冬の夜、内も外も吹雪に襲われ、

 【筆洗】<燈火(ともしび)ちかく衣縫ふ母は春の遊びの楽しさ語る>−。尋常小学唱歌の「冬の夜」。厳しい冬の夜の家族だんらんを歌っている▼作詞、作曲者は不詳だが、作詞者は北国出身と想像する。<囲炉裏(いろり)火はとろとろ 外は吹雪>。家の中で母や父の話に耳を傾ける子どもの姿が浮かんでくる。外の厳しい寒さとのコントラストで家族の様子がより温かく感じられる。言語学者の金田一春彦さんがその詞を見事と評していた▼暖かい家を離れ、吹雪の外へと避難しなければならぬのか。無情な想定に穏やかな歌がかき消された気になる。北海道から東北地方の太平洋沖にある日本海溝・千島海溝沿いで巨大地震が起きた場合の想定被害である▼政府によると「冬の深夜」に発生した場合、津波による死者数は日本海溝の地震で最大十九万九千人、千島海溝の地震で同十万人に上るという▼雪深い地域での巨大地震。深夜に降り積もる雪の道を避難するのは大変なことで生死を握る避難速度はどうしても遅くなる。考えてみれば家を出る際、防寒着を身に着けるだけでも時間は余計にかかる▼極寒の中での避難は低体温症によるリスクも高い。想定はあくまで「冬の深夜」という最悪の場合だが、被害を最小限に食い止めるための知恵を急いで絞りたい。家族が気の毒だからと、「冬の深夜」だけは見逃してくれるほど、地震は心やさしくはない。(東京新聞・2021/12/26)

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 折しも劣島各地に記録的な大雪が降っています。車に閉じ込められたままの人もいるでしょう。雪降ろしに骨を折らなければならない人もたくさんおられます。何十年ぶりという大雪です。「囲炉裏火は とろとろ」というのはどこの家の話でしょうか。明治四十五年といえども、自然環境とそれがもたらす気象状況は、いまと似たようなものでしたろう。あるいは、昨今の研究報告等から見れば、さらに悪化しているかもしれません。唱歌に描かれる「雪」「冬」は、あるいは牧歌的、あるいは郷愁を誘うような、現実には見られない情景であり、なんとも観念的な「歌心」を育てていこうという傾向(狙い)が見て取れる。学校唱歌だから、それは当然だという向きもありましょう。この「冬の夜」は、いかにも田舎の「冬の夜」の定番のような風景画を詞に書き、歌にしているのではありませんか。まるで絵ハガキのようです。

◉ 冬の夜=日本の唱歌題名文部省唱歌。発表年は1912年。歌いだしは「燈火ちかく衣縫う母は」。(デジタル大辞泉) 

 これは明治四十五年三月、尋常小学校三年生用には発表されました。当時、すでに、「臣民」は挙って、「戦勝」に沸いた・舞い上がった、その「日清戦争」も「日露戦争」も「過ぎし昔」になっていたのです。この「二番」の歌詞が、戦後になって問題視され、「過ぎしいくさの手柄を語る」は「過ぎし昔の思い出語る」と変えられたという。しかし、その部分だけを変えたのですから、歌詞の前後が整わなくなったので、いつかしら「元の木阿弥」となったようです。いとも簡単に変更します、さらに変更を取り消します、これも簡単に。つまりは「朝令暮改」のオンパレード。この悪弊は、この島社会の拭い難い「慣習というか習慣」(悪習)(風俗)になっているんですね。

 歌詞にある「過ぎしいくさ」が「日清戦争」か「日露戦争か」は議論のあるところですが、論証なしに言うと、「日露戦争」だったと、ぼくは見ています。夜なべ仕事に「縄綯(な)い」をしている父が、居並ぶ子どもたちに語って聞かせた「手柄」とはどういうものだったか。ぼくには実感がわきません。いろいろな文献や資料などを読んでみた限りでは、「武勲」であるというものの、内容はそれぞれで、しかし「おれは敵兵を殺した」という報告は、ぼくの知る限りでは極めて少ないようです。第二次世界大戦時と日清・日露戦時とでは、多分、出兵兵士の「戦争感情」(奇妙な言い方をしています)は異なっていたと思われます。それに、いくら戦争であっても、人を殺したと自慢する人が、ホントにいるとはぼくには考えられません。語るにしても「仕方なかった」というばかりだったと。それを「手柄話」で子どもたちに語った場面が唱歌に登場するとは、怖いことでしたね。(「敵や仲間の傷病兵を助けた」「鉄砲は空に向けて撃った」「上官の命令に背いた」などというのは「手柄」にはならなかったでしょうね。いまなら「ノーベル平和賞」ものなんですがねえ)

