「はい、終わり」「ふざけんなって思いました」

 【余録】日本全土がバブル景気に沸いた1980年代末、大阪市役所で乱脈経理が問題化した。公金を私的な飲食に使っていた中堅幹部が逮捕され、裏金作りや職員同士の飲み食いが日常化していた実態が明るみに出た▲市民団体が返還を求めて提訴し、市側と争ったが、5年後に突然、裁判が終結する。被告全員が請求を認める「認諾」の手続きを取り、全額を返還したためだ。退任した前市長への尋問が3日後に予定されていたが、中止された▲似た構図ではないか。「森友学園」問題で財務省の決裁文書改ざんを苦に自殺した赤木俊夫(あかぎ・としお)さんの妻が損害賠償を求めた裁判。国が事前通告なしに認諾して審理が打ち切られた。お金ではなく真相が知りたいと訴えてきた妻、雅子(まさこ)さんが「ひきょう」と憤るのも無理はない▲高い壁が指摘される国家賠償裁判では、冤罪(えんざい)の元死刑囚への賠償さえはねつけられてきた。国が責任を全面的に認めるのは異例である。赤木さんの上司らが証人尋問に立つのがそれほどいやだったのか▲「他人の財産で寛大さを示すのはたやすい」はラテン語のことわざという。1億円余の賠償金は国民の税金である。鈴木俊一(すずき・しゅんいち)財務相は「国の責任は明らか」と語ったが、上司が改ざんを指示した動機も明確ではない。国民が納得できる説明が必要である▲「森友学園」に絡む不誠実な答弁は国会の場で繰り返された。国会の役割も終わっていない。再調査を求める雅子さんの手紙を「読んだ」という岸田文雄(きしだ・ふみお)首相の対応も問われる。(毎日新聞・2021/12/17)

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【水や空】幕引き「心からお悔やみを申し上げる」と大臣が目を伏せた。「できる限り丁寧に対応してきた」のだという。だが、少しもそんな印象を受けない。高額の損害賠償請求を主張の通りにそのまま認められた原告は、それなのに「ふざけんな」と吐き捨てた▲それがすべてを象徴している。裁判の目的はお金ではなかった。その人はなぜ死を選ばなければならなかったのか-望んだ答えは何一つ示されないままだ▲森友学園の国有地売却を巡る財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを強いられたことを苦に自死した近畿財務局職員の妻が国を相手に起こした裁判が、国側の「請求認諾」で唐突に終わった▲国側は認諾の理由で、職員の自死の原因を〈…決裁文書の改ざん指示への対応を含め、さまざまな業務に忙殺され、過剰な負荷が継続した〉などと説明している。「含め」はおかしい。それこそが本質なのだから▲裁判の長期化は適切ではない-と言う。しかし、誰の意向がどう働いて改ざんに至ったのか、その経過が明らかにされるために時間を要したとしても、私たちはそれを〈いたずらに長引く〉とは呼ばない▲「はい、終わり」と声が聞こえる気がする。違う。一方的な幕引きは誰の決断なのか、幕の向こうに隠れたのは誰なのか。まだ、何にも終わっていない。(智)(長崎新聞・2021/12/16)

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森友公文書改ざん巡る国賠訴訟 国側が赤木さん側の請求を認めて終結

写真・図版

 学校法人森友学園大阪市)への国有地売却をめぐる財務省の公文書改ざん問題で、改ざんを強いられ、自死した同省近畿財務局職員の赤木俊夫さん(当時54)の妻・雅子さん(50)が国に損害賠償を求めた訴訟は15日、国側が雅子さん側の請求を受け入れ、終結した。国側は請求の棄却を求めていたが、一転して賠償責任を認めた。雅子さんの代理人弁護士は「改ざん問題が追及されることを避けるため、訴訟を終わらせた」と批判した。/ 雅子さんの代理人弁護士によると、国側の代理人がこの日、大阪地裁であった非公開の訴訟手続きで、約1億700万円の損害賠償を求めた雅子さん側の請求を「認諾する」と伝えた。認諾は、被告が原告の請求を認めるもので、裁判所の調書に記載されると、確定判決と同じ効力を持つ。(中略)

