あなたが最近、訪れたスポットはここです

 【明窓】 極めて便利なツールだが 電車やバスに乗った時、周囲を見渡すと、8割方の人はスマートフォンに見入っている。ニュースサイトを見ている人、ゲームやメールをしている人…。ちょっとの間なのだからスマホから目を離せばいいのに、といつも思う▼いわゆるガラケーからスマホに替えて1年になる。電話とメールができればいい、と思っていたし不便も感じなかったが、通信費が安くなるからと娘が格安スマホに替えてくれた。使ってみるとその便利さに驚く▼年のせいで人の名前が出てこないことが多いが、ちょこっと調べるとすぐに出てくる。以前はかばんの中にカメラ、録音機、ラジオ、懐中電灯などを入れていた。しかしスマホがあれば、これらをばらばらに持つ必要はない▼読書、ゲームもできるし、新聞も読める。買い物もできるのだから、1人になるとスマホを使いたくなるのは理解できる。しかし、興味があるサイトを開くと、関連したコマーシャルがどんどん画面上に出てくる。つまり個人情報がある意味ダダ漏れになっていることを忘れてはいけない▼歩きスマホをしている人も多く、ぶつかりそうになることも。ましてスマホを見ながら自転車を運転するなんて自殺行為だ。ナビ機能の位置情報を最近はオフにしている。「あなたが最近、訪れたスポットはここです」という案内など余計なお世話だ。自分の行動が誰かに把握されていると思うと怖い。(富)(山陰中央新報デジタル・2021/12/18)                                     (ヘッダー写真は<https://arch.gatech.edu/tokyo-smart-city-studio>から)

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 週替わりのメニューのように「内閣支持率」が報道される。飽きもしないで「よくやるね」というのが、ぼくの没感想(愚感)です。どうしてこんな無粋な情報にもない情報以下を垂れ流すのか。紙面構成の都合なんですかね。「この内閣を支持する理由は?」に「ソーリ大臣の人柄が信用できそうだから」(知りもしないで、さ)。反対に「この内閣を支持しない理由は?」「人柄が信用できそうにないから」、ひょっとして、これは同じ人が応えてるんじゃないのと、いつも思う。「信用できそうだから」が三日ももたないのですから、こんな調査が「信用」できないと、誰だって、そのよう受け取るでしょう。だから、ぼくは「世論調査」というものを端(はな)から信用していない。不信・不審しか持たないのは、政治家・官僚の国会答弁や、官庁の「統計資料」と同じです。嘘八百であり、偽造であり虚偽であるからです。だから、これをぼく流に言いかえると、「世論調査」は「世論操作」となります。「調査は操作」なんだ。欧米では遥かの昔から、この手の報道で政治が動いていました。「まさか、これが、世論操作?」と疑い深いのは、初心(うぶ)なんてものじゃない、立派な「すれっからし」の列島民だけですよ。「知ってるくせに」、ですね。「さまざまな経験をして、悪賢くなったり、人柄が悪くなったりしていること。また、その人。すりからし」というのは「デジタル大辞泉」です。こんな政治が続けばどうなるか、先刻承知で、明けても暮れても「◉✖党」に名を成さしめてきました。こんなもんでしょ、という「すれっからし」の選挙結果です。

 物事には表があるのだから、裏もある。裏だけ、表だけということは一切ないのが道理です。人間も同じ。「腹」もあれば、「背中」もある。あるいは「腹」と「背中」は元来は同じだったが、いろいろと不便・不都合が生じるようになったので、たがいを区別するようになったのかもしれない。「おへそ」のあるところが表であると決めたんですよ。その証拠に、ぼくはこれまでに何度も、落語で「へそが背中に回った、お里帰りしたよ」というような話を聞いたのですから。やがて、そのようなところから、「背に腹は代えられない」という俚諺が生まれた、きっと。(この「ことわざ」も意外に難解ですね。意味は不明瞭です。腹には「五臓六腑」があって、大事なところ、背中は肋骨や背骨で守られているから、丈夫だとか、まるで頓智のような解説が定番です)「余人をもって代えがたい」というのと同じようなことじゃないですか。要するに、表もあれば裏もある、本音も言うが建前も忘れていない、これもそうでしょ。「あんたの考えはどっちや」ときかれ、「一括現金給付もあり、です」と言ってみるが、最初は「半分は現金、残りはクーポン」の方針は譲れないと言っていた御仁だ。「人柄が信じられそう」「人柄が信じられへん」、誰が見ても、そういう矛盾したこと(受け止め)が生じるのは当然だね。

