
「キノコの駅」訪問記 一風変わった喫茶店が府中市の市街地にあると聞いて、おととい訪ねてみた。土曜と日曜にだけ開く店の名は、NAVA(なば)カフェ。「なば」はキノコを指す、中国地方おなじみの方言である▲白キクラゲ入りのマドレーヌ、天日干しのエノキダケ入りパンと並ぶ献立に吸い寄せられる。よくかむと滋味が広がる。店のあるじは藤原明子さん。「キノコの伝道師」として、陰陽を結ぶ中国やまなみ街道沿線で秋祭り「菌山(きんざん)街道」を催している▲店は、祖父たちがみそやしょうゆを造ってきた醸造所の母屋だった。畳んで20年近く、そのままになっていた。コロナ禍で免疫細胞の集まる腸内環境に関心が高まる中、食物繊維が豊富で「腸活」にもってこいのキノコでの再生を思いついたという▲客の途切れた頃を見計らい、蔵の跡に案内してくれた。時を止めたはずなのに、かび臭さなどの嫌なにおいが毛ほどもない。「蔵付き菌が生きている証しです」と藤原さんは誇らしそう▲キノコに限らず、紅茶も地元産だ。人と人、地域を菌糸のように結ぶ、道の駅ならぬ「キノコの駅」と呼びたくなる。キノコ尽くしの日曜限定ランチは冬の間、鍋物が出る。時節柄、一人鍋だと聞く。(中国新聞デジタル・2021/12/6 6:58)
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「なば (広島の方言) の解説=茸。きのこ。たけ。木の子。よーけ、なばとれたけー、こんやー釜飯にしよーやー(たくさん茸が採れたから今夜は釜飯にしようよ)」(デジタル大辞泉)
「ところ変われば品変わる」と言いますが、それ以前に「ところ変われば、言葉が変わる」というべきでしょうね。「なば」が「キノコ(茸)」だということを知りませんでした。いい表現(言葉)だと思います。広島(出身)には先輩も後輩もいましたが、この言葉を、彼らから直接聞いたことはありません。「方言」と言いますが、むしろ「広島方面語・広島弁」とでも言ってほしい。ぼくは昔から、この劣島にはたくさんの日常(使用)言語があって(おそらく数百はあります)、それぞれが対等に扱われる必要があると言ってきました。津軽の殿様と薩摩の殿様が出会ったのが江戸城、そこで両者が話をするのですが、いっこうに通じないので「通辞・通事・通事」を介した。今でいうところの「通訳」「通弁」です。したがって、江戸城はまるで「国際連盟の会議場」、江戸時代にすでに「国際化」は日常になっていました。各藩は「諸国」だったし、生活や習慣も違い、何よりも言語が異なっていました。
やがて、江戸城が、「官軍」に明け渡され、宮城(皇居)となり、「天皇」が、京都からの新しい都見物に出かけて、すぐに帰る予定が百五十年も経ってしまった。京都では、首を長くして「天皇」のお帰りを待っている人たちが団体を結成して待機しています。この際ですから、「女帝」を担がれて、(南北朝ならぬ)「東西朝」並存などというのはどうでしょうか。江戸城という「国際会議場」はなくなりました。この場合の「国」は、諸国(邦・圀)という場合の「諸藩」を指していたでしょう。二百数十の大小取り混ぜた藩があった。これを「封建時代」という。封建時代は古い時代という観念が、ぼくたちの脳髄に植えつけられています。学校教育の「悪しき成果」ですね。確かに「現代」から見れば「前現代」ですから、古いと言えばその通り、でも、だからそれはダメであるということにはならないのです。そもそも「封建」というのは統治形態で、「古い新しい」には無関係だった、それに対するのが郡県制でした。人間が集団で居住するようになると、そこに権力争いが発生し、やがて特定の人間に権力が集められます。その後に、人民を統制する政治が始まる。その方法が「封建制」であり「郡県制」だったとされます。この島社会も「封建の世」を経て、姿形は変形していますが、一部は「郡県制」の形を取りつつ、実態は封建制であり続けて来たのかもしれません。社会の仕組みも、脳の構造も、今なお「封建」時代を過ごしているのがやたらにいるんじゃないですか。

