本日は十二月九日です。しかし、ぼくの意識の中では「十二月八日」のまゝです。時間が止まっているのでもなければ、日付けを錯覚しているのでもありません。この日付において、何をかいわんや。ぼくが生まれたのは「開戦」三年後の九月でしたから、この「開戦」の記憶はあるわけもない。しかしいつしか、ぼくはこの「真珠湾攻撃」の新聞記事を、その当時見たような気持ちにさせられてきました。ある女性政治家、その人は(今回の政権党総裁選挙に立候補した、威勢のいい発言をされる、奈良選出の議員です)、「私たちには『戦争責任はない』ですよ」と言われていたのを、その昔に聞いた時、なんという軽薄な、歴史無感覚の人間であろうと思った。なぜなら、「私は生まれていなかったから」といったのです。「私が起こした戦争ではないから」とも。この人は「自分」という「存在の根拠(身も蓋もないという時の容れ物である身)」をどこに置いているのだろうといかがわしく思ったし、その後「靖国参拝」を言い募っている姿勢に矛盾はしないのか、完全に矛盾してるじゃんと、ぼくは実に不審の念を払拭できないし、あんまり好まない人間の一人です。「戦争犠牲者であっても、尊崇の念の対象は日本人だけ」というのも、理解も誤解も、ぼくには不能です。
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その考えが今も変わっていないかどうか。勇ましい主張は続いているのですから、きっと「戦争責任」なんかあるわけないという主張も変わっていないのでしょう。「敵基地攻撃能力の増強」「軍事予算の倍増」「北京五輪外交ボイコット」などなど、いかにも勇ましさを売り物にしている政治家ですし、その人を担いだり、それに雷同する連中がかたまりを作って、「蟷螂之斧」を任じていると、ぼくには思われてならない。ものには裏面があるとか、視点の置きどころで見方が変わってくるといいますから、いろいろな意見があることは否定しないし、それを大事にしたいとさえ考えてきました。それにしても「非現実的」というのではなく、政治は「武力」「軍事力」と同等視しているのには驚くばかりです。軍人が「政治家」を名乗っているのではないんですか。

いろいろな立場や理論があるのは当然だと言っても、正邪善悪を混同していては話にならない。その「ならない話」を堂々と看板にしているジャーナリズムがあるのですから、時代は確実に進んでいるというか、退行しているというか。どんな理論があってもかまわない、政府を転覆させるような理論だってあり得るし、表現の自由という意味では認められるでしょう、理論に限定されている限りは。だから、どんなに驚愕すべき理論や意見でも、理論や意見の外に出なければいいのです。しかし、それだけに限定されている「理論や意見」を物好きにも、主張する人が大勢いるとは考えられません。少しでも同類や賛同者を増やしたいと思うのが当たり前です。理論を実地に試したくなるものです。
昨日(ぼくの麻痺した感覚では「本日」)の各紙の「コラム」の中で、ぼくが読み得たものの、およそ四分の一くらい(あるいは、もう少し多かったか)が「真珠湾攻撃」「日米開戦」に触れていました。これも年中行事のようですから、珍しくもなんともないという感想を、ぼくは持ちますが、しかし、なんといっても、戦後日本を生んだし、もたらす「誕生日」だったことを考えれば、何か一言あってしかるべきと言いたくなります。大方は「二度と再び、このような事態が…」という姿勢が出ていたように読めました。ところが、一紙だけは、あからさまな「記念日記事」「あの日を忘れるな、もっとうまくやろう、そのためには準備を」という姿勢を強調しているのです。歴史は、何時だって書き換えられるという、修正主義が基本方針の新聞であるともいえます。全社一丸なって、「新しい『現代歴史』を生み出す」つもりのようです。(褒められたことではなく、気も進みませんが、時代状況に関してそれなりに参考になると、少し長いものですが、記事を引用しておきます)
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真珠湾攻撃80年 あの日と今日は地続きにある 論説委員長・乾正人 あの日の東京の空は、限りなく青かった。/「いよいよはじまつたかと思つた。何故か體(からだ)ががくがく慄(ふる)へた。ばんざあいと大聲(おおごえ)で叫びながら駈(か)け出したいやうな衝動も受けた」/「ごん狐(ぎつね)」で知られる児童文学者の新美南吉は、昭和16年12月8日の興奮をこう綴(つづ)った。/ 日本人のほとんどは、海軍航空隊が真珠湾攻撃であげた「戦艦2隻撃沈、4隻大破。大型巡洋艦4隻大破」(当日の大本営発表)という未曽有の大戦果に沸き立った。/「こういう事(こと)にならぬように僕達(ぼくたち)が努力しなかったのが悪かった」とつぶやいたジャーナリスト・清沢洌のような人は例外だった。▼戦時中を扱ったNHK朝の連続テレビ小説でヒロインが、ラジオから流れる開戦のニュースを聞いて悲愴(ひそう)な顔をしていたら、脚本家や演出家が歴史を知らないか、意図的に史実を改竄(かいざん)したと思って間違いない。/ 昭和12年から始まった日中戦争が泥沼化する中、日本政府は、対米戦争を回避しようと外交交渉に望みを託した。だが、日本軍の中国撤兵をめぐって交渉は暗礁に乗り上げた。石油輸出禁止など米国の対日経済制裁は苛烈を極め、国民生活はみるみる窮乏化した。/ こうした中での真珠湾攻撃は、「妖雲を排して天日を仰ぐ」(作家・島木健作)出来事だったのだ。/ 同時に英米蘭への宣戦布告は、長く続いた白人によるアジアの植民地支配に終止符を打つ歴史的転換点となったのは疑いようがない。

