記憶の射程? いったい何です、その心は

 長く生きていると、いろいろな経験を重ねますし、あるいは、雑多な経験を重ねることが、そのままで、長く生きるということなのかもしれません。ぼくは「人並み」に生きてきたという気がするけれど、それは「勘違い」であって、あるいは人並み以下であったという方が当たっていそうです。ほんの少しばかり他者の生き方を見るだけで、もう「及び難し」という感覚に襲われますし、「敵ではないけど、天晴れ」という感嘆の声が出そうになることばかりでしたから。だから、自分の能力は「取るに足りぬ(指に足りなかったのは「一寸法師」でしたね)」という自覚が、はっきりとありましたし、いまも健在です。その足りない能力について、当然ですが、遥かにぼくを凌駕している他人を羨ましく見つめたことはない、まったくないと断言できる。羨ましければ、脳力・能力を鍛えればいいじゃないかというのが、ぼくの「生活信条(あるいは「言い訳」)」のようになってきました。おそらく小学生の頃から、です。そうしなかったのは、これも明確な理由がありました。根気がなかった、つまり、こころざしが欠けていたんです、それに尽きますね。さらに言えば、「測られる能力(学力)」に、深く考えもしないで、ほとんど「信・真」をおいていなかったとも言えます。

 人生の目標とか、こんな生き方をしたいという強烈な思いがぼくにはなかった。将来何になりたいと、小学生時代に文集などに書かされますが、ぼくは「なりたいもの」がなかった。ときどき「卒業アルバム」(どういうわけですか、これしか残っていませんでした)のクラス寄せ書きに、ぼくは意味が解らない言葉として「らしく」と書いていまっした。これは何年生だったかの担任の教師が黒板の上に「らしく」と墨書して額に入れたのを掲げていたのが、ずっと不思議だな、「らしくって、なんや」という疑問だけが育ったからです。この疑問が、少しだけ溶けたのは相当に立ってからでした(成人してからではなかったか)。

 これは今も昔も変わらない。この姿勢は一貫していたとも言えるのですが、他人から構われたくなかったし、他人を構いたくなかった。まあ、一言で言えば、自分勝手な人間でありました。時には、生意気で、不遜だと思われそうだったし、実際にそのように「正解」され、「誤解」されてきたのです、いつだって「あの人にできることは、自分にもできる」と、ずっと想定(愚考)ていました。学校の「勉強」は好きではなかった、いや嫌いでした。だから、「成績で一番」というような「ヤクザ」なことにほとんど関心も持たなかったが、「その気になれば、いつだって」という気概(生意気な態度)だけはあったと思う。ぼくにとって大切だったのは、「その気になれば」ということでした。でも、「学校の勉強」に関しては(もちろん、他のことにしても)、ついに「その気に」ならないままで、「後期高齢者」にさせられてしまいました。

 それでは一体、何に向かって「その気に」なろうとしたのか、しなったのか。(目指す目標)などというものは、一度も掲げようとは思わなかったし、だいいち、そんなことを考える暇もないほど、遊びに夢中だった。それはもうお分かりでしょ、この駄文・雑文の「狼藉の山」が明らかにしているのですから。ぼくは「物覚え」が極度に悪かったし、今もそれは治っていない、それどころか加速度的に悪化しています。この「狼藉の山」を細々と築こうとした、そもそもの動機が「加速度的に悪化する」、なけなしの「記憶の貯蔵庫」を点検するということでした。点検作業を始めたのは、二年前の二月末でしたから、やがて三年目。漫然と生きている人間に「今日の、この日」があるはずがない。さらに「山中に暦日なし」という中国の名僧の「至言」をぼくは、真に受けているのです。たまさか、日時を問われる時だけ、日常世界に連れ戻されるという塩梅です。(これはだれでもそうでしょうが、つまらないものを「覚える」のは苦痛以外の何物でもなかった。でも、他人には詰まらんものでも、興味があれば、何でもよく「覚えた」ものでした)

 ぼくの好きな落語に「三年目」という演目があります。少し色っぽくて切なくて、しかも人情の機微が流れている話です(往々にして、落語というのはそういうものでしょう)。若くして病気で亡くなった妻が、三年目に夫の「夢枕」に立つ。すでに夫は再婚していた。「初七日にはきっとくると、おまえは言っただろ、遅かったじゃないか」と夫が言う。亡き妻は、「私以外には嫁は貰わない」と誓ったのに、「あんまりじゃありませんか」と夫を詰(なじ)る、その「夢」に出たのが(死んでから)「三年目」だった。嫌味を言われた夫は、「何言ってるんだ、今来るか今来るかと、夜も寝ないで(昼寝して)待っていたんだ」と逆に文句をつけた。それを聞いて亡き妻は「あんまりじゃありませんか。死んだとき、私のことを丸坊主にしたでしょ。髪の毛が揃うのを待っていたのですもの」という、まあ「オチ」のような、そうでないような結末のものです。(ぼくがよく聴いたのは、五代目圓生さんですかね)

 「三年目」に意味があるのではありませんが、「石の上にも三年」と言います。(駄文を書くのも)三年くらい続いたら、なにがしかの「展望」というか、見通しが立つだろうと愚考したのです、もちろんぼくが、です。「人生の切り(限り)ですね。どうしたことか、本日、無駄なことながら、新たに「狼藉の山」に「瓦礫」を投げ込もうという魂胆を披歴いしたくなった。「碌(陸)でもない」もので、それでも一丁前に「記憶の射程」と偽名を名乗っておきます。その「射程」たるや、前後数メートル、つまりは、「過去ニ、三年」(あるいはこの先の二、三年ほど)が関の山というくらいに、先行きはないのです。いうなれば、「記憶の方丈記」というくらいに、狭い了見で生きている愚者の寝言です。賢人・大家は「回顧と展望」というのでしょうが、冗談ではない、ぼくには回顧すべき「過去」もなければ、展望すべき「将来」もないのです。だから、そんな「上等」なものではありません。つまりは「向こう見ず」そのもの。出たとこ勝負とも言いますが、この勝ち負け(というのも変ですが)には、すでに結果は見えています。「竜頭蛇尾」という域(粋)にも至らない要領の悪さです。

 「面壁九年」ともいいます。達磨さんの「ひそみ(顰)に倣う」などは荒唐無稽であり、ここに持ちだすのは言わでものこと、相も変わらずその日暮らしを、飽きもしないでくりかえすばかりです。駄文・雑文ではありますけれど、ぼくには「粗食(朝餉)」というものも、果報な「ご馳走」の見立てでもあるのです。「ご相伴」に与(あずか)ってくださる方がいるとするなら、滅相もない(extravagant)ことです。「石の上に三年も座っていれば、さすがの石だって温まるのだ」というようです。ぼくの「石」は貧相な椅子ですけれど、それはすでにいくつかのネコたちに「占拠されて」、ぼくは温める場所もないのです。どうします?ぼくはどうした加減か、雪舟筆の「慧可断臂図」を部屋の片隅に掛けています。鬼気迫る、そんな気がしてきます。「慧可」というお坊さんは凄い人だったようです。(何時か、駄文の中で触れてみたい)(右は伊藤若冲筆「達磨図」)

 以上、まずは「瓦礫」投棄の「前口上」のつもりです。

(ヘッダーの写真は「慧可断臂図(えかだんぴず)」雪舟筆紙本墨画淡彩 199.9×113.6 室町時代(1496) 愛知 斎年寺 国宝)(「禅宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、慧可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。リアルにあらわされた面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出している。77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地がここにあらわれているとみるべきであろうか。なお本図は、幅裏の墨書から、雪舟没後まもない天文元年(1532)、尾張国知多郡宮山城主・佐治為貞によって斎年寺に寄進されたことが知られる」京都国立博物館(https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/suibokuga/item06.html)

