生涯胡乱 これわが能。狂雲誰か…

 <卓上四季>役立つとんち とんち話で知られる禅僧一休が畿内堺の地に巡錫(じゅんしゃく)したころのこと。人目を引く朱(しゅ)ざやの太刀を手に闊歩(かっぽ)し、町の人に真意を問われた一休いわく、「これは木剣。世に横行する僧侶と同じで見掛け倒しである」。その肖像画に太刀を配する由来となった逸話だ(別冊太陽「一休」平凡社)▼一休は家柄を競い権威にすがる風潮に反発。寺を飛び出し庶民禅を実践した人だ。悟りに達したことを証明する「印可」すらも受け取らなかった反骨の僧らしい痛烈な皮肉であった▼その影響は17歳で参じた西金(さいこん)寺の謙翁宗為によるところが大きい。謙翁は幕府や世俗権力への接近を嫌い、名声にとらわれることなく、清貧に徹した。その心酔ぶりは謙翁の死後、一休が入水を図ったほどだった▼とんち話の大半は江戸時代の創作だが、一休が晩年を過ごした酬恩庵にこんな話が伝わる。死を連想するからと「し」を忌み嫌う男がいた。そこへ一休がなんと4匹の「かれい」を土産に訪問する▼「しかれいとは何事ぞ」と激怒する男に、これは「よかれい」と思ったと言ってのけた一休。不平不満を言うか、ありがたく思うのか。ものごとの受け取りようも心次第ということだろう▼市場原理主義が席巻し、新しい感染症が猛獣のように牙をむく現代。屏風(びょうぶ)絵の中の虎をも見事に退治したという一休にならい、「よかれい」の世とする知恵を絞りたいとら年である。(北海道新聞・2022/011/03)

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 初詣だとか、お宮参りだとか、この駄文では、なにかと抹香臭い話が続いています。だからというわけでもありませんが、本日は「一休さん」、コラム氏も書いておられるように「頓智(とんち)のいっきゅう」です。どうして一休さんと頓智が結びつけられたのか、いろいろな億説はありますが、まあいわば、後生の勝手なフィクションです、とも言えないところが一休さんの一筋縄ではいかないところかもしれません。その、単純ではないという人間把握のされ方がぼくには興味があるのです、一休宗純という僧に。まず生まれが天皇の子どもさんでした(確実にそうかどうか、疑問はある)。そこが他の坊さんとは大いに違うし、あるいは、この出生に纏わる因縁が一休さんを「難しい人」にしたのではないか、とぼく流の下司の勘繰りでもあります。常にないことですが、辞書を二種類だしておきます。一つでもいいのです、しかしこの場合はもう少し丁寧に、一休さんを知ってもらいたいんで、二つだしておきたいのです。そもそもの出生から始めるとなると、「一休論」を書かなければならないし、それなのに、ぼくにはそんな能力はない。というわけで、彼の履歴は辞書類に譲ることにして、本日は、ぼくの「愛読書」である「狂雲集」から、いくつかの漢詩を出すだけに留めておきます。

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◉ 一休宗純 (いっきゅう-そうじゅん)(1394-1481)室町時代の僧。明徳5年1月1日生まれ。臨済(りんざい)宗。後小松天皇皇子。6歳で山城(京都府)安国寺にはいり,27歳のとき華叟宗曇(かそう-そうどん)から印可をうける。各地の庵を転々とし,当時の世俗化,形式化した禅に反抗して,奇行,風狂の中に生きる。文明6年勅命によって大徳寺住持となり,入寺しなかったが,大徳寺の復興につくした。詩,書画にすぐれ,後世つくられたとんち話で知られる。文明13年11月21日死去。88歳。号は狂雲子,夢閨(むけい),瞎驢(かつろ)など。著作に「自戒集」「狂雲集」「一休骸骨」など。
【格言など】大機はすべからく酔吟の中にあるべし(「狂雲集」)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

 (右は奈良国立博物館所蔵「曲彔(きょくろく)に半跏に坐し、傍らに大きな朱塗の刀を立て掛けた図で、竹篦(しっぺい)を握って構えた一休和尚の表情にはどこか飄逸さが漂っている。大きな朱太刀も実は見せかけだけの竹光(たけみつ)であり、腐敗した武士への批判精神を表している。一休和尚の風貌は色白で面長な顔、一言ありそうな口元などの表情が若々しく描かれている。図上の賛は文安4年(1447)54歳であった一休の自賛で、一休着賛像では最も早い作例である。この像は成文音庵主のために描かれたもので、筆者は一休と親しかった墨渓(桃林安栄)と考えられている」:https://www.narahaku.go.jp/collection/505-0.html)

