
【談話室】▼▽柳誌「川柳やまがた」の2022年1月号が手元に届いた。何げない日常の描写や風刺の効いた世情観察に毎号共感、感心させられる。今号では〈切れ味の落ちたハサミと何処(どこ)までも〉(相田みちる)が印象に残った。▼▽目を通したのがたまたま新聞記事の切り抜きの合間で、はさみを手にしていたのが理由だろう。四半世紀近く使い続け、切れ味が鈍ったと気になってもいたところだ。句の作者は時事吟も鋭いだけに、同じように記事のスクラップに使っているのかもなどと想像が膨らんだ。▼▽19世紀後半から20世紀初めにかけて英語圏の女性の間でスクラップが流行した。「赤毛のアン」シリーズの作者モンゴメリもその一人。新聞、雑誌の記事や写真だけでなく、気に入った詩や美しい布地、押し花など、気分が上がるお気に入りの素材を集めて冊子に仕立てた。▼▽河出書房新社から出ている解説書によれば、当時世間の話題だった戦争に関するものは皆無という。今年の筆者の切り抜きは政界の不祥事や温暖化など気分が沈む話題が多かった。21年も明日付の新聞が最後だ。モンゴメリに倣いグッドニュースの切り抜きで締められれば。(山形新聞・2021/12/30)
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毎日の味気ない「駄文」を書いている、その本人に嫌気がさしてきています。本日は「大晦日(おおつごもり」」一日前。いかなる感慨や感傷もありません。束の間の陽だまりを利用して、猫たちが好き放題に破り呆けてしまい、そのままに放置していた「障子」を張り替えました。こんな仕事は何年ぶりですか。前に住んでいた家では、そこでも猫の悪行が絶えなかったので、かみさんは「障子戸」を、ぼくも知らないうちに処分(多分、粗大ごみに)していました。この家ではどうなりますか、襖も障子も畳も、被害は甚大ですから、ぼくは下手なりに「DIY」です、でも「畳」までは無理でしょう。張り替えた障子も、いずれすぐに破られるでしょうが、そうなれば、こちらも「破れかぶれ」です。
連日の気が沈む世上の事件や事故、それを払拭はできないにしても、験直しに「江戸の粋人」に学びたいと。川柳と狂歌の胆は「粋」でしょうか。ぼくにはいささかの素養もないので、ひたすら鑑賞専門です。そして、いささかの「精進潔斎」にも無縁ですのに、まあ、気の早い「精進落とし」のつもり(気分だけは)、江戸の先人に学びましょうという次第。新聞も「かく、あれかし」、江戸川柳や狂歌の万分一でも、教養や知性というものが欲しいと。それは、けっして「学校教育」からは生まれません。そこから離れなければ、ね。どうも、そんな気もしますね。
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◉ せんりゅう センリウ【川柳】=[1] ⇒からいせんりゅう(柄井川柳)[2] 〘名〙 (「川柳点」の略) 江戸中期に発生し、一七音を基準として機智的な表現によって、人事、風俗、世相などを鋭くとらえた短詩型文学。もともと俳諧の「前句付(まえくづけ)」に由来するが、元祿(一六八八‐一七〇四)以降、付味よりも、滑稽、遊戯、うがちなどの性質が拡充された付句の独立が要求されるようになり、一句として独立し鑑賞にたえる句を集めた高点付句集が多く出版され、新しい人事詩、風俗詩となった。享保(一七一六‐三六)頃から、点者の出題に応じた「万句合(まんくあわせ)」が江戸で盛んになり、その点者、柄井川柳が代表的存在であったところから「川柳」の名称が生まれる。文化・文政(一八〇四‐三〇)頃、「狂句」とも呼ばれた。川柳点。※黄表紙・金々先生造花夢(1794)「仰向いて搗屋(つきや)秋刀魚(さんま)をぶつり食ひ、とは川柳の名句であった」(精選版日本国語大辞典)