 雅子さんは訴訟で、ファイルの内容などを踏まえ、同省が俊夫さんの抵抗にどう対応したのか、国に明らかにするよう求めていた。/ 雅子さんは記者会見で「なぜ夫が亡くなったのかを知りたいと思って始めた裁判。お金を払えば済む問題ではない」と話した。/ 国を訴えた訴訟の終結に伴い、今後は、佐川氏に550万円の損害賠償を求めた訴訟が続くことになる。/ 鈴木俊一財務相は15日夕、報道陣の取材に応じ、「国の責任は明らかとの結論に至った」などと説明。「公務に起因して自死という結果に至ったことにつき、心よりおわび申し上げます」と謝罪した。(米田優人・2021年12月15日 22時50分)

 国が請求を認諾する理由(裁判資料から)原告の夫が、強く反発した財務省理財局からの決裁文書の改ざん指示への対応を含め、森友学園案件に係る情報公開請求への対応などの様々な業務に忙殺され、精神面及び肉体面に過剰な負荷が継続したことにより、精神疾患を発症し、自死するに至ったことについて、国家賠償法上の責任を認めるのが相当との結論に至った。/そうである以上、いたずらに訴訟を長引かせるのは適切ではなく、また、決裁文書の改ざんという重大な行為が介在している本事案の性質などに鑑み、原告の請求を認諾するものである。(https://www.asahi.com/articles/ASPDH5G3QPDHPTIL029.html)

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 正真正銘の国家官僚の「犯罪(公文書改竄等)」でしたから、その「非」「曲」は、当然国家当局にあり、その責任が、白日の下に、問われるという構図でした。犯罪事実に関しては検察当局は、だれひとり起訴していません。やむを得ず、原告(赤木雅子さん)は国家賠償責任を問うという「民事裁判」に訴えたのが昨年でした。原告が求めてきた「事件真相解明」のためのもろもろの文書の公開などに対しても、改めて事件の経緯を含めた「当局による調査」なども、ことごとく否定されてきた果ての裁判でした。結果は「原告の請求を認諾」というもので、全面的に国家当局の「不正」「犯罪事実」を認めたことになります。しかし、果して、この裁判の結果は、原告が求めてきた「事件解明」の何ほどを満たそうとしたか。

 問題の発端は「総理大臣の側」にあった。しかし、事態は一省庁の、官僚の問題にされてしまい、さらには下級官僚に責任がさげられてきました。それすら、誰一人「責任を問われる」という問題には、なんら結び付けようとはされなかった。財務省の一職員の「自死事件」だったから、財務大臣の「最高責任」が問われたはずなのに、それすら肩透かしをくらわし、結局は「損害賠償額」を満額認めただけであったということになります。これはどういうことか。面倒くさい問題(公文書改竄の真相)は脇に置いて、要求されている(賠償金)を払えば、誰も傷がつかないで「丸く収まる」「全員一両損」とでも考えていたのだろうか。総理大臣の「椅子」を守るため、財務大臣の「椅子」を守るため、省局長の「椅子」を守るため、その他、もろもろの「椅子」を守るためなら、一億数千万円は「溝(どぶ)に捨てても惜しくない、はしたがね」と判断したからにほかなりません。

 ぼくは「国家」というものをまず信じていません。これまでもまったく信じてこなかったし、これからも、です。あらゆる社会組織(集団)というものは、規模の大小を問わず、人間個人にとっては外側的なものだということ、これをもっとも典型的に示しているのが「国家」でしょう。国家の非常時、例えば戦争状態になると、否応なく「兵隊」に駆り出されてきたのが民衆(庶民)です。そのような戦争で「戦死」「戦傷」を余儀なくされても、さらには空襲被害がどれだけあったとしても、国家は、自分の都合で「責任」を誤魔化してしまいます。あるいは帳消しにしてしまう。このことに加えて、ぼくには「成田空港」の問題が大きく影を落としています。「この地を飛行場にするから、農民どもはどけ」という、滅茶苦茶な理屈で、権力を行使してきたし、今もしています。農民を追い出すために「土地収用法」などというとんでもない法律まで駆使しての蛮行でありました。ぼくは成田空港から飛行機に乗ったことがありません。

