世界で一番恐ろしい病気は、孤独です

 仏の顔は何度でも クリスマスのにぎわいに、かえって物寂しさが増す人もいるのだろう。〈クリスマス・ツリーを飾る灯の窓を旅びとのごとく見てとほるなり〉大野誠夫(のぶお)▲お寺にとっては、人目を引く門前の掲示板も仏の道へと導く「灯の窓」らしい。広島都心部に立つ超覚寺の和田隆恩住職は、「掲示板職人」の異名を持つ。含蓄に富んだ寸言や人生訓を毎日のように張り替えるからだ▲3年前に仏教伝道協会が始めた「輝け!お寺の掲示板大賞」でもことし、大賞に選ばれた。受賞作は〈仏の顔は何度でも〉。仏様は慈悲深く、腹など立てぬそうだ。「仏の顔も三度まで」のことわざを裏返した職人技が光る▲やはり広島都心部にある妙慶院清岸寺の掲示板〈置かれた場所で/咲けないときは/逃げてもいいよ/咲けるところへ〉も入賞した。こちらはノートルダム清心女子大の元学長、故渡辺和子さんの本「置かれた場所で咲きなさい」が下敷きとみえる▲対面がはばかられるコロナ禍で、うつむき癖のついた人もいよう。脇目を振れば、胸打つ掲示板に行き当たるかもしれない。きのう超覚寺の掲示板は何と、マザー・テレサの警句だった。〈世界で一番恐ろしい病気は、孤独です〉(中國新聞デジタル・2021/12/26) 

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 ただいま12月27日、午前5時半を過ぎたところです。ようやく猫たちに食事を準備し、猫のトイレを掃除し終わり、パソコンの前に座って、ある音楽を聴きだしました。これが「生き物係り」のルーティンワーク、一日の始まりです。それぞれの食欲や体調なども、この時(出欠点検の際)にじっくり見ます。ただ今「八人」、出入り自由ですから、全員がそろわないこともしょっちゅう、朝帰りや数日帰らないものまでいます。もちろん朝寝坊もいる。ですから、大変といえばそうですが、当たり前というなら、こんな当たり前のことはありません。人間ほど心を痛くすることはあまりない。遊んで。学んで。疲れて。食事をとって。じっくりと睡眠に入る。これの繰り返し、猫でも人間でも変わりはまったくありません。(かみさんは熟睡中、誰よりも起床は遅い)ただ、猫たちはひとりで(by oneself)、何かをすることができる範囲が限られますから、その足りない部分をお手伝い、その反対もあるというわけで、「お互いさま」という気持ちが大事ですね。掃除を手伝ってくれます、ごみを増やして。「いつでも猫の手を借りています」「猫も人も命に変わりはない。教え教えられですよ」というのは「掲示板大賞」には及びもつかないが、その心持や姿勢は、大事ではないでしょうか。

 駄文を書くときはもちろんですが、それ以外に、本を読むときも、いわゆる「BGM」を流しつづけています。ぼくは「ながら族」で、住まいも「長柄族」であり、「長柄俗」でもあります。ぼくが流すBGMにはおおよその傾向があって、Kポップや演歌は先ずダメ。ジャズもあきません。体が勝手にスウィングしてしまう。駄文といえども一字も書けませんし、読書をする雰囲気そのものが壊されることになるからです。ぼくの定番は、ほんの二つか三つ。今流しているのは、もっともお気に入りの<Peder B. Helland>さんという、ノルウェイの作曲家のものです。タイトルは「Soothing Relaxation」。実にたくさんのライブラリー(作曲)があります。ぼくは起きている、パソコンで何かをしている、その時はつねに彼の「音楽」が流れています。もちろん、猫たちも耳を傾けている、ほんとかなあ。(彼のHP:https://www.pederbhelland.com/)