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 あなたが最近、訪れたスポットはここです

 【明窓】 極めて便利なツールだが 電車やバスに乗った時、周囲を見渡すと、8割方の人はスマートフォンに見入っている。ニュースサイトを見ている人、ゲームやメールをしている人…。ちょっとの間なのだからスマホから目を離せばいいのに、といつも思う▼いわゆるガラケーからスマホに替えて1年になる。電話とメールができればいい、と思っていたし不便も感じなかったが、通信費が安くなるからと娘が格安スマホに替えてくれた。使ってみるとその便利さに驚く▼年のせいで人の名前が出てこないことが多いが、ちょこっと調べるとすぐに出てくる。以前はかばんの中にカメラ、録音機、ラジオ、懐中電灯などを入れていた。しかしスマホがあれば、これらをばらばらに持つ必要はない▼読書、ゲームもできるし、新聞も読める。買い物もできるのだから、1人になるとスマホを使いたくなるのは理解できる。しかし、興味があるサイトを開くと、関連したコマーシャルがどんどん画面上に出てくる。つまり個人情報がある意味ダダ漏れになっていることを忘れてはいけない▼歩きスマホをしている人も多く、ぶつかりそうになることも。ましてスマホを見ながら自転車を運転するなんて自殺行為だ。ナビ機能の位置情報を最近はオフにしている。「あなたが最近、訪れたスポットはここです」という案内など余計なお世話だ。自分の行動が誰かに把握されていると思うと怖い。(富)(山陰中央新報デジタル・2021/12/18)                                     (ヘッダー写真は<https://arch.gatech.edu/tokyo-smart-city-studio>から)

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 週替わりのメニューのように「内閣支持率」が報道される。飽きもしないで「よくやるね」というのが、ぼくの没感想(愚感)です。どうしてこんな無粋な情報にもない情報以下を垂れ流すのか。紙面構成の都合なんですかね。「この内閣を支持する理由は?」に「ソーリ大臣の人柄が信用できそうだから」(知りもしないで、さ)。反対に「この内閣を支持しない理由は?」「人柄が信用できそうにないから」、ひょっとして、これは同じ人が応えてるんじゃないのと、いつも思う。「信用できそうだから」が三日ももたないのですから、こんな調査が「信用」できないと、誰だって、そのよう受け取るでしょう。だから、ぼくは「世論調査」というものを端(はな)から信用していない。不信・不審しか持たないのは、政治家・官僚の国会答弁や、官庁の「統計資料」と同じです。嘘八百であり、偽造であり虚偽であるからです。だから、これをぼく流に言いかえると、「世論調査」は「世論操作」となります。「調査は操作」なんだ。欧米では遥かの昔から、この手の報道で政治が動いていました。「まさか、これが、世論操作?」と疑い深いのは、初心(うぶ)なんてものじゃない、立派な「すれっからし」の列島民だけですよ。「知ってるくせに」、ですね。「さまざまな経験をして、悪賢くなったり、人柄が悪くなったりしていること。また、その人。すりからし」というのは「デジタル大辞泉」です。こんな政治が続けばどうなるか、先刻承知で、明けても暮れても「◉✖党」に名を成さしめてきました。こんなもんでしょ、という「すれっからし」の選挙結果です。

 物事には表があるのだから、裏もある。裏だけ、表だけということは一切ないのが道理です。人間も同じ。「腹」もあれば、「背中」もある。あるいは「腹」と「背中」は元来は同じだったが、いろいろと不便・不都合が生じるようになったので、たがいを区別するようになったのかもしれない。「おへそ」のあるところが表であると決めたんですよ。その証拠に、ぼくはこれまでに何度も、落語で「へそが背中に回った、お里帰りしたよ」というような話を聞いたのですから。やがて、そのようなところから、「背に腹は代えられない」という俚諺が生まれた、きっと。(この「ことわざ」も意外に難解ですね。意味は不明瞭です。腹には「五臓六腑」があって、大事なところ、背中は肋骨や背骨で守られているから、丈夫だとか、まるで頓智のような解説が定番です)「余人をもって代えがたい」というのと同じようなことじゃないですか。要するに、表もあれば裏もある、本音も言うが建前も忘れていない、これもそうでしょ。「あんたの考えはどっちや」ときかれ、「一括現金給付もあり、です」と言ってみるが、最初は「半分は現金、残りはクーポン」の方針は譲れないと言っていた御仁だ。「人柄が信じられそう」「人柄が信じられへん」、誰が見ても、そういう矛盾したこと(受け止め)が生じるのは当然だね。

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● せ【背】 に 腹(はら)はかえられぬ=同じ身体の一部でも背と腹をとりかえることはできない。大切なことのためには、他を顧みる余裕がないことのたとえ。大きな苦痛を避けるためには、小さな苦痛はやむをえない。背中に腹はかえられぬ。背より腹。(精選版日本国語大辞典)

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 「明窓」氏を、あなたは「信じられる?」「信じられない?」、どちらですか。「ガラケーでいい」と言っていたのに、反対に「利用料と便利さに、もう手放せない」と宗旨替えをいわれる。何でここに「娘」が出るん? いずれにしろ使うと便利だ、というところで口を閉じればいいのに、しかし「個人情報がある意味ダダ漏れになっていることを忘れてはいけない」とか「自分の行動が誰かに把握されていると思うと怖い」と仰る。阿保か、と言いたくなりますな。「ある意味ダダ漏れ」も、「誰かに把握されている」というのも、そもそものネット社会であり、「情報化」というもんでしょ。でも、この「明窓」氏と同じように、いろいろ御託を並べてはいるけど、結局は時代状況、流行に「どっぷりつかっている」のは「ええ気持ちや」という風潮です。「茹でガエル」の教訓ですね。実際に、「蛙をゆでた人」がいるんでしょうね、蛙はそうだけど、人間は違うと言いたいのですが、どうですか。

 ぼくは若い頃には「行動心理学」(学習理論)とやらを齧っていたことがありました。その領域では、実験に「モルモット・ネズミ」を使う場合が多かった。特に「学習」「記憶」などの問題を研究するのに、生の人間を使うわけにはいかなかったので、いつだって「ネズミ」だった。それでネズミ実験の結果が、直ちに人間に適応されることがほとんどで、「学習心理学」は出来上がっていたのです。今だってそうですね、ワクチンの動物実験など。それを称して「人間のネズミ化」といった学者がいました。「ratfication」そこには、サルやネズミなどと人間の「同一視」が厳然とありました。それを可笑しいとは、大半の研究者は言わなかった。(これについてはもう少し詳しく述べる必要がありますが、今回の主題ではない。いずれにしても、話は逸れました)

● ゆでガエル世代=1957年から66年生まれの50代ビジネス・パーソンを表す言葉。カエル常温の水に入れ徐々に熱すると水温変化に気が付かず、ゆで上がって死んでしまうという寓話と50代ビジネス・パーソンの置かれている状況が似ていることから、日経ビジネス誌が命名した。この世代の会社人生はバブル経済到来と共にを開けた。しかし、数年後にバブルが崩壊し、その後もITバブル崩壊やリーマン・ショックなど危機が幾度も訪れた。同誌はこの世代を、安泰に会社員生活を終えられると考え厳しい現実から目を背け続けていたために、50代になった今、過酷な現実を突きつけられ、ぼう然自失となっていると分析している。(2016-9-6)(知恵蔵min)

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 「あったら便利」だからと、ほとんどの人はスマホや携帯を所持されています。あったら便利の反対は「なかったら不便」というのでしょうか。ぼくにはそうは思えない。ある人には「あったら便利」でも、別の人には「なくったって構わん」ということではないでしょうか。ぼくは「あったら便利」という観点で、物事をとらえない人間です。むしろ、「あったら不便」という判断基準があるんですね。あえていうなら、「何ですか、あったら便利?」「そうだな、お金かな」「それで困っている人を少しでも助けられるやん」という程度。ところが、世間の人は「あったら便利」という観点で「お金」をとらえていないでしょ。「ないと困る」という切羽詰まった気持ちがあるから、こコンビニで、ドスを突き付けて、「黙って、金出せや!」という仕儀になるのですよ、きっと。(ほんとに「黙って金出す」店があるんですね)携帯やスマホがなかったら、生活できないというのは、ウソだと言いたいね。「決して、切羽詰まらない」これは、まるで「(他人に誇れる。自慢できる)学歴」の有無と似ていますね。高卒や大卒の学歴がないから生きていけないということは、まずありません。反対にその学歴があるから「生きていけます」ということにもならない。「あったら便利」、そんな程度や。役に立たないけどね、スマホほどには。つまるところ、「あっても不便や」です。