「時代は今 区切られた」「世界は一新せられた。時代はたった今大きく区切られた。昨日は遠い昔のようである。現在そのものは高められ確然たる軌道に乗り、純一深遠な意味を帯び、光を発し、いくらでもゆけるものとなった」と詩人・高村光太郎が謳(うた)いあげたように。(引用は、いずれも「朝、目覚めると、戦争が始まっていました」方丈社刊)/ もちろん、光がまばゆければまばゆいほど、闇もまた深い。/「だまし討ち」ととった米国民の怒りは凄(すさ)まじく、その結末を80年後の我々(われわれ)は、誰もが知っている。/ 終戦をもって、きれいさっぱり、身も心も「軍国ニッポン」とおさらばした、と思い込んでいるのは、おめでたい日本人だけである。/ 戦後76年を経ても米軍が沖縄のみならず、首都圏に巨大な空軍基地と軍港、司令部を保持し続けているのも真珠湾攻撃が米国に与えた衝撃が起点となっている。/ 中国や韓国、北朝鮮が戦後、ほぼ一貫して、ありもしない日本の「軍国主義化」を攻撃し、「反日教育」にいそしんできたのも同じ。

教訓活かし有事備えよ 昭和16年12月8日と、今日という日は地続きにある。80年前と違うのは、米国の覇権に挑戦しているのが、大日本帝国から中華人民共和国にとって代わったことである。/ 異論があるのは百も承知しているが、戦時中に日本が掲げた「大東亜共栄圏」と中国の唱える「一帯一路」とは外形上、異様なまでに相似形をなしている。/ 昭和18年11月、東京で東条英機首相が主宰してアジア各国の首脳らが集(つど)った大東亜会議が開かれ、大東亜共同宣言が採択された。/ 宣言では、相互扶助によってアジア各国の共存共栄を図ることを基本に、経済発展によってアジアの繁栄を増進すると明言した。/ かたや中国の習近平国家主席は、「一帯一路」について「皆が心を一つにして協力し、互いに見守り助け合いさえすれば、たとえ千山万水を隔てていても、必ず互恵の光明に満ちた道へ歩み出す」と語っている。/ 大日本帝国も中国も海軍力を増強し、日本は南太平洋、中国は南シナ海に軍事基地を次々に建設し、米国の神経を逆なでしているのも同じ。/ 歴史を鑑(かがみ)とするならば、「台湾統一」の野望を隠さない習主席が、開戦に踏み切った東条首相の道を選ぶのか、はたまた民主主義国家と平和共存する道を選ぶのか、答えは一つなのだが、予断は許さない。/ 日本は、最悪の事態をも想定して準備を怠ってはならない。それが80年前の教訓を活(い)かす道である。(産經新聞・2021/12/08)
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時代錯誤と言っていいのかどうか。そのように、お前が言うこと自体が「時代錯誤だ」と非難される状況下にあるようにも、ぼくには考えられてきます。政治は軍事であり、政治力は軍事力だという「主張・姿勢」はいつでもみられます。しかし、それが「政権党」の中に勢力を誇っているというのは、やはり時代の流れが逆転していると、ぼくなどは指摘しなければならないと思っている。隣やその隣の家が生意気で、勝手にふるまっているから、それなら当方も負けじと、物理的力を使って、いざという際に備えるのが「(政治の)常識(の政治)」だというのです。それが常識なら、地球の地図はとっくに変わっていたでしょう。まがりなりにも、二百近くの諸地域がそこそこやってきたのも、軍事力ではなく、交流・交際を旨とするという「付き合い精神」の深化や拡大ではなったでしょうか。(まだまだ、まったく、その努力は足りないのは事実です)