*「冬の夜」歌鮫島有美子(ソプラノ)(https://www.youtube.com/watch?v=vsrgx7U7ABk

 子どもたちに語って恥じない「手柄」の内容がどんなものであれ、戦争に勝った、それも「大国相手の戦争に」という事大主義が「唱歌」に登場していることは否定できないでしょう。何時も言うように、「歌」や「言葉」が旗になる、あるいは「旗になる」ような「歌」や「言葉」が生み出されて、戦争を忌避する感情よりも、戦争に勝つ(敵を倒す)という闘争心や戦勝国の「優越性」を摺り込む意図があるとしたら、「唱歌」といえども、「唱歌」だからこそ、唾棄すべきでしょう。唱歌のすべてが「軍艦マーチ」や「露営の歌」のような、人民を根底からそそのかすものだというつもりはありませんが、そこを狙って、「国威発揚」「戦意高揚」「大国意識」を、子どもたちの中に徐々に育てていった揚げ句に「大東亜戦争」という、話にもならない「不正・不義」でしかなかった戦争に駆り立てられていったのも事実です。「兵隊さんは強かった」「兵隊は格好いい」「ぼくもなるんだ、若鷲特攻隊」「英雄、爆弾(肉弾)三銃士」「木口小平は死んでもラッパを放さなかった」と、ことあるごとに聞かされ、歌わされていたのが、学校現場でした。

 これはどこかで触れていますが、京都の小学校の三・四年生の担任だった男性教師が、授業を脇に置いて「日露戦争」「日本海海戦」状況を、熱心に板書までして「講談」並みの一席をいつでも語っていたのを、ぼくは子ども心に忘れません。脇に置かれた「授業内容」はほとんど記憶にないのです。それによって、大きくなったら兵隊さんになるという気持ちは、惰弱なぼくには微塵も生まれなかったし、そんな言葉は知らなかったが、この教師を「軽蔑」さえしていたと言えます。まだ、このような教師がたくさんいたのでしょう。昭和三十年(敗戦後十年ほど)になる頃までは。「いろり」「よなべ」「縄綯い」「藁打ち」「草鞋(わらじ)・草履(ぞうり)つくり」等、いずれもぼくも経験してきました。薪(まき)をくべながら、いろりを囲んで、といかにも田舎の定番風景ですが、ぼくは嫌だった。貧乏だったからという以上に、その雰囲気が好きになれなかった。いかにも家の中が「暗かった」からです。その生活の隅々までが暗い印象を、ぼくに植えつけたのではなかったか。もっとも住んでいた家が「納屋」だったか「蔵」のようなところだったから、なおさらそのように感じたのです。(ぼくの記憶では、田舎の村で「電燈設備」が敷設されたのは戦後もかなりたってからでした。正確な日時は覚えていませんが、提灯行列にぼくも参加した)

 少し前に紹介した「冬景色」あるいは「冬の星座」などにも、いかにも「唱歌」の狙いが貫通しているような歌でした。「麗しい日本の景色」「四季の豊かさ」を、じゅうぶんな経験を踏まえないで「歌わせる」、それがいつしか「懐かしい唱歌」になるのでしょう。「歴史体験・生活経験抜きの観念主義」教育の実例です。あるいは「現実」を作り変える偽装主義でもありました。学校教育というものは「感情」「情感」に訴えて、それでよし、とするものなのか。「観念」が人間を駆り立てるというのは、けっして正常なことではないのだと言いたい。最近は、学校においては、「唱歌」も軽視され、忘れられているのではないでしょうか。あるいは、従前ほどではないにしても、さまざまな経験や歴史を塗りつぶして「懐かしい日本の歌」というのはどうかといいたいですね。「歴史忘れ」「歴史離れ」「歴史の美化」を促進させるための恰好の手段になってきたのが「小学校唱歌」であったと、ぼくは考えてきました。

