この島を蹂躙する「横柄・傲慢株式会社」たち

 長いものには巻かれろ  オミクロン株が気にかかる年の暮れに、大組織をターゲットにした別の「病状」が相次いで報告されている。山口県では小松一彦副知事が、先の衆院選で現外相の林芳正氏の後援会に入るよう部下を通じて勧誘活動をしたとして、辞職に追い込まれた▲公正・公平を原則とする役所が特定候補の集票マシンとなっていいはずはない。なのに自民党候補のリーフレット配布は長年続く職場の慣例だったという。誰も異議を唱えなかったのか▲こちらは経費でカレンダーを買い、自民党国会議員の支援者らに配っていた。全国の郵便局長たちだ。日本郵便が今週発表した聞き取り結果によると、300人の局長が業務で得た顧客名簿を政治活動に流用していた▲三菱や日立のグループ企業では長らく検査不正がまかり通った。三菱では不正をためらう部下が上司に叱られ、自動車ブレーキを製造する日立では必要な検査を怠っていた。「安全」を「暗然」と言い換えたくもなる▲たちの悪い行為でも大勢で続けるうち、やがて後ろめたさは薄らいでいく。官民そろって「長いものには巻かれろ症候群」に侵され、自分を見失ってきたのかもしれない。大流行を食い止めなければ。(中国新聞デジタル・2021/12/25)

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 「長いものに巻かれろ」という、その「長いもの」とは何でしょう。あるいは「寄らば大樹の陰」という場合の「大樹」とはなにか。「親方日の丸」と、端的に言う時の、その「日の丸」が差しているものを、それぞれは表わしているとみられています。一義的には「国」でしょうが、その「国」はだれが動かしているか、だれが差配しているかという問題でしょう。つまりは「親方」はだれかというのです。さて、「親方は国」でいいんですか、どうですかね。それぞれの「俗言」の意とするところは、それで間違いはないのでしょうが、コラム氏が指摘されているように「「官民そろって…自分を見失ってきたのかもしれない」というお説に、ぼくは異論があります。名だたる「大企業」と自他ともに任じている会社(の名ばかりの代表者たち)や「官は国家なり」という驚嘆すべき自負心の塊のような官僚連中に、はたして「長いもの」や「大樹」などの「存在」が、そもそも目に入っているのでしょうか。

 むしろ、自らが「長いもの」であり、「大樹」だという、魂消た自己像をひけらかし、その結果、組織のあらゆるところがマヒしてしまっている「末端肥大」症の見本のような「自己誤認」「自意識過剰」が、このようなとんでもない「悪質」な典型的犯罪をいつでも維持してきたんではないんですか。「たちの悪い行為でも大勢で続けるうち、やがて後ろめたさは薄らいでいく」という、この程度の批判そのものが、じつは積年の「国家を恣(ほしいまま)にしている犯罪」意識にはいかほども痛痒を与えないし、むしろ、与えようとはしていない、報道の、その姿勢こそが、悪漢どもに見透かされてきたのだと、ぼくは言いたい。新聞やテレビなどのマスコミがどれほど騒ごうが、「痛くも痒くもない」という大ぴらの開き直りが罷り通っているのに、十年一日のごとく、「大流行を食い止めなければならない」と、まるで他人頼みの無責任です。寝惚けているね。「養う側」が「養われる側」の言うことを聞くのはどんな時か、広告掲載料で支えらていては、何事も中途半端であり、むしろ、「言わぬが花だ」ね。

 もうかなり前になりますが、M自動車の「不正検査」事件が発覚したことがあり、それをタネにしたテレビ番組が放映された。ぼくは、偶然それを見ていて、なるほどと、いやに納得したことがありました。このM社は、今回も「不正」が指摘されています。おそらく、どんなことがあろうとも「不正」(これを、この企業は「適性」と言い換えているし、その唯我独尊は、今でも罷り通っている)はなくならないと、ぼくはその番組を見て痛感した。元監督官庁の役人あがりがたくさん天下り、「調査の一部始終」を事前に漏らしていました。おそらく、同じようなことはあらゆるところ(職種・職場)で生じているし、それが指摘されるような「不正」であるという自覚は皆無でしょう、なぜなら、「不正」かどうかを決めるのは自分たちだという自負があるからです。自負というよりは「横柄」そのものです。傲慢であり、尊大です。手に負えない、愚連隊ですな。政・官の忠告や指導などは「歯牙にもかけていない」ということが、番組を見ていて分かったのです。