◉ 一休宗純いっきゅうそうじゅん(1394―1481)=室町中期の臨済(りんざい)宗の宗純は諱(いみな)で、宗順とも書く。狂雲子(きょううんし)、瞎驢(かつろ)、夢閨(むけい)などと号した。後小松(ごこまつ)天皇の落胤(らくいん)ともいわれ、6歳で京都安国寺の侍童となり、周建(しゅうけん)とよばれた。17歳で西金寺(さいこんじ)の謙翁(?―1415)に学、大徳寺の高僧で、近江(おうみ)(滋賀県)堅田(かたた)に隠栖(いんせい)する華叟宗曇(かそうそうどん)(1352―1428)の弟子となって修行、一休の号を授かった。師の没後は定住することなく各地を雲遊したが、1467年(応仁1)応仁(おうにん)の乱が起こると戦火を避けて山城薪(やましろたきぎ)(京都府京田辺(きょうたなべ)市)の酬恩庵(しゅうおんあん)に寓(ぐう)した。応仁の乱が鎮まった1474年(文明6)勅命によって大徳寺の第47代住持となり、荒廃した伽藍(がらん)の再興に尽くした。文明(ぶんめい)13年11月21日、酬恩庵で示寂。一休は、当時すでに幕府の御用哲学と化していた五山派の禅の外にあって、ひとり日本禅の正統を自任し、独自の漢詩文を駆使して禅の本質を芸術性豊かに歌い上げた。また大徳寺開山、大燈(だいとう)国師(宗峰妙超(しゅうほうみょうちょう))の法流をさかのぼることによって、中国の南宋(そう)禅林に孤高の宗風を振るった虚堂智愚(きどうちぐ)に私淑し、自らその再来と称した。彼は自らを「狂雲子」と号し、形式や規律を否定して自由奔放な言動や奇行をなしたが、その姿は当時の形式化、世俗化した臨済の宗風に対する反抗、痛烈な皮肉であったといえよう。晩年には森侍者(しんじしゃ)(生没年不詳)という盲目の美女を愛し、その愛情を赤裸々に詩文に詠んでいる。しかし、その実人生と文学的虚構の間にはいまなお多くの謎(なぞ)を残している。その徹底した俗心否定と風刺の精神は後世に共感を得、『一休咄(ばなし)』『一休頓智談(とんちだん)』などが上梓(じょうし)され、子供にも親しまれるようになった。詩偈(しげ)集『狂雲集』は著名。ほかに『一休法語』や『仏鬼軍』も彼の作とされる。大徳寺真珠庵と酬恩庵に墓があり、ともに自刻等身の木像が安置されている。[柳田聖山 2017年5月19日](ニッポニカ)

◉ 狂雲集(きょううんしゅう)=一休宗純(そうじゅん)の作品集の一つ。一休にはほかに『狂詩集』『自戒集』などがある。『狂雲詩集』が漢詩の集であるのに対し、『狂雲集』は(じゅ)、(げ)、などの集である。頌や偈は仏教の教えや自己の宗教的境涯を詠むもので、外形はまったく詩と変わらない。詩が情緒や感覚によって詠まれるのに対して、頌、偈は思想や精神の境涯が表出される。『狂雲集』には収録作品数の異なる11の諸本があるが、作品はすべて七言絶句である。内容は狂雲の名にふさわしく、自信と悔恨の間に揺れ動く激情と、飲酒(おんじゅ)・肉食(にくじき)・女色(にょしょく)の破戒と、偽善と腐敗を暴く非常識と、求道(ぐどう)の真摯(しんし)さとの、熱烈な精神に満ちている。(ニッポニカ)

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昨日俗人今日僧  昨日は俗人 今日は僧、
生涯胡乱是吾能  生涯胡乱(うろん) これわが能。 
黄衣之下多名利  黄衣(こうい)の下(もと)に名利(みょうり)多し、 
我要児孫滅大澄  我は要す児孫の大澄を滅せんことを。(87)
狂雲誰識属狂風  狂雲誰か識らん 狂風に属するを、
朝在山中暮市中  朝(あした)に山中にあり、暮には市中。
我若当機行棒喝  我もし機に当つたて棒喝を行ぜば、
徳山臨済面通紅  徳山臨済 面紅に通ぜん。(93)
愧我声名猶未韜  愧ず我れ声名なほ未だ韜(つつ)まず、
参禅学道長塵労  参禅学道 塵労を長ぜしことを。
霊山正法掃地滅  霊山(れいぜん)の正法(しょうぼう) 地を掃(はら)って滅びぬ、
不意魔王十丈高  意(おも)はざりき魔王の十丈高からんとは。(101)
狂風徧界不會蔵  狂風徧界 曾て蔵(かく)さず、
吹起狂雲狂更狂  吹き起す狂雲 狂さらに狂。
誰識雲収風定処  誰か識(し)らん雲収まり風定まる処、
海東初日上扶桑  海東の初日 扶桑に上(のぼ)る。((118)

(上の作品は「室町時代前期の禅僧,一休宗純(1394-1481)の肖像画である。多くの一休像の中で,最も生なましい印象を与える作品であり,日本の肖像画中,屈指の出来映えを誇る。画面上方の一休自作の賛を書いたのは弟子の墨斎である。かつて画像の作者も墨斎とされたが,そうではなく専門画家であろう。本図は,もともと60歳代以降の一休像の下絵として使われていたものを,墨斎筆の賛と併せて表装し,1幅の肖像画に仕立て上げた作品と推測される」東京国立博物館:https://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=dtl&colid=A10137&t=type&id=11)