この駄文で、ぼくが問題にしようとしているのは統治形態ではなく、明治政治が採用した「言語政策」です。明治以降、学校教育の普及を急いだのも、出発地点には国家の統一を果たすために、もっとも緊要な「共通語」の採用と普及を成し遂げる必要があった。国家統一は「国民創出」とその「結合(一億一心)」にかかっていたのです。つまりは、そのための「国語」の導入でした。ある言語学者に言わせれば、「国語」は「天皇の言葉」であり、国史や国民とセットになって、「近代国民国家」を目指してきたというわけです。その際に、目障り(邪魔)であり、「遅れている(未開)」という観点で目の敵にされてきたのが「方言」だった。「方言」を言語学(言語地理学というらしい)の方面から見れば、なんともうるさいことになっていますので、ぼくはそれには触れない。要は、一国・一言語=単一言語・単一民族という狭苦しい「民族主義」に支配されて、方言を撲滅するように、国を上げて学校教育の推進が図られてきたのです。(今でも、この亡霊である「単一民族・単一言語」信仰・亡者が彷徨(さまよ)っていませんか、いや「血迷っている」のかもしれない)
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〇 ほうけん‐せいど【封建制度】=〘名〙① 天子・皇帝・国王などの直轄領以外の土地を、諸侯に分割領有させ、諸侯はそれをさらに臣下に分与してそれぞれ自領内の政治の実権を握る国家組織。② 国王・領主・家臣の間に、封土の給与と忠勤奉仕を媒介として成立している、私的・人格的・階層的主従関係による統治形態。西欧では、六世紀頃に一般化。日本では、荘園制に胚胎し、鎌倉幕府の成立とともに発展、江戸幕府によって変質しながら、完成した。フューダリズム。※日本開化小史(1877‐82)〈田口卯吉〉六「徳川政府の組立は封建制度なり」(精選版日本国語大辞典)
〇 郡県制【ぐんけんせい】=中国,秦の始皇帝が完成した中央集権的地方行政制度で,周の封建制(封建制度)に対する。戦国時代から封建制が衰え,郡県化しつつあったが,始皇帝の全国統一完成により,全国を36郡(のち48郡)に分け,行政・軍事・監察を行う守・尉・監を中央より派遣し,郡の下の県にも令・尉・丞をつかわし統治させた。また漢代には封建制と郡県制を折衷した,郡国制を採用した。(マイペディア)

〇 方言【ほうげん】=日本では一地域にのみ使われる単語を方言ということがあるが,言語学,国語学では,標準形をもつ言語が地域によって音韻,語彙(ごい),語法の上で相違が認められるとき,そのおのおのの言語体系を方言という。この相違は,主として高山,大河,海峡などの地理的境界や政治的境界がある場合,各地域の言語がその地域の特殊性に応じて独自の発達を遂げた結果である。一般に地域的に近い方言同士の違いは小さく,遠い方言同士の違いは大きいが,文化的中心地に発生した新しい表現が周辺に影響を与えて次々に旧表現を外側に押しやるため,遠隔の地域に似た語が存在することもある。日本語の方言は,本土方言と琉球方言(琉球語)に2大別され,前者はさらに東日本・西日本・九州と3分される。日本語の方言の差はすでに上代からあり,万葉集では東国の歌を東歌(あずまうた)として分類している。室町時代には〈京へ筑紫に坂東さ〉(方向の助詞の差をいった諺(ことわざ))といわれるほどに方言意識が存在した。方言に対するものは標準語といわれたが,戦後は共通語という概念が広がっている。(マイペディア)
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広島の言葉(広島弁)でいう「なば」という名前を付けた、「NV Cafe」が府中市の郊外にできたという記事に誘われて、よしなしごとを駄弁りました。三十頃までは、ぼくは無類の珈琲好き人間だったが、ある時期に胃腸を害してからは嗜(たしな)まなくなった。その代わりに(胃にはもっと害があるのに)「酒」を求めるようになった。「酒中に真あり」という中村光夫という評論家の言に刺激されたんです。それも、数年前にすっかりやめてしまい、今では珈琲と紅茶を、毎日あたり前に飲んでいます。家では当然ですが、外に喫茶店があれば道を遠しとせず(というのは大袈裟ですが)、通うことを厭いません。幸いに、山間僻地にも関わらず、近所に一、二軒ゆったりとできる喫茶店がある。ぼくが通い詰めている(いた)のが、拙宅と目と鼻の先にある一軒です。我が家から直線で二百メートルほどで、家の前から一望できる。これがなんと、週一回、月曜のみ、それも十一時から四時までという、飛び切りの「自主性の強い」「営業者本意」のお店です。もちろん、ぼくは毎週のように通いましたが、昨年来の「緊急事態」宣言等で、この一年は休業している。昨年の十二月八日(だったか)から、丸一年は閉店状態。店を開くときは、「狼煙(のろし)」を上げますと言われ、ときどき見るのですが、いっかな合図はかからないで今に至ります。

