この島を蹂躙する「横柄・傲慢株式会社」たち

 長いものには巻かれろ  オミクロン株が気にかかる年の暮れに、大組織をターゲットにした別の「病状」が相次いで報告されている。山口県では小松一彦副知事が、先の衆院選で現外相の林芳正氏の後援会に入るよう部下を通じて勧誘活動をしたとして、辞職に追い込まれた▲公正・公平を原則とする役所が特定候補の集票マシンとなっていいはずはない。なのに自民党候補のリーフレット配布は長年続く職場の慣例だったという。誰も異議を唱えなかったのか▲こちらは経費でカレンダーを買い、自民党国会議員の支援者らに配っていた。全国の郵便局長たちだ。日本郵便が今週発表した聞き取り結果によると、300人の局長が業務で得た顧客名簿を政治活動に流用していた▲三菱や日立のグループ企業では長らく検査不正がまかり通った。三菱では不正をためらう部下が上司に叱られ、自動車ブレーキを製造する日立では必要な検査を怠っていた。「安全」を「暗然」と言い換えたくもなる▲たちの悪い行為でも大勢で続けるうち、やがて後ろめたさは薄らいでいく。官民そろって「長いものには巻かれろ症候群」に侵され、自分を見失ってきたのかもしれない。大流行を食い止めなければ。(中国新聞デジタル・2021/12/25)

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 「長いものに巻かれろ」という、その「長いもの」とは何でしょう。あるいは「寄らば大樹の陰」という場合の「大樹」とはなにか。「親方日の丸」と、端的に言う時の、その「日の丸」が差しているものを、それぞれは表わしているとみられています。一義的には「国」でしょうが、その「国」はだれが動かしているか、だれが差配しているかという問題でしょう。つまりは「親方」はだれかというのです。さて、「親方は国」でいいんですか、どうですかね。それぞれの「俗言」の意とするところは、それで間違いはないのでしょうが、コラム氏が指摘されているように「「官民そろって…自分を見失ってきたのかもしれない」というお説に、ぼくは異論があります。名だたる「大企業」と自他ともに任じている会社(の名ばかりの代表者たち)や「官は国家なり」という驚嘆すべき自負心の塊のような官僚連中に、はたして「長いもの」や「大樹」などの「存在」が、そもそも目に入っているのでしょうか。

 むしろ、自らが「長いもの」であり、「大樹」だという、魂消た自己像をひけらかし、その結果、組織のあらゆるところがマヒしてしまっている「末端肥大」症の見本のような「自己誤認」「自意識過剰」が、このようなとんでもない「悪質」な典型的犯罪をいつでも維持してきたんではないんですか。「たちの悪い行為でも大勢で続けるうち、やがて後ろめたさは薄らいでいく」という、この程度の批判そのものが、じつは積年の「国家を恣(ほしいまま)にしている犯罪」意識にはいかほども痛痒を与えないし、むしろ、与えようとはしていない、報道の、その姿勢こそが、悪漢どもに見透かされてきたのだと、ぼくは言いたい。新聞やテレビなどのマスコミがどれほど騒ごうが、「痛くも痒くもない」という大ぴらの開き直りが罷り通っているのに、十年一日のごとく、「大流行を食い止めなければならない」と、まるで他人頼みの無責任です。寝惚けているね。「養う側」が「養われる側」の言うことを聞くのはどんな時か、広告掲載料で支えらていては、何事も中途半端であり、むしろ、「言わぬが花だ」ね。

 もうかなり前になりますが、M自動車の「不正検査」事件が発覚したことがあり、それをタネにしたテレビ番組が放映された。ぼくは、偶然それを見ていて、なるほどと、いやに納得したことがありました。このM社は、今回も「不正」が指摘されています。おそらく、どんなことがあろうとも「不正」(これを、この企業は「適性」と言い換えているし、その唯我独尊は、今でも罷り通っている)はなくならないと、ぼくはその番組を見て痛感した。元監督官庁の役人あがりがたくさん天下り、「調査の一部始終」を事前に漏らしていました。おそらく、同じようなことはあらゆるところ(職種・職場)で生じているし、それが指摘されるような「不正」であるという自覚は皆無でしょう、なぜなら、「不正」かどうかを決めるのは自分たちだという自負があるからです。自負というよりは「横柄」そのものです。傲慢であり、尊大です。手に負えない、愚連隊ですな。政・官の忠告や指導などは「歯牙にもかけていない」ということが、番組を見ていて分かったのです。

 こんな「企業社会」が国や自治体、それに人民たちを拉致し、その行く末(生命与奪の権)を牛耳っているんですよ。誰から何を言われても「痛くも痒くもない」という面の皮の厚さが物語っているんじゃないですか。(なんでぼくが、こんなふざけた問題指摘をしなければならないのか、いい加減にうんざりです)要するに、政治家や官僚を養ってやっているのは「俺たちである」という「殿様商人意識」そのものに支えられて、このような「不正」よばわり(指摘されたから「不正」という文字・表現は認めるし、謝罪したふりはするが)は、金輪際、自分たちはそれを「不正」とは認めないと、端から監督官庁を舐めてかかっているのです。「決めるのは俺たちだ」、そんな不遜な態度を貫いているから、かかる「不正」事件は続発しているのです。このところ、「天下り」問題が影を潜めていますが、むしろ増大しているから、こんなことが後を絶たないのであって、その証拠となるものじゃないでしょうか。警察権力の側の人間が「暴力団に天下り」したとして、され、、その後の取締りはどうなるんでしょう。「スパイ」を雇うようなものです。それとそっくりなことが、あらゆる企業で生じているのです。「飯を食わせてやっている側」が、どうして「食わせてもらっている側」の指摘に応諾(服従)するんですか。

 近年では国家予算は「百兆円」規模です。その内訳はともかく、百兆円の国家予算に、数次の補正予算や追加予算を組む。その「大枚の税金」をあらゆる手練手管を駆使して、すっかり「平らげる」、それが政治家や官僚が請け負わされている使命です。「長いもの」や「大樹」は実は「大企業」軍団だったと、ぼくは断言します。この大企業軍団には「二軍」や「三軍」「四軍」があり、それぞれがグループを形成して、国家予算の「分どり合戦」ならぬ「山分け合戦」をしてきたのが明治以降の島社会の「表街道」の歴史でした。そのありようが、火山の爆発のように、時として姿を現す。でも、地下は何時だって「爆発前夜」ですよ。例えば、今夏の五輪問題における「税金の濫費ぶり」、あるいはコロナ禍に実施されたもろもろの「給付金」「補助金」に関わる官民一体の「税金泥棒ぶり」など、ほんの氷山の一角、「火山の小爆発」を、ぼくたちは「チラ見」しただけです。見えないように、堂々と、(見つかれば、そのかぎりでは認める程度の)「不正」がいささかも悪びれるところなく行われてきたのです。政治家・官僚を「操っている」ともいえるし、「養ってやっている」ともいえる意識が消えてない。国家を動かしているのは「俺たちだ(誰のことだろう)」という強烈な自己慢心がスーツを着て闊歩しているのが見えないんですか、新聞屋さんたちよ。多分人口のかなりな部分は、この軍団のどこかに位置づけられている、だから、どんなにひどい腐敗政権であろうが、どこまでも続くのです。その状況(景色)が「見えてるけど、ホントのことは書けない、おっかなくて」、だろうね。その「新聞会社」も軍団の一部に入っているんだもの。

 大学受験や学歴問題の弊害がつとに指摘されながら、いっかな変えられようとしないのは、今の状況で「甘すぎる汁」を吸っているものが力を持っているからです。もうこんなことは反吐が出るほど、ぼくは言ってきたし、そろそろ開いた口が塞がらぬと、それを期待しているのですが、わが「虫唾」が黙ってくれないんです。大事なのは、「いい大学」だとか「いい企業」に入るという寝言を言う、そんな惰眠から、そもそも各自が目を覚ますことだし、「いいとか悪いとか」いう、世間の尺度を叩き壊す時期なんではないですか。自分の尺度を持ち、自分流に生きる道を創ることが求められています。「人が歩いた後から道はできる」と。

 「一寸の虫にも五分の魂」、あるいは「なめくじにも角」といいます。あまり好きではない言い方ではありますが、要するに、少しは「汚くない生き方」、あるいは、少しばかり「美しい生き方」をしたらどうです、そう自他に言い聞かせて、ぼくはここまでたどり着いたという気がするのです。「みっともない」「恥ずかしい」ということに無自覚になったら、なんだって平気でできます。「元ソーリ」のように、「恥ずかしい」「みっともない」「迷惑をかける」「権柄ずく」という軽薄丸出しの、その反動で、他者への意識が鈍麻してしまえば、どんなことだってヘイチャラです。いかにも「チャラい人間」というのは彼奴のことではないですか。彼には「無知・無能」という言葉が乗っている辞書はないんだ。じつに、恐るべき「桁外れの無神経人間」「多くの人民にとって、百害あって一利なしの存在」だと思う。

 ぼくは他人に誇るべき何ものも持たず、何事をも為さず、しかし、他人に後ろ指を指されない(指したい輩は無数にいたでしょう)(たとえ指されたとしても、思い当ることがないような)そんな歩き方をしてみたいと念じていたし、今も、それを念じています。ぼくは能力には欠けたところばかりだし、他人を凌駕したくなるような競争心もなかった。漱石ではありませんが「菫程な小さき人」として生きていたいと、今の今だって、懇望・懇願しているのです。それで、大切なものが何か欠けている、という感覚はぼくにない。それほどに「世間知らず」でありたいんですよ。

HHHHHHHHHHHHHHHHHHH

◉ながい【長】 物(もの)には巻(ま)かれろ=権力勢力のあるものには反抗しないで、がまんして従っていた方が得だ。※随筆・老人雑話(1713)乾「汝家康へに往て間をよくすべし、長き物には巻れよと云事あり」(精選版日本国語大辞典)

◉ よら【寄】 ば 大樹(たいじゅ)の陰(かげ)=同じ頼るなら、のあるしっかりした人にたよるべきだということ。立ち寄らば大木の。(精選版日本国語大辞典) 

◉ おやかた【親方】 日(ひ)の丸(まる)=(親方日の丸、すなわち国の経営破綻をきたしても、国がその面倒をみてくれるからよいの意で、官庁や国営・公営企業などの安易な経営体質を皮肉っていうことば。※日本拝見‐八幡(1955)〈浦松佐美太郎〉「強兵」から「平和」へ「ここの従業員もある意味では恵まれた従業員だということになろう。『親方日の丸だ』という言葉がかつて流行したことがあるが、その言葉がよく当てはまる感じがする」(精選版日本国語大辞典)

