「らくだが死んだとよ、ありがてえなあ」

 【筆洗】乱暴で近所中から嫌われていた男が食べたフグの毒にあたって死ぬ。落語の「らくだ」である▼生前、その振る舞いによほど苦しめられたのだろう。らくだの死を聞いた大家の喜びようがすごい。「えっ、死んだの。そいつはいい塩梅(あんばい)だなあ」「ありがたい。そりゃあたしゃ助かったねえ」「おい、生き返ることはないだろうね」「頭をよくつぶしておかなきゃいけないよ」。らくだが生きていたときは手も足も出なかった大家が急に元気になるのがおかしい▼「らくだ」の一席を聞いた心持ちになる。田中英寿前理事長の脱税容疑による逮捕などを受けた日大の記者会見である。「田中前理事長と永久に決別し影響力を排除する」「今後は日大の業務に携わることを許さない」。加藤直人新理事長の言葉はなるほど威勢がいい▼威勢がいい分、ならば、なぜもっと早く、田中前理事長の身勝手なやり方を戒める動きが大学内から出てこなかったかという思いにもなる。逮捕、理事長辞任となった後で田中容疑者に強気な姿勢を示されても聞いている方はため息が出るばかりである▼前理事長の力がそれほど恐ろしかったのだろうとは想像できるが、大学という学識と探求心の場でそれとは無縁なでたらめな経営を許してしまった。その事実は消えぬ▼らくだが二度と出現しない具体策を示していただかぬ限り、学生は落ち着くまい。(東京新聞・2021/12/12)

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  「筆洗」に「らくだ」が出てくるとは、「御見逸れしました」と正直に言えば、あるいは失礼になるかもしれません。記者は、もちろん落語オタクであり、関西出身の方かもしれません。いやいや、いうまでもなく東京の方でしょうとも。とにかく、この噺の主人公(本当の主人公は「屑屋さん」です)の「馬さん」ほど嫌われ者はいないというほどの「悪態ぶり」です、それも巨悪に挑む「小悪」ではなく、ささやかな生活に明け暮れている庶民を泣かせるのですから、質が悪いとしか言いようがない。八百屋でなんでも、ほしいものは片っ端から持っていく、カネを払わないで品物を持っていく始末です。もちろん家賃は払わない。「たなちんって、なんだ」などと抜かすようなやくざものです。だから、馬さんの死を耳にして大家は「飛び上がって喜んだ」のです。この噺は、元来が上方(関西)ものでした。だから、どうせ一席を伺うなら、大阪の噺家に限るでしょう。今でも、どこかの町内にこんな荒くれ者がいるはずです。笑福亭松鶴(鶴瓶さんの師匠)さんがピッタリでしょうね、まさみ当たり芸だった。「馬さん」にそっくりというと、泉下の師匠に怒鳴られますね。あるいは米朝さんも凄かったし、そのお弟子だった枝雀さんも、なかなかのはまり役を堪能させてくれました。少なくとも一回は、ぼくはこれら、並みいる師匠連の噺は聞きましたね。

● 屑屋(くずや)=廃品再生を目的として屑物を買い集める業者の俗称。廃品回収業者のこと。江戸時代からあるが,近年は都市化,工業化の過程で発達した一種職業となっていた。仕切屋から金を預って買い集め,仕切屋はそれを金属などに分類して,それぞれの製造会社に売った。関西で「てん屋」と呼ばれたこともあったのは,「たまってんかー」などという呼び声のためである。(ブリタニカ国際大百科事典)

 ぼくは上京してから、くりかえし聴きましたので、やはりなんといっても志ん生さんでした。(この演目はぜひとも、志ん生さんのものをお勧めします)先ごろ亡くなった小三治さんも立派なものでした。とにかく、このネタは、どなたがやっても、相当に聴きごたえがあります。それだけ、人々の心中には「馬さん」的なものに対する鬱憤と、屑屋さんの「弱気が駕籠を担いでいる」表向きと、酒が入った時の凄みというのはそうそう見られたものではない、だからこの屑屋さんの「啖呵」に人々は留飲を下げたのだったろう。志ん生さんは文字通り、駕籠を担いで(素面で)町内を回っている役にぴったりでした。というわけで、「よくぞ、河豚(ふぐ)が中(あ)ててくれた」と赤飯焚いて、祝儀まで出そうかという大騒ぎは、この悪漢の退場を、馬さんの友達以外は、心底望んでいたことが偲ばれます。(友人だって、悲しんでいるのか、喜んでいるのか、なんとも怪しいものでした。ただ酒にありつけると、ひたすら儲けものをしたのだから)