 今回の「森友学園事件」というのは、まさしくそのような、横暴極まりない権力が起こした事案でありながら、その最高責任を問うとなると際限なく拡大するから、いっさいを誤魔化し、水に流し、挙句の果てには、権力者が座る「椅子」の責任にして、当事者どもは雁首揃えて逃走(トンずら)を図ったのです。イの一番に責任を問われるべき「総理大臣」はこの件に関しては「嘘八百」を並べて「一切、無答責」をごり押ししてきました。それが嘘であるということは、当人を含めて、誰一人疑うものはいなかったのではないか。その次のポストの「財務大臣」も「無答責」とはいえ、部下たちの「改竄の事実」は認め得ながら、その責任者の名を特定しないままでした。仮に「あれの責任です」といったとたん、事件は一気に「頂上まで行く」という構図が出来上がっていたのでしょう。ケースは似て非なるものでしたが、ニクソン大統領の驚くべき権力行使は「大東慮辞任」で幕が下されました。

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 「他人の財産で寛大さを示すのはたやすい」(「余録」からの引用)「国の責任は明らか」「心からお悔やみを申し上げる」「できる限り丁寧に対応してきた」(財務大臣)この事件発覚以来、何番目かの某大臣は「税金で寛大さを示した」のではないでしょう。「悪銭身につかず」ですが、並みいる悪辣な官僚・政治家どもは、「税金」をそのような呼び名に変えてまで、人民への尊厳をいたぶる、人民の名誉を弄ぶ、それが国家というものだし、その国家を動かしているのが、有象無象の「権力者」とその亡者たちです。彼や彼女だって、いったん事が起これば、「弊履の如く棄てられる」運命にあるから、結局は「もろもろの椅子」、それだけが「ご本尊」ということになります。実に、権力構造はお粗末君ですが、国家というものの正体はそれ、一つの機関であり、組織であり、集団であり、個々のメンバーはつねに替るけれども、この機関そのものは替らない、その「未来永劫に続く」と錯覚されている「機関」を護持するために、さまざまな責任が隠され、不問に付され、曖昧にされ、結局は「無責任」の連鎖が出来上がってしまうのです。

 「国家無答責の原理(法理)」というものが、かつてありました。戦争被害などを問われても、国家には賠償責任を追及されないという、勝手な「法理」でしたが、戦後に「国家賠償法」が導入されて以来、この法理はなくなったと思われてきました。しかし、現実には「法理」というのも建前で、直接に「当局の構成員」に対して責任を問えないことが今回の裁判でも明らかになったのです。いつまでたっても「三百代言」は消滅していないのです。

● こっかむとうせき‐の‐ほうり〔コクカムタフセキ‐ハフリ〕【国家無答責の法理】=国の権力行使により個人が損害を受けた場合でも、昭和22年(1947)国家賠償法施行以前の行為であれば国は賠償責任を負わないとする原則。(デジタル大辞泉)

 要するに、どこでも見られる、見飽きた景色、それも、実に醜悪な「殺風景」でしょう。「国家」というものは、時には「箸にも棒にも掛からぬ」という代物です。その「こころ」は「恥も外聞もない、厚顔無恥の権化」で、「何とも取り扱いようがない、手がつけられない」という危険極まりない機関なんですよ。その機関を動かしているのは、性悪の人間たち(政治家・官僚)なんですが、ついには「機関」そのものが裁かれるという「茶番」を、ぼくたちは嫌になるほど見せつけられてきたのです。自動車が人を轢いたが、運転手は裁かれずに、その自動車が「無期懲役」を科されるという、実に愚かしいことが堂々と、しかも裁判所を使って行われているのです。赤木さんと同じように「ざけんなって」言いたいね。

 ぼくは、自分は「善人である」という自覚はない。むしろ「悪者」だという自己認識に親しみを感じているものです。だからといって、ぼくはどんなに「悪」を敢行したとしても、国家権力者ほどの悪には到底及び難し、という実感は明らかにあります。国民の命を粗末にする、税金は使い放題、山分け勝手、人民のモノは自分のモノ、それが生き甲斐なのかもわかりません。誰でもではないでしょうが、「権力者」になりたがる輩は多い。まるで「浜の真砂の如し」ですな。権力者に不要な、いや、もってはいけないものは「誠実さ」「寛容の心」「憐憫の情」などという、社会集団にあっては、それなしではとても集団が維持されない、人間の付き合いに不可欠の「潤滑油」のようなものです。ここ何代かの「総理大臣(政治家)」や高級官僚とかいわれる御仁たちを見ていてぼくが痛感するのが、この潤滑油がいささかもないという、驚くべき「実態」(ぼく個人の判断ですが)でした。人間的空虚というのもを、見せつけられています。何処で「潤滑油」を失ってしまったんだろうか。「どこまで続く泥濘(ぬかるみ)ぞ」

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。