◉ おう‐へい ワウ‥【横柄・押アフ柄】=〘名〙 (形動) (「おしから(押柄)」の音読。「おう」に「横」「大」、「へい」に「平」をあてることがある) おごりたかぶって、人を見さげたり無視したりする態度をとること。いばって無礼であること。また、そのさま。傲慢(ごうまん)尊大大柄(おおへい)。※虎寛本狂言・入間川(室町末‐近世初)「このあたりであのように某(それがし)におうへいにもうす者はござらぬ」※歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)一「イヤ、押柄な侍、貴様はどこの者で、そういふ太平楽を言ふのじゃ」(精選版日本国語大辞典)

◉ いっすん【一寸】 の 虫(むし)にも五分(ごぶ)の魂(たましい)=どんなに小さく弱い者でも、それ相当の思慮や意地を持っているものだ。小さくても、ばかにできないたとえ。※極楽寺殿御消息(13C中)第四五条「たとへにも一寸のむしには、五分のたましゐとて、あやしの虫けらもいのちをはをしむ事我にたかふへからす」(精選版日本国語大辞典)

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 この「不正」は、いたるところで行われています。調べてみたから言うのではなく、この島社会の企業体質そのものが「不正の温床」になってきたからです。その不正企業を、上を下への大童で助けてきたのが政治家・官僚です。なにしろ、この「不正温床企業」は政・官タカリや軍団の「飯のタネ」だからです。「(作られた)不正」が発覚したら、予定通りのシナリオで、何事もなく収束、一件落着です。これを嫌になるほど繰り返してきたのが、近代日本社会ではなかったですか。儲けを大きくとろうとして「植民地経営」までも目指すことをいとわないでやってきました。その根幹を支えたのが「ハイエナ企業群」ではなかったでしょうか。戦争は商売の絶好の機会だと、これ幸いと、陰に陽に蠢動した、それが今も生き残って、戦地・植民地のような「悪逆非道」を働いているのです。

 今、この社会はどんな事態に陥っているか。並みいる悪徳企業は、「不正」問題をやり過ごせば、再び「わが世の春」が来るとみている(確信している)でしょうし、さしあたりは、いやなことだが、そうなるだろう。でも必ず、確実に人民・人心は放れる。(こんな悪徳企業に群がる就活生たちも、いつかは気が付く)(「大学が大学(就職予備校ではなく、さ)」になるのも、ここにかかっていると、ぼくは言いたいね。

 「他国の眼」は、この島の非道史をどのように見ているか。いま「日本は物価が安い」「時給も安い」と驚異の眼で他国から見られています。おそらく数十年前の東南アジア諸国を、この島人は「なんて物価が安いんだ」「月給が安い」と卑下していたでしょう。「貧しい国」「遅れた社会」と。でも、「貧しい」も「遅れた」も、欠陥ではないのです。そんなものは相対的なものであって、寸法の取り方でなんとでもいえます。しかも、その自覚があり、どうすれば社会的公正が得られるかに腐心すれば、ぼくたちは更生できるかもしれません。しかし、「自己を見る目」が曇っていれば、他者は見えないし、自己更生の道も閉ざされてしまいます。他者の「不正」や他人の「不幸」に目をつむり、「自助」だ「糸瓜(へちま)だ」と御託を並べて、誠実さや畏敬の念をいささかも持たないままでいることを恃(たの)んで。しかもそれを誇っている人間輩が幅を利かせるなら、その社会には、どうにも取り返しがつかない「不義」があると、ぼくは声を大にしていいたい。「貧しい」「遅れている」と言われる地域にも「誠意の溢れる」、他者に向かって「惻隠の情」を示すことのできる人々はいるのです。ぼくはそういう人にこそ、「ぼくも、その仲間になりたい」という感情を持つのです。

 ぼくたちは出口の見つからない、文字通りの「隘路」に堕ち込んでいるんでしょうね。他者に対する尊敬心も、自己にむけられる自尊心もない、あっても歪んでいる、そんな人間が大手を振って、「(あるか無きかの)天下」を睥睨している限り、あるいは闊歩している限り、後には、困難な道行だけが残されているのです。さてその処方はどこに見つけるのか、見つかるのか。

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 演歌とバッハとクリスマス、この矛盾を

 【北斗星】帰宅の道すがら、所々でイルミネーション(電飾)の輝きを目にする。脱炭素化が叫ばれる昨今、「電気の浪費」と眉をひそめる方がいるかもしれない。ただ雪でふさぎがちな人々の気持ちを明るくしてくれる効果も大切にしたい▼きょうはクリスマスイブ。その輝きはさらに増すだろう。子どもたちが楽しみにしているのはケーキやプレゼント。ところが子ども心にも不安があるらしい。サンタクロースがいつも通りに来てくれるかどうか▼新型コロナウィルスの新変異株「オミクロン株」が世界的に流行。そのため外国人の新規入国禁止などの水際対策が取られている。大丈夫とは思いつつ、サンタの入国が心配なのは無理もない▼政府は新型コロナ経済対策として18歳以下の子どもへの10万円相当給付を行う。県内では全市町村が年内に現金支給を開始。ただ一部は家庭に届くのが年を越すという▼迷走を重ねた末の支給。生活困窮への支援か、子育て支援か、その目的すら不確かだ。給付方法や時期、対象については自治体によって異なる。とはいえ給付金をプレゼント購入に充てたい家庭もあるのではないか。できる限り迅速な支給を望む▼国内でオミクロン株の市中感染が確認され緊張が高まる。世界保健機関(WHO)のテドロス事務局長は22日「来年にはパンデミック(世界的大流行)を終わらせなくては」と述べた。たとえ年を越そうとも、その実現こそ世界が何よりも待ち望むプレゼントに違いない。(秋田魁新報電子版・2021/12/24)

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 【明窓】あわてんぼうのサンタクロース この時期によく聞くクリスマスソングが『あわてんぼうのサンタクロース』。クリスマス前にやって来たサンタが煙突から落ちて、ある家に侵入してしまい、帰っていくまでを<リンリンリン>などの擬音語を多用し、楽しい雰囲気を演出する▼作詞したのは吉岡治さん(1934~2010年)。石川さゆりさんの『天城越え』も手掛けたと知り、面食らった。<誰かに盗(と)られるくらいなら あなたを殺していいですか…>。女性の情念あふれる歌詞とは、あまりに印象が異なるからだ▼経歴を見て得心した。山口で生まれた吉岡さんは2歳で母親を亡くし、父親に連れられ全国の炭鉱町を渡り歩いた。その父も16歳の時に他界。天涯孤独となった吉岡さんは歌に慰められ、童謡詩人のサトウハチローさん(1903~73年)に師事し、童謡『おもちゃのチャチャチャ』などを書き上げた▼31歳で歌謡曲に挑戦し、『命くれない』『大阪しぐれ』などのヒット曲も作った。晩年まで書き続けた”女歌”の世界で亡き母のぬくもりを探し、明るい童謡で幼少の頃に憧れた温かい家庭生活を求めたのかもしれない▼きょうはクリスマスイブ。今年は『あわてんぼうのサンタクロース』発表から半世紀の節目という。新型コロナの新たな変異株拡大など、情念を誘うような暗い話題が多いが、きょうばかりは楽しい歌声で元気に叫びたい。「メリー・クリスマス」。(健)(サイン中央新報デジタル・2021/12/24)

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 この島社会の多くの人間にとって「クリスマスイブ」や「クリスマス」はどんな日なのでしょうか。ぼくには無縁であるとは言えないけれど、けっして、心清くして迎えたり、祈ったりする日ではなかった。今も昔もそうです。「ジングルベル」が鳴ったり、「聖夜」だなどという経験もまったくないままで、人生の大詰めを迎えています。ただ、ぼくは若い頃は夢遊病者のように地に足がつかないで、世の中では浮いていましたので、いろいろと根無し草のような経験をしました。その一つが「西洋音楽」に入れあげたことでした。右も左も知らないまま大学に入り、東京生まれの友人から「クラシック」のイロハを教えてもらった。高校まではまったく無縁の世界というか、だから、それこそ夢見心地で貪り聴いた。やがて、ぼくはバッハの教会音楽に行きついた。その後は「バロック音楽」と言われるものにも長い間、聞き耳を立てて過ごすようになりました。

 その後のこと、ある時、喉の炎症で近所(文京区本郷)の耳鼻科に行きました。その直前にレコード店に行き、シュバイツアーが弾く「バッハのオルガン曲」を抱えていた。その医者は、そのレコードを見て、音楽が好きか、時間はあるかと尋ねた。そして、早々に「診療」を切り上げ、二階に上がってレコードを聴くことになった。以来、ぼくが本郷から転居するまで実によくお邪魔しては、徹夜でレコードを聴いた。これがぼくの「クラッシクの学校」になったのです。彼はぼくより二十歳上の方で、いろいろな話を伺うことが出来た。旧制の帝大を出て医者になった人だった。(このM医師についても、丁寧に書いてみたいと考えています)

 ぼくは今、この駄文を、下に示したバッハの「クリスマスオラトリオ」を聴きながら書いています。演奏はカール・リヒターの指揮で、ミュンヘンバッハ管弦楽団とミュンヘンバッハ合唱団のものです。これを聴いていると、ありありとリヒターや彼の仲間たちの姿や楽器の音色、それに独唱者の歌声が甦ってきます。どの楽器、だれの演奏かがほとんどわかるまで聴きました。。ソプラノやテノールの豊かさと音楽性の深さを引き出すリヒターの演奏に、若いぼくは、あるいは全精神(神経)を傾注した、魂を奪われたと言ってもいいほどに聴き及んだ。この演奏を初めて聞いたのは、もう半世紀以上も前になります。ぼくはそれ以来、歌詞(聖書)をドイツ語で覚え、譜面も曲りなりにたどれるようになった気がしました。それで莫大な、かつ貴重な時間やエネルギーを浪費したのかもしれませんが、悔いることはなかった。教会音楽、特にバッハをはじめとする「カンタータ」もほとんど暗記するほどに覚え込んだものでした。

 (まだ、リヒターの演奏はつづいています。演奏時間は二時間四十分余)