 ぼくが感心したのは、そんな「馬さん」と日大の前理事長が兄弟分だったという、記者の、洒落っ気がありすぎるような「目利き」です。言われてみて、なるほど、そうだったとぼくも遅まきながら合点したのです。それほどに嫌われていた(あるいは、恐れられていた)田中某氏が「失脚」したという。誰もが「待ってました! たーなーかーや」とご祝儀袋を配ったとか配らなかったとか。今を去る六十年代、この島の各地の大学が大騒ぎをした、その発端になったのが「日大闘争」でした。当時も「会頭(と言っていたんですね、大学の代表を)の大学私物化」が大問題にされ、確か、死人がでたほどでした。その後の騒動の広がりで、神田界隈が「カルチェラタン」になったと言われました。(*使途不明金発覚から紛争が拡大。会頭の古田重二良(壇上中央左)や日大全共闘議長の秋田明大(同右)も出席して初の「大衆団交」が開かれた=1968年9月30日、東京・両国の日大講堂:中部経済新聞)(この「日大講堂)が後年になって「国技館」に生まれ変わります。日大と相撲社会のつながり・因縁も深いものがありました。)

 この騒動が「学生運動」として各地の大学に広がり、まるで燎原の火のようでもありました。ぼくはそんな時期に大学入学を迎えたのでした。学生運動の洗礼を受けたとも言えます。ぼくは「運動」には関心も興味も持たなかった。その方法や根拠が怪しいと確信していたからです。そのような学生運動の季節の中から、後輩の森田必勝君と知り合いになり、さらに運動には批判的になりました。またこの時期の同級生には「反学生運動」の強烈は信念を持つ友人も何人にもいました。今も健在な、「元一水会」の代表だったS君などがいましたし、その近くにいた友人の何人かは、産経新聞に入り健筆をふるっていました。森田君は、後年の「三島事件」の同志となったのでよく知られています。ぼくはこういう連中とは、卒業後は一切交際はありませんでした。

 日大という大学は、「劣島最大のマンモス」だということですが、いずれマンモスは絶滅する運命にあったことを考え合わせると、その行く先に一抹の悲しさを覚えます。古田氏も大学職員だったし、今回の田中氏もそうでした。それで何かを言うのではありません。大学を私物化するのは、けっして一人ではできないし、教員の代表でも難しかったのではないかということを愚考したまでです。さらにいうなら、今は事情が変わりましたが、往々にして「大学経営」に教員は不向きだったというか、無関心の度が深かったと思う。それが、こうなった理由だと単純化はできませんけれど、なにがしかの背景の背景にはなっていたでしょう。それにしても「前代未聞」が二度三度と発生するのですから、この大学もまた「伏魔殿」で、「馬さん」が後を絶たないということでしょう。どうしてこうなったか、その幾許かをぼくも考えていないわけではありませんが、ここでは触れません。ただ一言すれば、「馬さん」っを育てる風土というか、土壌があったということで、それを除去大尾することは大学を潰すほどの被害をもたらすでしょう。今回のような事案は、何処で起こっても不思議ではないことが「大々的に」特定の大学において生じたということは、いかにも暗示的です。

 裏社会とのつながりや政界や相撲界との汚れた付き合いは以前から評判にのぼっていました。ぼくが勤めていた、ある大学でも「腐れ縁」はどことでも付く・付きかねないという危険性を、ぼくのような「三下(さんした)」でさえもが感じていたし、それを「当局」に向かって指摘してきたものでした。私立学校だからと、財政運営が出鱈目でいいというものではありません。この大学に、何十年にわたって続けられ、今日でも「税金(国庫助成金)」が投入されており、おそらく百億円は下回らないでしょう。これは、六十年代の学生運動の「成果」でもありました。大学経営の任に当たる「当事者」が「公金」を「私」のものにするという、あきれ果てた行状が天下に晒されても、学生も教職員も大人しいものと、ぼくは肝をつぶしています。授業料等納付金を「私腹の肥やし」にされたんです、しかもその当事者は「元学生相撲」のエースだったという。今回の余波は国技館にも及ぶでしょう。確か現在の国技館は、「日大講堂」の跡地に建てられたのではなかったか。

(*「1833年(天保4年)から回向院で相撲興行が催されていたことから、1909年(明治42年)に旧国技館は、同境内に建設された。明治20年代(1887年-1896年)初めごろから安定した興行が開催できる相撲常設館の建設が必要であるという意見が出て、明治30年代(1897年-1906年)となって常設館建設に動くことになった。その後、日本初のドーム型鉄骨板張の洋風建築の建物となった。屋根は法隆寺金堂を真似た。約13,000人収容できた。開館当初は仮称で、翌年から国技館という呼び方が定着した。また、鉄柱308本と鉄材538tで建造された大屋根が巨大な傘に見えたため、大鉄傘という愛称で呼ばれていた。/ その後、日本大学日本相撲協会から旧国技館(墨田区両国)を買収。1958年(昭和33年)から1982年(昭和57年)までの間は、日本大学講堂だった。回向院の近辺には旧国技館跡の説明板が建てられている)(Wikipedia)

 相撲協会も何かといわくのある法人ですね。「裏社会」というものとのつながりがなければ「興行」が打てなかった時代がつい最近まで(いまでも)続いていました。現役の日大出身の関取は誰々でしょうか。「あっと驚く!」となりますか。「玉手箱」は、既に開きかかっているのです。

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【独自】田中前理事長「現金受け取った」供述始める…一部は「日大出身力士への祝い金に」