 これはどういうことですか。ぼくには、「これがぼくの学歴です」というほどものもなかったし、「家柄」とかいう「江戸の名残」「封建の遺物」なども微塵もありませんでした。だから「生きていけなかった」とは言えないようで、まあ、「死なない程度には生きてこれた」と思っています。スマホと学歴は似た者同士。まず見栄え(偏差値と型式)、相場が高いか安いか(ブランド・無印)。多機能かどうか(就職や婚活に有利か・通用範囲が狭いか)、あるいは「スマホとカバンや靴」、「スマホと時計」、なんだか似た者ばっかりが、この世で「ちやほや」されているようです。靴やカバンや時計なんて、ぼくには最低限度の必要性も(しか)ないものばかりです。その他、いくらでも類似点を示せますが、バカバカしいので止めておきます。いかにも「学歴」に似ている。「学歴は身分なり」という、信じがたい迷妄に弄ばされてきたのが、この島社会だったでしょうね。今も、余韻というか余波、いや、残滓(ざんし)が蔓延っています。

 「極めて便利なツールだが…」、ぼくは持ったことがないし、持とうという気もない。所有無用、まったく要らないからです。以前には、かみさんが盛んに「持ちなさいよ」と脅迫してきた。その理由を聞くと「あなたが持てば、私が助かる」だった。なんじゃそれ?と呆れました。かみさんの「便利のために」、何でぼくが携帯やスマホを持たなあかんのと、一貫して拒否しています。しかし、そんなことを言っているうちに、何でもかんでも「携帯」「スマホ」を使わなければ生きていけない時代になってきた、いやそんな環境を一生懸命に作って来たし、これからますますそうしようというのが「経済」という名の「金の亡者ども」の企みなんでしょうね。それを称して、smart city だってよ。やがて、スマホや携帯を持たない人間は「不所持」の罪を着せられることになりそうです。甘んじて「罪を被る」というのではなく、断じて、ぼくはそんな「冤罪」は認めませんよ。

 学歴差別というものが現実にある社会は「貧相な社会」「恥ずかしい社会」だし、この島は確かにそういった社会状態ではあったと言えます。「何かを持つ」「持たない」で人間の値打ちを「量る・測る」社会には、ぼくは住む気もないし、断じて抵抗したいですね。何d化、「量り売り社会」だね。断じてという意味は、その「何かを持たない」という姿勢を貫くということです、ささやかな風を吹かせながら。(こんなのを「年寄りの冷や水」というのですか。(冷や水がいけないなら、温(ぬる)めの燗(白湯)がいいよ)「学歴フィルター」をかける企業があるとして、そんなとこに「入る・入ろう」とすること自体がナンセンス。そんな意気地なしで、どうします。「持ち物」で差別する企業が、どんないいことを言ってもしても、それは「表向き」でっせ。ぼくはいくつかの企業を、いくらか知っていましたが、「アカン企業やった」な。例えば T 芝だとか、H 立だとか、M 菱だとか。「フィルター」そのものが。とっくに「目詰まり」を起していました。汚染された空気(風)が「社風」になっていました。そんなのが「一流」なら、この社会は「終わってまっせ」と受け止めていたね、もう数十年前のことになりますが。(以下の表は:https://money.rakuten.co.jp/woman/article/2021/article_0279/)

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 「日日是好日」を貫く、それはなんなのでしょうか 

 【有明抄】2人の命日に「今」を思う 今夏開かれた「相田みつを全貌展」には「没後30年」の副題がついていた。30年前のきょう12月17日が命日。67歳だった。「つまづいたっていいじゃないかにんげんだもの」「一生勉強一生青春」などの作品を思い出す◆寒さが厳しさを増す時季の死去。ふと思い出して調べるとやはり…。この欄を担当していた大先輩の(徹)さんの命日が12月19日だ。享年55。突然の訃報が信じられなかったあの日から、もう21年になる◆悲しいことだが、誰にでも必ず「あした」がくるとは限らない。相田さんの生涯も長かったとはいえない。だからこそ「今」を大切に生きなければならない。相田さんの作品で、もう一つ心に残るのは「しあわせはいつもじぶんのこころがきめる」。幸せの定義は人それぞれ。今はつらくても「生きていてよかった」と思う日が来るだろう◆「日日是好日」という言葉がある。「にちにちこれこうにち」「にちにちこれこうじつ」などと読み、毎日をよき日として過ごすことが大切、と解釈される。日常はほぼ同じことの繰り返しだが、コロナ下で、同じ日を繰り返せることが幸せと思わされた◆21年前のきょう、(徹)さんの最後となった有明抄は落語の「芝浜」を題材に、夢に浮かれないようにと説いた。何かとせわしない師走だが、一日一日を大切にと気合を入れ直す。(義)(佐賀新聞 Live・2021/12/17)

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 数日前にも「相田みつを」さんに触れました。今なお、さかんに「展覧会」が各地で開かれています。没後三十年といいますが、いよいよ「盛名」は遍(あまね)く馳せるという感がします。しかし、これは存命していたみつをさんとは無関係です。そのいい悪いをいうのではありません。「死して名を遺す」人もいれば、「死に先立って名を遺す」人もいます。あるいは「生前」も「死後」も名を残さない人もいます。こ場合の「名」とはどういうことでしょうか。ぼくにはよくわかりません。どんなものにも「名」がありますから、あえて「名を遺す」などという必要もなさそうですのに。生きた証を「名」というのでしょうか。それが「名」であるなら、残すのは当人ではなく、関係者でしかありません。これを「顕彰」というのかもしれない。ぼくにはよく理解できません。この地上には「遺(された)名」ばかりが立てられています。それがお墓であったり、石碑であったり。残された人たちの仕業です。それの「是非」はともかく、です。

 「誰にでも必ず『あした』がくるとは限らない」と、コラム氏は言われます。「今やりたくない、あしたにしよう」「あした逢おうか」という、その「あした」が来るとは限らないというのでしょうが、どんな人だって、何時までも「あした」が来るとは言えないのが「人生」「生涯」ですから、生あるものには、きっと、必ず、不可避に「あした」は来なくなると言うべきでしょう。 これの「表現」はともかく、です。

 このコラム氏の文章を読んだ際に、ぼくは、親鸞さんの作と言われる「明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」というのを想起しました。これは比叡山の座主だった慈円のもとに「得度」を願い出たとき、慈円は「今夜はもう遅い、明日にしよう」といったのに対して、親鸞が答えたものとされている(もう少し、曲折。尾鰭(おひれ)があるのですが、今は触れない)。この時、親鸞は九歳だったという。よく「法事」で聞かされる親鸞の「お言葉」に「散る桜 残る桜も 散る桜」がありますし、「朝に紅顔ありて夕べに白骨となる」(これは親鸞の言葉でなく、「和漢朗詠集」にあるもの)があります。いずれも「「行く川の流れは絶えずして…」というようなもので、いのちの「儚(はかな)さ」「移ろいやすさ」を言うのでしょう。(昨日、大阪の中心街にあるクリニックで「放火事件」がありました。「あした」のための「心のケア」に通院されていた方々が多数亡くなられました。合掌するのみ)(左の写真は「お寺の掲示板」。右上も:https://diamond.jp/articles/-/282515)