店主(ご夫妻)は、今でも「花木のプロ」として活躍されている。ぼくが今少し若ければ弟子入りしたいとさえ考えたくなる。珈琲がおいしいのは当然として、その店内や店外の「緑のあしらい方」がじつに洗練されていると、さすがに「プロ」だと感心させられるのです。庭造りや植木も手掛けておられる。拙宅のすぐ隣のような場所に、こんな素敵なお店があるとは、引っ越して以来、何年も気づきませんでした。「灯台下暗し」というのかな。拙宅は灯台であるというつもりはないんですが。「Bloom」という表札が掛かっているので、なんだか洒落た洋服のお店なのかと敬遠していたのでした。年内は無理でも、一日も、いや一週でも早く再開してほしいですね。(右と左下の二枚は「Bloom」のHPから拝借)
まだ京都にいたころ、街中(四条大宮や河原町など)に出ると「純喫茶」という看板がかかっている店がやたらにありました。上京して都内に住むようになっても「純喫茶」がいたるところにあり、中には「名曲喫茶」と称して、家ではなかなか聴けないようなレコードをかけていました。「田園」「ウィーン」「ランブル」「あらえびす」などなど、ぼくは、日夜入り浸っていた。そこへは、ほとんどが一人で入店、静かに耳を傾けていましたね。雑談でもしようものなら、白い目で睨まれた。つまらない授業などそっちのけで、終日音楽に聴き入っていたのです。一杯百五十円か二百円の珈琲で、二時間ではなく四時間も五時間も、あるいはそれ以上に、とぐろを巻いて陣取っていた。

その「純喫茶」ですが、どうして「純」なんだろうという疑問が長い間消えなかった、言葉の由来を知らなかった。ぼく自身が「(単)純」だったんですね。「純」があるということは「不純」もあるに違いないとしきりに探したものでした。あったね、「不純」なやつが。「純」の何百倍もありました。いたるところが「不純」だらけで、ああこれが「都会」「繁華街」なんだと、合点した次第でした。人間もそうですが、「純」でなくなるのは実に簡単で、急坂を転げ落ちるように「不純」に染まるし、いったん「不純」になると、再び「純」には立ち帰れない。ぼくが大学生になってから入った、ほとんどの店が「不純喫茶」だったと知った時の驚嘆ぶりはなかったね。「俺もいっぱしの不純物となった」という感激ではなく、苦悩・後悔だったでしょうか。(これも長い間疑問だった。「不純異性交遊」とかいうやつ。どんなことですか、と質問しても教師は答えない、「わかるだろ」だってさ。それもやがて、ぼくは理解しました。実践はしなかったと思う。学校では「人生の大事」は教えられないんだ)(*「じゅんきっさ【純喫茶】=アルコール類を扱わず、コーヒー・紅茶類だけを出す純粋な喫茶店。◇古い言い方。」(飲み物がわかる辞典)(註、古い言い方が「純喫茶」なら、新しい言い方はなんでしょうか)
府中市の「NAVA」なるキノコカフェ、「キノコ尽くしの日曜限定ランチは冬の間、鍋物が出る。時節柄、一人鍋だと聞く」。「一人酒」ならぬ「一人鍋」というのもまた、食事の原点であるのかも知れません。その昔は、全員がいっしょに食事をとるのが当たり前と受け止めるが、実は一人ずつというのが先にあったのではないか。これはぼくの勝手な想像ですから、真偽の証拠はない。しかし動物を見ると、必ず(乳児は除けて)、一人、一人前として別々に食しています。お膳もテーブルなかったのですから、自然にそうなるでしょう。固まって食べるようになるはの、固定し家族制が定着してからのもので、「私作る人、私食べる人」という、男中心の「役割分担」はその時以来のものです。

人間の生活習慣の、今ある姿の前を知ろうとするなら、おサルさんや猫たちのやり方を観察すればいいと、ぼくは考えています。きっと人間もそのようにしていたはずだ。少しずつ洗練(?)され、見た目がよくなっただけで、実態は少しも変わらない。だから「一人鍋」というのも変ですが、それは「先祖返り」であって、まあ一興というものでしょう。しかし、時代が変われば、景色も変わるというか、「純喫茶(という規制が、今でもあるかどうか)」で「鍋物」が出される、いずれ「ノンアルコール」が、いやもうすでに、いたるところに「ノンアル」は「アルアル」でしょうね。(ぼくも、今年は、右の写真のように、さかんに授乳をしました、早朝三時起床して。猫三昧ではないつもりですが。哺乳瓶が十本近くあります。もう使わない、です)
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鍋よ 涙には幾つもの 想い出がある 心にも幾つかの 傷もある 一人鍋 手取り鍋 広島弁を聞きながら ホロリ鍋 そんな夜も たまにゃなァいいさ 詫びながら 手取り鍋 演歌を聞きながら 愛してる これからも わかるよなァ鍋よ わかるよなァ鍋よ (原曲は吉幾三(作詞・作曲)(昭和六十三年)さんです)
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