「日本は、最悪の事態をも想定して準備を怠ってはならない。それが80年前の教訓を活(い)かす道である」と書く、その「80年前の教訓」とはなんでしょうか。ぼくは愚鈍ですから、記事の中からは「教訓」を読み取れませんでした。さらに歴史の問題として「80年前の教訓」を汲み出すとすれば、無謀な戦争は「平和の敵」であり、自国や他国に補い得ない被害を与えるような「戦争」は断じて避けること、それが「地獄の苦しみ」の末に「白旗を上げた国」に生きる人間の取るべき道、そうとしか、ぼくには考えられないのです。「日本は、最悪の事態をも想定して準備を怠ってはならない」というのは、よもや「日本の与り知らぬ平和」が中国を中心として成り立っては困るから、そのためには「戦争も辞さない、その準備」ということになるのでしょうか。(いうまでもありません、ぼくは「中国派」ではない、けれど、付き合いは必要だとみている国であると考えている。あたりまでしょ)
「真珠湾攻撃80年 あの日と今日は地続きにある」という表題は、その通りで、地面はつながっているという以上に同じ地面ですし、そこに生活している人間も大半は、その当時の人々の子孫であることは間違いありません。勇ましいことを言っているようで、じつはこの記事の内容は支離滅裂だ、ともぼくには読めます。けっして理路整然と(していなければならぬとは言いませんが)書かれているのではなさそうです。「記事に(を)書く」意図がよくわからない、「書くために書く」のだろうか。

「妖雲を排して天日を仰ぐ」(作家・島木健作)というのは「聖戦」の無条件受容だったのですか。漱石の弟子筋でした、この作家は。「探究派」も勇ましいんですね。さらに「同時に英米蘭への宣戦布告は、長く続いた白人によるアジアの植民地支配に終止符を打つ歴史的転換点となったのは疑いようがない」と歴史事実の意図的誤解・誤読・誤認、これはしばしば政治家の発言にも見られました。日本は悪いことばかりしたのではない、いいことだっていっぱいしたではないかと言い張る、その奇天烈な主張です。「アジアの植民地支配」の解放を、日本は国運をかけて成し遂げようとしたのだというなら、その前にどうして「朝鮮の植民地支配政治」を止めなかったのか、これには目を瞑るというのか、それとも、朝鮮支配は「植民地支配」ではなかったと虚言するつもりでしょうか。
新見南吉や高村光太郎の「思想」は、「侵略や殺戮をしない」という点で一貫していたか、戦時中は「目がくらんでいた」と彼らは言わなかったか。「戦争責任」を自分の言葉で語れなかったのはどうしてか。「こういう事(こと)にならぬように僕達(ぼくたち)が努力しなかったのが悪かった」という「清沢洌は例外」だったから、切って捨てていいのですか。「体制翼賛」は二重の◎で、「戦争反対派」は例外だから、語るに足りないとでもいうのでしょうか。繰りかえしますが、同じようなまちがいを起す、その覚悟をもって記事が書かれている(風に見える)ね、記者にその自覚や直感があるかどうかは、ぼくにはわかりません。
この新聞に代表される「陣営」(というほどのものかどうか疑わしい)が、さかんに担ぎ上げていた二代前のソーリは、ことあるごとに「戦後レジーム」からの脱却を「政治信条」まがい(というものではない、そんなものを持っている風には見えませんでした)にしていたし、そのための憲法改正を叫んでいた。今も叫んでいるようです、「心なくも」。その「戦後体制」を作り上げた「仇敵」に抱きつき、ぶら下がって、自らの政治力を「誇示」していた(のではなかったか)。ようするに、おのれの「権力」や「地位」「名声」が強まり高まるなら、なんとほざいても、恬として恥じないということだというのなら、ぼくたちは、一刻も早くかかる「迷妄時代」から「脱却」しなければならないでしょう。そのための「他山の石」となる・するなら、この新聞は「貴重な資材」くらいにはなるでしょう。
もう一度、同じ個所を出します。「日本は、最悪の事態をも想定して準備を怠ってはならない。それが80年前の教訓を活(い)かす道である」という、この記事の「胆」(のつもりだろう、と思う)がまったく理解できないのですから、ぼくは愚鈍ですね、改めて確認しました。
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