 その中で、いまこの瞬間には「Soothing Relaxation によるビューティフル リラックス曲・ピースフル ピアノ、チェロ&ギター曲」という曲が鳴っています。(*https://www.youtube.com/watch?v=6GVgncA9oiw)ぼくの老衰いちじるしい「脳力・能力」を、かろうじて支えてくれていると、いつも感謝しながら聞(聴)いているのです。今この部屋には、「四人」が遊んでいます。要するに、猫の遊び場で、ぼくは肩身を狭くしながら、「駄文・雑文」をため込もうとしているのですね。

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 本日の話題は「仏の顔は何度でも」という、ありがたい「お言葉」です。先日、どこかで紹介しておきました。このコラム、「天風録」は広島地方を販売中心にした新聞社のものですから、「掲示板」の受け止め方に気合が入っています。多分、広島のお寺さんは「輝け!お寺の掲示板大賞」の順位争いではで鎬(しのぎ)を削っているのではないでしょうか。ほかにも「お勤め」があると思いますので、手抜かりなく、ですね。それにしても、なんと「掲示板職人」がいらっしゃるんですね。大工さんかと思いきや、僧侶でした。「仏の顔も…」に拮抗するように、同じく広島のお寺さんは「置かれたところで…」を生み出されたと。なかなかやるじゃんと言いたいのですが、この「作品」が実行されるためにはどうするか。その「精進」こそ「仏の思し召し」ではないでしょうか。気の利いた箴言や洒落た表現は、目にはいると楽しいものですが、さて、それをいかにして「わがもの」にできるか、それが肝心ですね。

 「対面がはばかられるコロナ禍で、うつむき癖のついた人もいよう。脇目を振れば、胸打つ掲示板に行き当たるかもしれない。きのう超覚寺の掲示板は何と、マザー・テレサの警句だった。〈世界で一番恐ろしい病気は、孤独です〉」とコラム氏は提示しています。どうして「何と」なのか。ぼくにはよく理解できません。当たり前に読みとるなら、お寺さんであるにもかかわらず、キリスト教のテレサさんじゃないか、なんとまあ、広い視野をお持ちのお坊さんでしょう、そういうことになります。特に、広島での事情があるのかどうか。あるいは、単なるコラム氏の驚きと感動だったのか。このテレサの「言葉」が警句であるかどうか、ぼくには判断できませんが、「孤独」という病気そのものがあるのではなく、実際は「孤独(だと一人で決める)という思い込み、短慮」による「寄る辺なさ(helpless)」「心細さ」ではないでしょうか。それこそが「一番恐ろしい病気」だと言えるのかもしれません。

 この駄文用の文字をキ-ボードで打っている最中に、Helland さんの healing music が流れています。彼はどのような気持ちで、あるいは、今何をしておられるか、いろいろなことが気になっています。この音楽の作曲家の存在を、ぼくは知らず知らずに意識している、その意味では「孤独」とは別個の人間関係が成り立っているとも言えませんか。(こんな批判のようなものも、マザー・テレサに関してはありました)(*「マザー・テレサは聖人ではなかった」H.Post・2016年04月12日:https://www.huffingtonpost.jp/krithika-varagur/mother-teresa-was-no-saint_b_9658658.html)「虚実の綯(な)い交(ま)ぜ」とでもいうほかない存在、それが人間だし、その人を見る人が「虚を実に」「実を虚に」取り代えるということもあるでしょう。マザー・テレサは「聖人」であるというのは、一つの教団の決め事、それをとやかく言うほどのこともないだろうと、ぼくは考えています。あるいは、「毀誉褒貶」交々でも、それにもかかわらず、「マザーは立派だった」というべきか。

