国語は国民の精神的血液である

 【河北春秋】ある出版社が夏目漱石作品集を出した際、作家の内田百閒が推薦文を寄せている。百閒は『日本人の教科書』と題して「漱石は日本人の先生であり、その作品は日本人の教科書である」と書いた▼具体的には「自然や人生や自分のことを考えたり迷ったりする時に、自分の内なる漱石が共に迷ったり考えたり感じたりする」という。百閒自身が敬愛してやまない漱石の作品は、若い人々に読まれて「年々新しく若返っている」▼時代を超えて読み継がれる文学作品は、読書の楽しみとは別に、人生の貴重な指針となり得る。名作に親しむ意義の一つだ。最近、気になるのは来年度から始まる高校の新学習指導要領。文学軽視の傾向が強まりそうだという▼国語の教科を実用的な文章の「現代の国語」と文学的な「言語文化」に分けた。結果的に古典や小説を扱う時間が減少する。現場の疑問の声は強く、また、出版社の中には「現代の国語」に小説を載せた社もあり、混乱している▼兵庫県の灘中学・高校の国語の先生だった橋本武さんは、中学の3年間を中勘助『銀の匙(さじ)』だけを丁寧に読み込む授業をした。生徒の読解力は飛躍的に伸びたという。文学がちゃんと読めることの大切さがこれでよく分かる。ちなみに、この小説は漱石が激賞した名作だ。(河北新報・2021/12/24)

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 かなり前のことですが、ある雑誌から原稿を依頼されて、書くことは引き受けはしましたが、ついでに、雑誌名に注文を付けたことがあります。編集者は驚いただろうと思いまっした。何度か頼まれ原稿を書いていたので、一度は言っておかなければという気になったのです。もちろん、ぼくの注文が届くはずもなかったわけで、相変わらず、この雑誌は「国語」教育界では名が通っているのだと思われます。その誌名は「国語教育」というものでした。誰も不思議に思わないとは、ぼくは思わないが、「国語」ってなんですかという問題です。当たり前に「国語」という教科を受け入れているし、その教科の「国語」教育(授業)にも、殆んどの人は違和感を抱かないのではないでしょうか。その代わりに、授業内容には「不満」はたっぷり抱くのかもしれません。おそらく、この「国語」という言葉は、あるいはその言葉が表そうとしている内容である「国語」は、明治以前にはなかったでしょう。「国学」という研究・学問領域はあったし、本居宣長さんなどがさかんに掘り起こしたのが、その「国学」でしたし、それがいよいよ勢いを増して、やがて維新直前には歪曲されつくした「国学」の、ある意味では全盛期であったとも言えそうです。戦時中はその「亜流」が我が世の春を決め込んでいました。その「国学」とは何ぞや、ホントはこれについて語らないと「国語」問題も宙に浮いてしまうのではと、ぼくは危惧してはいるのです。

 「国学」といっても、面倒なことになりますが、ここでは、簡単にしておきます。宣長さんが中興の祖のような役割を果たして以降、おおいに盛んになった「学問の一流派」であり、あるいは「儒学」、あるいは「洋学」に対抗すべく突き出されてきたものです。今でもこの、「流派の争い」は続いています。「国学」を一言で評するなら、「天皇の学問」ということになるでしょう。「天皇」という個人ではなく、「天皇」という語に表現されうる抽象性、それが「天皇」です。そこには歴代天皇の歴史に見られるべきさまざまな約束事、あるいは文化や伝統というものまで含まれます。宣長さんが「国学」という名称は「そはいたくわろきいひざま也」であって、むしろ「皇国の事の学」といえばよかった、つまりは「天皇の学問」です。

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〇 こく‐がく【国学】=〘名〙① 令制で、国ごとに設けられ、郡司子弟を教育した学校。教官には博士・医師を配置し、おもに経書や注釈書を教授した。学生の定員に余裕があれば庶人の入学も許された。諸国にすべて国学が設けられたか否か疑問であるが、大宰府には政庁に隣接してたてられ盛況を極めた様子がうかがわれる。国の大学。〔令義解(718)〕② 江戸時代中期に起こった学問の一つ。記・紀・万葉など、日本の古典を文献学的に研究し、固有の文化を究明しようとしたもの。契沖荷田春満(かだのあずままろ)賀茂真淵・本居宣長・平田篤胤などを中心として展開した。和学皇学皇朝学。古学。本教学。※うひ山ふみ(1799)皇国の事の学をば、和学或は国学などいふならひなれども、そはいたくわろきいひざま也」③ その国やなどで行なわれている学問。※葉隠(1716頃)一「御家来としては、国学可心懸事也」④ 中国、古代の制度で国都に設けた学校。隋以後は国子監という。〔礼‐春官・楽師〕[補注]本居宣長は、②の挙例にあるように「うひ山ふみ」のなかで、学問の名称としての「国学」を退け、自身では「古学」とよんでいる。

