乏と肉体的不自由に責め立てられたら、人間の習慣や社交本能はほとんど沈黙してしまう、という結論しか引き出せないと考えている。(p109~110)
それよりも注目に値するのは、次のような事実が明らかになることだ。つまり人間には、溺れるものと救われるものという、非常に明確な区分が存在することだ。これ以外の、善人と悪人、利口ものと愚かもの、勇ましいものといくじなし、幸運なものと不運なものといった対立要素はずっとあいまいで、もって生まれたものとは思えない、どっちつかずの中間段階が多すぎて、しかもお互いにからみあっているからだ。 ところが、この溺れるものと救われるものという区分は、普通の生活ではっずっとあいまいになっている。なぜなら、大体人は独りびぼっちではなく、成功する時も失敗する時も、身近な人たちと運命を分かちあっているので、普通の生活をしている限り、めったに破滅しないからだ。だからある人が際限なあく権力を伸ばしたり、下降線をたどって、失敗に失敗を重ね、没落することもない。それに普通はみな精神的、金銭的貯えをもっているから、破産したり、すべてをなくしてしまったりする可能性はひどく小さくなっている。それに加えて、法律や、心の規律である道徳律が、損害を和らげるのにかなり大きな働きをしている。事実、文明国になればなるほど、困窮者が余りにも貧しくなり、権力者が過大な力を握ることを防止する、賢明な法律が働くなるようになると、考えられている。(p112)
この「これが人間か」の初版が出版されたのは一九四七年でした。以来、改訂版を重ねて、今ある形となったのです。ぼくは朝日選書版を読んだ。「強制収容所(ラーゲル)」に関わる文献は数限りなくあるでしょう。ぼくはその万分の一を読んだか、見たという程度です。何ごとも言えるほどの基盤を持っていないので、やむを得ず、このような著書からの引用や紹介をするほかないのです。いまだに「アウシュビッツはなかった」という、犯罪に等しい暴言がくりかえされています。その背景はなにか。まず、いかなる戦争でも「犠牲者は出る」のであって、問題は、その数の多少だけだという主張です。これに関しては言うべき言葉がありません。また第二に、一方の側だけの責任にしているが、同じように「虐殺」をしたのは、「そっち」だって同じじゃないかという理屈以前の話です。戦争の歴史をどこまで知ろうとするか、それは、再び戦争の愚を繰り返さないための、その後に生きている、一人の人間の責任(義務)に類することです。

ぼくは「溺れるものと救われるもの」を熟読し、改めて「アウシュビッツ」の意味を知ろうとしています。この書物を書いた翌年に著者は「自死」されたという。稿を改めて、この問題を考察したいと願っています。ぼくは、この著者の作品を再読しながら、ラーゲリもまた「世間」だったのだという深い諦念のようなものに襲われています。あからさまな「世の中」、それを著者は「地獄」という。それを考えつめていくと、世間こそが「ラーゲル」だと思われてくるのです。
「むしろ人間が野獣化することについては、窮乏と肉体的不自由に責め立てられたら、人間の習慣や社交本能はほとんど沈黙してしまう、という結論しか引き出せないと考えている」
「持つものには与え、持たないものからは奪え」このような不正な法則が罷り通るところは、もう一つの「ラーゲル」ではないでしょうか。
「溺れるものに歴史はなく、ただ破滅への一本の道が大きく開かれているだけだとしたら、救われる道は多様で、厳しく想像も及ばない」(「これが人間か」)
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