 「帰宅の道すがら、所々でイルミネーション(電飾)の輝きを目にする。脱炭素化が叫ばれる昨今、「電気の浪費」と眉をひそめる方がいるかもしれない。ただ雪でふさぎがちな人々の気持ちを明るくしてくれる効果も大切にしたい」「きょうはクリスマスイブ。(略)子どもたちが楽しみにしているのはケーキやプレゼント。ところが子ども心にも不安があるらしい。サンタクロースがいつも通りに来てくれるかどうか」と、「バカ言ってんじゃないよ」と言いたくなるのは、大人げないか。でも、大人げないのはコラム氏じゃないか。 サンタクロースが煙突から落ちたとか、コロナに災いされて、日本にまで来れないとか、遅れるとか、「バカ言ってんじゃないよ」という気分はさらに募ってきます。「北斗星」の記者が、時には「イルミネーション」もいいだろうといい、「子どもだまし」ならぬ、「自分だまし」に気がつかないのか、つかないふりをしているのか。「サンタさんからプレゼント」と、どれだけの子どもたちは、いやな思いでこの時期(サンタは誰だ)を思い出したのでしょうか。ぼくには無縁のことだったから、その気持ちはわからない。

(「クリスマスオラトリオ」の演奏開始から二十三分直前から始まる「Grosser Herr, O Starker König」が。歌うのはフランツ・クラス。好きな歌手・テノールでした)

 サンタクロースがどうだとか、電飾がどうだとか、どうでもいいことではありませんが、リヒターたちの演奏と合唱団の歌声を聴いていると、ぼくは自分でも歌い出してしまいそうです。キリスト教というグランド(背景・文化)があるから分かり、それがないから教会音楽はわからないと言われますが、それは違う。ぼくは音楽として聴くし、それがキリスト教に帰依されるべきものであっても、それが美しく、妙なる物語、歌物語として耳に届くなら、ぼくは対象を選ばないだけです。

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「あわてんぼうのサンタクロース」https://www.youtube.com/watch?v=7WLqUTsJhU8

「バッハ クリスマスオラトリオ」カールリヒター指揮 https://www.youtube.com/watch?v=RqcSn-VtOoM)     

◉ クリスマス(くりすます)Christmas 英語 Noël フランス語 Weihnachten ドイツ語=イエス・キリスト誕生を記念する祝日。降誕祭ともいう。ことばの意味は「キリスト礼拝」である。初期の信徒の関心は、キリストの死と復活のできごとを宣教することに集中していたので、受肉(誕生)の日付の問題は空想的であったし、四つの福音書(ふくいんしょ)には誕生の日付の記述はない。コンスタンティヌス大帝は政治的判断から、キリスト教徒の礼拝日「主の日」を、ミトラス教徒の太陽崇拝の日と結合して、321年に公式に週1回の休日を決定し、役人の休日にした。ニカイア公会議(325)でキリスト論に関する教義が整理され、キリストの誕生の神学的位置づけが確定されると、ミトラス教の祝日Natalis Solis Invicti(不滅の太陽の生誕日)である12月25日がキリストの誕生日として解釈され制度化された。救主(すくいぬし)は「義の太陽」として預言されていたので(「マラキ書」4章2)、好都合な解釈が成立した。そして、たき火をたき、キャンドルをともし、祭儀的競技が催されるゲルマンの冬至祭りやローマの農耕神の祭りの形式の一部は、キリスト教徒に受容され、電気を照明に用いる現代でも不便なキャンドルを伝統的にたいせつにする。それは、光(神の子)が闇(やみ)(世界)のなかで輝き、熱と光を与えて消える(犠牲死)ように、過去のキリストの1回限りの生涯を年ごとに情緒的に理解する訓練に役だてられる。

 8世紀以降、クリスマス前の四つの日曜日を含む期間を「アドベント」Advent(来臨)とよび、教会暦では年の始めであるが、メシアの誕生の追体験とキリストの再臨を待望する心の構えを形成するために、この期間は祝い事を避けて生活する。クリスマスはアドベントから始まり1月6日のエピファニー(公現日)まで続き、その日にいっさいの飾りを外す。プレゼントの贈与と交換の行事は、古代ローマの祭り(12月17日)であるサトゥルナリアSaturnalia(農業神)にさかのぼる。この祭りの魅力は浪費、祝宴、日常的役割と身分の逆転であった。ツリーは、アルプスの北の風習で、起源が呪術(じゅじゅつ)的動機であるため、ピューリタニズムの系譜に連なる教派では飾らない。サンタクロースの起源は、恐ろしい袋をもった人さらいと善行の老人との奇妙な結合なのだが、遠い他人の抱く善意と正しい評価を親が代行する行為は、神の摂理を伝える家庭教育に用いられる。「キャロル」とよばれるクリスマスの歌曲は、民謡を母胎にして発展し、神への賛美、キリストの誕生の喜びと感謝を表現する。優れたキャロルは賛美歌に編入される。その一例が19世紀のグルーバー作曲の『清しこの夜』の歌である。(ニッポニカ)

●大師講(だいしこう)=旧暦11月23日の晩に家々を訪れる大師様に、小豆粥(あずき)や団子を供える行事。東北、北陸中部や山陰地方など広域に伝承されている。ことに日本海沿岸地域では顕著で、と称するが家の祭りである。この日はかならず雪が降るといい、大師様の足が片方であるとか、大師様のために畑の作物を盗む老女の足跡を隠すとかということで、デンボカクシ、アトカクシユキなどとよばれている。また大師様は子だくさんで長い(はし)で団子を刺して食べさせるなどという伝承や、片方の足の不自由を表しているという話を伴って、長短2本の箸を小豆粥や団子などの供え物に添える。片方の足や目が不自由だとか、人々の前に出現するときに雪や風など天候が荒れるというのは、日本の神のイメージとして古くから伝承されている一つのパターンである。現在は大師様といえばほとんどが弘法(こうぼう)大師を想定しており、ほかに者(ちしゃ)大師や聖徳太子などもみられる。しかし、大師講は霜月二十三夜という時期的なことから、その年の新穀を祝う新嘗祭(にいなめさい)的な農耕儀礼が背景にあると考えるべきものであろう。その際に迎える神をダイシとしたのは、大子(おおいこ)つまり神の子ということからきたといわれているが、そうしたダイシ信仰が弘法大師の巡行伝説と結び付いたと考えられる。(ニッポニカ)

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 駄文の調子は、さらに変調をきたしてきました。「クリスマスイブ」というのは「キリスト生誕前夜」で、教会ではいろいろな仕来りがありました。それに即して、各地でさまざまな行事が行われてきました。その由来は、よくわからないというのが正しそうです。季節は「冬至」(本年は、十二月二十二日:旧暦では十一月二十三日)近くにあたります。おそらくこの行事の始まりは農業に関わっていたろうと思われます。(詳しくは辞書を参照)似たようなことは各地・各民族に明らかに認められます。この島では「大師講」があります。新嘗祭は収穫祭にきわめて近似しています。

 「プレゼントの贈与と交換の行事は、古代ローマの祭り(12月17日)であるサトゥルナリアSaturnalia(農業神)にさかのぼる」「サンタクロースの起源は、恐ろしい袋をもった人さらいと善行の老人との奇妙な結合なのだが、遠い他人の抱く善意と正しい評価を親が代行する行為は、神の摂理を伝える家庭教育に用いられる」という。背景や所以はどうであれ、「愛でたい」「目出度い」(というものではないが)、それなら繰り出そうじゃないか、騒ごうじゃないかと、それに商売が便乗して「ジングルベル」の鈴が鳴り響いたのでしょうね、この島で、バブル時代は狂っていました、とうぜん、ぼくも。

 (まだ演奏は続いています。ただいま「Schlafe, Mein Liebster」で、開始後四十八分経過)

 吉岡治さんについても一言したいのですが、とてもその気にならないのはバッハのせいです。ぼくはこの人の作詞もよく調べました、という以上に、「じつに演歌だなあ」という雰囲気を教えられました。男と女、酒と泪、これぞ演歌 (嗚呼)、ぼくは、ホントに耽溺しました。「北の新地は おもいでばかり」と口にのぼると、過日の大阪のクリニック放火殺人事件が瞬間的に思い浮かんだ。(いや実際はその反対で、事件の一報を聞いて、即座に「北の新地は」が浮かんだのでした)(本日は、これで中断。バッハを最後まで聞くべしという声がしてきましたので。サンタやキリストや吉岡さんについては別の日に)(バッハを聴きながら、駄文は綴りづらいですね)(耳には「Schlafe, Mein Liebster」が届いています(アルトはChrista Ludwig)。こんな時に、バッハを聞くんじゃなかった。深く(不覚)反省しています。でも、ルードヴィッヒも久しぶりですが、いいですね。柔らかで、心がこもっていて。ただ歌うのではなく、どうして歌うか、どんな思いが大事であるかがが分かり尽くしている人の声がするのです。

GGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGGG

 以下は「大阪しぐれ」で、「吉岡・市川・はるみ」トリオの「会心の作」だったと思います。ぼくは蛮声を振り上げて、絶叫とはいかなくとも、何度も声涙を絞ったものでした。「あのひとを 雨よ帰して あゝ大坂しぐれ」それにしても、「エゲツナイ歌」と言いたいですな。歌謡曲だからこその、歌詞ですね。四百年以上も前のバッハの「クリスマスオラトリオ」を、この島の、あるいは大阪の現実に引き付けて歌えば「大阪しぐれ」となるんとちゃいいますか、なりまへんか。「大阪が泣いている」と、吉岡さんは言いたかったのです。この都はるみさんについても、語れば切りのない「おもいでばかり」、いつか滔々と語りたいですね。彼女は京都の人で、小さいころから母親に激しく、厳しく鍛えられて歌い手になった。いわば「巨人の星の」飛雄馬の父親(一徹)のような「お母さん」でした。烏丸車庫の近くで、中学生だったかッと思われるが、ぼくは彼女の母上にお目にかかったことがあります。本日、何年振りかで「大阪しぐれ」を聴き、ぼくの眼も「しぐれ」ているようでした。はるみさんを、ぼくはとても好んで聴きまくりました。ほとんどのレコードは持っていましたね。リヒターのように、でした、好きさ加減は。(*https://www.youtube.com/watch?v=yc9b-fi_nDI

