1千万年先の地球が気になる、飽くなき探究心

 【地軸】ノーベル賞 大変ハッピーです―。照れくさそうに笑う姿に心が温かくなる。今年のノーベル物理学賞に選ばれた真鍋淑郎(しゅくろう)さん。新型コロナ流行のため居住地の米国でメダルが授与された。▼出身地である四国中央市もお祝いムードに包まれたようだ。昨日は小中学校などで給食が特別メニューに。地球温暖化研究の礎を築いた真鍋さんにちなみ「地産地消」にこだわった里芋田楽や赤飯など。子どもたちが笑顔で頬張った。▼「好奇心を満たす研究を続けてきただけ」。受賞が決まった時の真鍋さんのコメントは印象的だった。子どもの頃から気象に興味を持っていたそう。好奇心の源がこの愛媛で育まれたものならば誇らしい。▼こちらも負けじと、あふれる好奇心が紙面から伝わる。県内の小学生が自由なテーマで新聞をつくる「えひめこども新聞グランプリ」。2年ぶりの開催には例年より少ないものの3887点の応募があった。連日受賞作品が紹介されている。▼家族や食べ物から、地域や社会、持続可能な開発目標(SDGs)(エスディージーズ)など世界まで、作品ごとに個性豊か。コロナで制約もあった中、共通するのは、疑問や興味を突き詰め、楽しく取り組んでいること。▼60年以上前の研究当初、気候変動がこれほど大問題になるとは想像もしていなかったという真鍋さん。大発見は好奇心からと、若者にエールを送る。そして自身は今も、1千万年先の地球が気になるとか。まさに飽くなき探究心。2021年12月8日(水)(愛媛新聞)

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 昨日、ワシントンで真鍋叔郎さんにノーベル賞のメダルが授与された、という報道がなされました。半世紀以上にわたって続けられてきた研究が、今日の地球環境問題の深刻さをえぐり出したと言ってもいいでしょう。しかし、人間の生活に、直接かつ即座に被害を及ぼすというふうには見られていないからこそ、環境・気象問題は一刻の猶予も許されないと考える、そのような想像力というか、緊急性をどこまでぼくたちは実感できるかということが問われるのでしょう。目先の問題ではなく、百年や二百年の時間単位でもなく、その数十、百倍の単位で問題をとらられるか、視野を広げられるか、そこに地球の未来が掛かっていると言えるでしょう。二十年前のある雑誌のインタビューで真鍋さんは次のように述べられています。

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 問題は「どう対応するか」 「日経ESG」の前身である「日経エコロジー」による2000年の単独インタビューで真鍋博士は、「温暖化が本当であることはほぼ確定として、問題はそれにどのように対応するかだ」と話し、「(大勢の人が)自分の生きている間は温暖化は大したことにならないと思っているだろう。自分の死後まで心配できる余裕のある人がどのくらいいるか。今、痛みを感じることなら本気の度合いも違うのだろうけど」と言い添えた。/気候モデルは、将来の気温上昇を示唆してくれる。だが、実際にどれだけ気温が上昇するかは、我々の判断と行動にかかっている。(日経ESG・2021.11.08):https://project.nikkeibp.co.jp/ESG/atcl/column/00005/110100130/)

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 一昨日だったか、友人(現役教師)から電話がありました。いろいろなことについて、何かと教えられる後輩で、ぼくの「先生」でもあります。拙宅にも何度か来てくれ、そこで「オンライン授業」の真似事みたいなことも経験させてもらった。ぼくはかなり年齢を重ねたし、これから何かを成し遂げたいという根性は持ち合わせていません。それでも「現場」で苦闘されている若い人々の「カバン持ち」ぐらいはしたいと願っているのです。はたしてそうなっているか、逆に「足を引っ張る」こと(カバンの持ち逃げとか)にならないとも限りません。その見極めは簡単ではなさそうです。第一、ぼくは「現場」にいない、「現場」を引き払った人間ですから、ただ今の「現場」では、何が課題なのか、どんな問題に逢着しているのか、まったくわからないのです。もちろん、相変わらず「いじめ」は各地・各校で続出していますし、「不登校」問題も、まだ峠道を上っているのではないかとさえ思われてきます。だから、相も変わらず、学校は同じだなあと思われても来るのです。

 これだけは言えるでしょう。まず第一に、偏差値偏重・成績重視という「見せかけ教育」が蔓延(はびこ)っている状況がなくならない限り、学校はどこまで行っても「優劣の此方」の仕事(競争)から抜け出せるはずがありません。もちろん、そんなところで「教育の成果」を求める学校や教師ばかりではないことを知らないわけではないのですが、すべての学校にあって「優劣の彼方」に子どもたちが集いうるような事態が来るとは、ぼくが、金輪際考えてもいないのは確かです。しかし、だからと言って「成績競争」に明け暮れる現状に汲々としている、あるいは、喜んで甘んじていいとは考えられないのです。

 その後輩から電話をもらった際、彼は「総合的な探求の時間」について触れられた。従来の「総合的学習の時間」に代わって、高校では次年度から導入されるというのです。果たしてその中身やプログラムはどうなのか、ぼくは詳しいことはわかりません。しかも悲しいかな、文科省はけっして真面目ではなく、いつだって「朝令暮改」の繰り返し、寄せては返す波のようで、名前がくるくる変わるのを意図しているとしか思われないのです。そして、気が付けば名前も中身も「変わり映えがしない」という為体(ていたらく)です。実は、それでいいんでしょうね。文科(文部)行政と言いますが、実態は「土建業界に流される公共事業」と変わりません。学習指導要領の改訂がおよそ十年ごとになされ、それに応じてカリキュラムが変わり、教科書が変わり、…と、まるで年中行事よろしく諸事万端がくりかえされるのです。まるで、鴨長明さんの「方丈記」のまゝの有様ではないでしょうか。しかるに、上辺は変わって見えますが、中身は、誰がやってもすることはいっしょ、という点では代わり映えがしない。きっと、それが大事なんでしょうね。

