
ホロコースト生存者の映画「ユダヤ人の私」が警告する危険な未来 今に通じるナチス「国や社会は簡単に転ぶ」
ナチスによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の生存者が波乱の人生を語る映画「ユダヤ人の私」が東京・神保町の映画館で公開された。ユダヤ人に起きた悪夢を「誰が想像できるだろう」と問い掛ける主人公マルコは、アウシュビッツ強制収容所などを生き延びた105歳。共同監督の一人、オーストリア人のクリスティアン・クレーネス氏はオンラインで取材に応じ「国や社会は簡単に危険な方向に転ぶ。その過去を忘れれば、過去はいつか未来になる」と警鐘を鳴らした。(共同通信=斉藤範子)
▽語り続ける 主人公は1913年にハンガリーで生まれ、オーストリアの首都ウィーンで育ったマルコ・ファインゴルト。全編モノクロの映画の序盤、小さい頃の家族との思い出や、青年時代のビジネスでの成功を懐かしむように豊かな表情で語る。/ だが、オーストリアが38年にナチス・ドイツに併合されると、反ユダヤ主義が急激に広がり、人生が一変する。39年にナチスのゲシュタポ(秘密国家警察)に逮捕され、45年まで四つの強制収容所に収容された/「誰が想像できるだろう?あれは人間による所業なのだ」「ユダヤ人であるというだけで殺害された」「受け入れることなんて絶対にできない」/射るような目線を向け、マルコは語り掛ける。/ オーストリアで最高齢のホロコースト生存者だったマルコは70年以上、語り部として自らの体験を語り、ナチスの罪を明らかにしてきた。そして「哀れなオーストリアはドイツに侵略された」と言い逃れるのは間違いだと訴え続けた。映画では、併合の際にナチスを迎えたウィーン市民の熱狂ぶりを証言している。(以下略)(2022/1/3 © 株式会社全国新聞ネット)(https://nordot.app/848081904067690496?c=39546741839462401)

房総半島の山中の片隅に棲みついていますので、なかなか映画や音楽などの鑑賞の機会(ホールや映画館で)がありません。残念ではありますけれど、だからと街中に移ろうなどという気持ちは微塵も兆しはしていません。ある種の蟄居状態ですので、可能な限りで書籍やネット映像を渉猟しては、渇を癒そうとしているのです。「ユダヤ人の私」は何とかしてみたい記録映画です。前作の「ゲッベルスと私」は著作でも読みました。今、それを記憶の彼方から呼び戻そうとしているのですが、書物の内容の行方は杳として知れないという、恐慌状態にあります。何か特別の、驚くべき事柄が書かれていなかったからではないかと、勝手に解釈しています。その内容のかけらも浮かんでこないのですから、これは異常でもあると言うべきでしょうか。(https://www.sunny-film.com/shogen-series-introduction)
「ゲッベルスと私」のポムゼルは、何かナチのために特別の仕事をしたのではない。偶然、割り当てられた役回り(彼女は、それを人事異動といった)で、ヒトラーと「極悪のコンビ」を組んだ相棒の秘書だったにすぎない、ほんの三年ほど。それが事実であって、そのほかに何があるというのかしら、というのがポムゼルの偽らない信条でした。インタビュー当時、すでに百歳を超えていたブルンヒルデ・ポムゼル。冷静というか、みずからの感情を、固く誓って、深く心底に沈めてしまったかのような、かたくなな姿勢。そうしなければ戦後を生き続けられなかったのだろうか。彼女は、世間的に言う、賢い人だった。「何も知りませんでした。私に罪はない」、これがポムゼルの「本音」です。それ以上でも以下でもない。多くの戦争当事国の人民はそのようにするほかなかったのです。問われれば、「私にどうしろというのですか」と、誰でもそのように応えるでしょう。それにしても、彼女の深く刻まれた皺。これはゲッペルスやナチとはまったく無関係でしょうが、彼女の生きた、幾分かの証にはなるのか、いや、なるはずがないじゃないか。(https://www.youtube.com/watch?v=Zqd_krnWdy0)(https://www.youtube.com/watch?v=nZr45w7iubI)