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 最後の「海東の初日 扶桑に上る」はまさに、元旦の「初日の出」です。扶桑とは、この「神木」が多く植わっている(中国から見た東方)日本のことを指して言う(「古代、中国で日の出る東海の中にあるとされた神木。また、それのある土地。転じて、日本の異称」デジタル大辞泉)(参考文献資料は「白雲集」市川白弦校注・日本思想体系16「中世禅家の思想」所収。岩波書店)

 二百三十一首の、たったの四首で、何が分かるものか、と言われるでしょう。その通りです。じっくりと「狂雲集」を読むほかありません。これが一休の生前に出されたとは考えられないほど、内容は「破天荒」を究めていまです。もちろん、まとまったものとしては、ようやく死後に出された。いわば、一休さんは「帝国大学」出の優等生でした。その優等生が、彼の周りの同級生やその他を眺めまわして、あまりにも屑のような「名僧」「大僧正」がでかい面を、さらに大きくしているのをみて、お寺の世界に嫌気が差したのでしょう。木っ端微塵に罵っています。「黄衣(こうい)の下(もと)に名利(みょうり)多し」という。こんなふうに罵られている、今日の怪僧たちが「初詣」でも暗躍したのではないでしょうか。

 「狂雲」というのは一休さんの号でもあります。「狂雲誰か識らん 狂風に属するを」狂雲は狂風でもあるのだ、いつなんどき、どこで「吹き荒れる」か知れたものではないという。啖呵ですな。向かうところ敵なしだったのは、それだけ一休さんは、まっとうな「禅」を自覚・直覚していたからだと、ぼくは考えている。「狂風徧界 曾て蔵(かく)さず」「吹き起す狂雲 狂さらに狂」一休宗純の胸中には「僧の名を騙る偽物」「僧衣に隠した俗情」に我慢がならなかったという憤怒と嘆きの激情が渦巻いていたかもしれないのです。ぼくも俗物だから、その「俗物」をどこまで忌み嫌っていたか、「狂雲集」を熟読するばかりです。なるほどと、みずからの俗物性が手に取るように分かろうというもの、じつに奇妙ではありますが、これだけ「俗物性」を叩きのめされると、かえって気分がすっきりします。まさしく、一休さんの「棒喝」を食らったような痛快さがあります。つまり、一休さん自身は「聖俗の二つの世界」に融通無碍に行き交って、少しも破綻を来さなかった人でした。(左写真は大徳寺)

 時代は応仁の乱を挟んだ「狂風の時」だった。一休さんの言行には、誰も触れることのできない、奥深くに蔵された「謎」がありますね。「狂雲集」にもそれが垣間見えます。老人になってから、目の見えない女性(森侍者)との関係も書かれています。果たして、一休さんはなにを想って、これを漢詩に書いたか、ぼくには、まずわからないというだけです。嘘か真か、それを詮索すること自体が「狂雲」の罠にはまっていくという気もします。またそれがどうしたという、ぼく流の判断もあります。「破戒僧」というならどうぞ、という開き直りをはるかに凌駕した境地に一休さんは入っていたんでしょうね。その地点から見れば、「頓智の一休さん」には罪のない、「笑話」「逸話」とも取れます。厳粛を装った宗教界の「偽厳粛」を笑いのめしたという「一休」のひそみに倣って、庶民が留飲を下げるのに一役買った(利用された)という場面ではあります。これが流行ったのは江戸時代だそうですから、「川柳」「狂歌」に通じてもいるでしょう。

 例によって、この駄文には結論はない。一休宗純という一代の「自立した、しすぎた禅僧」の生きる姿勢には端倪すべくもない「波乱」が隠されているということは分かります。彼は、今風にいってみれば、帝国大学の教授にも学長・総長にもなれるだけの「才能」はあった、いや。あり過ぎたのです。応仁の乱後に、勅命を受けて「大徳寺の住持」になったが、寺には住まないで、寺の復興を為し度げ、その地位を辞しています。名誉心や虚栄心、あるいは支配欲に眩んだ魑魅魍魎たちの暗躍する暴力団は嫌だ、だから「総長」はご免だと言ったかどうか、彼には、坊さんたちが作り出している「世間」に生きるには、あまりにも厳しい自立心・批判力があり過ぎたのでしょう。寺というもの、坊さんというもの、そもそも、「禅」などという宗教に帰依するという「宗教人」そのものがどういうものかを、身をもって知らしめたのだ(というのも、憚られるほど)、そんな柔(やわ)な、あるいは生臭さを微塵も寄せ付けようとはしなかった、ひとり、「僧・俗」の世界に屹立していた人だったし、あるいは、その範疇を越えて存在していた、そんな生涯を送っていきながら、彼はひたむきに沈んでいったのです。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)