記憶の射程? いったい何です、その心は

 長く生きていると、いろいろな経験を重ねますし、あるいは、雑多な経験を重ねることが、そのままで、長く生きるということなのかもしれません。ぼくは「人並み」に生きてきたという気がするけれど、それは「勘違い」であって、あるいは人並み以下であったという方が当たっていそうです。ほんの少しばかり他者の生き方を見るだけで、もう「及び難し」という感覚に襲われますし、「敵ではないけど、天晴れ」という感嘆の声が出そうになることばかりでしたから。だから、自分の能力は「取るに足りぬ(指に足りなかったのは「一寸法師」でしたね)」という自覚が、はっきりとありましたし、いまも健在です。その足りない能力について、当然ですが、遥かにぼくを凌駕している他人を羨ましく見つめたことはない、まったくないと断言できる。羨ましければ、脳力・能力を鍛えればいいじゃないかというのが、ぼくの「生活信条(あるいは「言い訳」)」のようになってきました。おそらく小学生の頃から、です。そうしなかったのは、これも明確な理由がありました。根気がなかった、つまり、こころざしが欠けていたんです、それに尽きますね。さらに言えば、「測られる能力(学力)」に、深く考えもしないで、ほとんど「信・真」をおいていなかったとも言えます。

 人生の目標とか、こんな生き方をしたいという強烈な思いがぼくにはなかった。将来何になりたいと、小学生時代に文集などに書かされますが、ぼくは「なりたいもの」がなかった。ときどき「卒業アルバム」(どういうわけですか、これしか残っていませんでした)のクラス寄せ書きに、ぼくは意味が解らない言葉として「らしく」と書いていまっした。これは何年生だったかの担任の教師が黒板の上に「らしく」と墨書して額に入れたのを掲げていたのが、ずっと不思議だな、「らしくって、なんや」という疑問だけが育ったからです。この疑問が、少しだけ溶けたのは相当に立ってからでした(成人してからではなかったか)。

 これは今も昔も変わらない。この姿勢は一貫していたとも言えるのですが、他人から構われたくなかったし、他人を構いたくなかった。まあ、一言で言えば、自分勝手な人間でありました。時には、生意気で、不遜だと思われそうだったし、実際にそのように「正解」され、「誤解」されてきたのです、いつだって「あの人にできることは、自分にもできる」と、ずっと想定(愚考)ていました。学校の「勉強」は好きではなかった、いや嫌いでした。だから、「成績で一番」というような「ヤクザ」なことにほとんど関心も持たなかったが、「その気になれば、いつだって」という気概(生意気な態度)だけはあったと思う。ぼくにとって大切だったのは、「その気になれば」ということでした。でも、「学校の勉強」に関しては(もちろん、他のことにしても)、ついに「その気に」ならないままで、「後期高齢者」にさせられてしまいました。

 それでは一体、何に向かって「その気に」なろうとしたのか、しなったのか。(目指す目標)などというものは、一度も掲げようとは思わなかったし、だいいち、そんなことを考える暇もないほど、遊びに夢中だった。それはもうお分かりでしょ、この駄文・雑文の「狼藉の山」が明らかにしているのですから。ぼくは「物覚え」が極度に悪かったし、今もそれは治っていない、それどころか加速度的に悪化しています。この「狼藉の山」を細々と築こうとした、そもそもの動機が「加速度的に悪化する」、なけなしの「記憶の貯蔵庫」を点検するということでした。点検作業を始めたのは、二年前の二月末でしたから、やがて三年目。漫然と生きている人間に「今日の、この日」があるはずがない。さらに「山中に暦日なし」という中国の名僧の「至言」をぼくは、真に受けているのです。たまさか、日時を問われる時だけ、日常世界に連れ戻されるという塩梅です。(これはだれでもそうでしょうが、つまらないものを「覚える」のは苦痛以外の何物でもなかった。でも、他人には詰まらんものでも、興味があれば、何でもよく「覚えた」ものでした)

