世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり

 久しぶりに長明さんに会いたくなりました。この世の塵埃が余りにも濃くかつ深いので、深呼吸の必要を感じたまでですが、なに京・鎌倉の御代もまた、喧騒と人災・天災に塗れて、身の置きどころが尺寸の余地もなさそうでした。何時の時代でも「人の世」は喧騒と災いに覆われているということを、改めて感じるのです。そして、どこに咲こうが野の花ですな、と、わけのわからない独語を漏らしたりして、困惑の巷に沈んでしまいます。

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 また、いきほひあるものは、貪欲(とんよく)深く、独身なるのもは人に軽めらる。財あればおそれれ多く、貧しければ怨み切(せち)なり。人をたのめば、身、他の有(う)なり。人をはぐくめば、心、恩愛につかはる。世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり。いづれの所を占めて、いかなるわざをしてか、しばしもこの身を宿し、たまゆら心を休むべき。(長明「方丈記」浅見和彦校訂・訳、ちくま学芸文庫版)

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 今からいえば、何でもないことのようにも思われますが、長明の生きた時代はどうであったか、あらためて、不思議な感がしてくるのです。ぼくには、何時の時代であれ、人間が生きていくのは、それなりに面倒であり大変でもあるという実感があります。そんなことはいまさら言わなくても、先刻承知しているべき理(ことわり)でもあったでしょう。時代の古い新しいを言うのではなく、生きづらい生きやすいという観点から人生を眺めてみれば、やはり、上に述べられたとおりに、面倒くささと狂気が隣接していると諦めがつこうというもの。「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり」人間が進化するというのは、どんなことを指して言うのか、よくわからない難問じゃないですかね。

 この文章を書いた長明の実人生はどうであったか。それがなかなか、出世がかなわず、早い段階で、まるで明るい展望は見えなかったのです。今風に言えば、就活が成就せず、非正規の職を探し求めるという、不安定な身につまされる状況でした。ここでは、彼の履歴には触れません。触れないとすれば、彼の文章の意図するところは半減どころか、ほとんど理解不能になるのですが、それはいずれの時にか果たすとして、現実に長明の生活にはいささかの展望も開けず、八方ふさがりの明け暮れでもあったということを言うだけでいい。

 しばらくお休みをしていましたが、この雑文集のために、ぼくは「方丈記」を、堀田善衛さんの「方丈記私記」と並行して読んでいました。だから、それに従えば、ここに「私記」からのヒントというか、「解説」をお借りする場所でもあるでしょう。長明に神職の口が一つ舞い込んでいた。しかし、紆余曲折があって、それは縁者のだれかに取られてしまったのです。神職といえども、なかなかその争いは大変なものでした。就職難は鎌倉の世には、すでに始まっていたのです。今日でもいろいろな事件が神職に関わって生じている。(以下は、あまりにも凄惨すぎるような事件でしたが)

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 富岡八幡宮司刺殺 「たたり続ける」元宮司が「自害」前に書いたドロドロ過ぎる手紙

 東京都江東区の富岡八幡宮で、宮司の富岡長子(ながこ)さん(58)と運転手の男性(33)が、長子さんの弟で元宮司の茂永(しげなが)容疑者(56)と妻の真里子容疑者(49)=ともに犯行後に死亡=に襲われ、長子さんが刺殺された事件。「死後もたたり続ける」-。茂永容疑者が事件直前に関係者に宛てて投函(とうかん)した手紙には、約30年にわたる親族間の骨肉の争いの詳細と、恨み言がびっしりと書き記されていた。地域の繁栄と平和を象徴するはずの神社でなぜ、凄惨(せいさん)な事件は起きたのか。(以下略)(産經新聞・2017/12/28 16:00)

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 長明の時代に、そんな悍(おぞ)ましいことは起るはずもないといわれるかもしれませんが、実は「怨霊」などという言葉が飛び交っていたのです。いや、言葉だけではなかった。生霊も死霊も、野を超え山を越えては「神出鬼没」の風情でした。これは神宮に限らず、仏教界においても同じことだった。「実のところは、世にしたがへばしたがふほど身くるしく、実状として、したがはねば、ではなくて、したがへばしたがふほど、狂せるに似たりだったのである。世にしたがへば、狂せるに似たり。したがはねば、身くるし、と言いかえてもよいほどのものだった。むしろ、したがはねば、いっそ楽というものであったことは、長明が晩年に身をもって示したところであったかもしれない。/ 方丈記というと、すぐに無常とか無常観といったことをもちだすのは、少し気が早すぎるのである」(堀田「方丈記私記」ちくま学芸文庫版)まったく同感します。無常観一本やりで、いつだって「長命」できるはずもないじゃないですか。