 大阪しぐれ 作詞:吉岡治 作曲:市川昭介

ひとりで 生きてくなんて
できないと
泣いてすがればネオンが ネオンがしみる
北の新地は おもいでばかり
雨もよう
夢もぬれます あゝ大阪しぐれ

ひとつや ふたつじゃないの
ふるきずは
噂並木の堂島 堂島すずめ
こんなわたしで いいならあげる
なにもかも
抱いてください あゝ大阪しぐれ

しあわせ それともいまは
ふしあわせ
酔ってあなたは曽根崎 曽根崎あたり
つくし足りない わたしが悪い
あのひとを
雨よ帰して あゝ大阪しぐれ

 「ど演歌とバッハ」が何の矛盾も齟齬も来さないで、一人物のなかに生息するという(それも生き生きと)、矛盾の見本のような「人間」がぼくです。演歌は演歌でいいし、クラシックはそれだけでいい。比べる必要もないし、優劣は比べるべくもないものです。人間は「矛盾」した存在です、それが生きているということじゃないですか、とぼくが言うのもなんですが。「ひとりで 生きてくなんて できないと  泣いてすがればネオンが ネオンがしみる」と吉岡さんは言われました。「あなた」「あの人」はどこに行ったのでしょうか、と。演歌に託して、思慕の念、止みがたい「人」求めているのですね、どなたも。その念慮が、やはり聴く人にも通じるから、胸に響くのでしょうか。

(ただ今、トランペットが響き渡っています。半分が過ぎました。「Herrscher Des Himmels, Erhöre Das Lallen」)

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 国語は国民の精神的血液である

 【河北春秋】ある出版社が夏目漱石作品集を出した際、作家の内田百閒が推薦文を寄せている。百閒は『日本人の教科書』と題して「漱石は日本人の先生であり、その作品は日本人の教科書である」と書いた▼具体的には「自然や人生や自分のことを考えたり迷ったりする時に、自分の内なる漱石が共に迷ったり考えたり感じたりする」という。百閒自身が敬愛してやまない漱石の作品は、若い人々に読まれて「年々新しく若返っている」▼時代を超えて読み継がれる文学作品は、読書の楽しみとは別に、人生の貴重な指針となり得る。名作に親しむ意義の一つだ。最近、気になるのは来年度から始まる高校の新学習指導要領。文学軽視の傾向が強まりそうだという▼国語の教科を実用的な文章の「現代の国語」と文学的な「言語文化」に分けた。結果的に古典や小説を扱う時間が減少する。現場の疑問の声は強く、また、出版社の中には「現代の国語」に小説を載せた社もあり、混乱している▼兵庫県の灘中学・高校の国語の先生だった橋本武さんは、中学の3年間を中勘助『銀の匙(さじ)』だけを丁寧に読み込む授業をした。生徒の読解力は飛躍的に伸びたという。文学がちゃんと読めることの大切さがこれでよく分かる。ちなみに、この小説は漱石が激賞した名作だ。(河北新報・2021/12/24)

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 かなり前のことですが、ある雑誌から原稿を依頼されて、書くことは引き受けはしましたが、ついでに、雑誌名に注文を付けたことがあります。編集者は驚いただろうと思いまっした。何度か頼まれ原稿を書いていたので、一度は言っておかなければという気になったのです。もちろん、ぼくの注文が届くはずもなかったわけで、相変わらず、この雑誌は「国語」教育界では名が通っているのだと思われます。その誌名は「国語教育」というものでした。誰も不思議に思わないとは、ぼくは思わないが、「国語」ってなんですかという問題です。当たり前に「国語」という教科を受け入れているし、その教科の「国語」教育(授業)にも、殆んどの人は違和感を抱かないのではないでしょうか。その代わりに、授業内容には「不満」はたっぷり抱くのかもしれません。おそらく、この「国語」という言葉は、あるいはその言葉が表そうとしている内容である「国語」は、明治以前にはなかったでしょう。「国学」という研究・学問領域はあったし、本居宣長さんなどがさかんに掘り起こしたのが、その「国学」でしたし、それがいよいよ勢いを増して、やがて維新直前には歪曲されつくした「国学」の、ある意味では全盛期であったとも言えそうです。戦時中はその「亜流」が我が世の春を決め込んでいました。その「国学」とは何ぞや、ホントはこれについて語らないと「国語」問題も宙に浮いてしまうのではと、ぼくは危惧してはいるのです。

 「国学」といっても、面倒なことになりますが、ここでは、簡単にしておきます。宣長さんが中興の祖のような役割を果たして以降、おおいに盛んになった「学問の一流派」であり、あるいは「儒学」、あるいは「洋学」に対抗すべく突き出されてきたものです。今でもこの、「流派の争い」は続いています。「国学」を一言で評するなら、「天皇の学問」ということになるでしょう。「天皇」という個人ではなく、「天皇」という語に表現されうる抽象性、それが「天皇」です。そこには歴代天皇の歴史に見られるべきさまざまな約束事、あるいは文化や伝統というものまで含まれます。宣長さんが「国学」という名称は「そはいたくわろきいひざま也」であって、むしろ「皇国の事の学」といえばよかった、つまりは「天皇の学問」です。

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〇 こく‐がく【国学】=〘名〙① 令制で、国ごとに設けられ、郡司子弟を教育した学校。教官には博士・医師を配置し、おもに経書や注釈書を教授した。学生の定員に余裕があれば庶人の入学も許された。諸国にすべて国学が設けられたか否か疑問であるが、大宰府には政庁に隣接してたてられ盛況を極めた様子がうかがわれる。国の大学。〔令義解(718)〕② 江戸時代中期に起こった学問の一つ。記・紀・万葉など、日本の古典を文献学的に研究し、固有の文化を究明しようとしたもの。契沖荷田春満(かだのあずままろ)賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤などを中心として展開した。和学皇学皇朝学。古学。本教学。※うひ山ふみ(1799)皇国の事の学をば、和学或は国学などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也」③ その国やなどで行なわれている学問。※葉隠(1716頃)一「御家来としては、国学可心懸事也」④ 中国、古代の制度で国都に設けた学校。隋以後は国子監という。〔礼‐春官・楽師〕[補注]本居宣長は、②の挙例にあるように「うひ山ふみ」のなかで、学問の名称としての「国学」を退け、自身では「古学」とよんでいる。

〇 初山踏(ういやまぶみ)=本居宣長(もとおりのりなが)の学問論。1798年(寛政10)成立。この年『古事記伝』を完成させた宣長は、弟子たちの求めに応じ、国学を志す初心者の心構えを説きした。賀茂真淵(かもまぶち)の『にひまなび』(1765成立)を意識しつつ、問の中心に「道」学びを据え、その勉強法を具体的に示し、さらに伝習や慣例にこだわらぬことなど学問の態度についても懇切に述べている。そのうえ国学を「道」学びに限定せず、歌文を学び、有職故実(ゆうそくこじつ)や国史の研究など、関連領域の重要さを述べ、国学の柔軟性をみせている。(ニッポニカ)

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 「すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立てて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よはくては、学問すすみがたく、倦み怠るもの也」「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く、倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠りつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇なき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」

 「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」(以上は『うひ山ぶみ』より)

 余話です。三十過ぎの頃から、ぼくは心を躍らせて宣長を読みました。この「うひ山ぶみ」は何度読んだことでしょう。けっして「国学」オタクにもならず、「皇国史観」かぶれにもならなかったのが不思議なくらいに読んだものです。筑摩書房の(宣長全集」(全二十三巻)は、いまでも堂々とした風貌で、わが貧相な書棚に並んでいます。

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 「国語問題」についても、少しばかりあちこちで、ぼくは触れていますが、「日本の歴史」あるいは「日本史」は以前は「国史」と言っていました。これもやはり「天皇の歴史」です。さらには、この社会の文学文芸一般を「国文」「国文学」と称していたのは言うまでもありません。その典型は「王朝文学」であり、貴族社会の文化でもありました。今日では「日本文学」という名称(呼称)が圧倒的になりましたし、そのための「改名運動」のようなものがある時期に集中して行われたのです。しかしまだ「国史」や「国文学」という伝統的呼称に拘っている、あるいは改名の機運を逸したという判断で、旧来の名称(「昔の名前」で出ています)のままというものも結構ありますね。大学なんかは、このような「名称」により多くかかわって来たでしょう。いまでも「国学院」「国士館」「皇学館」などという名称を維持しているところは多数あります。

 「国語」という教科名は、単なる思い付きで使われてきたのではないのです。「国学(学問)」「国史(歴史)」「国民(民族)」という、「三重(三段重ね)の重箱」は、どれ一つが欠けても重箱の用をなさなかったのです。深入りしそうですから、方向を転換します。「国語」は「国の言葉」です、確かにそうですが、その「国」とは何を指して言うのでしょうか。それが宣長さんの言う「皇国の事」であるのは明らかでした。「皇国」というのは「天皇が統治する国」のことで、敗戦前までは「日本(大和)そのもの」だったのです。「すめらみくに」であり、他国を圧倒して優秀な国柄を誇っていた(そうです)。「皇国ノ興廃此(こ)ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」とは、日露戦争の日本海海戦時の戦艦「三笠」に掲げられたZ旗の檄文(東郷平八郎作)でした。そのように「皇国」「天皇の統(す)べる国」で使われるべき言葉、それが「国語」が担った機能・役割だったのです。もちろん、そこから作られるのが「臣民」でした。

 (運動会になると「軍艦マーチ」が轟(とどろ)いたものです。どうしてかな。ぼくはそれを聞くと、パチンコ屋を思い出します。結構はまっていたんですよ、「打ち止め」狙い。ここでもぼくは「非国民」でした)

 「英語」「米語」「仏語」「独語」「伊語」などという表記をしますが、欧米諸国はその地域内で使う言語という意味合いの名称を用いていました。その伝で言うと、どうして「日本語」にならないんですか。これがぼくの疑問、いや「国語教育」不審・不信といってもいい。ぼくは文学者でも「国語」研究者でもないから、言っても詮無いことのようですが、先に述べた雑誌の編集者にも、このような背景や事情がじゅうぶんに理解されて「国語教育」という雑誌名に拘っておられたのか、大いにぼくは訝っています。今から思うと、これまでの学校(小・中・高・大)時代、多くの国語教師に接してきましたが、ぼくが指摘しようとしている「国語」と「日本語」問題に、少しでも言及しようとした教師は、おそらく一人もいなかったと断言できそうです。「国語」を「日本語」に改称することに、どんな不都合があるのでしょうか。(「国語」であろうが、「日本語」であろうが、「どこに違いがあるんです」違いがないんだから「国語」でいいじゃないか、という向きが多勢である限り、「国語教育」は解放されないでしょうね)

 「漱石は日本人の先生であり、その作品は日本人の教科書である」「自然や人生や自分のことを考えたり迷ったりする時に、自分の内なる漱石が共に迷ったり考えたり感じたりする」と書いた内田百閒は、まさしく言葉の正しい意味で、「日本語」に関わって「正鵠を射る」文章を書いたのでした。漱石は日本人の先生で、その作品は日本人の教科書だという時、その教科書は「日本語」でなければならなかったでしょう。漱石の作品は、明治の「文明開化期」に大きな位置を占めていました。それは「国語」という維新期にふさわしい教育に資する言語(日本語としての「共通語」「標準語」)を生み出すために欠かせないテキストになったからです。漱石と並んで子規や鴎外なども、この「新しい言葉」を生み出すために大きな働きをしたのです。どこかで触れておきましたが、この国に初めて「国語」という名称を使った(作った)のは上田萬年さんでした。現在平凡社の「東洋文庫」で読める「国語のため」という著作は、この間の事情を余すところなく展開しています(いずれ、この問題について駄弁りたいと考えている)