● 慈円 じえん=1155-1225 平安後期-鎌倉時代の僧,歌人。久寿2年4月15日生まれ。藤原忠通(ただみち)の子。九条兼実(かねざね)の弟。天台宗。覚快(かくかい)法親王の弟子となり,明雲(みょううん),全玄にまなぶ。4度天台座主(ざす)に就任したほか,無動寺検校(けんぎょう),四天王寺別当などをつとめる。大僧正。「愚管抄」をあらわして公武協調を主張。歌が「新古今和歌集」に92首のる。家集に「拾玉集」。嘉禄(かろく)元年9月25日死去。71歳。法名ははじめ道快。通称は吉水僧正,無動寺法印。諡号(しごう)は慈鎮。【格言など】おほけなく憂き世の民におほふかなわが立つ杣(そま)に墨染の袖(「小倉百人一首」)(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 日々是好日といいます。「毎日がいい日です」ということのようです。いや、どんなにいいことがあった日でも、どんなに辛いことがあった日でも、禅の世界(教え)では、寸分の違いも(差)ないという意味だそうです。「絶対」「真言」という見地からすれば「五十歩百歩」ということでしょうか。身長が百五十センチであろうが、百八十センチであろうが、別の尺度(無限)からすれば、どっこいどっこい。生きていることが「好日」だというのかもしれません。これは素人向けの「箴言」ではなく、プロ僧侶のための「諭し」でしょうね。同じようなことを、良寛さんはこう言いました、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく、死ぬ時節には死ぬがよく候」と。良寛さん、そんなもんですかなあ、と一言したくなりそうですが、しかしあたふたしても始まらない、いっそのこと、「どうなとなれ」「好きにさらせ」という心持も(いや、むしろ「捨て鉢」か)、また大事ですよということでしょうか。ぼくなんか、何時まで経っても「日日是口実」ですなあ。ここで、「芝浜」について一席、ご機嫌を伺いたいのですが、お日柄がよろしくなさそうですので、日を改めて。(右上は東浦奈良男さん)

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● 日日是好日=来る日も来る日も、楽しく平和なよい日が続くこと。一日一日を大切に生きる心構えをいう。[使用例] 普通にでいうところの虚空的な心の自由が得られて、日々これ好日の生涯を経るという程度の幸福なら、格別欲しくもなかった[岡本かの子*宝永噴火|1940][使用例] 一切の社会的罪悪から脱して、日々是好日の世界に暮して居ることを、自覚せよとの警示である[久保田万太郎*にわかへんろ記|1953][由来] 「碧巌録―六」に出て来ることば。九~一〇世紀、唐王朝が滅びる前後の時代の中国に、うんもんぶんえんという禅僧がいました。彼はあるとき、弟子たちに向かって、こんなことを問いかけました。「夏の修行が終わる七月一五日までのことは問題にしない。その日以後のことを、一言で言い表してみよ」。そして、弟子には答えさせないまま、自分で「日々是好日(毎日がよい日だ)」と答えた、ということです。[解説] ❶「碧巌録」は、禅問答の書物ですから、このお坊さんが何を言いたいのか、一般人にはよくわからないのも当然です。ただ、禅の無の境地に達すれば、どんなにいいことがあった日でもどんな災難に見舞われた日でも、なんら違いはないのだろうと思われます。❷だとすれば、「日日是悪日」でも、結果的には同じことになるはず。それを上向きに「好日」と表現しているところが、このことばが広く愛されてきた理由なのでしょう。「毎日をありがたく生きていく」といったニュアンスで用いられます。❸「日日」は、禅の世界では「にちにち」と読むのが習慣ですが、故事成語としては「ひび」とも読むこともあります。(故事成語を知る辞典)

HHHHHHHHHHHHH

 ある人の本を読んでいたら、「捨てるだけ強くなる。得られる。自由になれる。捨てただけ強くなる」とありました。この言葉の主は「東浦奈良男」さん、故人です。会社を定年退職した翌日から「一万日連続登山へ挑戦」された方。(近々、この方のことについて書いてみたい)人はどうして「千日行の十倍の修業」を求めるのでしょうか。これが「日日是好日」というものなのでしょうか。東浦さんは退職の日の日記に「自由」と書かれていたと言います。(左は「山と渓谷」2007年1月号)一万日とは二十七年五か月弱です。何故、「毎日登山」を一万日もか、と聞かれて、「①両親に話す、冥土へのお土産 ②供養と償い ③奥さんへのプレゼント」と答えた。こういう人が、実際に存在されているんですね。表向きの理由はそうかもわかりません。しかし、この異様な「毎日登山」に駆り立てるもの(情熱)は、彼の身中に燃え滾(たぎ)っていた、その熱源は何だったのか、ぼくは、恐ろしくなるほどの執念(信念ではなく)を感じるのです。

 歩く人、走る人、そして登る人、今の時代だからこそ、身一つで、わが身を動かすことに集中する、そんな時代でもあることを、ぼくは教えられています。我が身一つで、あるいは、裸一貫で。それを「孤独」「孤立」というなら、どうぞ。その「信念」というか「執念」というものを支える柱はどのようにできているんでしょうか。中から育つのか、あるいは、外からいただくのか。

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●千日回峰行=天台宗総本山・比叡山延暦寺に伝わる比叡山の山中などで行われる荒行。平安時代から続いている修行で、比叡山の礼拝場所などを巡り約4万キロを歩く。修行700日を終えた後には9日間、食事や水を断ち不眠不臥(ふが)で不動明王真言を10万回唱え続ける「堂入り」を行う。これを終えた行者は「當行満阿闍梨(とうぎょうまんあじゃり)」と称され、生き仏として信仰を集める。その後2年間修行を続け、すべての修行を終えるまで7年間、1000日を要する。2015年10月21日未明、同寺一山善住院の釜堀浩元住職が、8年ぶり・戦後13人目となる「堂入り」を終えた。(知恵蔵mini)

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 「はい、終わり」「ふざけんなって思いました」

 【余録】日本全土がバブル景気に沸いた1980年代末、大阪市役所で乱脈経理が問題化した。公金を私的な飲食に使っていた中堅幹部が逮捕され、裏金作りや職員同士の飲み食いが日常化していた実態が明るみに出た▲市民団体が返還を求めて提訴し、市側と争ったが、5年後に突然、裁判が終結する。被告全員が請求を認める「認諾」の手続きを取り、全額を返還したためだ。退任した前市長への尋問が3日後に予定されていたが、中止された▲似た構図ではないか。「森友学園」問題で財務省の決裁文書改ざんを苦に自殺した赤木俊夫(あかぎ・としお)さんの妻が損害賠償を求めた裁判。国が事前通告なしに認諾して審理が打ち切られた。お金ではなく真相が知りたいと訴えてきた妻、雅子(まさこ)さんが「ひきょう」と憤るのも無理はない▲高い壁が指摘される国家賠償裁判では、冤罪(えんざい)の元死刑囚への賠償さえはねつけられてきた。国が責任を全面的に認めるのは異例である。赤木さんの上司らが証人尋問に立つのがそれほどいやだったのか▲「他人の財産で寛大さを示すのはたやすい」はラテン語のことわざという。1億円余の賠償金は国民の税金である。鈴木俊一(すずき・しゅんいち)財務相は「国の責任は明らか」と語ったが、上司が改ざんを指示した動機も明確ではない。国民が納得できる説明が必要である▲「森友学園」に絡む不誠実な答弁は国会の場で繰り返された。国会の役割も終わっていない。再調査を求める雅子さんの手紙を「読んだ」という岸田文雄(きしだ・ふみお)首相の対応も問われる。(毎日新聞・2021/12/17)