 ぼくの好きな落語に「三年目」という演目があります。少し色っぽくて切なくて、しかも人情の機微が流れている話です(往々にして、落語というのはそういうものでしょう)。若くして病気で亡くなった妻が、三年目に夫の「夢枕」に立つ。すでに夫は再婚していた。「初七日にはきっとくると、おまえは言っただろ、遅かったじゃないか」と夫が言う。亡き妻は、「私以外には嫁は貰わない」と誓ったのに、「あんまりじゃありませんか」と夫を詰(なじ)る、その「夢」に出たのが(死んでから)「三年目」だった。嫌味を言われた夫は、「何言ってるんだ、今来るか今来るかと、夜も寝ないで(昼寝して)待っていたんだ」と逆に文句をつけた。それを聞いて亡き妻は「あんまりじゃありませんか。死んだとき、私のことを丸坊主にしたでしょ。髪の毛が揃うのを待っていたのですもの」という、まあ「オチ」のような、そうでないような結末のものです。(ぼくがよく聴いたのは、五代目圓生さんですかね)

 「三年目」に意味があるのではありませんが、「石の上にも三年」と言います。(駄文を書くのも)三年くらい続いたら、なにがしかの「展望」というか、見通しが立つだろうと愚考したのです、もちろんぼくが、です。「人生の切り(限り)ですね。どうしたことか、本日、無駄なことながら、新たに「狼藉の山」に「瓦礫」を投げ込もうという魂胆を披歴いしたくなった。「碌(陸)でもない」もので、それでも一丁前に「記憶の射程」と偽名を名乗っておきます。その「射程」たるや、前後数メートル、つまりは、「過去ニ、三年」(あるいはこの先の二、三年ほど)が関の山というくらいに、先行きはないのです。いうなれば、「記憶の方丈記」というくらいに、狭い了見で生きている愚者の寝言です。賢人・大家は「回顧と展望」というのでしょうが、冗談ではない、ぼくには回顧すべき「過去」もなければ、展望すべき「将来」もないのです。だから、そんな「上等」なものではありません。つまりは「向こう見ず」そのもの。出たとこ勝負とも言いますが、この勝ち負け(というのも変ですが)には、すでに結果は見えています。「竜頭蛇尾」という域(粋)にも至らない要領の悪さです。

 「面壁九年」ともいいます。達磨さんの「ひそみ(顰)に倣う」などは荒唐無稽であり、ここに持ちだすのは言わでものこと、相も変わらずその日暮らしを、飽きもしないでくりかえすばかりです。駄文・雑文ではありますけれど、ぼくには「粗食(朝餉)」というものも、果報な「ご馳走」の見立てでもあるのです。「ご相伴」に与(あずか)ってくださる方がいるとするなら、滅相もない(extravagant)ことです。「石の上に三年も座っていれば、さすがの石だって温まるのだ」というようです。ぼくの「石」は貧相な椅子ですけれど、それはすでにいくつかのネコたちに「占拠されて」、ぼくは温める場所もないのです。どうします?ぼくはどうした加減か、雪舟筆の「慧可断臂図」を部屋の片隅に掛けています。鬼気迫る、そんな気がしてきます。「慧可」というお坊さんは凄い人だったようです。(何時か、駄文の中で触れてみたい)(右は伊藤若冲筆「達磨図」)

 以上、まずは「瓦礫」投棄の「前口上」のつもりです。

(ヘッダーの写真は「慧可断臂図(えかだんぴず)」雪舟筆紙本墨画淡彩 199.9×113.6 室町時代(1496) 愛知 斎年寺 国宝)(「禅宗の初祖・達磨が少林寺において面壁座禅中、慧可という僧が彼に参禅を請うたが許されず、自ら左腕を切り落として決意のほどを示したところ、ようやく入門を許されたという有名な禅機の一場面である。リアルにあらわされた面貌と一点を凝視する鋭いまなざし、そして動きの少ない構図が画面全体に息苦しいまでの緊張感を生み出している。77歳の老禅僧雪舟のたどりついた境地がここにあらわれているとみるべきであろうか。なお本図は、幅裏の墨書から、雪舟没後まもない天文元年(1532)、尾張国知多郡宮山城主・佐治為貞によって斎年寺に寄進されたことが知られる」京都国立博物館(https://www.kyohaku.go.jp/jp/syuzou/meihin/suibokuga/item06.html)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。