歩くことは、朝飯前の「脳力」自主トレです

 【滴一滴】日の出より少し早い時間帯のウオーキングを日課にしている。空が次第に色づいていくさまは美しく、清新な気分になる▼運動不足の解消になればと、2年ほど前に始めた。冬は布団から出るのがおっくうになるのだが、年末に読んだ「最強脳」(新潮新書)に励まされている▼著者はスウェーデンの精神科医。本欄でも紹介した前作「スマホ脳」でスマートフォンが人間に及ぼす影響に警鐘を鳴らしたところ、「では脳に一番いいことは何か」と質問されることが増え、その答えとして書いたという▼主張は極めてシンプルだ。「運動すれば脳は強くなる」。著者が勧めるのは脈拍が上がる程度の運動を週に数回、できれば30分以上すること。健康によいのはもちろんだが、発想力や記憶力、集中力も高まるという▼運動の時間は短くても、効果は認められるらしい。10歳児の調査では4分間の運動でその後1時間、集中力が高まった。スウェーデンの学校では効果的に運動を取り入れているそうだ。おまけに運動はストレスへの耐性を高める効果もある▼年末年始に人が移動した影響もあろう。新型コロナウイルスの新変異株「オミクロン株」が国内各地で広がりつつあり、おとといは岡山県内でも確認された。気がかりな状況が続くが、「密」を避けながら体を動かし、上手に気分転換したい。(山陽新聞デジタル・2022/01/05)

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 コラム氏は「2年ほど前に始めた」といわれます。続いていますね。計画して歩くのは毎日である必要がないのは、このコラムで紹介されているとおりだと、ぼくも同感します。歩くことは考えること、そんなことを昔から思っていながら、都会に住んでいる頃はなかなかできなかった「歩くこと」を自由気ままに実践している、というより、それが生活の一コマでもあるように感じているのです。自由気ままに実践している「歩く」から生まれるのが、この駄文だろうと言われるかもしれないのですが、そうじゃありません。歩いていいるときは、景色を見たり空や水の流れを見ているので、頭の機能は停止状態です。駄文は、パ歯根の前に座って、さて何を書くか、そこから始めます。あらかじめ段取りや構想(そんなものはありますかいな)を決めるということは一切ありません。だからダメなんですが。

 駄文というのもはばかられます、すべては「書きなぐり」なんですから。その昔は「草稿(ドラフト)」などと生意気なことを言っていましたが、そんな上等のモノでもない。ただ文字を書き連ねる(打ち出すのみ)、それが文章になっていれば、勿怪の幸いという塩梅です。時間があれば、その後に読むことはします。でも自分の書いたものを読むのは苦痛ですね。その駄文を読んでくださる方のお気持ちを察します。駄文を綴るのもまた、「歩く」と同じで、まるで毎日「朝飯を食べる」のと変わらない態度であり、あるいは何かの拍子で、「朝食抜き」だってあるのですから、何が何でもということに拘るところが、ぼくには微塵もない。あきらめが早いというのか、粘りがまったくないというのか、まるで「水っぽい豆腐」のような人間なんです。とことんやり遂げる人を見て、羨ましいと感じたことがないのですから、できるはずもないでしょ、と自分を見切っているんです。根っからの「ヤワ」なんですよ。

 少し前にも紹介しました「一万日連続登山」の東浦奈良男さんのような執念は、もちろん、ぼくにはないのです。吉田智彦さんの書かれた著書には、ふんだんに東浦さんの「日記」が引用されています。「一歩がすべてを決する。一歩をいかに出し、いかに引くかが、成功、不成功の分かれみちや。一歩一歩にすべてがある。一歩に人生が、一歩に運命がかかっているのだ。一歩考究、一歩の練習、一歩の修業、一歩の訓練、一歩一吸、一歩運命、一吸成功、歩くことに人生と運命がある。歩くことにおもしろさ、六(難)かしさ、よろこび、人生の意味を発見していこう。人生の意味思いつつ歩く春、一歩供養も忘れるな。歩く人生。人生は歩くことと見つけたり。歩くことこそ、仏教の解脱悟道のみち。神を発見するみちや。車にのっていては、到底、全然、味わえないこの歩く㐂び、歩くたのしさを存分に味わえる幸せを現代人は忘れ去っている」(一九九一年四月十日)

 どこからこの「歩行哲学」が生まれたのか。「人生は歩くことと見つけたり」という、まるで「葉隠」も顔負けではないでしょうか。「歩行禅」といってしまいたいような歩き方であり、哲学です。富士山を三百数十回も登り、夜遅くに帰宅して、また山に行く。あるいは帰宅しないで、連続で違う山に登る。登山の途中で自動車事故に遭うが、それでも病院を断り、登りつづけた人。この人は、何故、これほどまでに連続登山に拘(こだわ)ったのか、ぼくは興味を持って(野次馬根性で)、少し東浦さんのことを調べたことがありました。桁外れに、歩くこと、登ることに拘り抜いたという意味では、まことに稀有な人でした。一万日連続登山の記録は成就目前の、九七三八日で途絶えたという。ついに、ぼくには、彼の「連続登山」への執心の感情(理屈)(あるいは真相といってもいいでしょう)が分かりませんでした。鉄人でもなく、偏屈でもなく、どこにでもいる「お爺さん」だったとも言えます。だから、人間というものは愛おしくなるのでしょうね。2011年12月に亡くなられた、八十六歳でした。「連続登山記録」という土産物を父母に持参して、冥途へ旅立たれたのです。

 