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【水や空】幕引き「心からお悔やみを申し上げる」と大臣が目を伏せた。「できる限り丁寧に対応してきた」のだという。だが、少しもそんな印象を受けない。高額の損害賠償請求を主張の通りにそのまま認められた原告は、それなのに「ふざけんな」と吐き捨てた▲それがすべてを象徴している。裁判の目的はお金ではなかった。その人はなぜ死を選ばなければならなかったのか-望んだ答えは何一つ示されないままだ▲森友学園の国有地売却を巡る財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを強いられたことを苦に自死した近畿財務局職員の妻が国を相手に起こした裁判が、国側の「請求認諾」で唐突に終わった▲国側は認諾の理由で、職員の自死の原因を〈…決裁文書の改ざん指示への対応を含め、さまざまな業務に忙殺され、過剰な負荷が継続した〉などと説明している。「含め」はおかしい。それこそが本質なのだから▲裁判の長期化は適切ではない-と言う。しかし、誰の意向がどう働いて改ざんに至ったのか、その経過が明らかにされるために時間を要したとしても、私たちはそれを〈いたずらに長引く〉とは呼ばない▲「はい、終わり」と声が聞こえる気がする。違う。一方的な幕引きは誰の決断なのか、幕の向こうに隠れたのは誰なのか。まだ、何にも終わっていない。(智)(長崎新聞・2021/12/16)

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森友公文書改ざん巡る国賠訴訟 国側が赤木さん側の請求を認めて終結

写真・図版

 学校法人森友学園大阪市)への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを強いられ、自死した同省近畿財務局職員の赤木俊夫さん(当時54)の妻・雅子さん(50)が国に損害賠償を求めた訴訟は15日、国側が雅子さん側の請求を受け入れ、終結した。国側は請求の棄却を求めていたが、一転して賠償責任を認めた。雅子さんの代理人弁護士は「改ざん問題が追及されることを避けるため、訴訟を終わらせた」と批判した。/ 雅子さんの代理人弁護士によると、国側の代理人がこの日、大阪地裁であった非公開の訴訟手続きで、約1億700万円の損害賠償を求めた雅子さん側の請求を「認諾する」と伝えた。認諾は、被告が原告の請求を認めるもので、裁判所の調書に記載されると、確定判決と同じ効力を持つ。(中略)

 雅子さんは訴訟で、ファイルの内容などを踏まえ、同省が俊夫さんの抵抗にどう対応したのか、国に明らかにするよう求めていた。/ 雅子さんは記者会見で「なぜ夫が亡くなったのかを知りたいと思って始めた裁判。お金を払えば済む問題ではない」と話した。/ 国を訴えた訴訟の終結に伴い、今後は、佐川氏に550万円の損害賠償を求めた訴訟が続くことになる。/ 鈴木俊一財務相は15日夕、報道陣の取材に応じ、「国の責任は明らかとの結論に至った」などと説明。「公務に起因して自死という結果に至ったことにつき、心よりおわび申し上げます」と謝罪した。(米田優人・2021年12月15日 22時50分)

 国が請求を認諾する理由(裁判資料から)原告の夫が、強く反発した財務省理財局からの決裁文書の改ざん指示への対応を含め、森友学園案件に係る情報公開請求への対応などの様々な業務に忙殺され、精神面及び肉体面に過剰な負荷が継続したことにより、精神疾患を発症し、自死するに至ったことについて、国家賠償法上の責任を認めるのが相当との結論に至った。/そうである以上、いたずらに訴訟を長引かせるのは適切ではなく、また、決裁文書の改ざんという重大な行為が介在している本事案の性質などに鑑み、原告の請求を認諾するものである。(https://www.asahi.com/articles/ASPDH5G3QPDHPTIL029.html)

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 正真正銘の国家官僚の「犯罪(公文書改竄等)」でしたから、その「非」「曲」は、当然国家当局にあり、その責任が、白日の下に、問われるという構図でした。犯罪事実に関しては検察当局は、だれひとり起訴していません。やむを得ず、原告(赤木雅子さん)は国家賠償責任を問うという「民事裁判」に訴えたのが昨年でした。原告が求めてきた「事件真相解明」のためのもろもろの文書の公開などに対しても、改めて事件の経緯を含めた「当局による調査」なども、ことごとく否定されてきた果ての裁判でした。結果は「原告の請求を認諾」というもので、全面的に国家当局の「不正」「犯罪事実」を認めたことになります。しかし、果して、この裁判の結果は、原告が求めてきた「事件解明」の何ほどを満たそうとしたか。

 問題の発端は「総理大臣の側」にあった。しかし、事態は一省庁の、官僚の問題にされてしまい、さらには下級官僚に責任がさげられてきました。それすら、誰一人「責任を問われる」という問題には、なんら結び付けようとはされなかった。財務省の一職員の「自死事件」だったから、財務大臣の「最高責任」が問われたはずなのに、それすら肩透かしをくらわし、結局は「損害賠償額」を満額認めただけであったということになります。これはどういうことか。面倒くさい問題(公文書改竄の真相)は脇に置いて、要求されている(賠償金)を払えば、誰も傷がつかないで「丸く収まる」「全員一両損」とでも考えていたのだろうか。総理大臣の「椅子」を守るため、財務大臣の「椅子」を守るため、省局長の「椅子」を守るため、その他、もろもろの「椅子」を守るためなら、一億数千万円は「溝(どぶ)に捨てても惜しくない、はしたがね」と判断したからにほかなりません。

 ぼくは「国家」というものをまず信じていません。これまでもまったく信じてこなかったし、これからも、です。あらゆる社会組織(集団)というものは、規模の大小を問わず、人間個人にとっては外側的なものだということ、これをもっとも典型的に示しているのが「国家」でしょう。国家の非常時、例えば戦争状態になると、否応なく「兵隊」に駆り出されてきたのが民衆(庶民)です。そのような戦争で「戦死」「戦傷」を余儀なくされても、さらには空襲被害がどれだけあったとしても、国家は、自分の都合で「責任」を誤魔化してしまいます。あるいは帳消しにしてしまう。このことに加えて、ぼくには「成田空港」の問題が大きく影を落としています。「この地を飛行場にするから、農民どもはどけ」という、滅茶苦茶な理屈で、権力を行使してきたし、今もしています。農民を追い出すために「土地収用法」などというとんでもない法律まで駆使しての蛮行でありました。ぼくは成田空港から飛行機に乗ったことがありません。

 今回の「森友学園事件」というのは、まさしくそのような、横暴極まりない権力が起こした事案でありながら、その最高責任を問うとなると際限なく拡大するから、いっさいを誤魔化し、水に流し、挙句の果てには、権力者が座る「椅子」の責任にして、当事者どもは雁首揃えて逃走(トンずら)を図ったのです。イの一番に責任を問われるべき「総理大臣」はこの件に関しては「嘘八百」を並べて「一切、無答責」をごり押ししてきました。それが嘘であるということは、当人を含めて、誰一人疑うものはいなかったのではないか。その次のポストの「財務大臣」も「無答責」とはいえ、部下たちの「改竄の事実」は認め得ながら、その責任者の名を特定しないままでした。仮に「あれの責任です」といったとたん、事件は一気に「頂上まで行く」という構図が出来上がっていたのでしょう。ケースは似て非なるものでしたが、ニクソン大統領の驚くべき権力行使は「大東慮辞任」で幕が下されました。

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 「他人の財産で寛大さを示すのはたやすい」(「余録」からの引用)「国の責任は明らか」「心からお悔やみを申し上げる」「できる限り丁寧に対応してきた」(財務大臣)この事件発覚以来、何番目かの某大臣は「税金で寛大さを示した」のではないでしょう。「悪銭身につかず」ですが、並みいる悪辣な官僚・政治家どもは、「税金」をそのような呼び名に変えてまで、人民への尊厳をいたぶる、人民の名誉を弄ぶ、それが国家というものだし、その国家を動かしているのが、有象無象の「権力者」とその亡者たちです。彼や彼女だって、いったん事が起これば、「弊履の如く棄てられる」運命にあるから、結局は「もろもろの椅子」、それだけが「ご本尊」ということになります。実に、権力構造はお粗末君ですが、国家というものの正体はそれ、一つの機関であり、組織であり、集団であり、個々のメンバーはつねに替るけれども、この機関そのものは替らない、その「未来永劫に続く」と錯覚されている「機関」を護持するために、さまざまな責任が隠され、不問に付され、曖昧にされ、結局は「無責任」の連鎖が出来上がってしまうのです。