自分に与えられた場で働き、みんなのために良かれと思ったことをする、誰かに害をなすかもしれないと、わかっていても。それは悪いことなのかしら、エゴイズムなのかしら。 それでも人はやってしまう。人間はその時点では、深く考えない。 無関心で、目先のことしか考えないものよ。(ブルンヒルで・ポムゼル・2013年、ミュンヘン)(「ゲッベルスと私 ナチ宣伝相秘書の独白」ブルンヒルデ・ポムゼル+トーレ・ハンゼン著 監修・石田勇治 翻訳・も大居り内薫+赤坂桃子。紀伊国屋書店刊。2018)
何にでも言えることだけれど、美しいものごとにも汚点がある。恐ろしい物事にも明るい部分がある。白か黒ではわりきれない。どちらの側にもかならず、すこしばかり灰色の部分があるものよ。(略) 自身の罪についての永遠の問いに対しては、私は早い時期に答えを出した。私には、何も罪はない。かけらも罪はない。だって、なんの罪があるというの?いいえ、私は自分に罪があるとは思わないわ。あの政権の実現に加担したという意味で、すべてのドイツ国民に咎があるというのなら、話は別よ。そういう意味では、私を含めみなに罪があった。(同上)

私はこれまで生きてきた中で、自分で気づいている以上に多くの犯罪者とかかわったのかもしれない。でも、前もってそんなことが分かりはしない。たしかにあのころゲッベルスのもとで働いていたけれど、彼は私にとって、ヒトラーの次に偉い、とても高いところにいるボスの一人でしかなかった。そして私への命令は、省から来たものだった。戦地に送られた兵士たちはみな、ロシア人やイギリス人を撃ったけれど、だからといって彼らを殺人者とは言わない。彼らは義務を果たしただけ、私もそれと同じよ。私が誰か個人に不当なことをして大きな苦痛を与えたというのなら、非難されてもしかたないかもしれない。でも、そんなことをした記憶は私にはいっさいない(同上)
真珠湾奇襲攻撃が始まり、日米が戦争状態に入った際、ある高名な評論家は、奇襲で沈んだ米艦隊の写真を見て、「美しい」という感銘を述べ、さらに、それ以前の満州事変に至る戦火の拡大に対しても、「国民は黙って戦争に身を処した」という意味のことを書いていました。若いぼくは、その人を優れた見識の人と見ていただけに、何か嫌なものを見た思いで、やがて彼からは離れしまいました。たぶん、彼はその時は四十過ぎだったと思われます。彼のように、好戦的とかタカ派だとみられていない人でも、戦時になると、当たりまえに「戦争支持」に身を置くのでしょう。つまり「大和民族」「皇国臣民」として、自分をそこに縛り付ける、そんな姿勢を多くの人は(自然に、だったと言えます)取ったのです。もちろん、積極的に戦争に加担した人も多くいた。(文学報国会への参加などで)このような状況下にあっては、直接に、あるいは格別に「戦時の役割」を与えられていない一般の民衆でも同じことだったかもしれない。
「私はなにも知らなかった。だから、私に罪はない」という、ポムゼルの告白・弁明に偽りがあるというのではありません。問題は、無自覚に戦争の中に自らを投擲して、なんの痛痒も感じないという、その無神経さにあるのではないでしょうか。戦争の渦中にある者は、それがどんな状況下にあるのか知るすべもなかったという、厳しい一面もありました。大多数は戦後になって、ようやく事態が分かるというものでした。「私は何も知らなかった。私に罪はない」と。「私はどうすればよかったんですか」という、この姿勢が多くの人が選んだものであったでしょうし、それで何の不思議もないのです。それを非難する権利というものは、誰にもないのです。だから、「戦争」はいつだって、どこにだって起こりえるし、起っているのです。と、戦後何十年もたって、高見から「戦争のもたらす」ものを批判する、ぼくのような人間もいる。戦争のさなかにいたら、ぼくはどうしていただろうという、空想力はここでは、あまり意味を持たないのです。
HHHHHHHHHHHHHHHHHH
ほぼ同時期に、こちらは再読したのですが、プリーモ・レーヴィ「これが人間か」という収容所体験記。彼は科学者であり文学者でもあった人。1919年、トリノで生まれ、44年2月、アウシュビッツ強制収容所に収容された。45年10月に解放されます。戦後は科学者として、あるいは文学者(詩人)として活動。87年に自死したとされています。作品には、「休戦」「溺れるものと救われるもの」など。