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● せ【背】 に 腹(はら)はかえられぬ=同じ身体の一部でも背と腹をとりかえることはできない。大切なことのためには、他を顧みる余裕がないことのたとえ。大きな苦痛を避けるためには、小さな苦痛はやむをえない。背中に腹はかえられぬ。背より腹。(精選版日本国語大辞典)

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 「明窓」氏を、あなたは「信じられる?」「信じられない?」、どちらですか。「ガラケーでいい」と言っていたのに、反対に「利用料と便利さに、もう手放せない」と宗旨替えをいわれる。何でここに「娘」が出るん? いずれにしろ使うと便利だ、というところで口を閉じればいいのに、しかし「個人情報がある意味ダダ漏れになっていることを忘れてはいけない」とか「自分の行動が誰かに把握されていると思うと怖い」と仰る。阿保か、と言いたくなりますな。「ある意味ダダ漏れ」も、「誰かに把握されている」というのも、そもそものネット社会であり、「情報化」というもんでしょ。でも、この「明窓」氏と同じように、いろいろ御託を並べてはいるけど、結局は時代状況、流行に「どっぷりつかっている」のは「ええ気持ちや」という風潮です。「茹でガエル」の教訓ですね。実際に、「蛙をゆでた人」がいるんでしょうね、蛙はそうだけど、人間は違うと言いたいのですが、どうですか。

 ぼくは若い頃には「行動心理学」(学習理論)とやらを齧っていたことがありました。その領域では、実験に「モルモット・ネズミ」を使う場合が多かった。特に「学習」「記憶」などの問題を研究するのに、生の人間を使うわけにはいかなかったので、いつだって「ネズミ」だった。それでネズミ実験の結果が、直ちに人間に適応されることがほとんどで、「学習心理学」は出来上がっていたのです。今だってそうですね、ワクチンの動物実験など。それを称して「人間のネズミ化」といった学者がいました。「ratfication」そこには、サルやネズミなどと人間の「同一視」が厳然とありました。それを可笑しいとは、大半の研究者は言わなかった。(これについてはもう少し詳しく述べる必要がありますが、今回の主題ではない。いずれにしても、話は逸れました)

● ゆでガエル世代=1957年から66年生まれの50代ビジネス・パーソンを表す言葉。カエル常温の水に入れ徐々に熱すると水温変化に気が付かず、ゆで上がって死んでしまうという寓話と50代ビジネス・パーソンの置かれている状況が似ていることから、日経ビジネス誌が命名した。この世代の会社人生はバブル経済到来と共にを開けた。しかし、数年後にバブルが崩壊し、その後もITバブル崩壊やリーマン・ショックなど危機が幾度も訪れた。同誌はこの世代を、安泰に会社員生活を終えられると考え厳しい現実から目を背け続けていたために、50代になった今、過酷な現実を突きつけられ、ぼう然自失となっていると分析している。(2016-9-6)(知恵蔵min)