〇 初山踏(ういやまぶみ)=本居宣長(もとおりのりなが)の学問論。1798年(寛政10)成立。この年『古事記伝』を完成させた宣長は、弟子たちの求めに応じ、国学を志す初心者の心構えを説きした。賀茂真淵(かもまぶち)の『にひまなび』(1765成立)を意識しつつ、問の中心に「道」学びを据え、その勉強法を具体的に示し、さらに伝習や慣例にこだわらぬことなど学問の態度についても懇切に述べている。そのうえ国学を「道」学びに限定せず、歌文を学び、有職故実(ゆうそくこじつ)や国史の研究など、関連領域の重要さを述べ、国学の柔軟性をみせている。(ニッポニカ)

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 「すべて学問は、はじめよりその心ざしを、高く大きに立てて、その奥を究めつくさずはやまじと、かたく思ひまうくべし、此志よはくては、学問すすみがたく、倦み怠るもの也」「詮ずるところ学問は、たゞ年月長く、倦ずおこたらずして、はげみつとむるぞ肝要にて、学びやうは、いかやうにてもよかるべく、さのみかゝはるまじきこと也、いかほど学びかたよくても、怠りつとめざれば、功はなし、又人々の才と不才とによりて、其功いたく異なれども、才不才は、生まれつきたることなれば、力に及びがたし、されど大抵は、不才なる人といへども、おこたらずつとめだにすれば、それだけの功は有る物也、又晩学の人も、つとめはげめば、思ひの外功をなすことあり、又暇なき人も、思ひの外、いとま多き人よりも、功をなすもの也」

 「いかならむうひ山ぶみのあさごろも浅きすそ野のしるべばかりも」(以上は『うひ山ぶみ』より)

 余話です。三十過ぎの頃から、ぼくは心を躍らせて宣長を読みました。この「うひ山ぶみ」は何度読んだことでしょう。けっして「国学」オタクにもならず、「皇国史観」かぶれにもならなかったのが不思議なくらいに読んだものです。筑摩書房の(宣長全集」(全二十三巻)は、いまでも堂々とした風貌で、わが貧相な書棚に並んでいます。

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 「国語問題」についても、少しばかりあちこちで、ぼくは触れていますが、「日本の歴史」あるいは「日本史」は以前は「国史」と言っていました。これもやはり「天皇の歴史」です。さらには、この社会の文学文芸一般を「国文」「国文学」と称していたのは言うまでもありません。その典型は「王朝文学」であり、貴族社会の文化でもありました。今日では「日本文学」という名称(呼称)が圧倒的になりましたし、そのための「改名運動」のようなものがある時期に集中して行われたのです。しかしまだ「国史」や「国文学」という伝統的呼称に拘っている、あるいは改名の機運を逸したという判断で、旧来の名称(「昔の名前」で出ています)のままというものも結構ありますね。大学なんかは、このような「名称」により多くかかわって来たでしょう。いまでも「国学院」「国士館」「皇学館」などという名称を維持しているところは多数あります。

 「国語」という教科名は、単なる思い付きで使われてきたのではないのです。「国学(学問)」「国史(歴史)」「国民(民族)」という、「三重(三段重ね)の重箱」は、どれ一つが欠けても重箱の用をなさなかったのです。深入りしそうですから、方向を転換します。「国語」は「国の言葉」です、確かにそうですが、その「国」とは何を指して言うのでしょうか。それが宣長さんの言う「皇国の事」であるのは明らかでした。「皇国」というのは「天皇が統治する国」のことで、敗戦前までは「日本(大和)そのもの」だったのです。「すめらみくに」であり、他国を圧倒して優秀な国柄を誇っていた(そうです)。「皇国ノ興廃此(こ)ノ一戦ニアリ各員一層奮励努力セヨ」とは、日露戦争の日本海海戦時の戦艦「三笠」に掲げられたZ旗の檄文(東郷平八郎作)でした。そのように「皇国」「天皇の統(す)べる国」で使われるべき言葉、それが「国語」が担った機能・役割だったのです。もちろん、そこから作られるのが「臣民」でした。