 「国家無答責の原理(法理)」というものが、かつてありました。戦争被害などを問われても、国家には賠償責任を追及されないという、勝手な「法理」でしたが、戦後に「国家賠償法」が導入されて以来、この法理はなくなったと思われてきました。しかし、現実には「法理」というのも建前で、直接に「当局の構成員」に対して責任を問えないことが今回の裁判でも明らかになったのです。いつまでたっても「三百代言」は消滅していないのです。

● こっかむとうせき‐の‐ほうり〔コクカムタフセキ‐ハフリ〕【国家無答責の法理】=国の権力行使により個人が損害を受けた場合でも、昭和22年(1947)国家賠償法施行以前の行為であれば国は賠償責任を負わないとする原則。(デジタル大辞泉)

 要するに、どこでも見られる、見飽きた景色、それも、実に醜悪な「殺風景」でしょう。「国家」というものは、時には「箸にも棒にも掛からぬ」という代物です。その「こころ」は「恥も外聞もない、厚顔無恥の権化」で、「何とも取り扱いようがない、手がつけられない」という危険極まりない機関なんですよ。その機関を動かしているのは、性悪の人間たち(政治家・官僚)なんですが、ついには「機関」そのものが裁かれるという「茶番」を、ぼくたちは嫌になるほど見せつけられてきたのです。自動車が人を轢いたが、運転手は裁かれずに、その自動車が「無期懲役」を科されるという、実に愚かしいことが堂々と、しかも裁判所を使って行われているのです。赤木さんと同じように「ざけんなって」言いたいね。

 ぼくは、自分は「善人である」という自覚はない。むしろ「悪者」だという自己認識に親しみを感じているものです。だからといって、ぼくはどんなに「悪」を敢行したとしても、国家権力者ほどの悪には到底及び難し、という実感は明らかにあります。国民の命を粗末にする、税金は使い放題、山分け勝手、人民のモノは自分のモノ、それが生き甲斐なのかもわかりません。誰でもではないでしょうが、「権力者」になりたがる輩は多い。まるで「浜の真砂の如し」ですな。権力者に不要な、いや、もってはいけないものは「誠実さ」「寛容の心」「憐憫の情」などという、社会集団にあっては、それなしではとても集団が維持されない、人間の付き合いに不可欠の「潤滑油」のようなものです。ここ何代かの「総理大臣(政治家)」や高級官僚とかいわれる御仁たちを見ていてぼくが痛感するのが、この潤滑油がいささかもないという、驚くべき「実態」(ぼく個人の判断ですが)でした。人間的空虚というのもを、見せつけられています。何処で「潤滑油」を失ってしまったんだろうか。「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」

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 置かれた場所で咲けなくても、無理せんでええ

 【三山春秋】▼「子供叱(しか)るな/来た道だもの/年寄り笑うな/行く道だもの」。永六輔さんが寺の門前にあった掲示板の言葉を著書『大往生』で紹介したことで知られるようになった。県内でも掲げられているのを見かけるが、これを「掲示伝道」というらしい▼もっと仏教に触れてほしいと2018年に始まったのが「輝け!お寺の掲示板大賞」である。写真を撮って会員制交流サイトに投稿してもらい、優れた作品を選ぶ。メディアで紹介されると話題になり、4カ月で700点が集まった▼「お釈迦(しゃか)様を嫌いな人もいた。『誰にも嫌われたくない』なんて思わなくていい」。箴言(しんげん)あり、著名人の言葉ありで実にユニーク。第1回大賞は「おまえも死ぬぞ 釈尊」。当たり前の事実だが、突き付けられるとドキリとする▼今年の大賞は「仏の顔は何度でも」。ことわざとして知られるのは「仏の顔も三度まで」だが、阿弥陀(あみだ)仏は無限の慈悲を備えている。「何度でも」の方が正確であることを知ってほしいという▼応募作品は浄土真宗、浄土宗、日蓮宗の寺院の掲示板が多く、禅宗系は極端に少ない。教義に「不立文(ふりゅうもん)字(じ)」があり、悟りは文字や言葉で伝えるものではないという考え方が影響しているようだ▼年の瀬が近づくと筆者が祈るのは宝くじが当たることばかり。「本当に神仏を拝んでいますか/欲望を拝んでいませんか」。すでに心を見透かされていた。(上毛新聞・2021/12/16)

(ヘッダーの写真 (⇧)は、京都府木津川市の浄瑠璃寺(じょうるりじ)の「九体阿弥陀堂」)

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 この「大賞」については、昨年度の「作品」について触れた際に、なにがしかのコメントを付けたように記憶しています。その際、仏教伝道協会についても紹介しておきました。つい先日、今年度の作品群が発表されたのを機に、いくつかを取り上げるというか、紹介してみたくなりました。中でも「林鶯山 憶西院 超覺寺・真宗大谷派・広島県広島市」が「協会大賞」に。その「講評」は以下の通りです。 

 [講評]「仏の顔も三度まで」ということわざが世間に完全に定着していますが、仏様はその程度で腹を立てるような方ではありません。阿弥陀仏は無限の慈悲を備えていらっしゃいます。「仏の顔も三度まで」というより「仏の顔は何度でも」のほうが仏様の表現としては正確であることを知ってもらいたいということで今回大賞に選ばれました(https://www.bdk.or.jp/kagayake2021/publication.html)

HHHHHHHHHHHH

 掲示板(の内容)の優劣ではなく、好き嫌いというか、選ぶ側の「選択眼」で取り出したという程度ではないですか。選者が変われば、中身(順位)も違ってきます。だから、今度は、それを受け取る側の判断というか、自分にとっての好感度で選べばいいのでしょうね。「何々賞」がありますが、それは「協会」の基準で作られたものですから、それをどのように受け止めるかも、観る側の好みの問題だと、ぼくは捉えているのです。すべてが「参加賞」、あるいは「素敵で賞」というくらいのものですね。いくつかの作品を順不同の、「(写真版)掲示板」で引用させてもらいました(閲覧および引用させていただいたことを感謝します)。(この「掲示板」にかかれている言葉(表現)は、いろいろなレベルのものが混在しています。いい悪いという問題ではなく、この「ことば」は、だれがどのような感情や思想、あるいは経験で表現されたものであるかという意味です。だから、それを教訓として受け取ることもできれば、恰好のいい表現であると理解するだけでもいいし、文字通り、「導きの意図」ととらえる向きがあってもいいのでしょう。 

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 前回も感じたことでしたから、それに触れてを書いたように思います。この手の「ことば」「おしえ」「教訓」などのどれもが、驚くほどある一人の人物の「筆」あるいは「筆法」に酷似している、いやもう「その人」になり切っているという具合です。それは悪いことなのではなく、その人の「影響力(インフルエンサー度)」が極めて高いと言うべきでしょうし、「その人」も正真正銘の「仏道」に生きた人ですから、「阿弥陀さんの導き」や「釈尊の教え」を、みずからの身に育ててきたからであるとみる方がいいのでしょうね。。ここまでくれば、「その人」がだれだか、お分かりになるでしょう。彼は「在家仏教徒」だということでしたね。仏教徒は、すべてが「在家」ではないけれども、「在俗」であるのではないかなあと、ぼくは最近、ことさらにそのことを考えたりしています。

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● 相田みつを あいだ-みつを=1924-1991 昭和後期-平成時代の書家,詩人。大正13年5月20日生まれ。生地の栃木県足利市で高福寺の武井哲応に師事し,在家のまま仏教をまなぶ。自作を独自の筆法でかき,各地で展覧会をひらく。昭和59年刊行の「にんげんだもの」はベストセラーとなった。平成3年12月17日死去。67歳。本名は光男。著作に「おかげさん」など。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 上に述べたことと関わるのでしょうか、このところお寺さんは(すべての、とは言えませんが)、いかにも優しげに親しげに、衆生に声をかけてくださっているようにもぼくには思われてきます。その一つの例証に、この「掲示板大賞」の「ことば」「教え」が妥当するのではないかと、ぼくは愚かなことを、さらに愚考しているのです。仮にそうだとしたら、その背景は何でしょうか。それが分かれば、「在家」や「在俗」でこそ「信仰」というものが語られるべきであるという理由にもなるでしょうか。

