「人間は神の言葉」だと、どんな意味なのかな

 以前に紹介したことがある H.S. クシュナー著「なぜ私だけが苦しむのか 現代のヨブ記」の「扉」に、長男に向けて次のような言葉が掲げられています。著者の長男として生まれたアーロン。彼は聡明で元気な子だった。二歳にもならないのに、多くの恐竜の名を覚えた。どうして恐竜が絶滅したかを、大人に辛抱強く話したという。「アーロンは生後八か月で体重の増加がとまり、一歳になったころから髪が抜けおちはじめました。そのころから妻と私は、アーロンの健康について危惧を抱きだしたのです。三歳下の妹が生まれるとき、夫婦はボストン郊外に転居し、その近くで、子どもの成長障害を研究している小児科医がいることを知りました。アーロンを伴って医者に行くと、彼は「草老症(プロゲリア)」だと、夫妻に告げたという。

          アーロン・Z・クシュナーの(1963-1977)
          思い出に捧ぐ

   ダビデは言った。
   「子の生きている間に、わたしが
   断食して泣いたのは、
   『主がわたしをあわれんで、この子を
   生かしてくださるかも知れない』
   と思ったからです。
   しかし今は死んだので、わたしは、
   どうして断食しなければならないのでしょうか。
   わたしは再び彼をかえらせることができますか。
   わたしは彼のところに行くでしょうが、 
   彼は私の所に帰ってこないでしょう」
            (サムエル記下第十二章二二ー二三節)

 アーロンの身長はせいぜい一メートルどまりで、頭や体には毛が生えず、子どものうちから小さな老人のような風貌になり、十代の初めに死ぬだろう、と言われた。クシュナーさんが、この本を書いた理由はアーロンの存在にありました。「十四歳の誕生日の二日後に、アーロンは死んでいきました。この本は彼の本です。なぜなら、この世の苦悩や悪についての納得のできる説明をしようとする本書の成否は、アーロンと私たちが味わった体験をどれほど説明できているかにかかっているからです」

● プロジェリア症候群(ぷろじぇりあしょうこうぐん)Progeria Syndrome=新生児期から幼年期に発症し、全身の老化が異常に進行する早老症の一つ。発症の割合は新生児で400万人に1人、幼児期で約900万人に1人というきわめてまれな病気だが、発症すると通常の10倍程度の速さで老化が起こり、おもに動脈硬化による心機能障害や脳血管障害により平均13歳で死亡する。1886年にハッチンソンJonathan Hutchinson(1828―1913)が症例報告し、97年にはギルフォードHastings Gilford(1861―1941)がプロジェリア症候群と命名したが、これはギリシア語のProgeria老年)に由来する。現在までの症例は146例、生存している患者は約30名で、いまだ治療法がみつかっていない難病である。/ 2003年になって、病因はヒト1番染色体上にあるラミンAという遺伝子の突然変異により核膜が異常をきたすことによると判明したが、なぜそれが起きるか原因は明らかになっていない。この原因を追究し、治療法を確立することは、老化のメカニズムの解明にもつながるとされ、多くの学者の研究対象となっている。(ニッポニカ)

 繰り返し書きました、ぼくは神を信仰していない。「君は無神論者だ」と言われれば、そうかもしれないと返答します。それには、いくつかの理由がありますが、「神の意志」というものを当たり前に受け止めることが出来ないからです。「神の赦し」を乞う理由がないからです。ぼくがこのクシュナーさんの本に深く教えられたのは、「神は私たちに不幸をもたらしません」「人生の悲劇は神の意志によるものではないのですから、悲惨な出来事にみまわれたとしても、私たちは神に傷つけられたと感じる必要はありません」と断言している、その彼が「ラビ」であるということからでした。では、それでもなお、どうして「神なのか」と問われた時に、クシュナーさんは「その苦しみを乗り越えるために、神に目を向け、助けを求めればよいのです。神も私たちと同じように憤りに震えているのですから」という彼から、本当にぼくは教えられたのです。「神は、ぼくのうちにあり」と。