 こんな「企業社会」が国や自治体、それに人民たちを拉致し、その行く末(生命与奪の権)を牛耳っているんですよ。誰から何を言われても「痛くも痒くもない」という面の皮の厚さが物語っているんじゃないですか。(なんでぼくが、こんなふざけた問題指摘をしなければならないのか、いい加減にうんざりです)要するに、政治家や官僚を養ってやっているのは「俺たちである」という「殿様商人意識」そのものに支えられて、このような「不正」よばわり(指摘されたから「不正」という文字・表現は認めるし、謝罪したふりはするが)は、金輪際、自分たちはそれを「不正」とは認めないと、端から監督官庁を舐めてかかっているのです。「決めるのは俺たちだ」、そんな不遜な態度を貫いているから、かかる「不正」事件は続発しているのです。このところ、「天下り」問題が影を潜めていますが、むしろ増大しているから、こんなことが後を絶たないのであって、その証拠となるものじゃないでしょうか。警察権力の側の人間が「暴力団に天下り」したとして、され、、その後の取締りはどうなるんでしょう。「スパイ」を雇うようなものです。それとそっくりなことが、あらゆる企業で生じているのです。「飯を食わせてやっている側」が、どうして「食わせてもらっている側」の指摘に応諾(服従)するんですか。

 近年では国家予算は「百兆円」規模です。その内訳はともかく、百兆円の国家予算に、数次の補正予算や追加予算を組む。その「大枚の税金」をあらゆる手練手管を駆使して、すっかり「平らげる」、それが政治家や官僚が請け負わされている使命です。「長いもの」や「大樹」は実は「大企業」軍団だったと、ぼくは断言します。この大企業軍団には「二軍」や「三軍」「四軍」があり、それぞれがグループを形成して、国家予算の「分どり合戦」ならぬ「山分け合戦」をしてきたのが明治以降の島社会の「表街道」の歴史でした。そのありようが、火山の爆発のように、時として姿を現す。でも、地下は何時だって「爆発前夜」ですよ。例えば、今夏の五輪問題における「税金の濫費ぶり」、あるいはコロナ禍に実施されたもろもろの「給付金」「補助金」に関わる官民一体の「税金泥棒ぶり」など、ほんの氷山の一角、「火山の小爆発」を、ぼくたちは「チラ見」しただけです。見えないように、堂々と、(見つかれば、そのかぎりでは認める程度の)「不正」がいささかも悪びれるところなく行われてきたのです。政治家・官僚を「操っている」ともいえるし、「養ってやっている」ともいえる意識が消えてない。国家を動かしているのは「俺たちだ(誰のことだろう)」という強烈な自己慢心がスーツを着て闊歩しているのが見えないんですか、新聞屋さんたちよ。多分人口のかなりな部分は、この軍団のどこかに位置づけられている、だから、どんなにひどい腐敗政権であろうが、どこまでも続くのです。その状況(景色)が「見えてるけど、ホントのことは書けない、おっかなくて」、だろうね。その「新聞会社」も軍団の一部に入っているんだもの。

 大学受験や学歴問題の弊害がつとに指摘されながら、いっかな変えられようとしないのは、今の状況で「甘すぎる汁」を吸っているものが力を持っているからです。もうこんなことは反吐が出るほど、ぼくは言ってきたし、そろそろ開いた口が塞がらぬと、それを期待しているのですが、わが「虫唾」が黙ってくれないんです。大事なのは、「いい大学」だとか「いい企業」に入るという寝言を言う、そんな惰眠から、そもそも各自が目を覚ますことだし、「いいとか悪いとか」いう、世間の尺度を叩き壊す時期なんではないですか。自分の尺度を持ち、自分流に生きる道を創ることが求められています。「人が歩いた後から道はできる」と。

 「一寸の虫にも五分の魂」、あるいは「なめくじにも角」といいます。あまり好きではない言い方ではありますが、要するに、少しは「汚くない生き方」、あるいは、少しばかり「美しい生き方」をしたらどうです、そう自他に言い聞かせて、ぼくはここまでたどり着いたという気がするのです。「みっともない」「恥ずかしい」ということに無自覚になったら、なんだって平気でできます。「元ソーリ」のように、「恥ずかしい」「みっともない」「迷惑をかける」「権柄ずく」という軽薄丸出しの、その反動で、他者への意識が鈍麻してしまえば、どんなことだってヘイチャラです。いかにも「チャラい人間」というのは彼奴のことではないですか。彼には「無知・無能」という言葉が乗っている辞書はないんだ。じつに、恐るべき「桁外れの無神経人間」「多くの人民にとって、百害あって一利なしの存在」だと思う。

 ぼくは他人に誇るべき何ものも持たず、何事をも為さず、しかし、他人に後ろ指を指されない(指したい輩は無数にいたでしょう)(たとえ指されたとしても、思い当ることがないような)そんな歩き方をしてみたいと念じていたし、今も、それを念じています。ぼくは能力には欠けたところばかりだし、他人を凌駕したくなるような競争心もなかった。漱石ではありませんが「菫程な小さき人」として生きていたいと、今の今だって、懇望・懇願しているのです。それで、大切なものが何か欠けている、という感覚はぼくにない。それほどに「世間知らず」でありたいんですよ。

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◉ながい【長】 物(もの)には巻(ま)かれろ=権力勢力のあるものには反抗しないで、がまんして従っていた方が得だ。※随筆・老人雑話(1713)乾「汝家康へに往て間をよくすべし、長き物には巻れよと云事あり」(精選版日本国語大辞典)