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 歩く人が多くなれば、それが道になるのだ

 【地軸】頑張らない、止まらない 自転車で長い距離を制限時間内に走る「ブルベ」というイベントがある。フランス語で「認定」の意味。競技と違いタイムも順位も争わないが、完走認定の達成感に引かれ、人々が挑む。▼コースは200キロとか、長いと千キロ超。そうなると1日では無理で、仮眠もしながらの旅程となる。指南書によると、最も速く走るこつは意外にも「頑張らない」こと。一時的に必死でこいでも、疲れて長く休めば平均速度は落ちる。むしろ淡々とマイペースを守り、休憩で止まる時間を抑えるほうが上がるという。▼まるで昔話のウサギとカメ。俊足でなくともこつこつ努力すれば、結局は勝る。先人も経験的に知っていた真理なのかもしれない。▼マラソンで似た話を聞く。サブファイブ(5時間切り)などを目指すなら、歩かずゆっくりでも走り続けること、と。寒さとともに、そんな練習に励む市民ランナーが増えた。ことしの愛媛マラソンがなかった分、来年の大会に思い入れを持つ人もいるだろうか。▼びわ湖毎日は来年から大阪マラソンに統合。福岡国際も今月の第75回で最後となった。名勝負や世界記録を生んだ歴史ある大会に代わって、いまや主役は市民マラソン併催型。身近な光景にもそんな事情を実感する。▼裾野が広ければ頂が高いのが山である。最高峰を応援するもよし。自ら挑戦するもよし。ペースがそうであるように、楽しみ方も人それぞれ。それがマラソンなのだろう。(愛媛新聞・ONLINE・2021年12月15日)

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 時代は「マラソンの世」に入っています。老いも若きも、男も女も、猫も杓子も、しかも、洋の東西を問わずに、とにかく「走ろうぜ」とばかり、道あれば、走り、道のないところでも走る。走るところに道ができると言ったの誰だったか。とにかく、「走りに走る、ひた走りに走る時代」が到来していると、ぼくには見えるのです。もう二十年かそれ以上も前に、若い友人が「今度ハワイのマラソンに行ってきます」といった。あの「ホノルルマラソン」のことで、完走するのか、と聞いたら、分かりませんといったが、自信満々だった。爾来、彼は仲間を誘って、何度もハワイに出かけているのです。「記録」は聞いてはいないし、聞くだけ野暮なことでしょう。

 おそらく、今日この劣島では数百のマラソン大会が開かれていると思います。この一、二年は「コロナ禍」のために中止するところが多かったようですが、来年はどうか。四十余キロを走るのです。タイムは人に寄りけりですが、三時間や四時間で走ることが当たり前になった時代。ぼくは、マラソンに参加したことがない。参加する気もなかったし、今からでも参加しようという気にはならない。ぼくはひたすら(というほどではないが)、歩けるときに歩く、というペースを崩さないでいます。歩けば十キロ、ときにはその倍も歩きますが、「歩かなければ」とか「歩くに限る」という悲壮感も覚悟もない。歩けるときに歩く、その無理をしない調子は一貫しています。ぼくの生活のモットーは「アンダンテ」であります。これは若い頃から。「急いては事を仕損じる」というのが頭にあるんでしょうねえ。

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 走るという行為について、いろいろな逸話があります。その中でも、もっとも印象的なのが「走れメロス」でした。もちろん太宰治の短編で、もっともよく親しまれたものでしょう。ぼくが語りたいのは小説そのものではなく、演劇です。今も活動している「東京演劇アンサンブル」という劇団が何度も公演しているのが「走れメロス」です。演出は故人になられた広渡常敏さんでした。(参照:http://www.tee.co.jp/hirowatari.htm)この劇団の現代表を務めている志賀澤子さんとはかなり前からの付き合いがあり、何度も彼女の公演を身近で観たりしてきました。この広渡さんの演出による「走れメロス」はなんとも圧巻でした。芝居を観るというより、ひたすら芝居の中に連れ込まれるという佇まい(風)があった。いまでも公演されていると思うのですが、一見に値しますね。

 この演劇のモチーフが「走る、ひたすら走る」なんですね。話の筋は省略します。友人との約束を守るために、メロスはひた走る、ひたすら走る。この「アンサンブル」の演出は会場いっぱいがまるでマラソンコースのように仕組まれています。客席もすべてが舞台の一部と化し、客席をぐるりと回るように、メロスは走り続ける。ただ走るのです。ぼくは計ったことがありませんけど、演劇全体のほとんど四分の三はメロスが走っている場面ではなかったでしょうか。約束の日時までに帰らなければ、友との約束を、みずからの死に代えても守らなければ、そんな思いでメロスは走り出したと思います。しかし、走りつづけているうちに、約束も友人(セリヌンティウス)も消えていった、ぼくにはそうとしか考えられなかった。三日間、彼は走り続けた。この劇の主題は「走る」だと、ぼくはいつも考えていました。走るというのは、身体を鍛えるとか、有酸素運動の最たるものという以上に、日常を、常識を、世間を、約束事を、そんな事々を突き抜ける(突き破る)突破力があるのでしょう。誰もが、この時代に「走りに走る」ということと、この「突破力」とは無関係でないどころか、それあっての走行、突破力を求めての走行だというのです。

 広渡演出の舞台で、メロスの走りが高揚してくると、なんと観客席から、一人、また一人と、涙を流しながら、メロスの後から走りだす、観客がメロスになっていくのでした。それぞれが思い思いの「セリヌンティウスとの友情」を確かめるために、だったでしょうか。あるいはくさぐさの「しがらみ」を突き抜けるために。

LLLLLLL

 走る、それは、ギリシャ語でいう「カタルシス」という働きをもたらすものです。自著「詩学」の中でアリストテレスが用いた概念で、解説は以下を参照。また、一方で、その語は「医学」で用いられる概念でもあります。誤って毒性のもの(異物)を飲み込んだ時に、胃を洗浄するために「吐きださせる」「嘔吐する」行為を言いました。どちらにしても、「浄化作用」を言ったものです。音楽を聴き、本を読み、劇を観る、その際に生じる精神の解放感や、すっきりした状態を指して「カタルシス」という語を使いました。

 この季節になると、ぼくはしばしば目撃したものです。新宿やその他の繁華街の近くの駅前で、しこたま悪い酒や嬉しい酒を飲んで、胃袋を満杯にした紳士淑女のいくばくかが、やおら「ゲーゲー」と吐いています。ぼくは、「今夜もカタルシスダラケ―」とギリシャの昔を想起していました。そういう自分だって、一度や二度の「カタルシス」ではなかったことを白状しておきます。吐いた後は、「すっきり」とした経験を持っておられる方は多いのではないでしょうか。ただし、終電などで「カタルシス」に出会おうものなら、とんでもないことになります。ぼくはこれまでに、二度も他人の「カタルシス」を身に受けました。身動きできない車内で、お兄さんやおじさんに「面と向かって、カタルシス」を食らわせられました。ある時は、それに怒り狂ったダンディが、青年を鷲掴みにして「きさま、何をするんだ」と揺すったからたまらない、さらに勢いよく「カタルシス」は続いたというのを、横で危険を感じながら眺めていたこともあります。

 「鬱積していた感情」を解放し「心を軽快にすること」、それは走ることにも言えるのではないでしょうか。ぼくはよく歩きますが、その際は「頭が真っ白」ということはありません。愚かな事々を考えめぐらせています。しかし歩き出していくらかすると、何を考えていたのかが気にならなくなります。いわば「半カタルシス」状態ですね。この気分がいいものだから、歩くのかもしれない。それがマラソンだと、さらに明確に「いやな感情」「怨み辛み」「泣き言」や(登山でも、そのような解放感を味わいました)。「生きにくさ」も、走り出す中で消えるのか、浄化されるのでしょう。繰りかえし走って、ついには「フルマラソン」が病みつきになった人がいます。それは、きっと「浄化作用」の効果の最たるものでしょう。

