さ霧消ゆる 冬景色 時雨降りて 日は暮れぬ

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● 冬景色=日本の唱歌の題名。文部省唱歌。発表年は1913年。歌いだしは「さ霧消ゆる湊江の舟に白し朝の霧」。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定された。(デジタル大辞泉)

♫♬=https://www.youtube.com/watch?v=oA_KqAHgV-A

 今朝は、今季でもっとも寒い夜明けとなったようです。この駄文を書いている今は、午後の一時半です。先程から「時雨」が降り出しました。「冬景色」というものをすっかり消しているのが、現代という時代と社会だという気もしていました。百年以上も前に小学校で歌われた唱歌。この季節になると、ぼくはきっと思い出し、思い半ばにすぎるものを感じます。だれにだって、そんな「記憶の中の唱歌」がきっとあります。ぼくでさえ、いくらでも数え上げられます。この「冬景色」も作詞・作曲ともに「不詳」となっていますが、多くの他の唱歌と同様に、明治期の文部省が唱歌を作る際に、いろいろな専門家で合議した結果、誰が詩を書き曲を書いたがはわからなくてもいいということになったのです。何よりも学校に唱歌を取り入れるのに急を要していたという事情からでした。

 ぼくは唱歌に限らず、「歌」そのものが特に好きではないし、唱歌でも特別の想いがあるものはない。ただ、生活環境の中で、今日とは比較を絶して単調であったし、娯楽というものが自然を相手にして、自分で生み出すという性格のものだったから、この小学校唱歌で歌われている「世界」は、ぼく自身が、幼いなりに生きてきた環境でもあったのです。だから、歌詞がきれいであるとか、メロディが素敵であるということとは関係なく、自分の記憶に焼き付いている「景色」が、再現されているという気持ちになるのでしょう。いくばくかの感慨が湧きます。(昨年も、この曲に触れたと記憶しています。わが脳中の記憶組織は、やや不調気味であり曖昧でもあります。駄文の山は積み重なり、数から言えば、とっくに千編を超えました。「千編一律」というのですな)

 いずれにしても、この島社会の景観・風物・労働・生活、それらが一年間の各季節ごとに歌われることによって、一面では、愛郷心とか愛国心というものを涵養しようとしたことは疑えないところです。しかし、この「冬景色」をどこにいて(どんな土地で)歌うか、耳にするか、そのことは実に重要な要素でもあります。この歌詞に詠われている「冬景色」からは想像できいないような、過酷な「雪の下の生活」を強いられていた(いまでもなお、いる)人々の想いはまた別のものだったと思います。

 旧聞を引用しておきます。教育や学校というものについて、たくさんのことを、ぼくはこの人から学びました。

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子供の心見える 綴方のススメ

 3月に連載された「こころの作文」では、子どもたちに身近な出来事を作文に書かせ、それを授業で読み合うことで「心」を育む教育法「生活綴方(つづりかた)」に全校で取り組む堺市立安井小学校を紹介した。戦後まもなくに出版され、この教育法が広く知られるきっかけとなった文集「山びこ学校」を世に出した元教師の無着成恭(むちゃくせいきょう)さん(89)に、いま作文教育に取り組む意義を語ってもらった。(左写真:戦後間もない山形の中学校で作文綴方を実践した無着成恭さん=大分県別府市)

 山里の厳しい生活を記録した「山びこ学校」は「雪がコンコン降る。/人間は/その下で暮らしているのです。」という生徒の詩から始まります。教え子に作文を書かせたのは、貧乏なのは自分たちのせいじゃなく、そうさせているのは何なのかに気づいてほしかったから。自分を洗いざらいさらけ出す、そこからしか日本の民主主義は始まらないという発想からでした。

 連載を読んで、こういう学校がまだ残ってるんだなと驚くとともに、うれしくなりました。安井小では転校して来てクラスになじめない子をフォローする子たちがいましたね。「山びこ学校」でも、お金がなくて修学旅行に行けない子を連れて行こうと、クラスみんなで積み立てをしました。作文を読むと、その人の生活や心の中がわかる。他人の目を通して物事を見る経験は、自分自身を見つめることにつながります。弱い立場の子を仲間として受け入れる。そういう子が出てくるのが大事なんです。(以下略)(朝日新聞・2016年04月24日)

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 幼いころ、ぼくは石川県の能登中島の熊木村というところで生まれ育ちましたから、過酷な「冬景色」は身に染めて覚えている。自然環境の厳しさは、学校唱歌が好く教えるところではありません。むしろ景観の美を歌い、豊かな「四季の移り変わり」を謳歌するべく、唱歌は利用されたとも言えます。今の「音楽教育」がどのような具合になっているのか、ぼくには知るところがありませんから、勝手なことを言うこともできないし、そのつもりもありません。戦争の惨禍や自然災害の愕然とする惨状、あるいはそれ以上に人災に苦しめられてきた庶民の「生活の苦しみや辛さ」はまず「唱歌」の題材にはならなかったというところにも、ぼくたちは気を配るべきであろうと思うのです。(それでも「唱歌」は戦争への大きな「旗」として用いられたという歴史も忘れてはならない問題です。このことについては、どこかでまとめて考えてみるつもりです) 

 時雨は、本降りになってきました。「冬景色」の三番に詠われている光景は、今ではどんなに想像力をたくましくしてもかなわない、地上から消え去った記憶の彼方の風景でしょう。この世のモノは、すべて消え去り、再び浮かび出ることはなさそうです。時は過ぎ、さらに過ぎて、いささかもとどまる気配がないのも時の定めでもあります。その時、人は時の深みに沈みゆくばかりです。

嵐吹きて 雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて 日は暮れぬ
若(も)し灯火(ともしび)の 漏れ来(こ)ずば
それと分かじ 野辺(のべ)の里

 雪の北海道のあまたの地域でも、景観の「ライトアップ」がもてはやされています。ぼくには、これがわからないんです。なぜ「ライトアップ」なのか。それを美しいとか、神秘的とか言って売り出す方も見に行く方も、どうしたんでしょうねえ。ほかにすることがないんですか、減らず口を叩いたり、余計な世話を焼きたくもなります。どこでもおそらく、「若し灯火の漏れ来ずば それと分かじ野辺の里」を隠したいのかもしれません。本当は「ありのまま」がいいんですね。それにしても、薄化粧じゃなく、たっぷりの厚化粧を野山に施すというのは、なんという心ない業でしょう。いまだって、深い雪に閉ざされる「生活」を送っている人々がこの島にもいるのです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。