 「国語は皇室の藩屏である。国語は国民の精神的血液である」という国粋色の濃厚な「国語」「国語言語」論は、やがて朝鮮侵略に不可欠となった「言語強奪」へとつながっていくのでした。(これはまた、別の機会に)

〇藩屏=おおい防ぐ垣根。守りの。また、守りとなる物のたとえ。かくれまがき。〔新令字解(1868)〕② 特に、皇帝・皇室の守護となること。また、その人(精選版国語大辞典)

〇 上田万年(うえだかずとし)(1867―1937)=国語学者。現代国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。(ニッポニカ)

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 次年度からの新学習指導要領で「国語の教科を実用的な文章の『現代の国語』と文学的な『言語文化』に分けた」という。分けたがどうだ、というのか。いったい何を考えているのかというなら、実は審議会の連中も文科省の官僚もほとんど考えていないと言っても間違いありません。教師や子どもが翻弄されてきたのが「教育行政」でしたが、行政の無作為(無計画)、これは文字通り「不易」に類することでしょう。「行政」ならぬ「虐政」であります。ぼくは学校時代、まったく本を読まなかった。自分の怠慢が第一の原因でしたが、「国語」教育が死ぬほどつまらなかったからでもあります。古文解釈と言って、「数行」読んでは、何でもかんでも分解するばかり、これが面白いという生徒がいたら「おへそで茶を沸かしてやる」といったくらいです。(「英語」も右に同じでした)

 だから、まず本を読まないで、外遊びに徹する、それがぼくの決意(というほどでもないが)だった。その代わりに(大学に入ったら)「狂ったように、本を読もう」と思ったのですが、思いは叶わず、今度は「室内ゲーム(飲み屋さん)」に入れあげてしまったのです。気が付いたら、もうこんな歳(手遅れであり)になってしまいました。「現代の国語」といい、「言語文化」という、その内容は、ぼくには定かではありませんが、名称だけを見ていると、なんだか「悪すぎる冗談」だという気がしてきました。「昔へ昔へ」と、草木も靡くということは不正(視野狭窄)(歴史の改竄)ではないですか。

 学習指導要領は十年をめどに改定されてきました。そのつど、教科書はすべて新たに作られる。採択されれば、時には数百万部の「空前のベストセラー」です。莫大な教科書代金が動くんですね。もう何十年も前になりましたが、ある教科書会社の幹部という人と会食する機会がありました。「三蜜」状態で、新宿辺の料理屋さんに呼ばれました。大変なものでした。「ぼくの知らない世界が、ここにあるんだ」と、ぼくは「井の中の蛙」であることを幸いだと思ったことでした。これは下種(下司・下衆)の勘繰りです。これまで一冊だったものが、二冊になったら、それにかかる費用はどうなるのでしょう。ぼくは昔から「教科書代(もちろん授業料も)は無償にすべき」だと主張していました。「義務教育はこれを無償に」の中に、当然入れるべきものでしたね。(高校も大学も、いまや「義務教育」ですよ)この下にある「指導用資料」も、ずいぶんと高価なんです。(明治期、何度か「教科書汚職」と言われる事件が起こっていましたね。「検定」といい、「採択」という「さじ加減」はいつだって生きているんですね)

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 「世界と日本」人間とわたし」、この言い方は、どこか変じゃないですか

 以下は余談です。ぼくは現場を離れていますから、実状に疎い。したがって、これから述べることは見当違いであることを断っておきます。上田萬年先生が「国語は国民の精神的血液である」と言われたことについて、それはそうであってほしいという願望であると同時に、そのような「国語という血液」に満たされた「国民を創る」という強い信念があったのだろうと推察します。この「国民」は、言い換えれば「臣民」だったはずで、天皇制国家における「赤子(せきし)」としての国民育成のための「国語教育」だった。今日において、ぼくは「国民」であることは、(法的)事実において誤りではないけれど、果して、ぼくの中に流れている「精神的血液」が「国語」であるかどうか、大いに疑わしいのです。面倒なことになりそうですから、切りを付けたいのですが、問題は複雑怪奇で、一筋縄ではいきません。

 「現代の国語」というのですから、「過去の国語」というものがあるに違いありません。それはどういうものであり、それとどのように異なるのが「現代の国語」なのか、実物を見なければ、確たることは言えそうにありません。その場合の「国語」をどのようにとらえているか、ぼくには疑問なしとしないのです。

 さらにもう一つの問題ですが、「言語文化」というものの内容です。「文化」は固有性を持っていますが、その固有性を自覚するためには異質なものを知らなければならないでしょう。ある種の「鏡」がなければ、自己認識は困難です。現状の「国語」に対して、異質な言語は何でしょうか。「分かり切ったことを言うな」と非難されそうですが、例えば、英語や韓国語(朝鮮語)というものが横にあって、初めて「日本語」の特徴というか、固有性が明らかになるのではないでしょうか。とするなら、その「国語」は、当然「日本語」ということになります。それでも「国語」でなければならぬ根拠はどこにあるのか、もうお里が知れているのですが、そろそろ「国語」(という表現を使用するのだけでも)は廃止して、「日本語」にすべき時期だろうと、ぼくは愚考している。

 「国語」と「外国語」というとらえ方に、ぼくは強い違和感を覚えます。もっとも、日本は「世界を相手に戦争した」国柄ですから、少しもおかしくないのでしょうが。でも「世界」の外にある「日本」というのは、どういうところに位置しているのですかね。「世界と日本」という、どいう了見でこんな言い方が出てくるのか。日本は「世界の外」というのですか。同じことだと思いますが、それなら「人間とわたし」というのはどうか。まるで「わたしは人間の外」「人間以外」と言っているようだし、実際に、そのように自己認識しているのですか。「オットセイとわたし」というのなら理解はできますね、わたしはオットセイじゃないからです。こんな言い方も「国語的表現」なら問題はないというのかもしれませんが、「日本語表記」としてはいただけないし、こんな表現をする当事者の頭脳の程度を強く疑われます。(さらに加えたい事柄がありますが、機会を改めて、「新しい指導要領」を一瞥して、底の浅かろう「愚見」を、しかも、「日本語」で書いてみたいものです)

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 捨てし身や焚火にかざす裏表(茅舎)

 サルもたき火でぽかぽか 愛知の日本モンキーセンター

愛知県犬山市の日本モンキーセンターは21日、鹿児島・屋久島に生息するヤクシマザルがたき火に当たり、暖を取る様子を報道陣に公開した。冬至の22日と来年1月末までの土日祝日、正月三が日は、一般の来園者も観察できる。(下はたき火に当たり暖を取るヤクシマザル=21日午前、愛知県犬山市の日本モンキーセンター)/ 約140匹のサルは、入れ代わり立ち代わり火を取り囲み、背中をあぶったり、毛繕いし合ったりしながら、くつろいだ表情に。職員が、たき火の下からサツマイモを掘り出すと、一斉に群がり、湯気の上がる熱々の焼き芋にかじりついていた。/ 飼育員の山田将也さん(34)は「寒い冬に暖まるのはサルにも必要なのか、顔色もよく見えた」と話した。/ センターによると、1959年の伊勢湾台風で出た倒木や廃材で職員がたいた火にサルが近づいてきたのがきっかけで、園の冬の風物詩になっている。(産經新聞・2021/12/21)(https://www.sankei.com/article/20211221-HZ57HOWTEJK5TJKWA6WFUI5BYA/)

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 その ① 猿が焚火にあたるということ 犬山モンキーセンターは、京都大学霊長類研究所が開設に深くかかわった施設で、現在は財団法人日本モンキーセンターが運営しています。霊長類研は今西錦司さんに始まる日本の霊長類研究の中核を担って、ここまで、世界における斯学の研究をリードしてきたのです。すでに触れていることですが、この京大霊長類研では金銭に関わる不祥事が発生し、学内ではこの研究所の統廃合を含めた検討が進められています。ぼくはこの研究所の仕事を早くから追っかけてきた一人として、事態の推移を関心をもって眺めています。どうして友だちのお猿さんたちから学ばなかったんですか、M先生。亡くなられた河合雅雄さんがいたら、さぞかし怒りに狂われるか、あるいは、「そんなもんや」と諦観を示したか。「人間は、やっぱりアカン、お猿さんに戻らな」と仰ったかもしれません。それはともかく、お猿さんたちが焚火を囲み暖をとる、その火中に「焼き芋」があり、やがてその「火中の芋」獲得を巡る激しい闘いが繰り広げられます。焚火に当たるのは、その「作戦会議」のようなものでしょうか。

 「たきび」(昭和十六年)という唱歌を知っておられるでしょう。ぼくは作詞(巽聖歌=詩人であり、生活綴方教育の指導にも尽力された)作曲(渡辺茂=都内の学校の教師で、校長を最後に退職された)の両者ともによく存じ上げている(直接ではなかったが)方でしたし、いろいろな機会にさかんに歌ったり、作詞作曲に関わったお二人のエピソードを話したりしてきましたので、ここでもたくさん駄弁りたい気分ですが、本日は止めておきます。子どもたちが通学路を、いろいろな話をしながら通っていると、山茶花の並木の傍(そば)で、誰かが焚火をしている。「あたろうか あたろうよ」と、少しは遠慮勝ちに、しかし、嬉しそうに手を出している、その手の「しもやけ」が痛そうだ、そんな風景が目に浮かびます。この「たきび」の現場だったところに、ぼくは何度か足を運びました。東京都の中野にありました。この「たきび」発祥の地はほかにもあります。何事においても、「本家争い」が絶えません。いまは「たきび」はご法度ですね、都内では。戦時中も「落ち葉は貴重な燃料だ」とかなんとか、それで「たきび」は禁じられたと言います。今から考えても、腹が立つほどに、なんとも愚かしい国だったし、今もその「愚かしさ」は増えたとは言えても、減じることは一切ないですね。(*「たき火」(https://www.youtube.com/watch?v=zJppZ5_0swM