 「孤独」あるいは「孤立」というものが、いったいどこにあるかというと、お叱りを受けそうですが、ぼくがいいたいのは「孤独である」「孤立している」「だれとも話せない(話す人がいない)」と、狭い了見で自己限定をしている、その自己意識にしか「孤独感」は宿らないということでしょうが、現実には、そういうことはないのであって、いろいろな人と、いろいろな形でつながっている自分というものを再発見する、自分の傍(そば)にだれもいない、しかしどこかにいる人(にかぎらなくていいさ)たちとつながっているという感覚、視野の広さを持つ。そのためにはカネも暇もかかりません。実際に、ぼくには親父やおふくろ、兄弟姉妹がいたし、いまも健在でいる(と思っている)、かみさんがいて子どもたちがいる、猫もたくさんいる。友人知人も、滅多に会うこともないが、きっと元気で、あるいはつらい人生を送っているかもしれない、そんなよしなしごとを想うだけで、「ぼくはたった一人だ」という閉鎖してしまった「空間」や「境涯」から解放・開放されていると実感するのです。こんな愚昧なことはいくら言われても、何の足しにもならないと非難されるかもしれない。それで、結構。しかし、現実に「傍(そば)にいる人」に関心が向かず、かえって「孤独」を託(かこ)つという、まことに罰当たりな所業に出るのも人間です。

 今、何冊かの本を同時に読んでいます。その本を書いた人の「文章」を読むと、それを書いているときの著者の思考や動作をなぞるような気がするのです(それが何年、何百年前に書かれたとしても)。これから、駄文で扱おう・書こうとしている人が何人もいます。その一人がヘレン・ケラーです。彼女の「自伝」やその他の関係本を数冊、並行して再読三読しているところです。ぼくは、いかにも奇妙なことですが、小学生の頃、ヘレンに会ったという「幻想」(ではないつもり)を長年持ってきました。彼女の来日の履歴を調べてみると、会っていても不思議じゃないんです。京都の小学校に来られたという「錯覚」(かもしれない)が抜けない。彼女の姿がありありと「浮かぶ」のです。それはもう少し調べてからの話ですが。(ヘレンにアメリカで会って話をした人を、ぼくは知っています)

 ここでぼくが言いたいのは、彼女の書いたものを読んでいると、そこにヘレンがいて、いろいろな仕草をしているのを感じ取ることが出来る、それが読書という体験だと、ぼくはそのように本を読みます。(そういう経験を生まない読書は、少しぼくにはつらいですね。例えば物理の本だとか、数字の羅列本など、でも、その書かれたものの中に入れば、そうではないでしょうが)

 さらにまだ数冊、ある人が書かれたものを読んでいると、その人の生活や世界に、ぼくも近いづいているような感覚を持つのです。「孤独」「孤立」と、勝手に決めないことが大切じゃないですか、それだけがいいたいのです。生まれるときも一人、死ぬ時も一人、本当ですか?ぼくが「記憶の自主トレ」をしているのも、ぼくが思い出せないけれど、無数と言っていい人や物事が、きっとぼくの「記憶の貯蔵庫」には保存されている。ある種の「冷凍保存」です。それを取り出せない(忘れる)だけです。「貯蔵庫」は故障してはいないが、その蓋を開ける仕組みやあ明け方がおかしいから、「記憶されているもの」が取り出せないのがほとんどでしょう。しかし、いろいろな刺激を受けて、貯蔵庫に「他者と無関係に保存」されていると思っていたものが、呼び戻されて生き返ると、実は隣の貯蔵庫棚の人や物とつながりがあったのが、明らかになります。

 この駄文・雑文を重ねてきて、ぼくにはいいことがあったとは思いませんが、すっかり忘れていた記憶が、「呼び水」あるいは「誘い水」または「迎え酒」の効用によって、意図されない収穫がありました。これはちょっとした驚きでした。何か一つの記憶が蘇ると、それに付随して(連鎖していて)、こんなことがと思われるものがはっきりと、ぼくの脳裏に浮き出てくるのです。(このあたりの事情には微妙な仔細がありそうです。いずれ、ゆっくりと、そのための時間はいくらもないが、考えてみたいですね)(右上図は「認知症ネット」:https://info.ninchisho.net/symptom/s20)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。