 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。(中略)生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる」

 人間も生活も、まったく往時の面影もないほど変わってしまったと思いたいのですが、何、やっていることは変わらない愚かしさ。政治や行政の要諦は「朝令暮改」だと言いたいくらいです。毎年同じことの繰り返し、一見そう目に映るが、再見すると、やはり同じ。変わっているとみられるのは「人間」と用いられている「言葉遣い」だけです。「朝令暮改」の本旨は「公共事業」です。公共のためのと「名分はつけて」いるが、実は「私企業」のために、合法的に税金を山分けする年中行事です。それを「時代祭り」とも「歳末大売り出し」と呼んでも一向に可笑しくはありません。

 「総合的な学習」が「総合的な探求」と言い換えられたとされている、この馬鹿さ加減、「どこまで馬鹿か」と言ってみて、切りがありませんという返事が「鸚鵡返しに」聞こえてきます。この間の審議会などの答申文など、読む気すら起こってこない。「昔の名前で出ています」という唄がありました。まるでその「伝」ですね。「学習から探求へ」、大騒ぎで作文して、さも「一大変革」したとでもいうのでしょうか。ぼくに言わせれば、学習は須らく探求です。探求の要素のない学習は、すべて「インストラクション(注入)」でしかないからです。もうずいぶん前になりますが、ぼくの友人が文科省審議会のメンバーになった。その時、彼は「あなたを専門委員に推薦しておく」とぼくに言った。長く付き合っている友人だったから「ぼくも見縊(くび)られたものだな」とガックリきた。そんなに莫迦とみられていたのかと、情けなくなったことがあります。どんな会議体でも「開かれる前に、答えは出ている」、あるいは会を作る段階で、すべては終わっているのです。この悪い習慣は、いまやあらゆるところに蔓延しています。会議体は「アリバイ作り」「ヤラセ」に特化しているのですよ。あらゆる事柄の「空洞化」が瀰漫している。

 そて、「探求」です。辞書の解説は「[名](スル)あるものを得ようとしてさがし求めること。さがし出して手に入れようとすること。「幸福の―」「貴重本の所在を―する」」(デジタル大辞泉)と書かれています。そんなところでしょ。しかし、辞書も「探求」が足らないね。文科省の文章では「inquiry」が使われていたと記憶しています。多様な意味内容が含まれそうですが、おそらく「事実[情報,知識]を求めること,調査,探究,研究」(同上)といったところでしょうね。数多ある授業時間ではやったこともない「学習方法」を、この「総合的…」で遂行・実践できると考えている教師がおられるとしたら、たいしたもんですね、とぼくは溜息をつく。これは「総合的学習の時間」で散々経験済みです。名称が変わったから「うまく行く」というのは、手品じゃないんですから、あり得ない話です。「旧姓はダメで、改名しなさい」と言う、何かの届け出の手続きみたいです。(左はジョン・デューイ著「論理学 探求の理論」で、若い頃、よくわかりもしないで読んでいました)

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   この手の解説図を「画餅」と言いたいのですが、「画」ですらないし、ましてや、そこに描かれているのは「餅」なんかでもないのです。いずれ、どこかの大学教授か教育学者がひねくりだ(捏造)したにちがいありません。でも、そのようなものに、ほとんど「現場」に役に立つ、有効であるものがないのが「相場」です。(上左図は、Z-KAI: https://www.zkai.co.jp/solutions/teacher/sogotankyu_survey/)(右図は、How Kids:https://how-kids.com/knowledge/glossary/2426/)

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 家を建てるときには建築士が設計図を引き、大工さんに建ててもらいます。多くの場合は役割分担で、「餅は餅屋」と世間では決まっています。文科省の教育行政の場合はどうでしょう。ぼくは「身も蓋もない」話しかできません、いや、それしかしません。「行政」が実施する政策は「公共事業」だと言いました。たかが「学習」が「探求」に代わっただけではないかというなかれ。これ以上は言いたくありません。率直に言えば、本当に「子ども」たちのことを考え、子どもたちを「賢く」するための愛情と狙いがあるんですか、ということです。どんなに多弁を弄しようが、根っ子の部分、本質とされるところから「教育」というもののとらえなおしをしなければ何事も始まらないでしょうね。覚悟を持って「教育の再定義」をするということです。その大事な核心をいじらないで、いくら外壁や窓辺を飾り立てても、中身が貧寒としているなら、そこで豊かな生活を送ることは不可能です。もちろん、このことは「現場」と無関係ではなく、むしろ「現場が「加害者」にも「被害者」にもなる事柄でもあります。

 ぼくは、昔から「学校には絶望」していたし、それを隠してはいませんでした。十分に自分と学校との「車間距離」を取らないと、「学校に潰されちゃう」「学校の餌食になる」とも言ってきました。学校にいながら、そのように言っていたのですから、「罰当たり」な人間だったと言えます。その見返りの「罰」は十分に当たったか。それはどうでもいいことで、要は、学校に行くことが子どもの成長に資する、子どもが賢くなるという方向に向かわない限り、学校には行かない方がいいかもしれないし、どうしても行くしかなければ、被害を最小にするための努力を怠らないことです。これは子どもだけでできることではなく、教師も親も、心底からそのことを熟慮してほしいと願うのです。

 「学習」は、須(すべか)らく「探求」でありたい、あってほしいね。それを支えるのが教職であり、教師の「現場における仕事」です。

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。