 お猿さんの場合は、唱歌の内容とは趣がちがう、厳しい生存競争の一コマで、なんとも「寒暖の差」が激しい「越冬風景」なんですよ。それを人間どもは「お猿のクセに焚火だって」「微笑ましい」とか言って、カメラを向けるが、実はこの猿たちの焚火は今に始まったことではなく、悠久の昔からの「生活文化」に他ならないのであって、それを受け継いだのが、じつのところ人間たちだったのです。人間は「知恵」があるとか、猿は「三本足りない」とか言って、「万物の霊長」をひけらかしています。しかし、人殺しや原爆を競争して投下するような戦争は、金輪際、サル社会には見られません。少しは、猿を真似たらどうですか、それが本日の主題(駄文の趣旨)です。

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 その ② 実はおサルさんが温泉に入るということ お猿さんたちには入浴の習慣があるということを、近年になって人間が認めて驚いているのです。風呂に入るのは「俺たちだけ」と自慢げにしていると、とんでもないことが露見してしまうのです。風呂に入るのは猿だけではない、カピバラも馬も象も牛もキリンも、という具合に、誰だって浸かっていたんです。それを人間が真似したので、その逆ではありません。お猿さんのすることは、すべて人間が「遅れてきた猿」として模倣しているんです。いわば、猿の「後塵を拝する」というところです。その典型は「権力(ボス)争い」です。この争いは、あらゆる人間社会で見受けられます。カネや地位や名誉や、といろいろと「争い」のタネには事欠かないが、要するに最後は「力関係」によって決まるのです。ブラジルでは市長と元市議さんが政策論争の始末を「ボクシング」でつけるという事態がありました。市長が勝ったようですが。ボス争い、つまりは権力争いは「人間の特権」なんかではなく、「遅れてきた猿」のしがない証明でもあるんです。おそらくお猿さんは、正真正銘、自己の力限りで闘いますが、人間はさまざまな飛び道具(賄賂とかいう汚い手を使う)のも、遅れてきた証拠です。猿たちは裸一貫、人間どもは背広やネクタイをしているだけの違いです。なんで、人間は「裸で勝負」しないんでしょうね。

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 「地獄谷野猿公苑は、長野県の北部、上信越高原国立公園の志賀高原を源とする横湯川の渓谷に位置しています。 険しく切り立った崖に囲まれ、噴泉が絶えず噴煙を上げている、そのような光景に、いつしか人々はこの地を地獄谷と呼びました。標高850m、地獄谷の冬は厳しく1mを越える雪に覆われ、最低気温が-10℃を下回ります。人間を除く霊長類の生息北限とされる下北半島と比べても引けをとらない厳しい環境です。/ 地獄谷野猿公苑は、1964年開苑以来、ニホンザルの興味深い生態を間近で観察できる場所として、広く世界中の人々に愛されています。また、多くの研究者や写真家も訪れ、数々の成果を上げています。/ また、温泉に入るサルとしても知られ、1970年、米「LIFE」誌の表紙に掲載され海外にも報道されました。1998年の長野冬季オリンピックの際は選手、大会関係者、報道関係者等、世界中からの人々が大勢訪れ、話題となり、広く世界中に知られるところとなりました」「各地に野生動物が温泉で傷を癒したとか言う民話や伝説はありますが、どれも神話の域を出ません。しかし、地獄谷のサルたちが温泉に入るのは事実です。しかし、昔からサルたちが温泉に入っていた訳ではありません。/ 餌づけに成功し、サルたちが野猿公苑にいる時間が多くなると、エサを待つ間ののんびりする時間が出来ます。ある時、何かの偶然か子ザルが野猿公苑のすぐ近くの後楽館の露天風呂に入ることを覚えました。冬の寒いときに温泉に入っていると温かく気持がよかったのでしょう。/ 徐々に仲間の子ザルや他のサルもつられて温泉に入ることを覚えました。/ ヒトの温泉にサルが入っては衛生上好ましくないので野猿公苑内にサル専用の露天風呂を作りました。以来、代々、サルたちの間に温泉に入る行動が受け継がれています。(地獄谷野猿公苑HP;https://jigokudani-yaenkoen.co.jp/

(産經新聞の動画は ⇒ https://www.youtube.com/watch?v=N7OC8p6ES0w

その ③ 実はお猿さんは知恵があるということ いくつも例証がありますが、ここでは「海水でサツマイ洗い」を。これもすっかり有名になりました。お猿さんの「文化」の明らかな証明として、ここでお示ししたくなりました。お猿さんは、サツマイモを洗って食べるんです、それを人間が受け継いできたというわけ。宮崎県の幸島というところで観察された現象ですが、これについてはすでにどこかで触れています。幸島のお猿さんたちも、京都大学の霊長類研の管理によって維持されてきました。ここに研究員以上の「おサル博士」であったのが三戸サツヱさんでした(左 写真)。彼女がいなければ、幸島の猿の賢さが世界に知られることはなかったかもしれません。彼女は百頭を超えるお猿たちそれぞれに「固有名」を付け、深く猿たちから思慕された方です。彼女が亡くなった時に、お猿たちが喪に服したとか、服さなかったが、悲しんだとか。

 彼女は宮崎の人で学校の教師をしておられた。その傍ら、幸島のお猿の世話を受け持っていたのです。三戸さんが山で「サツマイモ」を与えたところ、一匹のサルがそれを山の水で洗ってたべた。海岸に降りてきて、同じようにサツマイモを与えたところ、一匹の猿が海水で洗い出したというのです。やがてすべての猿(塩水で洗う)がそれを行った。「最初に若い個体によって獲得され,それが血縁関係にある個体や遊び仲間など,とくに親しい関係を通じて徐々に群れ全体に伝播していった」(世界大百科事典)文化というのは、地面から生えるように、集団の中から生まれるんですね。今、ぼくたちの社会では「地から生え出る文化」は解体の憂き目に遭っています。世代交代が機能していないからです。学校よ、どうしてるんだ、出番がそこにあるではないか。

〇 三戸サツヱ( みと-サツエ)=1914-2012 昭和後期-平成時代の野生ザル研究家。大正3年4月21日生まれ。小学校教員のかたわら,昭和22年から宮崎県串間市沖の幸島(こうじま)で野生ザルの観察をはじめる。29年日本初の餌付けに成功。京大霊長類研究所の幸島野外観察施設研究員をつとめ,芋洗い行動の発見,群れの系図作成などの業績をあげた。49年吉川英治文化賞。平成24年4月7日死去。97歳。広島県出身。安田学園卒。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)

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 もちろん、洗剤などという怪しげで危険な化学薬品や物質には目も向けません。この「イモ洗い行動」はやがて各地のお猿さんに伝わったと言われています。愚見では、それは正しくないようで、本当は人間の誕生前からお猿たちには「文化」があり、それが人間による乱暴な破壊行為によって、お猿たちは身を潜めていたんだけなんです。人間のすることをお猿がすれば、それを「サル真似」と揶揄しますが、猿を人間が真似るのは「ヒト真似」といって非難こそすれ、それを評価しないのはどうかしています。「真似る(学習する)」という行為「学ぶ」の元になる行為であり、実は人間以外の動物一般に広く認められることであって、それが「いつでも、どこでも、学校(学ぶ機会)」というものの機能だったんです。人間が獲得したとされるもろもろのものは、実際には「お猿からの遺伝」であることがほとんどなんですね。「人間は遅れてきた猿」であることに変わりはないわけで、その自覚がないところから、人間社会の「悲劇」も「喜劇」も後を絶たないんです。

 万物の霊長とは「万物の中で最もすぐれているもの、すなわち人間のこと」(デジタル大辞泉)という。マジかよ、と言いたくなります。考えつく限りでの「悪逆非道」をすまし顔でやってしまう。信じがたいほどの「殺戮」を行う。これが「霊妙優秀な存在」のすることでしょうか。ぼくが「霊長類研究」に大きな関心を抱くのは、この「人間の悪」はどこから、どうして人間に棲みついてしまったのかということに関わっていることです。犬猫、牛馬などと同列にして「犬畜生にも劣る奴」などという悪罵を人間同士でぶっつけ合う。これはぼくの経験でも他の生き物には見られないことです。人を殺す、しかも大量に殺戮するための武器を懸命に考案して「ノーベル賞」だとは、まことに悪い、いや黒い冗談だよ。好きになり嫌いになり、挙句に、わが身を滅ぼし他者を傷つける。これもまたたの動物には絶えて見られないことです。人間であることは、どうしようもないほどに「展望のない存在」であることを言うのでしょうか。

 以前は、染色体レベルで猿と人間の差は90%程度と言わていました。しかし分析の精度が高まるに応じて、その差は微細・微妙になってきました。ほぼ9%以上が同じだとされるようになってきました。1%未満の差は案でしょうか。「サルに足りない、それが1%」というのですが、やがて、それは逆転するのではないかと、ぼくは見ています。猿になくて(がしなくて)人間にあるもの(するもの)、おそらく「自殺」であり、「殺人」であり、残虐な「殺戮」ではないか。表現はいいろいろに考えられますが、知恵や思考力というものに関しては、人間が優れていると思われますが、それを悪用すれば、とんでもないことになるでしょう。「智慧の実」を、人間はしこたま食してしまったんでしょうね。悪用された「智慧」は、もはや「智慧」ではありません。

 ぼくはルッソオという思想家を、若い頃に学びました。彼は、みずからの思想の根底に「自然に帰れ」という趣旨のことを据えていました。「神の手から出るときは善、人間の手(社会)によって堕落した」と。だから「文明」が進めば進むほど、人間の堕落は限りなく深く大きくなるというのです。現状はどうか。ルッソオの予言は的中したのでしょうか。その彼の顰(ひそみ)に倣って、(まるごと申年生まれの)ぼくは言いたい、「お猿に帰れ、今すぐにでも」と。だが、無理だろうな、余計な悪知恵がつきすぎたもんなあ。三本足りないと言って「お猿を嘲った」人間は、たった三本ばかり多いからと、みずからの生き方に苦しみ悩んでいるのです。自縄自縛というのですかね。「三本多いこと」はいいことではなかったんだ。

 手洗い(マスク)に注意して、「柚風呂」にゆっくりと入り、たきびで焼けた「焼き芋」でも齧りながら、わが身一人だけではない、この島合社会の「来し方」「行く末」を、じっくりと考えたいね、そこから生まれるのが「ひと知恵」というものですね。

 蛇足 お猿さんの顔が赤いのも、お尻が赤いのも、きっと「温泉と焚火」の習慣がいかほど長く続いてきたかの証明ですね。だから、このままで、人類が亡びもしないで「温泉と焚火」(あるいはそれに似たような代替物)の習慣を続けると、やがて「お尻とお顔も真っ赤っか」になるに違いない。「遅れてきたお猿」であることがいいよいよ明らかにされますぞ。人間社会にも、「赤い顔」がすでにたくさんいますが、これは「サケ」とかいう危険な飲み物のせいでしょう。ぼくもその昔は(恥ずかしいほど)「真っ赤」でしたな。