◉ 柄井川柳( からい-せんりゅう)=1718-1790 江戸時代中期の前句付(まえくづけ)点者。享保(きょうほう)3年生まれ。江戸浅草竜宝寺門前の名主をつとめるかたわら,宝暦7年初の万句合(まんくあわせ)を興行。明和2年付句(つけく)を抜粋した句集「柳多留(やなぎだる)」が人気を得,付句は短詩として独立し,点者の俳号から,のちに川柳とよばれた。寛政2年9月23日死去。73歳。名は正道。通称は八右衛門。別号に緑亭,無名庵。(デジタル版日本人名大辞典+Plus)
◉ 誹風柳多留(はいふうやなぎだる)=江戸中・後期に順次発刊された川柳句集「俳風柳樽」とも書く。1765年初編刊。1838年167編で終刊。初代柄井 (からい) 川柳(24編まで)から5世川柳までの投句を板行した『川柳評万句合 (まんくあわせ) 』の中から数万句を収録。初編から23編までの編者は呉陵軒可有 (ごりようけんかゆう) で,初代川柳生存中の24編までにこの小文芸の本質は出つくした観があり,以後狂句調になり,文学性を失った。江戸庶民の生態を知るのに好適な史料。(旺文社日本史辞典三訂版)
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以下、年忘れにはなりませんが、「柳多留」で、かってに「おだ」をあげましょうか。
誹風柳多留初篇
序
さみだれのつれづれに、あそこの隅こゝの隅より、ふるとしの前句付のすりものをさがし出し、机のうへに詠むる折ふし、書肆何某来りて此侭に反古になさんも本意なしといへるにまかせ、一句にて句意のわかり安きを挙げて一帖となしぬ。なかんづく当世誹風の余情をむすべる秀吟等あれば、いもせ川柳樽と題す。
于時明和二酉仲夏 浅下の麓呉陵軒可有述

古郷へ廻る六部は気のよわり じれったく師走を遊ぶ針とがめ よい事を言へば二度寄り付かず 習ふよりすてる姿に骨を折り
無いやつのくせに供へをでっかくし 病み上がりいただく事が癖になり 神代にもだます工面は酒が入り 雪見とはあまり利口の沙汰でなし 四日から年玉ぐるみ丸くなり 初雪に雀罠とは恥知らず

余計な詮索はしません。川柳はくり返し読んでみると、やはり「川柳なんだなあ」と思われてくる、そこに行くまで気長に読んでみることでしょうねえ、ぼくの経験ですが。一句目は、作家の藤沢周平さんの評論に出ていたので知りました。その雰囲気が「いいなあ」と。「六部(ろくぶ)」は、元はお経の巻数でしたが、やがてそれを運ぶ坊さんに同化した。その坊さんであっても、人の子です、ですから「里ごころ」がつこうというもの。とても気に入ったものでした。その藤沢さんは俳句もよくされました。
「雪見とは…」に、ぼくは共感するんです、その延長で「寺社や観光地の電飾」には強い違和感、あるいは「嫌悪感」を抱きます。わざわざ凍える心地までして、何で「雪見」なんですか、それは「風流」というものでしょうか、という江戸趣味人の「揶揄」でしたね。「接待に酒はつきもの」というのは、神代の昔からですからね、といっかな悪びれる風もなく。終わり二句は、どんなもんでしょう。二百五十年前の世情、人情を好きなようにあしらったり、洒落のめしたりしているのを、後生(こうせい)の凡人がうっとりとみとれているという景色ですか。「人間というものは、変わらないものだなあ」と、嬉しくもあり哀しくもある、まことに悲喜こもごもの感想・感傷が湧いてきます。

◉ 六部(仏教)(ろくぶ)=六十六部の略で、本来は全国66か所の霊場に一部ずつ納経するために書写された66部の『法華経(ほけきょう)』のことをいったが、のちに、その経を納めて諸国霊場を巡礼する行脚(あんぎゃ)僧のことをさすようになった。別称、回国行者ともいった。わが国独特のもので、その始まりは聖武(しょうむ)天皇(在位724~749)のときとも、最澄(さいちょう)(766―822)、あるいは鎌倉時代の源頼朝(よりとも)、北条時政(ときまさ)のときともいい、さだかではない。おそらく鎌倉末期に始まったもので、室町時代を経て、江戸時代にとくに流行し、僧ばかりでなく俗人もこれを行うようになった。男女とも鼠木綿(ねずみもめん)の着物に同色の手甲(てっこう)、脚絆(きゃはん)、甲掛(こうがけ)、股引(ももひき)をつけ、背に仏像を入れた厨子(ずし)を背負い、鉦(かね)や鈴を鳴らして米銭を請い歩いて諸国を巡礼した。(ニッポニカ)
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川柳と同じような趣向が働いているのが「狂歌」でした。(もちろん、今日も、よく詠われてはいます)
◉ 狂歌【きょうか】=滑稽(こっけい),洒脱(しゃだつ),風刺を主旨とし,用語,題材とも自由な短歌形式の文学。源流は《万葉集》に求められるが,ことに近世に盛行。近世狂歌は,元禄前後から上方中心に流行の浪花(なにわ)狂歌,天明年間江戸中心に流行の天明狂歌の2流がある。明治以後すたれる。主作者は,前者では油煙斎貞柳ら,後者では唐衣橘洲,朱楽菅江(あけらかんこう),四方赤良(大田南畝),平秩東作(へずつとうさく),宿屋飯盛(石川雅望)ら。(ニッポニカ)