 何をもって「神」というか、そこに「信仰」や「宗教」の根拠があるのだと、ぼくは考えつづけてきました。ぼくが「悪に染まり切らない、切れない」のは、神の力や仏の慈悲といってもいいし、それは、ぼく自身の「よき人でありたい」という意欲であると理解してもいい。それは、ぼくには同じことだから。「わが内なる道徳律」といったのはカントでしたが、「わが内なる、人間でありたいという願い」と言い換えても、ぼくにとって、なにもは変わらない。「そのような願いや意欲を生むものはなんだろうか」と問われれば、ぼく自身の中にある「神的(仏的)なもの」と答えるほかありません。ぼくを超えたものへの意識が、ぼくに訴えてくるのです。「それは宗教だ」といわれれば、そうかもしれないとぼくは受け止めるだけです。ことばにはこだわらない。

 そのことをクシュナー氏は次のように言っていると、ぼく理解しています。「悲惨な出来事を起こすことも防ぐこともできない神は、人にはたらきかけ、人を助けようとする心を奮い立たせることで、私たちを助けているのです。ハシディズム(敬虔主義を重んじるユダヤ教の一派)を信奉する十九世紀のラビが述べているように、「人間は神のことば」なのです。悪い人だけにそれが起こるようにするのではなく(神にはそのようなことはできません)、苦しむ人の重荷を軽くし、虚しくなった心を満たすべく、友人や隣人の心を奮い立たせるという方法をとるのです」(同書)

 他者の苦しみに、ぼくたちは目を背けたり、耳を塞ぐことはできない。人生の不公平、不正義、それに対してぼくたちは怒りを感じます。それは「神の愛や怒りがわたしたちを通して現れたものであって、神の存在を示すもっとも確かな証明」と、彼は述べています。彼らにとっての「神」はそういうものなのでしょう。また、別の人には別の「神」がいても構わないのです。「捨てる神」がいれば、「拾う神」もいるというではないですか。

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 <卓上四季>花丸二重丸 神田沙也加さんの小さいころの夢は「大人になること」だった。生まれ変わったら「私じゃなければ何でも」いいと願った。昔の自分にかけたい言葉は「生きてね」。国民的アイドルと俳優の娘として生を受けた少女の容易ならざる歩みだ▼衆人環視で出歩く自由もなかった幼少期。圧倒的な親の存在感を前に自立を急いだ思春期。18歳で自分を見失い芸能活動を中断した。人生にタイトルを付けるなら「波瀾(はらん)万丈」だと語っていた(「Saya Little Player」マガジンハウス)▼ダイニングバーでこっそり働き、世間の「普通」が初めての自分にぞっとしたこともある。それでも出自を言い訳にせず、周囲の評価を誠実に受け止めた▼苦しみ傷ついた分だろうか。温かみのある演技が印象に残る。もがく中で差す光明もあった。2014年のディズニー映画「アナと雪の女王」の吹き替え版では主人公を担当。近年はミュージカルや舞台のほか、声優としても活躍の場を広げていた▼懸命に頑張る姿に引かれるファンも多かった。滞在先の札幌市内で急逝したとの一報に言葉を失った方もおられよう▼一つだけ欲しいものがあった。演劇界の何かの賞。「よくできました印」が押される気がすると3年前明かしていた。自身を縛る氷を溶かしたばかりか、他者の背中も押した35年の人生。その軌跡は誰の目にも花丸二重丸であった。(北海道新聞電子版・2021/12/21)

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 亡くなられた方について、ぼくは何も知りません。ただ、あまりにも「衝撃的な幕引き」に、胸が押し潰されるような痛みと、衝撃を受けて覚えた動揺を禁じ得ないでいるのです。その思いは多くの方も共有されているでしょう。一人の人間の苦しみの果てを、ぼくはこのようにしてしか受け止められない。「卓上四季」の記事は適切かち親切なものであり、死者に対する温かい思いを示されたと、ぼくは読みました。人生の長さや短さ、あるいはどんな環境で生まれるか、生きた時間の濃淡などなど、そのことによって、優劣や幸不幸を比較考量することはできなとぼくは考えています。人それぞれの「人生」があるというほかありません。どうして、彼女が「あのような最期を迎えたのか」、誰にも分からないし、分かったところで、誰を、どのように納得させるのか。何をしても、彼女は戻ってこない。「私はどうして断食しなければならないのか」

 生も死も、一人のものであると同時に、多くの人にも関わっているものだ、しかし、究極は「私」のものであること、それをこんなかたち(方法)でぼくたちは知らされたのです。ぼくは、一人の若い女性の死に、言葉にならない悲しみをこらえるばかりです。そして、図らずも「アーロン君の死」が甦ってきたのでした。(べつの駄文を書いていたのですが、思わないなりゆきで、こんな(不)具合になってしまいました。

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)