 (運動会になると「軍艦マーチ」が轟(とどろ)いたものです。どうしてかな。ぼくはそれを聞くと、パチンコ屋を思い出します。結構はまっていたんですよ、「打ち止め」狙い。ここでもぼくは「非国民」でした)

 「英語」「米語」「仏語」「独語」「伊語」などという表記をしますが、欧米諸国はその地域内で使う言語という意味合いの名称を用いていました。その伝で言うと、どうして「日本語」にならないんですか。これがぼくの疑問、いや「国語教育」不審・不信といってもいい。ぼくは文学者でも「国語」研究者でもないから、言っても詮無いことのようですが、先に述べた雑誌の編集者にも、このような背景や事情がじゅうぶんに理解されて「国語教育」という雑誌名に拘っておられたのか、大いにぼくは訝っています。今から思うと、これまでの学校(小・中・高・大)時代、多くの国語教師に接してきましたが、ぼくが指摘しようとしている「国語」と「日本語」問題に、少しでも言及しようとした教師は、おそらく一人もいなかったと断言できそうです。「国語」を「日本語」に改称することに、どんな不都合があるのでしょうか。(「国語」であろうが、「日本語」であろうが、「どこに違いがあるんです」違いがないんだから「国語」でいいじゃないか、という向きが多勢である限り、「国語教育」は解放されないでしょうね)

 「漱石は日本人の先生であり、その作品は日本人の教科書である」「自然や人生や自分のことを考えたり迷ったりする時に、自分の内なる漱石が共に迷ったり考えたり感じたりする」と書いた内田百閒は、まさしく言葉の正しい意味で、「日本語」に関わって「正鵠を射る」文章を書いたのでした。漱石は日本人の先生で、その作品は日本人の教科書だという時、その教科書は「日本語」でなければならなかったでしょう。漱石の作品は、明治の「文明開化期」に大きな位置を占めていました。それは「国語」という維新期にふさわしい教育に資する言語(日本語としての「共通語」「標準語」)を生み出すために欠かせないテキストになったからです。漱石と並んで子規や鴎外なども、この「新しい言葉」を生み出すために大きな働きをしたのです。どこかで触れておきましたが、この国に初めて「国語」という名称を使った(作った)のは上田萬年さんでした。現在平凡社の「東洋文庫」で読める「国語のため」という著作は、この間の事情を余すところなく展開しています(いずれ、この問題について駄弁りたいと考えている)

 「国語は皇室の藩屏である。国語は国民の精神的血液である」という国粋色の濃厚な「国語」「国語言語」論は、やがて朝鮮侵略に不可欠となった「言語強奪」へとつながっていくのでした。(これはまた、別の機会に)

〇藩屏=おおい防ぐ垣根。守りの。また、守りとなる物のたとえ。かくれまがき。〔新令字解(1868)〕② 特に、皇帝・皇室の守護となること。また、その人(精選版国語大辞典)

〇 上田万年(うえだかずとし)(1867―1937)=国語学者。現代国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。(ニッポニカ)

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 次年度からの新学習指導要領で「国語の教科を実用的な文章の『現代の国語』と文学的な『言語文化』に分けた」という。分けたがどうだ、というのか。いったい何を考えているのかというなら、実は審議会の連中も文科省の官僚もほとんど考えていないと言っても間違いありません。教師や子どもが翻弄されてきたのが「教育行政」でしたが、行政の無作為(無計画)、これは文字通り「不易」に類することでしょう。「行政」ならぬ「虐政」であります。ぼくは学校時代、まったく本を読まなかった。自分の怠慢が第一の原因でしたが、「国語」教育が死ぬほどつまらなかったからでもあります。古文解釈と言って、「数行」読んでは、何でもかんでも分解するばかり、これが面白いという生徒がいたら「おへそで茶を沸かしてやる」といったくらいです。(「英語」も右に同じでした)

 だから、まず本を読まないで、外遊びに徹する、それがぼくの決意(というほどでもないが)だった。その代わりに(大学に入ったら)「狂ったように、本を読もう」と思ったのですが、思いは叶わず、今度は「室内ゲーム(飲み屋さん)」に入れあげてしまったのです。気が付いたら、もうこんな歳(手遅れであり)になってしまいました。「現代の国語」といい、「言語文化」という、その内容は、ぼくには定かではありませんが、名称だけを見ていると、なんだか「悪すぎる冗談」だという気がしてきました。「昔へ昔へ」と、草木も靡くということは不正(視野狭窄)(歴史の改竄)ではないですか。