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 表題に掲げた川端茅舎、その渾身の一句と、ぼくが鑑賞するものを。

・金剛の露ひとつぶや石の上

〇 川端茅舎(かわばたぼうしゃ)(1897―1941)=俳人本名信一(のぶかず)。東京日本橋区蠣殻町(現、中央区日本橋人形町)生れ。川端龍子(りゅうし)は12歳年上の異母兄。独協中学卒業後、藤島武二絵画研究所に通い、のちに岸田劉生(りゅうせい)に師事した。1915年(大正4)『ホトトギス』に初入選し、1924年雑詠欄の巻頭を得た。その間武者小路実篤(むしゃのこうじさねあつ)の「新しき村」の村外会員になったり、京都東福寺の塔頭(たっちゅう)正覚庵(しょうがくあん)に寄寓するなど、求道的な生き方を追究した。1931年以降は脊椎カリエスにより、大田区大森の自宅で約十年に及ぶ病臥生活を続けた。『川端茅舎句集』(1934年、玉藻社)の中の「金剛の露ひとつぶや石の上」、または第二句集『華厳(けごん)』序に記された高浜虚子の「花鳥諷詠真骨頂漢」という言葉から、「茅舎浄土」と評された作者の俳境がうかがえる。(ニッポニカ)

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 鉈で割る冬至かぼちやのいびつなる

 【小社会】 ユズ活 「冬至」にちなみユズの話題を一つ。飲食店のアルコール提供が御法度だったコロナ禍の東京での話。高知産のゆず果汁で作るノンアルコールのハイボールが飲食業界で静かなブームになった。▼仕掛け人は料理雑誌の副編集長だった伊東由美子さん(51)。大の高知ファンで、来高のたびに日曜市で果汁を買い求め、ノンアルの炭酸割りを楽しんでいた。片っ端から味を試して回り、これと決めたひいきの店から取り寄せているというから筋金入りだ。▼ウイスキーを炭酸で割る定番のハイボールとは違う。冷やしたグラスにウイスキーの代わりにゆず果汁を注ぎ、炭酸で1対10に割る。「不思議とお酒を飲んでいる感じがします」▼コロナ禍で青息吐息の飲食店に提案すると「これはいける」。有名店がメニューに採用し、飲み方のバリエーションも広がった。特に女性の反応がよく「苦しい時にすごく助けられた」と店に感謝されたそうだ。▼誰に頼まれたわけでもない。「大好きな高知のゆず果汁をドリンクとして浸透させたい」との思いに駆られた勝手連的活動で「ユズ活と呼んでます」と笑う。なるほど。で、飲食の動向に詳しい元編集者から見て、高知のユズに未来はありますか。▼「コロナを経てアルコールに敏感な人が増えています。特に若い層。食事にも合うし、ノンアルゆずハイボールを飲みたい人は世界中にいる気がする。可能性はすごくあると思います」

12月22日のこよみ。
旧暦の11月19日に当たります。きのえ たつ 二黒 大安。
日の出は7時06分、日の入りは17時02分。
月の出は19時37分、月の入りは9時29分、月齢は17.8です。
潮は中潮で、干潮は高知港標準で1時28分、潮位0センチと、13時39分、潮位85センチです。
満潮は8時15分、潮位160センチと、19時08分、潮位159センチです。

12月23日のこよみ。
旧暦の11月20日に当たります。きのと み 一白 赤口。
日の出は7時07分、日の入りは17時03分。
月の出は20時36分、月の入りは10時09分、月齢は18.8です。
潮は中潮で、干潮は高知港標準で2時03分、潮位5センチと、14時15分、潮位86センチです。
満潮は8時51分、潮位156センチと、19時44分、潮位153センチです (高知新聞・2021/12/22)

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● 冬至(とうじ)=太の天球上の運行径路である黄道上のもっとも南にある点を冬至点といい、太陽がこの点を通過する時刻が冬至である。太陽の視黄経が270度に達する時刻で、赤緯はマイナス23度27分である。日本、中国のの二十四節気の一つで11月中である。太陽暦の12月22日ころにあたり、冬季の真ん中である。この日の正午における太陽の高度は北半球ではもっとも低く、昼の長さはもっとも短く、夜の長さはもっとも長い。南半球ではこの反対となる。中国、日本の太陰太陽暦では冬至は暦の計算の起算点として重要なものであるが、今日の天文暦の推算は春分点が重要な役をもつ。(ニッポニカ)

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 本日は「冬至」だそうです。ぼくはこの日の近くになると、「冬来たりなば春遠からじ」という文句を口にしたくなります。これは、今から二百年前のイギリスの詩人シェリー(Percy Bysshe Shelley・1792―1822)の「ODE TO THE WEST WIND」という長編詩の最後の行に述べられている文句です。<If Winter comes, can Spring be far behind ?>この詩については、どこかですでに触れています。「冬が来たって?それならどうして、春が遠いことがあるものか」冬のうちに、すでに「春の華やぎ」が準備されているのです。拙宅の、有るか無きかの樹木でも、もう小さな、硬い蕾の蕾とでもいうような固まりがたくさん作られている。 

 この日を境に、日一日と日足が延びてくるというか、日中の時間は勢いを増すように感じられます。もちろん寒さは、これからが本番ですが、気持ちの上では「峠を越えた」と言いたくなります。「破れ長屋で今年も暮れた」と歌ったのは村田某という歌手でしたし、歌われたのは「坂田三吉」という将棋指しでした。名うての癖のある職人気質の棋士でした。時代は変わり、令和の世に令名を馳せるのは藤井聡太四冠。向かうところ敵なしの勢いで、本年は棋界を席巻しました。まさに「西風の賦」の如く、春を謳歌しておられます。「吹けば飛ぶよな将棋の駒に 懸けた命を笑わば笑え」 

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 毎日飽きもしないで、駄文という積み木を重ねています。「賽の河原の石積み」に似ていなくもありません。特になにが書きたいという目的なんか探したくてもないのです。どうして?といぶかる向きがあろうかと存じますが、ぼくは暇つぶしに各地域の新聞コラムに、来る日も来る日も目を通します。これは新聞の政治や経済社会面の記事よりはるかにお手軽ですが、今の「時代や社会」がどのようにして動いているのか、動いていないのか。この社会はなにを病んでいるのか、病理の深さは、完治の可能性は、というように、毎日の明け暮れに何気なしに気がかりなことごとくを教えられるからであり、それが「呼び水」(あるいは「誘い水」)となって、遥かな記憶の彼方に漂流・沈潜している、ぼくの経験とつながる、通い合う、その瞬間が、ぼくにはたまらなく面白いということなんでしょう。

 昨日書いた文章で「神の言葉」、それが「人間なのだ」というイスラエルの「ラビ」であるという人の言葉を紹介しました。これが「呼び水」になって、ぼくの深い記憶の底に沈潜していた、ある「生き方の流儀」を、様々な人の生涯を通して考えさせてくれるのです。この「呼び水」がなければ、ぼくは、単なる「貧相な肉体」でしかないのですが、呼び水がうまく働いて、下がり切っていたぼくの記憶の水位を上げてくれるようなことがあれば、ぼくの衰亡寸前の脳細胞は、微かに奮い立とうとするのです。ほんの一瞬ですが、ね。

 あるいは「迎え酒」という経験も思い出されます。飲み過ぎて気分が悪いのに、次の朝か、お酒を飲むと不快な気分は「爽快」に早変わりというのですから、「酒は百薬の長」(医者いらず」だといいつつ、いったいぼくは何千回、この「百薬の長」を試みたでしょうか。別名「命水」というものを飲むと、「不快」のことごとくが、たちまちに快癒したのですから、酒が止められなくなったのですね。いつしか、「迎え酒」をするために、ぼくは深酒けするという「悪習」がついてしまった。もちろん、今はすっかり「下戸」に成り下がりましたので、実地に「迎え酒」は試していませんが、この駄文の集積の幾分かは「迎え酒」の気味があると自己判断しているのです。ぼくが酒を飲みだしたきっかけは、ある人が言った「酒中に真あり」という言い草だった。確かにそれは当たっていることもあったし、まったくの的外れのこともありました。信義にkん軽なく、酒は旨かったですね。

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〇よび‐みず ‥みづ【呼水】=〘名〙① 堰(せき)を作ってを引くこと。また、江戸時代、上水のこと。② 目的の水をさそい出すための水。ポンプから水が出ない時、別に小量の水を上から入れることなど。また、その水。さそい水。③ ある物事をひきおこすきっかけ。(精選版日本国語大辞典)

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 【国原譜】昔は野菜の種類が豊富でなかったこともあり、冬まで保存できる種類も限られていた。このため、冬は野菜の摂取も不足がちだ。▼先人たちの知恵の素晴らしさだが、夏に収穫する野菜でありながら、長期間の保存ができるかぼちゃが注目され、野菜不足を補う必要不可欠なものとなった。▼冬至にかぼちゃを食べる理由もそこにある。そしてビタミンBなどをはじめとした栄養価の高い野菜で、かぼちゃを食べると「風邪をひかない」とも言われてきた。▼1年で最も太陽の力が弱い日とされる冬至だから、冬至を過ぎれば、太陽の力も強まり運気も上昇するとも考えられてきた。かぼちゃは運をつけると信じられてきたようだ。▼冬至になぜかぼちゃを食べるか、いろいろ調べてみたら勉強になった。また「一陽来復」の言葉も冬至と深い関わりがある。冬至を境に太陽の力が増していく。▼今のコロナ禍で、これを乗り越えていくスタートであればいい。「風邪をひかない」かぼちゃを食べて、コロナに立ち向かいたいとも思う。きょうの冬至にいろいろ考えてみた。(治)(奈良新聞・2021.12.22)

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 冬至の日に因む句を、新旧取り混ぜて。こういう日にも、常に変わらず句を詠むのに辛苦される、俳人って、偉いんですね。ほとほと、ぼくは感心するばかりです。

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・けふ冬至餘生こたびはいかならむ (水原秋櫻子)  

・さむざむと日輪あそぶ冬至かな (飯田蛇笏)                           

・冬至湯の柚子にこゑかけ上りけり  (高澤良一)    

・一菜は冬至南瓜や患者粥 (百合山羽公)           

・鉈(なた)で割る冬至かぼちやのいびつなる (小田二三枝)   