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 ぼくも歩くことは嫌いではありませんが、これほどに打ち込むものだとは、とても考えられません。歩くことは大事だなあ、その程度の、じつにチャラい考え(ですらない)で、時には歩き、ときにはサボりの繰り返しです。一万日連続で登り続ける、歩き続けると、なんと二十八年近くの時日を要するのです。常人には真似することが出来ない、かといって奈良男さんは風狂ではなかったと思う。はじめは軽い気持ちで、ところがだんだんやっているうちに、絶対に続けるぞ、一万日まで「頑張るんや」、そうなって行った形跡があります。「完璧な惰性」というものがありうるか、あるとするなら、東浦さんの場合はそれでしょう。ぼくの場合は「不完全な惰性」というのでしょうね。

 ぼくの若い頃は、飲酒癖がだんだんひどくなっていきました。まさか「一万日連続飲酒」を狙っていなかったでしょうが、結果的にはそうなっていたかもしれません。今にして、酒を抜いた記憶も記録もないのですから、一万日どころではなかったとも言えそうです。でも、「どんなことがあっても、毎日飲むぞ」と宣言して飲むのは「バカ」ですね。だから密かにでも、ぼくはそんなことは想いもしなかったが、気が付いたら、そうだったというのです。どっちにしても、バカとしか言いようがないですね、時間と金を捨てたようなのですから。いったいそれで、ぼくに、どのような成果というか効果があったのか、「皆無です」というほかありません。いささかも、かしこくはならなかったし。

 ぼくは何事においても「ちゃらんぽらん」「いい加減」「無計画」、もう「出たとこ勝負」といいたのですが、実際には、出たところでも、勝負をしない主義でした。石橋をたたいても渡らないというのとは、少し違います。どんなことにおいても、毎日飯を食べる習い、そのぐらいの習慣行為の意識でしかありませんね、あらゆることが。それを別の表現で言うと、はかない惰性行為ですよ。惰性というのは悪い場合が多いのでしょうが、時には望ましいこともあります。にわかに、その好例が思いつきませんが、おそらくあるはずです。しかし、習慣化されてよくないことの方がはるかに多くあります。薬物・アルコール・ニコチンなどの継続摂取は、常軌を逸していることも少なくありません。それらは脳内のある種の物質に働きかけ、逆に自らが働きかけられているので、断ち切ることが困難なのでしょう。だとすれば、東浦さんのケースは、どのように説明できるのか。ルッソオという思想家は「子どもに付けさせていい習慣は、どんな習慣にも染まらない習慣である」とか何とか言っていました。

 ぼくに似合っているのは「三日坊主」という格言・金言(?)です。「 発心して仏門に入っても、修業に三日と耐えられず寺を出てしまう僧侶をたとえに用いた。厳しい批判ですが、どこか憎めないユーモアが感じられます」と「ことわざを知る辞典」は解説しています。しかしですよ、繰りかえし「三日坊主」を積み重ねれば、相当なところにまで行けるんではないでしょうか。いわば「二勤一休」ですね。おそらく一休さんもまた、「三日坊主」だったのかもわかりません。倦まず弛まず「三日坊主」を続けると、もしかすると、大事な何かを悟ることになるのでしょう。アメリカの作家のマークトウェインは「禁煙なんて簡単なもの。ぼくは今までに百回も千回も禁煙したよ」だとさ。(左は「スマホ脳」の目次より)

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 ことさらに「歩く」を強調しなければならなくなった時代相、あるいは時代背景の方が深刻でしょう。拙宅の近くにも、「徘徊病」などと噂される方がおられます。(ぼくと同年齢)ときどき話を伺うことがありました。日に四時間や五時間は当たり前で、時には八時間も歩くそうです。週に三回、人工透析に通院されているという。この方などは、歩くことが当然のような感覚で歩いておられる。昔、公務員をされていた時には、職場まで往復を歩いたことがあるそうで、五十キロはあったと言います。こうなると、言葉もでませんが、何のことはない、しばらく前まではみんな歩いていた。犬だって猫だって、お猿さんだって。歩くのが辛くなったから、牛や馬に乗り、駕籠に乗り、人力車に載せてもらい、自動車や汽車に、そしてついには「空飛ぶ飛行機」の出現まで想定されています。百億の金を費やして「宇宙まで」行ってきた御仁もいました。人間は、この先、何になってしまうのでしょうか。賢明であったと自負していた人間の「末路」は、歩くことの放棄によってもたらされるでしょう。すでに生じている、個々の事例にはこと欠かない。

 スマホの功罪を説き、ついには「歩くことが、健康(脳の)に一番」という、外国人の著書がこの島でベストセラーになる。犬・猫を見ていてつくづく思う、ペットにされてしまえば、犬や猫はみずからの「種」を脱して(忘れて)、ついには人間に近づきすぎるようになります。それは人間の勝手な好み(玩具遊びです)の「なせる業」でしょう。「ペット病院」では内視鏡検査までしてくれます、余裕があれば、人間にもということにもなりかねないし、人間の病院に犬・猫が入院しているという時代が来ているのでしょうか。戦前の話ですが、ある動物医が感心した風情で言っていました、「犬や猫には胃潰瘍がないんだ。不思議だな」と。今はどうでしょうか。死因のかなりの割合が癌だと言いますし、うつ病や、ストレス過多でノイローゼになるのもいるそうです。犬や猫も人間に付き合うと、歩かなくなるんですね。その外側では、処分される同胞が後を絶たないというのに。

 ともかく、「歩く」ことは特別の行為ではなく、木からお降りた(墜ちた)猿だった存在が、獲得した「二足歩行」こそが「人間の証明」であると見なされてきたのです。だから、歩かないことの方が異常なんですね。歩くことをしなくなれば、いったい何をもって「私は人間です」というのでしょうか、いえるのでしょうか。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。