 学習指導要領は十年をめどに改定されてきました。そのつど、教科書はすべて新たに作られる。採択されれば、時には数百万部の「空前のベストセラー」です。莫大な教科書代金が動くんですね。もう何十年も前になりましたが、ある教科書会社の幹部という人と会食する機会がありました。「三蜜」状態で、新宿辺の料理屋さんに呼ばれました。大変なものでした。「ぼくの知らない世界が、ここにあるんだ」と、ぼくは「井の中の蛙」であることを幸いだと思ったことでした。これは下種(下司・下衆)の勘繰りです。これまで一冊だったものが、二冊になったら、それにかかる費用はどうなるのでしょう。ぼくは昔から「教科書代(もちろん授業料も)は無償にすべき」だと主張していました。「義務教育はこれを無償に」の中に、当然入れるべきものでしたね。(高校も大学も、いまや「義務教育」ですよ)この下にある「指導用資料」も、ずいぶんと高価なんです。(明治期、何度か「教科書汚職」と言われる事件が起こっていましたね。「検定」といい、「採択」という「さじ加減」はいつだって生きているんですね)

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 「世界と日本」人間とわたし」、この言い方は、どこか変じゃないですか

 以下は余談です。ぼくは現場を離れていますから、実状に疎い。したがって、これから述べることは見当違いであることを断っておきます。上田萬年先生が「国語は国民の精神的血液である」と言われたことについて、それはそうであってほしいという願望であると同時に、そのような「国語という血液」に満たされた「国民を創る」という強い信念があったのだろうと推察します。この「国民」は、言い換えれば「臣民」だったはずで、天皇制国家における「赤子(せきし)」としての国民育成のための「国語教育」だった。今日において、ぼくは「国民」であることは、(法的)事実において誤りではないけれど、果して、ぼくの中に流れている「精神的血液」が「国語」であるかどうか、大いに疑わしいのです。面倒なことになりそうですから、切りを付けたいのですが、問題は複雑怪奇で、一筋縄ではいきません。

 「現代の国語」というのですから、「過去の国語」というものがあるに違いありません。それはどういうものであり、それとどのように異なるのが「現代の国語」なのか、実物を見なければ、確たることは言えそうにありません。その場合の「国語」をどのようにとらえているか、ぼくには疑問なしとしないのです。

 さらにもう一つの問題ですが、「言語文化」というものの内容です。「文化」は固有性を持っていますが、その固有性を自覚するためには異質なものを知らなければならないでしょう。ある種の「鏡」がなければ、自己認識は困難です。現状の「国語」に対して、異質な言語は何でしょうか。「分かり切ったことを言うな」と非難されそうですが、例えば、英語や韓国語(朝鮮語)というものが横にあって、初めて「日本語」の特徴というか、固有性が明らかになるのではないでしょうか。とするなら、その「国語」は、当然「日本語」ということになります。それでも「国語」でなければならぬ根拠はどこにあるのか、もうお里が知れているのですが、そろそろ「国語」(という表現を使用するのだけでも)は廃止して、「日本語」にすべき時期だろうと、ぼくは愚考している。

 「国語」と「外国語」というとらえ方に、ぼくは強い違和感を覚えます。もっとも、日本は「世界を相手に戦争した」国柄ですから、少しもおかしくないのでしょうが。でも「世界」の外にある「日本」というのは、どういうところに位置しているのですかね。「世界と日本」という、どいう了見でこんな言い方が出てくるのか。日本は「世界の外」というのですか。同じことだと思いますが、それなら「人間とわたし」というのはどうか。まるで「わたしは人間の外」「人間以外」と言っているようだし、実際に、そのように自己認識しているのですか。「オットセイとわたし」というのなら理解はできますね、わたしはオットセイじゃないからです。こんな言い方も「国語的表現」なら問題はないというのかもしれませんが、「日本語表記」としてはいただけないし、こんな表現をする当事者の頭脳の程度を強く疑われます。(さらに加えたい事柄がありますが、機会を改めて、「新しい指導要領」を一瞥して、底の浅かろう「愚見」を、しかも、「日本語」で書いてみたいものです)

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