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 「あったら便利」だからと、ほとんどの人はスマホや携帯を所持されています。あったら便利の反対は「なかったら不便」というのでしょうか。ぼくにはそうは思えない。ある人には「あったら便利」でも、別の人には「なくったって構わん」ということではないでしょうか。ぼくは「あったら便利」という観点で、物事をとらえない人間です。むしろ、「あったら不便」という判断基準があるんですね。あえていうなら、「何ですか、あったら便利?」「そうだな、お金かな」「それで困っている人を少しでも助けられるやん」という程度。ところが、世間の人は「あったら便利」という観点で「お金」をとらえていないでしょ。「ないと困る」という切羽詰まった気持ちがあるから、こコンビニで、ドスを突き付けて、「黙って、金出せや!」という仕儀になるのですよ、きっと。(ほんとに「黙って金出す」店があるんですね)携帯やスマホがなかったら、生活できないというのは、ウソだと言いたいね。「決して、切羽詰まらない」これは、まるで「(他人に誇れる。自慢できる)学歴」の有無と似ていますね。高卒や大卒の学歴がないから生きていけないということは、まずありません。反対にその学歴があるから「生きていけます」ということにもならない。「あったら便利」、そんな程度や。役に立たないけどね、スマホほどには。つまるところ、「あっても不便や」です。

 これはどういうことですか。ぼくには、「これがぼくの学歴です」というほどものもなかったし、「家柄」とかいう「江戸の名残」「封建の遺物」なども微塵もありませんでした。だから「生きていけなかった」とは言えないようで、まあ、「死なない程度には生きてこれた」と思っています。スマホと学歴は似た者同士。まず見栄え(偏差値と型式)、相場が高いか安いか(ブランド・無印)。多機能かどうか(就職や婚活に有利か・通用範囲が狭いか)、あるいは「スマホとカバンや靴」、「スマホと時計」、なんだか似た者ばっかりが、この世で「ちやほや」されているようです。靴やカバンや時計なんて、ぼくには最低限度の必要性も(しか)ないものばかりです。その他、いくらでも類似点を示せますが、バカバカしいので止めておきます。いかにも「学歴」に似ている。「学歴は身分なり」という、信じがたい迷妄に弄ばされてきたのが、この島社会だったでしょうね。今も、余韻というか余波、いや、残滓(ざんし)が蔓延っています。

 「極めて便利なツールだが…」、ぼくは持ったことがないし、持とうという気もない。所有無用、まったく要らないからです。以前には、かみさんが盛んに「持ちなさいよ」と脅迫してきた。その理由を聞くと「あなたが持てば、私が助かる」だった。なんじゃそれ?と呆れました。かみさんの「便利のために」、何でぼくが携帯やスマホを持たなあかんのと、一貫して拒否しています。しかし、そんなことを言っているうちに、何でもかんでも「携帯」「スマホ」を使わなければ生きていけない時代になってきた、いやそんな環境を一生懸命に作って来たし、これからますますそうしようというのが「経済」という名の「金の亡者ども」の企みなんでしょうね。それを称して、smart city だってよ。やがて、スマホや携帯を持たない人間は「不所持」の罪を着せられることになりそうです。甘んじて「罪を被る」というのではなく、断じて、ぼくはそんな「冤罪」は認めませんよ。

 学歴差別というものが現実にある社会は「貧相な社会」「恥ずかしい社会」だし、この島は確かにそういった社会状態ではあったと言えます。「何かを持つ」「持たない」で人間の値打ちを「量る・測る」社会には、ぼくは住む気もないし、断じて抵抗したいですね。何d化、「量り売り社会」だね。断じてという意味は、その「何かを持たない」という姿勢を貫くということです、ささやかな風を吹かせながら。(こんなのを「年寄りの冷や水」というのですか。(冷や水がいけないなら、温(ぬる)めの燗(白湯)がいいよ)「学歴フィルター」をかける企業があるとして、そんなとこに「入る・入ろう」とすること自体がナンセンス。そんな意気地なしで、どうします。「持ち物」で差別する企業が、どんないいことを言ってもしても、それは「表向き」でっせ。ぼくはいくつかの企業を、いくらか知っていましたが、「アカン企業やった」な。例えば T 芝だとか、H 立だとか、M 菱だとか。「フィルター」そのものが。とっくに「目詰まり」を起していました。汚染された空気(風)が「社風」になっていました。そんなのが「一流」なら、この社会は「終わってまっせ」と受け止めていたね、もう数十年前のことになりますが。(以下の表は:https://money.rakuten.co.jp/woman/article/2021/article_0279/)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。(2023/05/24)