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 「<囲炉裏(いろり)火はとろとろ 外は吹雪>。家の中で母や父の話に耳を傾ける子どもの姿が浮かんでくる。外の厳しい寒さとのコントラストで家族の様子がより温かく感じられる。言語学者の金田一春彦さんがその詞を見事と評していた」というコラム氏の指摘に対してコメントはない、というか、コメントのしようがない、というか。この「歌詞」のどこが見事だというのでしょうか。内と外の「温かさと厳しさ」の「対比が見事」というのですか。驚くほどの低劣さ加減だし、吹雪というものの「怖さ」「激しさ」を知らないものが作った歌であり、その「合作」のちぐはぐさを「見事」と評する言語学者もいたものですね。ぼくは、ほんの少しだけですが、「吹雪」を体験しました。家を浚(さら)っていかれる怖さを感じ、囲炉裏にあたっていられるものではなかった。家の中で「春が来るとこんな遊びができるよ」「この前の戦争で、俺はこんな活躍をしたぞ(武勲功成り)」という父や母、その周りに居並ぶ子どもたちの観念過剰な追従ぶり(という陳腐な歌の姿ではないか)。この「長閑(のどか)」ですらある唱歌のどこに、「外は吹雪き」の厳しさが現れていますか。

 「筆洗」は、唱歌「冬の夜」ののどかさと、推定「冬の夜」の地震津波の被害の残酷さを並べた、その「対比」の筆さばきは「お見事」とは義理にも言えないし、言わない。東京にいて、暖房の利いた仕事場で「政府によると『冬の深夜』に発生した場合、津波による死者数は日本海溝の地震で最大十九万九千人、千島海溝の地震で同十万人に上るという」予想を、悲惨そうに装って語ってはいますが、被害者の数を数量化する(数字弄り・数字遊び)ことに腐心している「政府」「官庁」と、それを黙って報道する(垂れ流す)マスコミに、はたして人命の「尊さと儚さ」への想いがあるのでしょうか。それは、たくさんの「唱歌」にも通じる「観念の遊戯」です。いまなお、原発事故の被害者は、蒙った傷跡を、物心両面で抱えています。この数年来の台風や水害、地震の被災者も苦しんでおられる。「家族が気の毒だからと、『冬の深夜』だけは見逃してくれるほど、地震は心やさしくはない」と書いたコラムに、この「文末」に至って、「してやったり」と快哉を叫んだかどうか知りませんが、そんなことを言ってる場合ですか、いくらコラムだって、書きようがあろうというもの。 

 新聞やテレビの方こそ、「過ぎしいくさの手柄を語る」という愚を犯しているんじゃないんですか。歴史に学ぶと、時には声を大にして、正義を振りかざすが如くに叫びます、マスコミは。でも、いまのような態度でいいんですか、と老衰いちじるしい年寄りは、その非を鳴らしたい。「唱歌」だから、頭から懐かしいというのでは、その「唱歌」に付託された国家意思は見逃されるどころか、易々と肯定されてしまうのです。君は神経過敏じゃないかといわれるでしょうが、戦争の惨禍を再現させない・しないためには、ぼくたちは何をすべきか、何をしてはいけないか、そこに意識を当ててほしい。安易な不注意が「災厄」を呼び寄せる、その危険性は、いかにも些細だと思われるところに潜んでいるのです。

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 「外は吹雪き」の寒々とした荒々しい気配を詠んだ句を、順不同に、無差別に。「外は吹雪き」で、しかし、もっともっと「内は地獄」の報告が、ぼくのところにも、連日のように届いています。シングルママたちの SOS です。ぼくは、なけなしの財布の底をはたいています、いくらもあるものではありませんが。宝くじに縋(すが)るものの、あたったらすべてを「シングルママたちに」という夢を見ている、年の暮れです。

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・一瞬の地吹雪に地の動きけり( 瀬野美和子 )

・人死にし山月明の雪けむり (高須茂) 

・地吹雪の渦巻く芯に村一つ (相馬沙緻)

・地吹雪や柱のきしむおしら神 (小原啄葉)

・元日は大吹雪とや潔し(高野素十)

・宿かせと刀投げ出す吹雪かな(蕪村)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。