・まだ母に冬至南瓜を切る力 (大庭星樹)

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 「一陽来復」というと、ぼくはそのを日含めた数日間の、ある神社の「お宮参り」の光景をどれだけ見たか。善男善女(だと思われる)数千数百の人々が「冬至」を期して参詣する。その場面に遭遇すると、暫し通行止めになり、警察官が出て交通整理をするほどの賑わいでした。半世紀近くも通い詰めた職場のごく近くに神社があったのです。ぼくは「罰当たり」にも、一度もお参りはしませんでしたが、お札やお守りは、誰かれからとなく、ありがたいことに恵んでいただきました。「一陽来復」というのですから、運勢が好い方向にいよいよ勢いを増すと言われていました。ぼくにはそのご利益は一向にありませんでしたが(貰い物のお札やお守りですから、幸運を期待するとは、ど厚かましいというのですね)。毎年、きっとお参りに来る、「お札を納めに参ります」という参詣客の姿・様子をを見ていて、「鰯の頭も信心から」という俗言をいつも思い浮かべていたものでした。もっと俗には、この神社は勢いがあるなあと、心底から感心していました。コロナ禍の昨今はどうでしょうか。この神社の境内には、ぼくのなけなしの青春時代の置き土産のようなものが、記憶の中に残されています。これは、いかに駄文とはいえ、ここに書くのを躊躇しますので、内密にしておきますわ。

〇 一陽来復(いちようらいふく)=万物の生成を陰と陽の二気に分ける考え方から、冬至をいう。夜を陰、昼を陽として1年を立春から大までの二十四節気に分けると、冬至が陰の極点となる。したがってこの日から陽がふたたび増してくることになる。古くはこの日を一陽来復または一陽嘉節(かせつ)として祝った。冬至と11月1日が重なる朔旦(さくたん)冬至などは、よりめでたいことであった。こうしたことから、春が巡ってくることや、めでたいことがふたたびくることを一陽来復というようになった。(ニッポニカ)

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 「人間は神の言葉」だと、どんな意味なのかな

 以前に紹介したことがある H.S. クシュナー著「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」の「扉」に、長男に向けて次のような言葉が掲げられています。著者の長男として生まれたアーロン。彼は聡明で元気な子だった。二歳にもならないのに、多くの恐竜の名を覚えた。どうして恐竜が絶滅したかを、大人に辛抱強く話したという。「アーロンは生後八か月で体重の増加がとまり、一歳になったころから髪が抜けおちはじめました。そのころから妻と私は、アーロンの健康について危惧を抱きだしたのです。三歳下の妹が生まれるとき、夫婦はボストン郊外に転居し、その近くで、子どもの成長障害を研究している小児科医がいることを知りました。アーロンを伴って医者に行くと、彼は「草老症(プロゲリア)」だと、夫妻に告げたという。

          アーロン・Z・クシュナーの(1963-1977)
          思い出に捧ぐ

   ダビデは言った。
   「子の生きている間に、わたしが
   断食して泣いたのは、
   『主がわたしをあわれんで、この子を
   生かしてくださるかも知れない』
   と思ったからです。
   しかし今は死んだので、わたしは、
   どうして断食しなければならないのでしょうか。
   わたしは再び彼をかえらせることができますか。
   わたしは彼のところに行くでしょうが、 
   彼は私の所に帰ってこないでしょう」
            (サムエル記下第十二章二二ー二三節)

 アーロンの身長はせいぜい一メートルどまりで、頭や体には毛が生えず、子どものうちから小さな老人のような風貌になり、十代の初めに死ぬだろう、と言われた。クシュナーさんが、この本を書いた理由はアーロンの存在にありました。「十四歳の誕生日の二日後に、アーロンは死んでいきました。この本は彼の本です。なぜなら、この世の苦悩や悪についての納得のできる説明をしようとする本書の成否は、アーロンと私たちが味わった体験をどれほど説明できているかにかかっているからです」

● プロジェリア症候群(ぷろじぇりあしょうこうぐん)Progeria Syndrome=新生児期から幼年期に発症し、全身の老化が異常に進行する早老症の一つ。発症の割合は新生児で400万人に1人、幼児期で約900万人に1人というきわめてまれな病気だが、発症すると通常の10倍程度の速さで老化が起こり、おもに動脈硬化による心機能障害や脳血管障害により平均13歳で死亡する。1886年にハッチンソンJonathan Hutchinson(1828―1913)が症例報告し、97年にはギルフォードHastings Gilford(1861―1941)がプロジェリア症候群と命名したが、これはギリシア語のProgeria老年)に由来する。現在までの症例は146例、生存している患者は約30名で、いまだ治療法がみつかっていない難病である。/ 2003年になって、病因はヒト1番染色体上にあるラミンAという遺伝子の突然変異により核膜が異常をきたすことによると判明したが、なぜそれが起きるか原因は明らかになっていない。この原因を追究し、治療法を確立することは、老化のメカニズムの解明にもつながるとされ、多くの学者の研究対象となっている。(ニッポニカ)

 繰り返し書きました、ぼくは神を信仰していない。「君は無神論者だ」と言われれば、そうかもしれないと返答します。それには、いくつかの理由がありますが、「神の意志」というものを当たり前に受け止めることが出来ないからです。「神の赦し」を乞う理由がないからです。ぼくがこのクシュナーさんの本に深く教えられたのは、「神は私たちに不幸をもたらしません」「人生の悲劇は神の意志によるものではないのですから、悲惨な出来事にみまわれたとしても、私たちは神に傷つけられたと感じる必要はありません」と断言している、その彼が「ラビ」であるということからでした。では、それでもなお、どうして「神なのか」と問われた時に、クシュナーさんは「その苦しみを乗り越えるために、神に目を向け、助けを求めればよいのです。神も私たちと同じように憤りに震えているのですから」という彼から、本当にぼくは教えられたのです。「神は、ぼくのうちにあり」と。

 何をもって「神」というか、そこに「信仰」や「宗教」の根拠があるのだと、ぼくは考えつづけてきました。ぼくが「悪に染まり切らない、切れない」のは、神の力や仏の慈悲といってもいいし、それは、ぼく自身の「よき人でありたい」という意欲であると理解してもいい。それは、ぼくには同じことだから。「わが内なる道徳律」といったのはカントでしたが、「わが内なる、人間でありたいという願い」と言い換えても、ぼくにとって、なにもは変わらない。「そのような願いや意欲を生むものはなんだろうか」と問われれば、ぼく自身の中にある「神的(仏的)なもの」と答えるほかありません。ぼくを超えたものへの意識が、ぼくに訴えてくるのです。「それは宗教だ」といわれれば、そうかもしれないとぼくは受け止めるだけです。ことばにはこだわらない。

 そのことをクシュナー氏は次のように言っていると、ぼく理解しています。「悲惨な出来事を起こすことも防ぐこともできない神は、人にはたらきかけ、人を助けようとする心を奮い立たせることで、私たちを助けているのです。ハシディズム(敬虔主義を重んじるユダヤ教の一派)を信奉する十九世紀のラビが述べているように、「人間は神のことば」なのです。悪い人だけにそれが起こるようにするのではなく(神にはそのようなことはできません)、苦しむ人の重荷を軽くし、虚しくなった心を満たすべく、友人や隣人の心を奮い立たせるという方法をとるのです」(同書)

 他者の苦しみに、ぼくたちは目を背けたり、耳を塞ぐことはできない。人生の不公平、不正義、それに対してぼくたちは怒りを感じます。それは「神の愛や怒りがわたしたちを通して現れたものであって、神の存在を示すもっとも確かな証明」と、彼は述べています。彼らにとっての「神」はそういうものなのでしょう。また、別の人には別の「神」がいても構わないのです。「捨てる神」がいれば、「拾う神」もいるというではないですか。

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 <卓上四季>花丸二重丸 神田沙也加さんの小さいころの夢は「大人になること」だった。生まれ変わったら「私じゃなければ何でも」いいと願った。昔の自分にかけたい言葉は「生きてね」。国民的アイドルと俳優の娘として生を受けた少女の容易ならざる歩みだ▼衆人環視で出歩く自由もなかった幼少期。圧倒的な親の存在感を前に自立を急いだ思春期。18歳で自分を見失い芸能活動を中断した。人生にタイトルを付けるなら「波瀾(はらん)万丈」だと語っていた(「Saya Little Player」マガジンハウス)▼ダイニングバーでこっそり働き、世間の「普通」が初めての自分にぞっとしたこともある。それでも出自を言い訳にせず、周囲の評価を誠実に受け止めた▼苦しみ傷ついた分だろうか。温かみのある演技が印象に残る。もがく中で差す光明もあった。2014年のディズニー映画「アナと雪の女王」の吹き替え版では主人公を担当。近年はミュージカルや舞台のほか、声優としても活躍の場を広げていた▼懸命に頑張る姿に引かれるファンも多かった。滞在先の札幌市内で急逝したとの一報に言葉を失った方もおられよう▼一つだけ欲しいものがあった。演劇界の何かの賞。「よくできました印」が押される気がすると3年前明かしていた。自身を縛る氷を溶かしたばかりか、他者の背中も押した35年の人生。その軌跡は誰の目にも花丸二重丸であった。(北海道新聞電子版・2021/12/21)

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 亡くなられた方について、ぼくは何も知りません。ただ、あまりにも「衝撃的な幕引き」に、胸が押し潰されるような痛みと、衝撃を受けて覚えた動揺を禁じ得ないでいるのです。その思いは多くの方も共有されているでしょう。一人の人間の苦しみの果てを、ぼくはこのようにしてしか受け止められない。「卓上四季」の記事は適切かち親切なものであり、死者に対する温かい思いを示されたと、ぼくは読みました。人生の長さや短さ、あるいはどんな環境で生まれるか、生きた時間の濃淡などなど、そのことによって、優劣や幸不幸を比較考量することはできなとぼくは考えています。人それぞれの「人生」があるというほかありません。どうして、彼女が「あのような最期を迎えたのか」、誰にも分からないし、分かったところで、誰を、どのように納得させるのか。何をしても、彼女は戻ってこない。「私はどうして断食しなければならないのか」

 生も死も、一人のものであると同時に、多くの人にも関わっているものだ、しかし、究極は「私」のものであること、それをこんなかたち(方法)でぼくたちは知らされたのです。ぼくは、一人の若い女性の死に、言葉にならない悲しみをこらえるばかりです。そして、図らずも「アーロン君の死」が甦ってきたのでした。(べつの駄文を書いていたのですが、思わないなりゆきで、こんな(不)具合になってしまいました。

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