HHHHHHHHHHHHHH

● カタルシス=〘名〙 (katharsis)① アリストテレスの「詩学」に用いられた語。悲劇の与える恐れや憐れみの情緒を観客が味わうことによって、日ごろ心に鬱積(うっせき)していたそれらの感情を放出させ、心を軽快にすること。浄化。※囚はれたる文芸(1906)〈島村抱月〉二「其の浄化(カタルシス)の説」② 精神分析で、抑圧されて無意識のにとどまっているコンプレックスを外部に導き出し、その原因を明らかにすることによって、症状を消失させようとする精神療法の技術。浄化法。(精選版日本国語大辞典)

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 「まるで昔話のウサギとカメ。俊足でなくともこつこつ努力すれば、結局は勝る。先人も経験的に知っていた真理なのかもしれない」とコラム氏は言う。この昔話には、ぼくは感心しない。勧善懲悪とは言えないでしょうが、ウサギを悪にカメを善に準(なぞら)えています。「油断するな」という教えでしょう。しかし、他人が油断している隙を狙って「勝った」というのも美しくない。何故気が付いたら、起こさなかったのか。さらに「因幡の白兎」はどうか。皮をむかれて赤裸、そこに塩を塗り込む(海水で消毒か)というのは何という残酷な神々たちだったか。ウサギは「呪われている」と言うほかありません。「賢い」と「ずる賢い」は根っ子から違う。因幡のウサギは「ずる」だったが、しかし、その赤裸のウサギに「塩水に浸かると治る」というのは、もっと悪ですね。出雲神話の「白眉」といってはいけないか。

 (「メロス」から起こった連想というか空想が働いて、いつも以上に駄文の度が深まっています。ここで「アシルと亀の子」についても書きたい気もしますが、ふざけ方が過ぎるという自省の念が出てきました。いったん、ここで中止。アシルはアキレスのこと。靴屋さんではありません、アキレスが先にいたのです)

● いなば【因幡】 の 白兎(しろうさぎ)=「古事記‐神代」に見える出雲神話の一つ。隠岐国から因幡国へ渡るため、ワニザメを欺いて海上に並んだそのを渡ったウサギが、最後のワニザメに悟られて皮をはがれる。大国主命(おおくにぬしのみこと)の兄八十神(やそかみ)の教えでを浴び、いっそう苦しむが大国主命に救われて恩返しをする。インド、南洋の説話の影響があるとされる動物報恩説話。(精選版日本国語大辞典)

OOO

● アキレス‐と‐かめ【アキレスと亀】=ゼノンの逆説の一。俊足のアキレス鈍足の亀を追いかけるとき、アキレスがはじめに亀のいたところに追いついたときには、亀はわずかに前進している。ふたたびアキレスが追いかけて亀がいたところに追いついたときには、さらに亀はわずかに前進している。これを繰り返すかぎり、アキレスは亀に追いつくことはできないという一見、アキレスが亀を追い越すはずという直感に反する結論となる。
[補説]数学的には、アキレスが亀に到達するまでにかかる時間の級数が、その極限において収束するため、一定時間内に追いつくことができ、矛盾は生じない。(デジタル大辞泉)

● メロス(Melos)=抒情詩。ギリシア語で「歌」の意味。おもに竪琴リュラ lyraに合せて歌われたので,のちにリュリカ lyricaが一般に抒情詩をさすようになり,メロスはおもにギリシア古典期までの抒情詩をさす。狭義には一定の音節数とスタンザ (連) またはストロフェー (節) の形式を特徴とする「歌謡」のことで,長短々格とか短長格などの脚を単位とするエレゲイアイアンボストロカイオスなどを含まない。独吟歌と合唱隊歌に分れ,後者は舞踊を伴うのできわめて複雑なリズムをもつ。おもな抒情詩人はアルクマンアルカイオスサッフォーアナクレオンイビュコス,ステシコロス,シモニデスバキュリデスピンダロスなど。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 例によって、この駄文にも結論はありません。「世は走る時代」であり、「現代のメロス」の健脚ぶりが際立つ時代になったという感慨を深くしているのです。さぞかし、太宰治氏は「カタルシス」を経験しなかったという、今にして自らの「メロス」の余得を受けそこなったことを悔いているでしょうか。

 長くなりました。ここで一言だけ述べて、打ち止めにします。ぼくは魯迅という思想家・文学者が大好きです。その魯迅の翻訳家として優れた仕事をされた竹内好(よしみ)さんも。そのコンビで「故郷」から一節を。元地主だった主人公は、生家を立ち退くことになり、家財を始末するために帰郷する。そのとき、かつての幼馴染だった閏土(ルントー)と再会する。

 〈ああ閏(るん)ちゃん…よく来たね〉

 主人公は二十年ぶりの再会に言いたい事が頭の中をかけめぐる。しかし、口から言葉がでなかった。

 「かれ(閏)はつっ立ったままだった。喜びと淋しさの色が顔にあらわれた。唇が動いたが、声にはならなかった。最後に、うやうやしい態度に変って、はっきりこう言った。/〈旦那さま…〉/ 私は身ぶるいしたらしかった。悲しむべき厚い壁が、ふたりの間を隔ててしまったのを感じた。私は口がきけなかった」

 地主階級と小作人の、往時の「幼馴染」の親しさはどこかに消えてしまった。主人公は、果てしない人間社会の水平への希求を願い続けていたのです。身分社会の壁をどうすれば超えられるのか、つとに政治の課題でもありました。最後のところで、主人公(迅(シュン)ちゃんはいう。

 「思うに希望とは、もともとあるものともいえぬし、ないものともいえない。それは地上の道のようなものである。もともと地上に道はない。歩く人が多くなれば、それが道になるのだ」(魯迅「故郷」竹内好訳・ちくま文庫)

 この「故郷」の主人公(迅ちゃん)と閏土(ルントー)の関係は、とっぴな空想ですが、メロスとセリヌンティウスに擬せられるのではないかと愚考していました。メロスの友人への約束は守られた。一方の「故郷」の二人の「元幼馴染」の友情は、いつの日か再現されるのか。そのためにこそ、迅ちゃんは「走らない」で「歩く」のだ。歩く人が多くなると、それが道になる、だから自分は「道のないを道を歩く」のだという。辛亥革命(清朝の瓦解)直後(1912-13)の状況が語られています。魯迅が描いた「道なき道」を歩き続け、それが確かな道路になるまで歩くというのは、身分社会や階級差別というものを乗り超えるために、ひたすら歩くという人間の行為によってしか成就できないからです。そのでこぼこ道を「均(なら)す」ためには、どうしても歩かなければならなかったのです。ぼくたちは、魯迅の歩いた道を、今も歩いているのです。

 歩くことも走ることも、人間の営為です、身一つの運動でしかない。「走る時代」と共存・並行しながら、「世は歩く時代」でもあるでしょう。それは、「人間のうちなる能力」の明らかな回復と再生ための作業でもあるのです。

HHH

● 魯迅 ろじん(1881-1936)=中国の文学者,思想家。光緒7年8月3日生まれ。周作人の兄。明治35年(1902)日本に留学し仙台医専にはいるが中退し,文学に転向。42年(1909)帰国し,辛亥(しんがい)革命後は臨時政府の教育部員となる。1918年小説「狂人日記」を発表。ついで代表作「阿Q正伝」や社会,政治,文化を批判した小説・評論を多数執筆。1927年上海にうつり,左翼作家連盟の中心として論陣をはった。1936年10月19日死去。56歳。浙江省出身。本名は周樹人。字(あざな)は予才。中国語読みはル-シュン。【格言など】青年時代には,不満はあっても悲観してはならない。つねに抗戦し,かつ自衛せよ。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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