◉ よら【寄】 ば 大樹(たいじゅ)の陰(かげ)=同じ頼るなら、のあるしっかりした人にたよるべきだということ。立ち寄らば大木の。(精選版日本国語大辞典) 

◉ おやかた【親方】 日(ひ)の丸(まる)=(親方日の丸、すなわち国の経営破綻をきたしても、国がその面倒をみてくれるからよいの意で、官庁や国営・公営企業などの安易な経営体質を皮肉っていうことば。※日本拝見‐八幡(1955)〈浦松佐美太郎〉「強兵」から「平和」へ「ここの従業員もある意味では恵まれた従業員だということになろう。『親方日の丸だ』という言葉がかつて流行したことがあるが、その言葉がよく当てはまる感じがする」(精選版日本国語大辞典)

◉ おう‐へい ワウ‥【横柄・押アフ柄】=〘名〙 (形動) (「おしから(押柄)」の音読。「おう」に「横」「大」、「へい」に「平」をあてることがある) おごりたかぶって、人を見さげたり無視したりする態度をとること。いばって無礼であること。また、そのさま。傲慢(ごうまん)尊大大柄(おおへい)。※虎寛本狂言・入間川(室町末‐近世初)「このあたりであのように某(それがし)におうへいにもうす者はござらぬ」※歌舞伎・韓人漢文手管始(唐人殺し)(1789)一「イヤ、押柄な侍、貴様はどこの者で、そういふ太平楽を言ふのじゃ」(精選版日本国語大辞典)

◉ いっすん【一寸】 の 虫(むし)にも五分(ごぶ)の魂(たましい)=どんなに小さく弱い者でも、それ相当の思慮や意地を持っているものだ。小さくても、ばかにできないたとえ。※極楽寺殿御消息(13C中)第四五条「たとへにも一寸のむしには、五分のたましゐとて、あやしの虫けらもいのちをはをしむ事我にたかふへからす」(精選版日本国語大辞典)

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 この「不正」は、いたるところで行われています。調べてみたから言うのではなく、この島社会の企業体質そのものが「不正の温床」になってきたからです。その不正企業を、上を下への大童で助けてきたのが政治家・官僚です。なにしろ、この「不正温床企業」は政・官タカリや軍団の「飯のタネ」だからです。「(作られた)不正」が発覚したら、予定通りのシナリオで、何事もなく収束、一件落着です。これを嫌になるほど繰り返してきたのが、近代日本社会ではなかったですか。儲けを大きくとろうとして「植民地経営」までも目指すことをいとわないでやってきました。その根幹を支えたのが「ハイエナ企業群」ではなかったでしょうか。戦争は商売の絶好の機会だと、これ幸いと、陰に陽に蠢動した、それが今も生き残って、戦地・植民地のような「悪逆非道」を働いているのです。

 今、この社会はどんな事態に陥っているか。並みいる悪徳企業は、「不正」問題をやり過ごせば、再び「わが世の春」が来るとみている(確信している)でしょうし、さしあたりは、いやなことだが、そうなるだろう。でも必ず、確実に人民・人心は放れる。(こんな悪徳企業に群がる就活生たちも、いつかは気が付く)(「大学が大学(就職予備校ではなく、さ)」になるのも、ここにかかっていると、ぼくは言いたいね。

 「他国の眼」は、この島の非道史をどのように見ているか。いま「日本は物価が安い」「時給も安い」と驚異の眼で他国から見られています。おそらく数十年前の東南アジア諸国を、この島人は「なんて物価が安いんだ」「月給が安い」と卑下していたでしょう。「貧しい国」「遅れた社会」と。でも、「貧しい」も「遅れた」も、欠陥ではないのです。そんなものは相対的なものであって、寸法の取り方でなんとでもいえます。しかも、その自覚があり、どうすれば社会的公正が得られるかに腐心すれば、ぼくたちは更生できるかもしれません。しかし、「自己を見る目」が曇っていれば、他者は見えないし、自己更生の道も閉ざされてしまいます。他者の「不正」や他人の「不幸」に目をつむり、「自助」だ「糸瓜(へちま)だ」と御託を並べて、誠実さや畏敬の念をいささかも持たないままでいることを恃(たの)んで。しかもそれを誇っている人間輩が幅を利かせるなら、その社会には、どうにも取り返しがつかない「不義」があると、ぼくは声を大にしていいたい。「貧しい」「遅れている」と言われる地域にも「誠意の溢れる」、他者に向かって「惻隠の情」を示すことのできる人々はいるのです。ぼくはそういう人にこそ、「ぼくも、その仲間になりたい」という感情を持つのです。

 ぼくたちは出口の見つからない、文字通りの「隘路」に堕ち込んでいるんでしょうね。他者に対する尊敬心も、自己にむけられる自尊心もない、あっても歪んでいる、そんな人間が大手を振って、「(あるか無きかの)天下」を睥睨している限り、あるいは闊歩している限り、後には、困難な道行だけが残されているのです。さてその処方はどこに見つけるのか、見つかるのか。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。