● 鴨長明(かものちょうめい)(1155?―1216)=平安末期から鎌倉初期の歌人、随筆家、説話集編者。京の賀茂御祖(かもみおや)(下鴨(しもがも))神社の神官鴨長継(ながつぐ)の子。少年期には菊大夫(きくだいぶ)といわれる。長明(ながあきら)と読むのが正しいが、普通、音読して長明(ちょうめい)とよぶ。出家後の法名は蓮胤(れんいん)。/ 父は河合社(かわいしゃ)(下鴨神社の付属社)の禰宜(ねぎ)を経て、若くして下鴨神社の最高の神官、正禰宜惣官(しょうねぎそうかん)を務めたほどの有能な人物であったが、長明20歳前後のころに早世する。「みなしご」(『無名抄(むみょうしょう)』『源家長日記』)となった長明は和歌を源俊頼(としより)の子俊恵(しゅんえ)に、琵琶(びわ)を中原有安に学ぶ。30代に勅撰(ちょくせん)集『千載(せんざい)和歌集』(1187成立)に1首入集(にっしゅう)、初めて勅撰歌人となる。以後『正治(しょうじ)二年院第二度百首』(1200成立)のほか、多くの歌合(うたあわせ)に出席、歌人としての活躍が目だつ。1201年(建仁1)、後鳥羽院(ごとばいん)の命により和歌所が再興され、長明も寄人(よりゅうど)(職員)に任命されるに至る。藤原定家(ていか)や藤原家隆(いえたか)などの有力な専門歌人とも交じり合い、「まかり出づることもなく、夜昼、奉公おこたらず」(『源家長日記』)といわれるほどまで熱心に勤務、長明にとっても生涯のなかでもっとも光栄に満ち、充実した時期でもあった。長明の精勤ぶりを後鳥羽院は目に留め、父長継ゆかりの河合社の神官に推挙しようとするが、同族の鴨祐兼(すけかね)の反対によって実現せず、失意の長明は出家してしまう。『方丈記』(1212成立)の記述によれば50歳ごろのことと推定される。その後、大原(洛北(らくほく)、西山の両説あり)に隠棲(いんせい)、さらに知友の禅寂(ぜんじゃく)(藤原長親(ながちか))らの縁で日野法界寺(ほうかいじ)の近辺に移り、方丈の庵(いおり)を構え、建保(けんぽう)4年閏(うるう)6月8日ごろ、当地で没したと推定される。この日野在住時代には、鎌倉への下向、および源実朝(さねとも)との面談、『方丈記』の執筆などが行われた。/ 代表作『方丈記』は、世の無常と方丈の庵の平安を流麗な和漢混交文で描いたもので、後の兼好の『徒然草(つれづれぐさ)』(1331ころ成立)と並ぶ、隠者文学の双璧(そうへき)をなす。歌論書『無名抄』(1211以後の成立か)、仏教説話集『発心集(ほっしんしゅう)』(1215ころ成立か)などの著作のほか、家集『鴨長明集』(1181成立)があり、『千載和歌集』に1首、『新古今和歌集』(1205成立)に10首入集。[浅見和彦](ニッポニカ)

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 今、上の事典の履歴を読んでみます。なんとも面倒な世渡りのようにも映りますし、そうだったと言いたいほどに彼は就職(立身)を願望しましたが、しかし、ついには、「やーめた」と言わぬばかりに「プチ家出」をするのです。しかし、「脱俗」はしなかった。出家のつもりで仏道に入り、しかも、俗世に浸りきるという生き方が当たり前であったのかもしれません。それは一種のポーズだったかもしれない。長明は公立大学出のインテリであり、それなりの出世街道を歩いていたと思われました。しかし、いつしかコースから外れた、逸れた。理由は単純、「家柄」が、今少しだったということと、後ろ盾に恵まれていたとは言うものの、その人は実権は持たない人だったからかもしれない、そんなことまで考えてみたりします。何時の時代でも家柄や学歴(家業)などが、その身の行く末を指し示していた(保証していた)のでしょう。随分と後世になって、「門閥制度は親の仇でござる」とかいった福沢諭吉の呪いの言葉は、持つ者と持たざる者の格差を表わしているとも言えます。こんにちは、まことに切実極まる問題となっていますけれども、これはいつの世にも厳然として存在していたのです。

 堀田さんが引いておられる「十訓抄」の一節を「孫引き」させてもらいます。

「近頃、鴨の社の氏人に菊太夫長明といふ者ありけり。和漢管弦の道、人に知られたりけり。社司を望みけるが、かなはざりければ、世を恨みて出家して後、同じく先立ちて人の許へいひやりける。

 いづくより人は入りけむまくず原秋風吹きし道よりぞ来し」

 さて、長明の心境はいかばかりだったろうか、というところです。無常に傾きながら、俗事に染まらないで世を送ったと言えるでしょうか。まさに、「世に従へば、身、苦し。従はねば、狂せるに似たり」とは、まさしく長明さんの呪文ではなかったか。「したがへばしたがふほど、狂せるに似たりだったのである」といった方が、さらに実状に迫るのかもしれません。これは、いつの世にも断言できる、世の習いでもあるでしょう。未だって、「世に従って、身、狂った」そんな御仁で、世間は溢れかえっているではないか。

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● 十訓抄【じっきんしょう】=〈じっくんしょう〉とも読む。鎌倉中期の説話集。3巻。約280話。六波羅二臈左衛門(ろくはらにろうさえもん)入道こと湯浅宗業(むねなり)作。1252年成立。〈心操振舞ヲ定ム可キ事〉〈【きょう】慢ヲ離ル可キ事〉〈人倫ヲ侮ル可カラザル事〉などの10項目の徳目をあげ,それについて例話を掲げて説明する。教訓,啓蒙の意図をもち,貴族的・宮廷的世界を懐古するモティーフが強いが,通俗的で平易な叙述により中・近世に多くの読者を得た。(デジタル大辞泉)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。