暖かな家で 何ごともなく生きているきみたちよ 夕方、家に帰れば 熱い食事と友人の顔が見られるきみたちよ。 これが人間か、考えてほしい 泥にまみれて働き 平安を知らず パンのかけらを争い 他人がうなずくだけで死に追いやられるものが。 これが女か、考えてほしい 神はかられ、名はなく 思老いだす力も失せ 目は虚(うつ)ろ、体の芯は 冬の蛙のように冷え切っているものが。 考えてほしい、こうした事実があったことを。 これは命令だ。 心に刻んでいてほしい 家にいても、に外に出ていても。 目覚めていても、寝ていても。 そして子供たちに話してやってほしい さもなくば、家は壊れ 病が体を麻痺させ 子供たちはは顔をそむけるだろう。 (「アウシュビッツは終わらない これが人間か」竹山博英訳 朝日選書、2017)

もう何年前になるか、ビクトール・E・フランクルという実存分析の領域を開いた精神科の医者が、最後の来日を果たした際、通訳をした友人から案内を受けたが、ぼくは出かけませんでした。会うことが出来ないと、ぼくは直感していたからでした。(いずれ、この経緯については、どこかで触れたいですね)彼の「夜と霧」は、レ―ヴィの本とほぼ同じ時期に公刊されたと思います。「一心理学者の収容所体験」として書かれた著書を、ぼくは何度読んだか。ドイツ語で、英語版で、もちろん日本語訳でも。その一字一句とは言いませんが、殆んどを諳んじていました。「自分を待つ人がいる」という期待が、収容所を生き延びさせたと語るフランクル。結婚したばかりの妻とまだ幼時だった娘、それに母親の三人も、同時に強制収容所に送られた。収容所の中で絶望に襲われたとき、フランクルはきっと、妻(テリー)と「言葉」を交わした。離れ離れではあったが、(夢の中で)二人は会話を交わし、励まし合った。やがて、フランクルは解放されます。妻や子、母が「ガス室」に送られたのは、収容所に入った直後だったということが判明した。
「これが人間か、考えてほしい」「考えてほしい、こうした事実があったことを」
HHHHHHHHHHHHHHHH

一時間ほど前から、雪が降りだしています。この雪景色を見て入ると、ぼくはいろいろな場面を思い浮かべます。今、ぼくの脳内のある部分に去来しているのは、「夜と霧」でフランクルが描く一場面です。収容所内における強制重労働に駆り出された収容者たち(「囚人」というべきではないでしょう)、寒さでコンクリートよりも固くなった雪に「つるはし」を当てて穴を掘る、そんな単純な重労働に、来る日も来る日も駆り出される。掘るのに疲れ、少しでも休もうとすると殴られる。そこで倒れてしまうと、自分たちが掘った穴の中に、監視人や仲間によって蹴り落される。
監視する側も、重労働に喘ぐ人たちも、人間であることを止めているのでした。かかる事態が、当たり前の「人間の表情」をして、いつでもどこにでも(現に、いまだって)起こっているのです。「これが人間か、考えてほしい」という詩人・レーヴィの声をぼくは、断固として、とは言えないが、弱々しい腕力で受け止めているのです。
< Arbeit macht frei>(労働は自由につながる)と、この島でも誰かが言っていなかったか。
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