白河の 清きに魚も すみかねて
もとのにごりし 田沼恋しき(大田南畝)
今までは 人のことだと 思ふたに
俺が死ぬとは こいつはたまらん(大田南畝)
「大田南畝の業績で最も知られているのは、五七五七七の歌を面白おかしく詠んだ狂歌でしょう。例えば、「世の中は酒と女が敵(かたき)なり どうか敵にめぐりあいたい」という歌には、時代を越えても変わらぬ面白さがあります。大田南畝は、狂歌、さらには、狂詩や戯作など、笑いに溢れた文芸作品をたくさん執筆し、ベストセラー作家として人気を博し、ついには物語の登場人物にもなりました。しかしそれはあくまで裏の顔。表の顔の南畝は、身分の低い幕臣(御徒歩職)として、70歳の高齢を過ぎても幕府への勤めに励んだ、真面目で実直な役人だったのです。昼は真面目に仕事に励み、夜は大勢の仲間たちと戯れる文化人。二つの世界を南畝は巧みなバランス感覚で渡り歩いていました」(太田記念美術館:http://www.ukiyoe-ota-muse.jp/)
◉ 大田南畝【おおたなんぽ】=江戸中・後期の文人。本名覃,通称直次郎。狂歌名四方赤良(よものあから),蜀山人。狂詩号寝惚(ねぼけ)先生。戯号山手馬鹿人。幕臣。19歳で平賀源内に認められ,以後,狂歌,狂詩,狂文,黄表紙,洒落(しゃれ)本,随筆,また正統的な詩文の各方面で文名をあげ,特に天明調を代表する狂歌作者として有名。江戸の文芸界の盟主のような活躍ぶりであったが,松平定信の時代には狂歌界などから離れ,晩年は江戸の代表的な知識人として認知され,随筆・考証に業績を残した。狂詩文に《寝惚先生文集》,狂歌文に《四方のあか》《蜀山百首》《狂歌百人一首》や朱楽菅江と共編の《万載狂歌集》,黄表紙評判記に《菊寿草》《岡目八目》,随筆に《一話一言》《俗耳鼓吹》《奴師労之(やっこだこ)》,洒落本に《甲駅新話》《粋町甲閨》などがある。(マイペディア)
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川柳や狂歌を「生業(なりわい)」にできるとは考えてもみませんでしたが、できるなら、そんな世界というか境地にいささか浸ってみたいなと、若い頃に痛感したのでした。もちろん、先立つものは「天稟」、つまりは能力ですから、とてもじゃないけど、ぼくには無理だと、あきらめも早かった。それ以前は「俳諧」とか「俳句」などと考えてもいましたが、これもまず「飯のタネ」にはとてもなりそうにないという、第一に世間が、そんなヤクザな稼業を許さなかったと、勝手に諦め、何もできない「勤め人」に終始してきました。実をいえば(ここだけの話)、ぼくは「大田南畝」にとても惹かれたし、憧れの人でもありました。「表の顔(役人)」と「裏の顔(自由な文化人)」を持っていたでしょ。裏と表は、本人においてすら、「相通じて」いなかった気配があるのです。今でも「表は代議士」「裏は金貸し」という、見上げたくない輩もござったし、「表は管吏」で「裏は詐欺師」という若手官僚もいるし、と、何が出てきても驚かなくなった、「己の感覚」の鈍麻が怖いね。
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