【独自】田中前理事長「現金受け取った」供述始める…一部は「日大出身力士への祝い金に」

 田中容疑者は11月29日、日大医学部付属病院の建て替え計画などを巡り、受け取ったリベートなど計約1億2000万円を税務申告せず、計約5300万円を脱税した疑いで逮捕された。申告から除外した所得のうち7500万円は大阪市内の医療法人「錦秀会」前理事長・籔本雅巳被告(61)(背任罪で起訴)から受領したとされる。(以下略)((読売新聞・2021/12/12 05:00)

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● らくだ=落語。上方(かみがた)落語の「らくだの葬礼」を明治中期に3代目柳家小さんが東京へ移したもの。らくだの馬とあだ名されている乱暴者のところへ兄弟分が訪ねてくると、らくだは前夜に食べたフグにあたって死んでいた。そこへ通りかかった屑屋(くずや)を脅して手伝わせ、通夜に入用だからと大家(おおや)に酒と煮しめを持ってくるようにかけ合わせる。大家に断られると、屑屋に死骸(しがい)を背負わせて「カンカンノウ」を踊らせる。驚いた大家が届けた酒を2人で飲むが、屑屋は酔うほどに強くなり、兄弟分を逆に脅す。酔っぱらった2人はらくだを四斗樽(だる)に詰めて火屋(ひや)(焼き場)へ担いで行くが、途中で樽の底が抜けたのを知らずに火屋まで行き、あわてて拾いに戻る。酔って道に寝ていた願人(がんにん)坊主をかわりに詰めて火屋へくる。願人坊主が目を覚まして「ここはどこだ」「火屋だ」「ひや(冷酒)でもいいからもう一杯」。江戸時代の風俗を活写し、変化に富む。東京の現行演出は3代目小さん型だが、大阪型もおもしろい。[関山和夫](ニッポニカ)

● 日本大学(にほんだいがく)=私立。1889年(明治22)、時の司法大臣山田顕義(あきよし)によって、日本文化の高揚と新日本建設を担う人材の育成を目ざして設立された日本法律学校を起源とする。1904年(明治37)日本大学専門部と改称、1920年(大正9)大学令により日本大学となり、法文学部、商学部、専門部、高等師範部を置いた。1949年(昭和24)新制大学移行し、法学部、文学部、経済学部、芸術学部、工学部、農学部、第二工学部の昼間部と、法学部、文学部、経済学部、工学部の夜間部、合計11学部に発展。2010年(平成22)時点で、法学部(一・二部)、文理学部、経済学部、商学部、芸術学部、国際関係学部、理工学部、生産工学部、工学部、医学部、歯学部、松戸(まつど)歯学部、薬学部、生物資源科学部の各学部からなり、総合科学、法学、新聞学、文学、総合基礎科学、経済学、商学、芸術学、国際関係、理工学、生産工学、工学、医学、歯学、松戸歯学、生物資源科学、獣医学、薬学、グローバル・ビジネス、法務、知的財産の各研究科の大学院をもつ。さらに法学部、文理学部、経済学部、商学部に通信教育部が置かれ、短期大学部も付設されている。/ ほかに人口研究所、量子科学研究所、総合科学研究所、教育制度研究所、精神文化研究所などの研究機関と附属高等学校をもつ。各学部は独立採算制で運営され、それぞれ独立した単科大学として機能しながら、全体で総合大学を形成している。発足当初は法文系を中心に発展したが、第二次世界大戦前期から理工系にも力を注ぎ、とくに戦後は理工医歯系の発展が目覚ましく、日本でもっとも大規模かつ多彩な一大総合学園となっている。本部は東京都千代田区九段南4-8-24。[喜多村和之](ニッポニカ)

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 上の沿革にあるように、この大学は、創立初期は「法律専門学校」でした・明治・法政・中央などの各大学と同じです。神田地区に作られたのにも理由がありました。ここでは、詳細は省きます。当初は「東京(帝国)大学」の法学部長の管轄下にあり、多くの帝国(東)大生が講師として、各専門学校に派遣されていたのです。今でいう「非常勤(非正規)講師」でした。帝国大学に支えられて誕生したという奇縁は、その後延々と続きますが、それは別問題。この大学は、大学のみならず、各種附属係属校をいたるところに所有しています。恐るべき教育産業版の「コングロマリット」ですね。(*「コングロマリット【conglomerate】 の解説=相互に関連のない異業種部門の企業を次々と買収・合併し、多角的経営を営む巨大企業。複合企業」(デジタル大辞泉)

 まだ事件が解き明かされていません。この先どの方向に進むか予断は許されませんし、その他の各大学は安閑としておられるのかどうか。ぼくは「教育産業」という言葉は大嫌いだし、それを聞くと虫唾が走ります。最後に付言しておきたいのは、この時世に「選挙を通じて」、しかも十数年間も、「馬さん」的存在が大学の頂点に「君臨していた」にもかかわらず、その周りは馬さんの子分の「仔馬さん」ばかりだったし、誰も馬さんに「鈴をつけよう」とはしなかったという、驚くべき事態の歴史そうっ出に全面的に共犯関係を結んでいたということです。さらに書きたいこともないわけではありませんが、事件は長引きますので、またその時にでも。今回はここまでにします。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。